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墓っ地・ざ・ろっく!

Post-Progressive

宇多田ヒカル - BADモード

Artist 宇多田ヒカル
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Album 『BADモード』
badmode

Tracklist
01. BADモード
05. 
Time
06. 気分じゃないの (Not In The Mood)
07. 誰にも言わない
09. Face My Fears (Japanese Version)
10. Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー

Bonus Track
11. Beautiful World (Da Capo Version)
12. キレイな人 (Find Love)
13. Face My Fears (English Version)
14. Face My Fears (A.G. Cook Remix)

2010年の「人間活動」と称した活動休止、そして2016年に活動再開してからのヒッキーといえば、それこそ2016年作の6thアルバム『Fantôme』は復活を祝すに相応しい個人的にもパンチラインな作品だったけど、一転して2018年作の7thアルバム『初恋』はイメージ通りバラード志向の強い、いわゆる一般的なJ-POPの域を出ない作風で個人的に全くと言っていいほど刺さらなかったというか、単純にディープなヒッキーファンではない自分が聴くような音源ではなかった。

そんな風にノラリクラリしてたら、この度は約4年ぶりとなる待望の8thアルバム『BADモード』がリリースされたとの事で、いざ表題曲の#1“BADモード”を再生してみて(厳密に言えば)2分18秒までは「まぁ、いつもの感じかなぁ」くらいに思った次の瞬間→「な、なんじゃこりゃああああああああああああああ」と椅子から転げ落ちるくらいの、それこそ「いつものポップス(と見せかせて)」から日本のSSWこと岡田拓郎や本家SW、そして雷猫ことサンダーキャットもビックリのアンビエント・ポップ~ニューエイジ~ファンク~ジャズへと緩やかな流動性をもってスムースに展開していく楽曲構成、それはまるで森は生きている『グッド・ナイト』を想起させる場面の転換を伝えるアルペジオ・ギターと幽玄なアトモスフィアを運んでくるプログレ然としたシンセが「宇多田ヒカルなりの美しきポスト・プログレッシブの調べ」を奏で始めたこの瞬間、僕は今回の宇多田ヒカルは「なにか違う、なにか絶対にヤバい」と全てを察する事となった。


そのイギリスに籍を置く音楽レーベル=Kscopeに象徴されるアートポップ/ポスト・プログレッシブを連想させる、それこそ近二作とはかけ離れた本作の『BADモード』における岡田拓郎を凌駕する鬼ヤバいトラックメイク、そのトラックの「ヤバさ」を司る象徴的な楽器が存在する。それこそがドラムを構成するハイハットの「鳴り」に他ならない。

近年、ハイハットをトラックの基とした音楽ジャンルといえば、いわゆる現代ヒップホップにおけるトレンドの一つであるトラップ、そのトラップにおけるハイハットの概念に新たな解釈を加えたハイハットの表現法を、世界中のアーティストが自身の楽曲内で披露する熾烈な争い、それは現代音楽シーンにおける「ハイハット鳴らし大合戦」に宇多田ヒカルが満を持して電撃参戦してきた事を意味しており、本作におけるヒッキーは“日本の歌姫”ではなく“ハイハット使いの女王”の異名を持つ一人のトラッピストとして堂々君臨している。

例として挙げると、『GOODモード』な旋律を奏でるピアノと対をなす『BADモード』な旋律を奏でるシンセが人間の心や感情が持ちうる二面性のメタファーとして繰り返し鳴り響く#2“君に夢中”における独立した強い意思を持ったハイハットの「鳴り」を皮切りに、いわゆるトラップにおけるハイハットの王道的なビートを打ち込む#5“Time”、在りし日のPerfumeみたいな中田ヤスタカサウンド感を醸し出すエレポップな#8“Find Love”のハイハッティな三曲がそれに該当する。

