Welcome To My ”俺の感性”

墓っ地・ざ・ろっく!

Shoegazer

Just Mustard - Heart Under

Artist Just Mustard
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Album 『Heart Under』
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Tracklist
01. 23
02. Still
03. I Am You
04. Seed
05. Blue Chalk
06. Early
07. Sore
08. Mirrors
09. In Shade
10. Rivers

紅一点ボーカルのケイティ擁するアイルランドはダンドーク出身の5人組、Just Mustardの2ndアルバム『Heart Under』は、それこそオープニングを飾る#1“23”という数字をはじめ、魂が彷徨う断崖絶壁の波打ち際すなわち渚に打ち立てる荒波、あるいはクジラの鳴き声の如し唸り声をあげる「歪み」と蜃気楼の如し「揺らぎ」が蠢くドリームポップ/シューゲイザーならではのノイズ&リヴァーブを散りばめたアトモスフェリック~イーサリアルな音響空間と、NIN顔負けのダーク・インダストリアルな打ち込みを駆使した冷たく陰鬱な耽美性からして、ロンドンの姉妹ユニットこと2:54を彷彿とさせると同時に、初期のWarpaintを連想させるケイティのゴスロリ&ポップな歌声が生み出すセンチメンタルかつメランコリック、そして幽玄かつモノクロームな世界観は、この手の好き者の琴線に触れるオルタナティブな音だけを煮詰めた構成となっている。

Just Mustardが奏でるそのゴス&ロリータな世界観を司る曲で、トリップホップ的なアプローチを効かせたシングルの#3“I Am You”、俄然そのサイケデリックなトリップへと誘うダーク・インダストリアル風のミニマルな打ち込みとケイティのヤンデレボイスが織りなす、奈落の底まで堕ちていくようなドープが過ぎる暗黒の深淵に溺れる#5“Blue Chalk”、古き良きポスト・パンキッシュなビートを刻む#6“Early”、バンドのセールスポイントである「歪み」を押し出した#8“Mirrors”など、楽器隊が奏でるノイズやシューゲイザーとは一味違うバリエーション豊かな「歪み」、その表現力の高さとボーカルのケイティによるロリータな歌声が唯一無二過ぎるのと、2:54クラスタ的には後継が出てきて素直に喜ばしい限り。この手の好き者のためにある好き者の音楽なので、好き者なら問答無用に聴くべき良盤です。

Bliss Fields - Slowly, Forever

Artist Bliss Fields
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Album 『Slowly, Forever』
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Tracklist
01. It Comes in Waves
02. Satisfy
03. Clementine
04. Cycle
05. Sleep
06. Away
07. Stare
08. When We're Together
09. Slowly, Forever
10. Recluse

2013年から2021年までIrisの名で活動していた、カナダはトロント出身の5人組Bliss Fieldsの1stアルバム『Slowly, Forever』がスゴイスー。なお、本作は改名前のIris時代に発表した2019年作の作品をAcrobat Unstable Recordsから再度リリースした形。

アコースティックギターを靡かせるイントロから、いわゆる90年代のMidwest Emoの影響下にあるギターボーカルのScott Downesによる内省的な存在感と青春ティーンムービーさながらの激情と焦燥感をまとった轟音ノイズをかき鳴らす冒頭の#1“It Comes in Waves”からして、バンドの自己紹介がてらティーンミュージックの側面を持つemo(イーモゥ)とシューゲイザーをイイトコ取りしたサウンド・スタイルを繰り広げると、一転して紅一点ベースボーカルのMeg Boniのウィスパーボイスをフィーチャーしたノイズポップの#2“Satisfy”や夢の世界を飛び越えて黄泉の世界へと誘うリフレーンが光るUKのオルタナレジェンドことスロウダイヴ大好きな#3“Clementine”、ドリーム・ポップ然としたリヴァーブを効かせたアルペジオ主体の#4“Cycle”や90年代のエモ/ポストハードコアの側面を持つ#5“Sleep”、その幻想的かつ神秘的なイーサリアル的サウンドとMeg Boniのメランコリックでフォークソング的な歌唱法からメロディまでも伝説のフォークロックバンドTrespassers Williamの正統後継者を襲名するかのような#7“Stare”、彼らのコアさを打ち出した表題曲の#9“Slowly, Forever”、モダンな打ち込みを擁する幽玄で仄暗い世界観を構築する#10“Recluse”まで、確かに音響意識の高いリヴァーブ全開のサウンドスケープや男女混成スタイルは、マイブラやスロウダイヴに代表される90年代の伝説的なシューゲイズ/オルタナバンドの系譜にある教科書どおりのドリーム・ポップだが、そのフックに富んだノスタルジックなメロディセンスは頭一つ抜けてるし、また要所でエモやフォークロックのアプローチを垣間見せる“ならでは”のオリジナリティもあるので、この手の王道的なシューゲイザーが好きならマストアイテムです。

Slow Crush - Hush

Artist Slow Crush
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Album 『Hush』
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Tracklist
1. Drown
2. Blue
3. Swoon
4. Gloom
5. Swivel
6. Rêve
7. Hush
8. Lull
9. Thrill
10. Bent And Broken

「このベルギーのバンドめっちゃエエやん!」と気になったから調べてみた結果→え~っと、なになに・・・2018年作の1stアルバム『Aurora』をリリースしたレーベルがホーリーシーもといHoly Roar Recordsで、マスタリング・エンジニアがDeafheavenやWhirrでお馴染みのジャック・シャーリー・・・っと、フムフム・・・なるほど・・・あっ、ダメだダメだダメだダメだこいつダメだ、その組み合わせはもう実質チートだからダメだ完全に俺の負けだ」と悟った。しかし、その1stアルバムこそ【Holy Roar×Jack Shirley】という一部界隈における黄金ラインだったが、約3年ぶりとなる本作の2ndアルバム『Hush』に至っては、何故かレーベルがChurch Road Recordsという聞いた事もないレーベルに変わり、マスタリング・エンジニアもジャック・シャーリーと離れて業界最大手であるSterling Soundのライアン・スミスを迎えている。彼はフィラデルフィアのNothingやボストンのDefeaterの作品を手がけた人物でもある。

そもそもの話、UKが誇る気鋭のインディーズレーベルで知られるHoly Roar Recordsといえば、つい最近レーベル創始者であるアレックス・フィッツパトリックがやらかした、というか二人の女性に性的暴行を働いたとして告発されたらしく、そんなやらかし案件の影響もあってか、性被害に遭った“女性”をフロントウーマンとして擁するSlow Crushの作品がHoly Roarからリリースされる事は二度とないであろうことは想像に難くない。また、今回のホーリーシー案件を受けて、Holy Roarを代表するRolo Tomassiは既にレーベルからの離脱を表明している(即ちレーベルの終焉)。恐らく、同レーベルの支柱であるSvalbardも後に続くと予想(即ちレーベルの廃業)。

そんなリアルホーリーシー案件はさて置き、今はなきHoly Roarがシーンに残した功績および革新性というのを、レーベルを象徴するRolo TomassiSvalbardを例に出して簡潔に述べると、それこそ伝統的なUKポストハードコアの立ち位置からAlcestはもとより、同郷のOathbreakerDeafheavenなどのジャック・シャーリー案件の影響下にあるカオティック・ハードコア/Blackgazeの要素を積極的に取り入れた点にある。確かに、今回の2ndアルバムにはジャックは一切関わっていないものの、もとよりシューゲイザー界のレジェンドであるMBVスロウダイヴの影響下にあるコテコテのシューゲイザー/ドリーム・ポップを継承しながら、ちょうど今の季節にWhirrのデビューEP『Distressor』と出会って超弩級のエモい気持ちに苛まれた記憶が約10年の時を経てフラッシュバックさせるような、それこそ最初期のWhirrという現代シューゲイザー界の伝説が産み落としたエモさの“コア”をもって次世代仕様にアップデイトしたSlow Crushのシューゲイズ・サウンドは、皮肉にもバンドを引き抜く確かな審美眼だけはあったHoly Roarのフィッツパトリックに見出されるだけの特別な魅力を放っている。

このSlow Crushの非凡さって、いわゆる90年代前半の王道的なシューゲイザー/ドリーム・ポップというよりは、90年代後半のオルタナ/グランジにバックグラウンドを持つフィラデルフィアのNothingをはじめ、それこそDeftones『Ohms』とともに“20年代のヘヴィネス”を切り拓いたHum『Inlet』に代表されるような、いわゆる現代ポストメタル~ヘヴィ・シューゲとも繋がりを見せる、それら次世代のヘヴィネスともシンクロする文脈的な広さは、いかに彼らが「ただの90年代リバイバル」の一言で片付けられるようなバンドでは到底ない事を示している。もちろん、それは一部界隈を牛耳るジャック・シャーリーによるエンジニアとしての仕事を超えた実質的なプロデューサーとしての影響力によるものであると。ここでも改めて、あのMastodonの新作Hushed and Grimにもインスパイアされる『Inlet』の多大な影響力とその革新性に驚かされる。

しっかし、(過去にPelicanTorcheと一緒にツアーしたり、RoadburnやArcTanGentなどの著名なフェスに出演する実績を持つ)こんな良質なバンドを引く抜く審美眼が備わっているにも関わらず、その才能を活かす場というのを金輪際手放すようなやらかし事件を起こしてしまったHoly Roarのアレックス・フィッツパトリックには、今はただ一言「ご愁傷様です」と言いたい。彼の人生のピークは、それこそBFMVのマット・タックのメタルに対する意見に反対する煽り文章を送ってた瞬間に違いないですw

Split end - moratorium

Artist Split end
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EP 『moratorium』
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Tracklist
02. 2番目の星
03. アネモネ
04. 夜半の月
05. week end

「今、関西のガールズバンドシーンがアツい」とのことで(知らんけど)、この奈良出身の同級生バンド、その名も(日本語で“枝毛”を意味する)Split endは、昨今の邦楽オルタナシーンの最右翼的存在の(フジロック2021にも出演した)羊文学きのこ帝国の系譜にある、いわゆる90年代のシューゲイザーをルーツとする「This is Alternative」なサウンドを特徴とした若手インディーズ界の新星だ。先日リリースされたEP『moratorium』では、彼女たちの『mid90s愛』に溢れた往年のシューゲイザーらしいリバーヴを効かせた立体的な空間表現からなるダイナミズムと、コンポーザーであるななみ(Vo.Gt.)の今にも消えて無くなりそうな弱々しくも愛らしい歌声を中心に強調される、J-POPならではのエモーショナルでキャッチーなメロディが無邪気に弾け飛ぶ一枚となっている。


いい意味でコア的な粗さを残した2019年のmini album『deep love』と比較すると、このEP『moratorium』では比較的ゆったりしたドリーミーなオルタナやってる印象。それこそ、青春真っ只中のティーンエイジャーの刹那的な焦燥感と生き急ぐ逸る気持ちを疾走感溢れるギター・サウンドに乗せてかき鳴らす#1“TEENAGER”からして、ポップティーンとジャパニーズ・シューゲイザーの相性の良さを垣間見せ、放課後の帰り道に訪れる出口のない白昼夢を彷徨うドリーム・ポップ的な#2“2番目の星”、オルタナ然とした歪みに歪んだ轟音の壁=サウンドスケープを展開する#3“アネモネ”と同じく“轟音のススメ”な#4“夜半の月”、ティーンムービーの主題歌に打って付けのポップでキャッチーな#5“week end”まで、とにかくFor Tracy Dydeをはじめ、この手のオルタナ~シューゲラインのポップスが好きなら、今後抑えておかなきゃいけないバンドだと確信させるレベルにはある完成度。特に#4はライブで体感したいノスタルジックな名曲。