冒頭のシンバルの鳴りからしてムーディなジャズの調べを奏でる前半パートから、シームレスにアンビエント~ニューエイジ化していく美しい流れがポスト・プログレッシブ然とした#6“気分じゃないの (Not In The Mood)”は、ジャズ本来の姿であるインプロヴィゼーションを示唆するような、続きの存在を想像させる曲の終わり方もより生々しいライブ感を印象づける(終盤に入るメルヘンチックな少女の歌声は猛烈なデジャブを感じた)。そのジャジーな雰囲気から、チェンバー・ミュージックとシェイカーやパーカッションによるトライバルなアプローチとエレクトロな打ち込みが交錯する、俄然コンテンポラリーかつアヴァンギャルドな気質を兼ね備えた#7“誰にも言わない”では、完全に岡田拓郎の上位互換とでも呼ぶべき年の功と格の違いを見せつけている。このハイハットの「鳴り」とアンビエント/ニューエイジを経由したアートポップの邂逅といえば、それ即ち日本の岡田拓郎とノルウェーのUlverが現在進行系で探求している現代音楽のソレに他ならなくて、それこそ(2021年のAOTYにも挙げた)Ulver『惡の華』を再構築したライブアルバム『Hexahedron』におけるコンテンポラリーかつインプロ的な生バンドならではのライブ感は、まさに宇多田ヒカル『BADモード』におけるライブ感と波長が同じで、そういった意味でも本作は一種の“ライブ音源”と認識すべき作品と言えるのかもしれない。

その実質ライブ音源である『BADモード』『Hexahedron』の共鳴を著しく裏付ける、現代ポップ・ミュージック界におけるトレンド、その条件の最重要項目である「3分以内の曲」には一切見向きもしない、まるで“宇多田ヒカルなりのポップス”をシーンに再提示するかのような本編ラストを飾る約12分に及ぶ#10“Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー”に象徴される本作の革新性と実験性、その宇多田ヒカルの音楽史を司るオルタナティブな流動性と『Hexahedron』という名の“エヴァ∞インフィニティ”案件、およびUlverの音楽史を司るオルタナティブな流動性が骨の髄まで共振しまくる点からも、この『Hexahedron』は本作の『BADモード』を紐解く上で欠かせない最重要作品なんですね。また、映画『シン・エヴァンゲリオン』の冒頭のシーンに赤く染まったフランスのパリ旧市街とエッフェル塔の描写があって、この“ーマルセイユ辺りー”における岡田拓郎風のパーカションやハイハッティをはじめ、テクノミュージックのビートを刻む打ち込みとシンセ✝ウェイブが織りなすミニマルスティックな曲調が本作の中で最も『Hexahedron』のライブ感に近いのは俄然面白いし、俄然“エヴァ∞インフィニティ”の共∞鳴を感じる。とにかく、そのヒッキー史上最も前衛的でありレフトフィールド内で音を鳴らしている作風といい、普段からJ-POPをナメてる岡田拓郎をワンパンKOするかのようなサウンドメイクに終始『GOODモード』気分。

確かに、活動再開してからのヒッキーは明らかにKscope界隈に通じる気質が芽生え始めていたし、過去作におけるヒップホップ/ラッパーとのフィーチャリングはもとより、クラブミュージックの重鎮であるSkrillexとのコラボに象徴されるような、現代音楽シーンにおけるトレンディな音を自身の楽曲に常識の範囲内で巧みに取り入れてきたアーティストの一人で、本作におけるローファイ・ヒップホップばりに気分はBADモードなリラクゼーション効果のあるアンビエント~ジャズ~ニューエイジを経由した現代ポップスは、彼女にとってあくまで流動的な変化に過ぎないと捉えるべきというか、そう考えれば考えるほどあまりにも流動的で必然的な結果と言える。それこそ、本作の楽曲一つ一つを司る物質や原子の流動性がそのままダイレクトに宇多田ヒカルという存在、また彼女が歩んできた「嫉妬されるべき人生」の流動性へと直結している。要するに、2010年の活動休止を挟んで前作から約8年の『空白』が生んだ復活作『Fantôme』における音の変化と、2018年作の『初恋』から約4年の『空白』が生んだ2022年作の『BADモード』における音の変化、どんぶり勘定で倍の時間差があるにも関わらず、その変化量(前作比)の差は言わずもがな『Fantôme』よりも『BADモード』の方が遥かに大きい。その『空白』部分は、ヒッキーが本作において成し遂げている事の大きさを如実に現している。