しかし現状では、羊文学きのこ帝国みたいにメジャーになりきれない、つまりインディーズの域を出ないのも事実で、例えばインディーズのティーンムービーの主題歌としてフックアップされたりなんかしたら面白いし、既にその下地というか資質は十二分にあると思う。

Deafheaven - Infinite Granite

Artist Deafheaven
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Album 『Infinite Granite』
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Tracklist
01. Shellstar
03. Great Mass Of Color
04. Neptune Raining Diamonds
05. Lament For Wasps
06. Villain
07. The Gnashing
08. Other Language
09. Mombasa

DFHVNの新譜を聴いた狩野英孝「あなた誰ですかァ?!

デフヘヴン終わった、完全に終わった。なぜ終わったかって、アキバ系ギタリストのケリー・マッコイがNetflixのリアリティ番組『クィア・アイ』の5人組に狙われて魔改造された結果、ケリーの本体もといアイデンティティであるメガネをやめて垢抜けて普通の好青年になったから終わった・・・こんなどっかのハリウッドセレブみたいなビジュアルじゃ音源聴く前から終わってるから聴く価値のない駄作です。

そんな冗談はさて置き・・・いやいや、全然冗談じゃない話で、前作の4thアルバム『普通の堕落した人間の愛ちゃん』から約3年ぶりとなる5thアルバム『Infinite Granite』は、ケリー・マッコイの見た目だけじゃなく音楽性も狩野英孝ばりにあなた誰ですかァ?!となるくらいには驚きを隠せない件について。

まず前作の『普通の堕落した人間の愛ちゃん』で彼らが成し遂げた事をおさらいすると、あの日、あの西海岸の浜辺でズッ友を誓ったニック・バセットらジモティとの思い出と別れ、すなわち「過去の自分」との決別をカリフォルニア(大和)はデスバレーの中心で『愛』を叫んだ。音楽的な面では、良くも悪くもデビューから現在までの集大成と呼んでも差し支えない内容でありながらも(逆に言えば現状やれることは全てやりきった)、新加入したベーシストのクリス・ジョンソンを中心にロックバンドとしての普遍性が芽生えたバンドの一体感とグルーヴ感、メタルやブラックゲイズ以前に全く新しいロックバンドとしてのデフヘヴンをシーンに啓示してみせた(今思えば、そのためのメンバーチェンジを兼ねた予行練習だったのかも)。そして、デビュー作となる通称『指Demo』から10周年となる2020年には、区切りのディケイドを記念する『10 Years Gone』なる実質的な意味でのベスト・アルバムを発表し、そして今に至る。

まさに、その前作で開花させたロックバンドとしての普遍性の完全究極体伏線回収と言わんばかりの、本当の意味で全く新しいロックバンドとしてのデフヘヴンの爆誕を宣言するのが本作の『Infinite Granite』である。シングルとして先行公開された#3“Great Mass of Color”や#7“The Gnashing”からそれは顕著で、前者の#3それこそジモティのニック・バセット率いるWhirrを彷彿とさせる、もはやメタル要素もブラックゲイズ要素もないキャッチーなノイズ・ポップ/ドリーム・ポップのソレで、前作のクリーンボイス導入の伏線回収となるジョージ・クラークのシャウトとクリーンボイスの比率が逆転しており、後者の#7はイントロからニック・バセット案件のNothingをはじめ、デュラン・デュランやキュアー、ティアーズ・フォー・フィアーズやデペッシュ・モードなどの80年代のUKロックを象徴するニューロマンティック/ポスト・パンクの影響下にある楽曲で、ここでもフロントマンのジョージ・クラークは前作のような“なんちゃって”ではなく、俄然それっぽいナルシスティックな歌い方と声質を兼ね備えて、れっきとした“UKロックバンドのボーカリスト”として「歌っている」。また、終盤のドローン/ドゥームゲイズ的なエルム街の悪夢感は彼らならではだし、クライマックスを飾るギターソロはMastodonの“The Czar”を彷彿とさせる。面白いのは、前作の始めのイントロSEと終わりのアウトロSEが同じ「浜辺に寄せて返す美しい波(浜辺美波)」SEという無限ループ=輪廻転生を示唆するギミックは、次作=本作で一周ループしてズッ友のニック・バセットに対する地元愛=原点回帰に帰化する伏線だったのかもしれない。


要所に出自がメタルらしいパートを織り込んでいる先行二曲に対し、本作の方向性を指し示すアイコニックな存在を担う3曲目の先行リリースとなる#2“In Blur”は、その“ブラー”というタイトルをはじめ、今話題の藤本タツキ先生の漫画『ルックバック』にも引用されているUKロック界のレジェンド=Oasis“Don't Look Back in Anger”のMVオマージュからも理解できるように、90年代のUKロックシーンを華やかに彩ったイギリスのインディーレーベルの4AD所属のコクトー・ツインズやラッシュに象徴される“オルタナティブ”のド真ん中をブチ抜くキラーチューンで、イントロから90年代のイギリスの音楽シーンに吹き込んだ『黄金(時代)の風』を靡かせるギターのリフレーンと、本作のプロデューサーであるジャスティン・メルダル・ジョンセンが手がけたM83テイスト溢れるmidsummerな夏色に満ちたフェミニンなアレンジ、そして前作で更新した今世紀最大のエモを自身で再更新するかのような、青春時代の一夏の思い出がさざ波のように還ってくるリヴァーブ全開のソロワークからクライマックスにかけてのメタルバンド然としたドラマティックかつエピックな構成/展開まで、その全てが「あの頃」のノスタルジー(郷愁)を呼び起こす。

また、この曲におけるジョージはMVのあなた誰ですかァ?!不可避のビジュアルのみならず、そのアートポップやイーサリアルを装った歌声一つ取ってみても、DFHVNにとって切っても切れない因縁の隠語的な意味では、キュアーのロバート・スミスに例えるよりもザ・スミスのモリッシー的と言ったほうがより隠語的か。つまり、前作『普通の堕落した人間の愛ちゃん』においてアメリカ中西部(Midwest emo)への“隣人愛”と、アルバムコンセプトを司るイギリスの小説家グレアム・グリーンの『情事の終り』における“隣人愛”を共振させる事に成功した彼らは、今度は“州”ではなく“国境”を跨ぎ『mid90s』のUKロックへの隣人愛に目覚めたというわけ。

結局の所、前作の“Near”のようなクリーンボイスを導入したスロウダイヴシガレッツ・アフター・セックスを連想させる楽曲は、次作におけるUKロック化への分かりやすい伏線としてあって、伏線に関して言えばUKロック界のレジェンド=レディオヘッドの作品で知られるエンジニアのダレル・ソープが手がけた、メタリックな音のバリを丸く削いだような本作のサウンド・プロダクションにおいても顕著で、それこそ前作の#1“You Without End”だけソフトな音質だった目的および意図は完全に本作の伏線であると同時に、そのUKポップスターのエルトン・ジョンばりのピアノをフィーチャーした“エルトンゲイズ”からのモリッシーという、僕がナニを言わんとしているのかが分かる人には分かると思うけど、要するにエルトン・ジョン(淫語)からモリッシー(隠語)へと繋がるUKロック化の伏線回収は流石に笑う。なお、モリッシーはキュアーに対して「ザ・キュアーは『クソ』という言葉の新たな代名詞」とディスり、デペッシュ・モードに対しては「彼らの洗練されたナンセンスは、彼らがどれほど浮かれて想像力に欠けているかを強調することに成功している」とディスり、モリッシーはエルトン・ジョンに対しても「エルトン・ジョンの生首を僕に献上してくれ」とディスり、モリッシーはオエイシスに対し「彼らは俺にはとっても退屈なんだ。ノエルに神の御加護を。」などとディスりまくっている模様w

本当に狩野英孝ばりにあなた誰ですかァ?!と言いたいところだけど、しかしそれらへと繋がる伏線は既に前作に散りばめられていて、それすなわち前作の凄さにつながってくる話でもある。前作の『普通の堕落した人間の愛』は、地元サンフランシスコ・ネイティブのエピタフ系らしい「デフヘヴンはメロコア」を襲名するかのような、従来のDFHVNにはないロックンロール的な漠然としたキャッチーさだったりポップさが根付いていたのも事実で、そもそもデビュー当時からシンプルに「いいメロディ」を書く才能を持ったバンドでもあったわけで。めちゃめちゃ極端な話だけど、本作と過去作の違いって「スクリームがあるか、ないか」、その一点だけで、その前作で蒔いた“ポップ化”への伏線が花開いた結果が本作の『Infinite Granite』なんですね。


その80sから90sにかけて活躍したUKバンドのバイヴスを感じさせる楽曲陣といい、『mid90s』愛に溢れたMVといい、冗談じゃなしに日本のシューゲイザー/ドリーム・ポップシーンを牽引するFor Tracy Hydeリスペクト説が芽生えるくらいには、本作はメジャー化/ポップ化が著しい。例えるなら「フォトハイの新曲エエやん!」と思ったらDFHVNの新曲だった、みたいな話で、もちろんフォトハイもマイブラをはじめ海外バンドからの影響やオマージュを自身の作品に投影するバンドでもある。実のところ、フォトハイってバンドメンバー全員がリアル秋葉系の二次元ヲタクという一番の共通点以外にもDFHVNと似かよった部分があって、その話も決して満更でもなくて、というのも今年の2月に発表された4thアルバム『Ethernity』は、90年代のオルタナティブなアメリカを舞台に若者たちの青春ロードムービーを描いたコンセプティブな作風で、その「コンセプティブなロードムービー」といえば、まさにDFHVNが2018年に発表した『普通の堕落した人間の愛ちゃん』もジモティとズッ友を誓った青春時代の思い出の地であるサンフランシスコの西海岸を巡る青春の音旅だった(まるで気分は『フルハウス』のOP)。そして約3年の年月を経て、偶然か必然かこの2021年にDFHVNがフォトハイ化するという謎展開。しかし今思えば、伊集院光の『深夜の馬鹿力』で曲が流れてきた時にフォトハイの存在を知ったのも、全てはこのための伏線であり引力だったんだなって。

兎にも角にも、リリース元のレーベルが地元エピタフ系のAnti-からではなく、いかにもチェルシー・ウルフ姐さんも在籍するSargent Houseからというのも納得のオシャな雰囲気を持つ一枚。なんだろう、一昨年の2019年にブラック・メタル界の皇帝=Emperorのサポートで来日したバンドが、二年の歳月を経たら日本のフォトハイとツーマンツアーするために再来日する可能性を暗に示唆するような、もし再来日が実現した暁にはフォトハイのeurekaが彼らのライブに飛び入りしてジョージとデュエット、そんな妄想が捗りまくりんぐな一枚w