結局のところ、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』および『新劇場版:破』の主題歌である“Beautiful World”、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の主題歌であり「宇多田ヒカルなりのポスト・プログレッシブ」の源流である“桜流し”、そしてシリーズ完結編となる『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の主題歌となる“One Last Kiss”と本作のボートラに収録された“Beautiful World (Da Capo Version)”という、新劇エヴァシリーズの『音楽』を背負っている宇多田ヒカル岡田拓郎Ulverは、現代ポップ・ミュージック界におけるトラッピスト的な意味でも、“エヴァ・インフィニティ”案件的な意味でもニアリーイコールの立ち位置から音楽と向き合っている事を証明してみせたのが本作の『BADモード』なんですね。

また話の文脈的に全く関係なさそうなスクリレックスの存在は、過去のKORNBMTHのコラボ相手あるいはEDM(Trap)もしくはキンハーくらいしか繋がりを見出すこと以外のネタも関心もないし、そして伊集院パワハラ光のお笑い枠も含めて、要するに2021年の俺的年間BESTと地続きで繋がってる案件、それこそ13位のスティーヴン・ウィルソンと1位の東京事変(椎名林檎)が対角線上で守護するAOTYを真の意味で『総合』するかのような完全究極体伏線回収アルバムなんですね。ある意味で、2021年の年間BESTのランキングで『BADモード』の内容を潜在的に未来予知していたと考えたら、やっぱ俺って未来人(ニート)なんかなぁ?w

この『BADモード』は「カラオケで歌われること」を前提としていない音楽、ミックスもプロダクションも根本から一般的なJ-POPとは一線を画した、それこそヒッキーの「声」が「歌」以前に楽器の一つとして機能している作品、みたいなチープな表現でしか言語化できなくて大変恐縮だけども、とにかく近代J-POP最大のクソダサコンテンツこと「THE FIRST TAKE」に出演してマジ顔で歌ってるようなカラオケマイスターとの(比べるまでもない)立場の差というか、長年のヒッキーファンがヒックーもとい戸惑いそうなくらいには『音楽』としての次元がダンチ。今後、J-POPとかいうジャンルはコレを最低基準にしなきゃダメだと思うホントに。あれ?でも本作って「THE FIRST TAKE」のケツモチであるFソニーミュージックからリリースされてね?wっつー話は置いといて、これが年明け早々に登場するのはもはやチートでしかなくて、ともあれ昨年のAOTY(1位)である東京事変からバトンを引き継いだ、今年2022年のAOTY暫定1位の作品です。

Parannoul / Asian Glow / sonhos tomam conta - Downfall of the Neon Youth

Artist Parannoul / Asian Glow / sonhos tomam conta
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Split 『Downfall of the Neon Youth』
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Tracklist
01. Nails
02. Insomnia
03. todos os sonhos que eu tive
04. Phone Ringing on Corridor
05. Colors
06. tons de azul
07. one May Be Harming
08. vento caminha comigo
09. 70 Seconds Before Sunrise
10. Love Migraine

2021年度のBandcamp界におけるバズり音源の一つであり、庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』や岩井俊二監督の映画『リリィ・シュシュのすべて』をはじめとする日本の90年代サブカルチャーからの強い影響を公言する、韓国ソウル出身のParannoulの2ndアルバム『To See the Next Part of the Dream』は、全ての作曲工程をDTMで完結させるイマドキのインディーズ・ミュージシャンである彼の存在証明となる、そしてシューゲイザー史に名を残す歴史的な名盤となった。そんな彼と同じくして、今年のBandcamp界隈を賑わせた同郷ソウル生まれのAsian Glowとブラジル出身のsonhos tomam conta、そんな“ズッコケ三人組”ならぬ“ぶっ壊れメンタル三人組”が一堂に集結して生まれた奇跡のスプリット作品が本作の『Downfall of the Neon Youth』で、その内容も2021年の上半期に各々が発表したぶっ壊れローファイ作品よりもメンタルぶっ壊れまくってて、不謹慎ながらも大傑作としか言いようがない1枚となっている。