要するに、先日刊行された『シューゲイザー・ディスク・ガイド』の表紙に書き記された、ART-SCHOOLの木下理樹氏による“シューゲイザー”はジャンルや世代を超えた。という言葉を、デビュー当時から現在までブラックメタルのフォーマットの中で証明し続けてきたのが彼らデフヘヴンであり、紙面にも登場する日本のフォトハイと共に90年代のシューゲイザーを受け継ぐ20年代のバンド代表として、90年代シューゲイザー愛の終着点が本作の『Infinite Granite』なんですね。

幕開けを飾る#1の冒頭やインストの#4で聴けるような、Hammock的なスペース・アンビエント~ニューエイジのアプローチを垣間見せる場面もままあり、そのタイトル的にもAlcest『Shelter』を思い出させる、エルム街の悪夢からサンバイザー着用必須のカラッとした蒼天のメロディが降り注ぐ#1“Shellstar”から、前作の伏線を回収しながら「ロックバンドとしてのデフヘヴン」を高らかに宣言すると、三度スクリームとクリーンの逆転現象を起こすポストメタル調の#7“Villain”、再びUKへの“隣人愛”が炸裂する#8“Other Language”は、UKドリーム・ポップのEsben and the Witch(しいてはAlcest『Kodama』)の影響を伺わせるイーサリアルなATMSフィールドを展開する。それらの「ロックバンド」としか形容しようがない楽曲、中でもリード曲の#2や#7を筆頭に、いかにもダニエル節満載のドラミングでいながらも、その音作りも含めてプレイの面でもメタルバンド仕様からロックバンド仕様に鞍替えしている器用さは素直に感心する。持ち前のブラストビートがなくとも彼のプレイだとわかるし、そういった意味では過去作と最も違うパートって、実はジョージの歌ではなくドラマーのダニエル・トレイシーだったりするのかもしれない。

確かに、2010年に颯爽と現れるや否やピッチフォークをはじめ主要音楽メディアから“NEW BLACK”と評され、保守的なメタルシーンの常識を覆してきたオリジネーターに対して、「今さら過去の音楽の焼き直ししてどうするの?これじゃあただの“NEW GAY”じゃないか」とモリッシーばりに皮肉交じりにディスる人も少なくないと思う。確かに、ゴリゴリのブラック・メタルからオルタナティブなスタイルへの変遷というのは、過去にノルウェイジャン・ブラック・メタルのUlverが辿ってきた道筋でもあって、しかしDFHVNの場合はUlverみたく突然変異に近い変化ではなく、普通に過去作からの伏線を地続きで回収してきた結果として今の彼らがあるんですね。最終的に、Ulverも80年代のポスト・パンク/ニューウェイブの影響下にある2017年作『ユリウス・カエサルの暗殺』と2020年作『惡の華』でアート・ポップ化したのを目撃したら、別に「歴史は繰り返す」じゃないけど、やっぱり歴史は繰り返すんだなって。同時に、ブラゲ界のレジェンドであるAlcestAlcestで、スロウダイヴのニール・ハルステッドを迎えた『Shelter』やジブリ映画『もののけ姫』を題材とした『Kodama』に象徴されるような往年のオルタナに傾倒した作品を立て続けに発表している。つまり、彼らDFHVNはブラック・メタル界の二大レジェンドの背中を追憶している、すなわち『ルックバック』しているんだと解釈したら俄然エモ過ぎて泣ける。

結局のところ、このDFHVNが信用できる最大の理由って、アキバ系ギタリストの存在はもとより、メタルシーンのみならず10年代の音楽シーンにピンク立ちの金字塔を打ち立てた2ndアルバム『サンベイザー』を発表した際に、界隈の始祖であるAlcestStéphane Paut(ネージュ氏)をゲストに迎え入れることで、初めてメタルやブラックゲイズの存在に触れた世のリスナーにだけど忘れないで、過去に偉大なバンドがいた事を(Please Remember)と明確な形で示し、ブレイク前夜でも決して天狗にならず、あくまで謙虚に発信しているのを見たら全幅の信頼しかないです(観客が13人の使徒しかいなかった「伝説の名古屋公演」を実質最前で観ているからという話はさて置き)。そもそも、その二大レジェンドが辿ってきた道筋を理解している人なら、その偉大な背中を『ルックバック』しているDFHVNがそう遠くない未来にこうなる事は容易に予想できた事だと思うし(散々その伏線を丁寧に描いてきたし)、よって本作は作品毎に「NEW〇〇」を更新する革新的なバンドらしい変化であり進化に過ぎず、この碧色に澄んだ川の流れのように流動的な変遷に幻滅してファンを辞めるようなら、結局それまでのファンでしかなかったということ。逆に、彼らが過去作に仕掛けてきた伏線を理解してきている人にとっては、皮肉でもなんでもなしに最高傑作の一枚として聴けるはず。どうしてもシャウトが欲しけりゃ自分でシャウトすればイイじゃん、みたいな。

本作を量子力学的な理論に落とし込んで例えるなら、従来のマクロな視点からミクロの視点に変わったのが本作品。量子力学において、我々人間も原子の集合体であり、全ての物質は原子の組み合わせでできているという理論だ。本来マクロだった物質=分子を原子→原子核→素粒子へとミクロに細かく砕いていくかの如し、従来のマクロな音波を粒子状に砕いた微細な音の集合体で構成された本作は、その量子論によってジョージのスクリームですら原子を構成する一つの細かい粒子として分解され、これまでのような物質的かつ“波動”的なスクリームではなく、喉で声を発する際に機能する声帯振動が物質の最小単位である“粒子”で構築されたミクロな残響音に姿を変えている。そういった意味でも、本作における音響意識の高い俄然アンビエントなサウンドスケープと自然に一体化している。その人間の肉眼では捉えきれない粒子と同じ「曖昧さ」をまとったジョージの叫びは、まるで過去の亡霊が現世と共鳴するかのよう。

近年、その量子力学を応用したかのような音楽作品が生まれたのをご存知だろうか?それこそ日本のSSW岡田拓郎が2020年に発表した2ndアルバム『Morning Sun』である。量子力学において、光や電気といった様々な物理現象が「粒子のような性質」と「波のような性質」を併せ持つことを“粒子と波動の二重性”と呼び、それを観測する典型的な実験が「二重スリット実験」であり、その量子の世界における「意識/認識の問題」を応用して音楽の世界で表現したのが天才岡田拓郎なんですね。それをザックリと簡単に説明すると、聴き手の「意識」によってポップスにも聴こえるし、また聴き手の「認識」の違いによってアンビエントにも聴こえる、まさに粒子と波動の二面性を併せ持つ音楽、それが岡田拓郎『Morning Sun』だった。この「意識の問題」は、映画『シン・エヴァンゲリオン』のクライマックスにも繋がってくる話でもあるのだけど、とにかく本作の『Infinite Granite』は、あくまで感覚としてこの作品に近いものがある。

今度は本作を映画で例えるなら、『新世紀エヴァンゲリオン』という円環の物語の完結を描いた庵野秀明監督の『シン・エヴァンゲリオン』とも、この『Infinite Granite』は自然と共鳴する。本作の表題を構成する「無限(Infinity)」の形容詞である“Infinite”と、花崗岩を意味する“Granite”が組み合わさってできたタイトルだ。簡潔に述べれば、花崗岩のように黒い粒子や灰色の粒子、そして透明感のある白い粒子など様々な粒石が無限に積み重なった音楽が『Infinite Granite』である。つまり、碇シンジくんとエヴァ初号機のシンクロ率が0からインフィニティ(無限)化したのと同じように、0に限りなく近い細かな粒子の集合体がシンクロ=インフィニティ化したのがこの『インフィニットグラナイト』であると。

また『エヴァンゲリオン新劇場版:破』から登場する真希波・マリ・イラストリアス、またの名をイスカリオテのマリアは、新約聖書におけるイエス・キリストの死と復活を見届けた“マグダラのマリア”と、新約聖書における“裏切り”の象徴である“イスカリオテのユダ”、つまり『エヴァンゲリオン新劇場版』においてマリアとユダの“二面性”を一人二役で演じた人物が真希波マリだった。

『新劇場版:Q』の時にカオルくんが放った始まりと終わりは同じという言葉は、先ほどのシンクロ率0パーセント=シンクロ率インフィニティ(無限)の一つのメタファーであり、エヴァシリーズの根幹部にある「人類補完計画」を紐解く無限ループの示唆や輪廻のメタファーで描かれる円環の物語を象徴するセリフである。これをDFHVNの歴史に置き換えると、“始まり”を告げる第一の衝撃=ファーストインパクト『Roads To Judah(ユダへの道)』から、DFHVNの“終わり”という名の無限ループが完成する第五の衝撃=アディショナルインパクト『Infinite Granite(インフィニットグラナイト)』への道であり、円環の物語なんですね。ちょっと面白いのは、新劇場版においてユダとマリアという2つの顔を持つ真希波マリは、巷では庵野監督の妻である安野モヨコ氏を投影しているとの考察があって、そう解釈すると庵野監督の人生に起こったファーストインパクトが『マリへの道(Roads To Mari)』であり、要するに『モヨコへの道(Roads To Moyoco)』の物語を描いたのが完結編となる『シン・エヴァンゲリオン』だったんですね。

その考察を念頭に置いた上で、DFHVNの前作『普通の堕落した人間の愛ちゃん』の“始まり”と“終わり”に流れる「浜辺に寄せて返す美しい波」のSEは、まさにエヴァ的な円環の物語と共鳴する彼らの類まれなる作家性を裏付ける一つの象徴として存在している。その前作『普通の堕落した人間の愛ちゃん』は新劇場版における『Q』と同じ役割、つまり『シン・エヴァ』の伏線が『Q』にあると解釈するなら、旧アニメ&旧劇のようなバッドエンディングみたくエルム街の悪夢が無限ループする自身の音楽から逃れるため、『シン・エヴァ』と同じハッピーエンディングを迎えるための伏線として彼らが前作に残したのが、他ならぬ「浜辺に寄せて返す美しい波」のSEだったんですね。

そのようにして『シン・エヴァンゲリオン』は、旧アニメシリーズから続く“円”環的な時間軸から“縁”環的な直線の時間軸に修正するため外界から送り込まれたマリ(=安野モヨコ)の力を借りて、『新世紀エヴァンゲリオン』という名の壮大な親子喧嘩であり親子愛であり夫婦愛であり隣人愛の物語に終止符を打った。それこそラストシーンでマリに手を引かれ駅構内の階段を駆け上がる青年シンジくんは、二次元(虚構の世界)ではなく現実の世界(妻の元)にたどり着いた碇シンジ、すなわち監督の庵野秀明少年のメタファーでもあった。で思ったのは、グレアム・グリーンの小説『情事の終り』から引用した『Ordinary Corrupt Human Love(普通の堕落した人間の愛)』って、まさにエヴァにおける碇ゲンドウの綾波ユイに対するエゴむき出しの、さしずめ「博士の異常な愛」の事であり、要するに『シン・エヴァ』は庵野秀明の『情事(エヴァ)の終り』を描いた作品でもあるんですね。

その『シン・エヴァ』で描かれた駅構内のラストシーンを観て、そして「興行収入100億突破」のニュースを聞いて、まず真っ先に頭に浮かんだのが新海誠の『君の名は。』だった。エヴァのセカイ系に影響されたアニメーターの一人である新海誠の歴代の映画作品の物語ですれ違う主人公とヒロインを補完した作品こそ、他ならぬゴリゴリのエンタメ作品として興行収入250億を突破した『君の名は。』である。その『君の名は。』と全く同じように、庵野監督が残した全てのエヴァンゲリオンと全ての登場キャラクター、そして“中の人”と呼ばれる舞台裏のキャストをはじめとする制作陣、その全ての粒子を補完した今世紀最大のエンタメ作品が『シン・エヴァ』だったわけ。もっとも面白いのは、新海誠映画における「碇シンジ系の主人公」を“否定の世界”から“肯定の世界”へと導く重要な役割を担っていたのが、主人公の瀧くんを演じる神木隆之介くんだとするなら、「過去のすべてのエヴァンゲリオン」にサヨナラを告げるため外界の世界線からやってきたマリは、それこそ『君の名は。』における瀧くんと同じ役割を任された“シン・スーパーヒーロー”であると。奇しくも、そのラストシーンでマリと神木くん演じる青年期シンジのカップリングが成立するのは、流石に示唆的というか意味深すぎてアレだけど。とにかく、庵野監督は過去に僕が『君の名は。』のレビューに書いた話に至極近い解釈をもって『シン・エヴァ』を完結させたと言っても過言じゃない。

もう一つ、『シン・エヴァ』のラストシーンを観た時に頭に浮かんだのが昨今、何かと話題の“90年代サブカルチャー”を象徴する人物の一人である古谷実の漫画『シガテラ』の最終話の主人公のモノローグ→萩野優介は変わった 大人になって 強くなった がんばって 望んで そうなったからの僕は つまらない奴になったという、世界中の中二病患者を地獄に葬り去るみぞおちアッパーワードがフラッシュバックして泣いた。つまり、「ガキシンジ」だの「ワンコくん」だのと罵倒され尽くしたシンジくんが、子供のまま無限ループするエヴァという呪縛から逃れ、声変わりするまで大人になった成長の物語が『シン・エヴァンゲリオン』だったと。別に大人になる=つまらなくなるじゃないけど、この時代のクリエイターって「大人になる」ことに対する嫌悪感?みたいなのが作品の根っこにこべりついてる気がするw

『新劇場版』シリーズを象徴する“主題歌”を担当する宇多田ヒカルの楽曲に関しても偶然の一致、というよりこじつけレベルの話がある。まず『序/破』の主題歌である“Beautiful World”は、エヴァシリーズはもとより、(庵野監督とも交流の深い)サブカルの象徴である岩井俊二監督の青春映画『リリイ・シュシュのすべて』に思春期の頃に強く影響された独りシューゲイザーことParannoulの2ndアルバム『To See the Next Part of the Dream』の一曲目が同名曲だったのはオマージュかリスペクトかは不明だが、『Q』の主題歌である“桜流し”はその曲調からも“神殺しのアナセマ”を想起させ、そして『シン』の主題歌である“One Last Kiss”は否応にもUlverの“One Last Dance”を連想させる。しかも『シン』のEDでは“One Last Kiss”の後に『シン』用にアレンジされた“Beautiful World”が流れるというニクい演出も。

綾波レイ、黒波レイ、綾波ユイ、式波アスカ、真希波マリ、エヴァの登場キャラにも名付けられている“波”シリーズについて。奇しくもDFHVNの音楽はもとより、エヴァにおいて「最期の“◯波”シリーズ」として「浜辺に寄せて返す美しい波」「浜辺美波」のSEを円環の物語の一つの象徴としているのは先述した通りだ。その“象徴”が描かれる『シン』の終盤、それこそ「人類補完計画」によって赤く染まった海が元の青く澄んだ海と浜辺に主要キャラが打ち上げられるシーン、つまり(加持リョウジのセリフにもある)陸と海の狭間の「“波”打ち際=渚(カオル)」のアスカが旧劇の惣流アスカであるという考察は的確で、とにかく『新世紀エヴァンゲリオン』において“時間”と“空間”の概念を超越した、ある種の聖域である“浜辺”に打ち寄せられる“(美)波”という存在は、この円(縁)環の物語を紐解く上で欠かせない最もアイコニックな存在なんですね。要するに、岩石の一種である「Granite=花崗岩」が膨大な時間の経過で分解された結果が浜辺の砂(粒子)、あるいはサンフランシスコ・ネイティブのジモティ達との思い出の地である西海岸の浜辺の砂(粒子)と、(“渚”を中心点とした)その“粒子”の集合体である浜辺に打ち寄せられる海の“波動”、それすなわち量子の世界における粒子と波動の二重性を描いたのが例のシーンなんですね。このシーンは本当にお見事としか言いようがなくて、庵野秀明という天才だからこそ成せる業であると。

そんな“例のシーン”をフラッシュバックさせる、そして彼らと全てのエヴァンゲリオンの象徴である「浜辺美波」のSEで幕を開ける#9“Mombasa”は、メンバー曰く10年の集大成がこの8分間にあると語るだけあって、この『インフィニットグラナイト』という名の浜辺で拾い集めた一粒一粒が美しい“粒子”の集合体からなる光に満ちた世界=“シン・デフヘヴン”と、一方で過去のデフヘヴンが歩んできた絶望の世界を『ルックバック』するかのような、それこそアスカにバカヘヴンやらガキヘヴンと罵声を浴びせられるかの如し、まるで“イヤイヤ期の思春期”に身につけたブラストビートやブラックメタル然としたエヴァ初号機並の咆哮が邂逅した、これぞまさに陸と海の狭間にある“渚の音楽”であり、あのファーストインパクト『Roads To Judah(ユダへの道)』から回り始めた円環の物語、その完結を迎えるに相応しい名曲となっている。例えるなら、いつもの同じ日常のように前作冒頭の浜辺美波SEから一日が始まり、そして最後の浜辺美波SEで一日が終わる、そんな円環の物語として再び前作冒頭のSEに繋がって無限ループを繰り返すか、それともこの“Mombasa”の冒頭の浜辺美波SEへと繋がり、そして人類の約束の地であるゴルゴダの丘にたどり着くかは、全て君の中にある「意識」次第ってこと。

このタイミングで『エヴァンゲリオン』を語ってしまったら、必然的に某「リオン(福音)」についても語らざるを得なくなる。その某リオンというのが、他ならぬ荒木飛呂彦のジョジョ8部『ジョジョリオン』である。実は、エヴァシリーズとジョジョシリーズって割りかし共通する部分があって、それこそ旧約聖書の創世記にあたる「アダムとイヴ」をモチーフにした第一話の冒頭(主人公・東方定助=アダムを“土”から助け出して“生命”を与えた広瀬康穂=イヴ)から始まる禁断の果実(ロカカカの味)の争奪戦バトルを描いた、いわゆる呪いを解く物語として2011年に連載開始した『ジョジョリオン』は、それこそ『10 Years Gone 』のディケイドを迎えた2021年、ついに完結を迎えた。

しかし、この“日本一のジョジョヲタ”を自負する僕がリアルタイムで(連載誌の)ウルジャンの購読をやめて、単行本派になっても最終回を迎えるまで単行本すら読まないと誓ったほどの駄作、その『ジョジョリオン』という今世紀最大の駄作漫画を生み出した荒木飛呂彦(碇ゲンドウ)に対し、その飛呂彦(ゲンドウ)を“(精神的および感性的な)親”に持つ僕(碇シンジ)が、「ゲンドウ(飛呂彦)よ、なぜ旧約聖書の“アダムとイヴ”をモチーフにした第一話から、ここまでの駄作を生み出してしまったんだ?」と、子供の立場から“親”をディスるのは、まさに庵野監督が『シン・エヴァ』における親子喧嘩と同じだ。そして、皮肉にも『ジョジョの奇妙な冒険』の一貫したテーマである“人間讃歌”を描いたのが、『ジョジョリオン』のパクられ元である『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督だったのはモリッシーもビックリの皮肉だ。要するに、僕(碇シンジ)が人生で初めて“親(ジョジョ)離れ”に成功したのが、皮肉にもエヴァをパクって失敗した『ジョジョリオン』だってこと。

“子供”の立場からもっと皮肉なことを言うと、ジョジョ6部の連載時に歴代ジョジョにサブタイトルが名付けられた出来事と、それこそジョジョ7部『スティール・ボール・ラン』は編集のアイデア(新規獲得のため)で『ジョジョ』を卒業しようという理由で、確かに『SBR』のウルジャン連載が始まった初期の頃は「ジョジョ」を押し出していなかったし、それにより晴れて飛呂彦も“ジョジョ離れ”できたように見えた。しかし、結局は作者の飛呂彦が「何を書いてもジョジョになってしまう」と半ば諦めの境地に達し、正式に『SBR』がジョジョ7部として落ち着いたという逸話もあり、それはジョジョ8部のメインタイトルに“ジョジョ”の名前が直球で使われている事からも分かる。確かに、アニメと漫画で畑は違うが同じクリエイターとして、庵野監督も90年代から現在までエヴァの呪縛に囚われ、何度も何度もエヴァを作り直してきた人だ。

それこそアニメ化が決まったジョジョ6部『ストーンオーシャン』は(言わば岩波w)、ラスボスのプッチ神父がエヴァの碇ゲンドウが提唱する「人類補完計画」を想起させる邪悪で身勝手な思想をもって、自身のスタンド能力『メイド・イン・デフヘヴン』の能力で世界を無限ループさせるも少年チンポリオに妨害される。そして一旦、旧ジョジョの世界を終わらせた飛呂彦は、次作のジョジョ7部とジョジョ8部を旧ジョジョとは別のパラレルワールドへと導き、終わりがないのが終わりとばかりにジョジョの円環の物語が再び始まった。しかし皮肉にも『シン・エヴァ』でエヴァの呪縛から開放され、無事にエヴァから“卒業”できた庵野監督と違い、飛呂彦は過去にジョジョから“卒業”するチャンスがあったのにも関わらず、いつまでたっても(ジョジョ9部になっても)ジョジョから“卒業”できない作家なんですね。この本家リオンとパク・リオンの対比はあまりに皮肉で、俄然『シン・エヴァ』と庵野監督の潔さが際立つ。でも奇しくもエヴァシリーズが完結したタイミングでジョジョ8部が完結したのは、果たして偶然だろうか?それともゼーレの「シナリオ通り」なのだろうか?

最後に『Infinite Granite』を紐解くキーワードを挙げるなら、モリッシー、フォトハイ、M83、狩野英孝、『シン・エヴァンゲリオン』、90年代、浜辺美波、量子力学、碇シンジ(ひきこもりニート)、メガネ、そして「希望のコンテニュー」である。つまり、本体であるメガネを外してエヴァが好きそうなアキバ系のオタクから、つまらない普通の大人になったギタリストのケリー・マッコイは、それこそ『シン・エヴァ』の立派な大人へと成長した碇シンジくんのメタファーだったんだよ!な~んて冗談はさておき、リツコのセリフにもある絶望のリセットではなく希望のコンテニューを選んだ今のDFHVNは、なんだろうワイらサマソニ出てウェイしたいんや!感しかなくて笑う(いや、ここまでくると俄然フジロック的か?)。
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