2000年にブラジルはサンパウロで生まれたsonhos tomam contaの人物像を簡潔に、それこそ彼が7月に発表した3ndアルバム『Hypnagogia』のセルフライナーノーツから引用させてもらうと、彼が14歳の時に初めて自殺を思い立ち、自分の人生にはもう何年も残されていないことを悟ると、毎週のようにセラピーを受けては抗うつ剤や抗精神病薬、抗不安薬などの20種類以上の薬に頼っても効果がない、そして毎日のように双極性障害や境界性人格障害、または社会不安との戦いに敗れて無気力状態に陥ると自傷行為に及び、アルコールやドラッグで自分を麻痺させる事にも2mgのザナックスを飲むことにも疲れ切った、言うなれば「ブラジルのParannoul」とでも称すべき完全に心がぶっ壊れちゃってるミュージシャンである。そんな彼もParannoulと同じく滝本竜彦の小説『NHKにようこそ!』をはじめ、今敏の映画『パプリカ』や98年のトラウマSFアニメ『serial experiments lain』をはじめとする日本の90年代サブカルチャーの影響を公言する一人だ。

そんな彼の音楽性も眠らない街サンパウロを華やかに照らし出すネオンを遠目に真夜中の公園で独り佇むような、アルペジオギター中心のシューゲイザー/ポストロックや90年代のMidwest emo(イーモウ)の影響下にある、そして彼がインスパイヤされたと語るデイヴィッド・リンチ脚本の映画『マルホランド・ドライブ』の迷宮を彷徨うかの如し、リアル白昼夢のイーサリアルかつアトモスフェリックなサウンドスケープを繰り広げている。特に3ndアルバムの『Hypnagogia』では、孤独に苛まれて凍え死ぬかのような荒涼感溢れる轟音ノイズと、毎日リスカして自殺を試みるも死にきれないメンヘラ男の悲痛な叫び声や苦痛に満ちた金切り声をフィーチャーした、いわゆるBlackgazeやポストメタル指数を著しく高めたデプレッシブ然とした作品となっており、聴いているだけで危うくそっち側に引きずり込まれそうになる。

2001年に韓国ソウルに生まれたAsian Glowは、ブラジルのsonhos tomam contaParannoulとも共通する内省的なアプローチは元より、アコースティックなインディーフォークを基調としながらもMidwest emoやマスロック、ノイズ・ポップやシューゲイザー要素を取り入れたオルタナティブなスタイルを特徴としており、また全編英語詞で歌っている点からも三人の中では最も90年代のemo(イーモウ)へのリスペクトが強いインテリ系ミュージシャンと言える。他の二人の音楽性が暗く冷たいウェットなイメージだとすると、このAsian Glowは比較的カラッとした明るく温かいオーガニックな音像みたいな。また、先日リリースされた16分にも及ぶシングルの“pt.2345678andstill”では、ノイズ/マスロック~プログレ要素みならず、エイフェックス・ツインばりのエレクトロニカやグリッチ方面へのアプローチを垣間見せる、著しく実験的な側面が強すぎるバグった名曲を産み落としている。

このスプリットにおける一番バッターを飾るAsian Glowは、#1,#4,#7の計3曲を担当しており、ソロというか自身の作品と比較するとインディー路線というよりも、正直かなりParannoulを彷彿とさせるノイズロック/マスロック寄りのコアな方向性に引っ張っれている印象。露骨に16分シングルの実験的なアオリを受けた#1“Nails”をはじめ、本作における彼の“コアさ”を象徴する#4“Phone Ringing on Corridor”では、プログレ然とした転調やカオティックなブラストビートやグリッチ/ノイズをもって、自身のぶっ壊れローファイメンタルをバリバリと激しく音を立てながら突き破るような新時代のノイズロックを、そして#7“one May Be Harming”では(ほのかにThe Pineapple Thiefみを醸し出しながら)日本のオルタナレジェンド=NUMBER GIRLに肉薄するオルタナティブなハードコア/マスロックを繰り広げている。もしかすると彼は、今回のスプリット音源と今年ドロップした音源の乖離が三人の中で最も大きく、最もぶっ壊れ性能高ぇんじゃねぇかってほどに。

このスプリットにおいて#3,#6,#8の計3曲を担当するsonhos tomam contaに関しても、Asian Glowと同様にParannoulぶっ壊れローファイ/ノイズ全開のスタイルに引っ張られている印象。確かに、Parannoul名盤To See the Next Part of the Dreamにおいて、『リリィ・シュシュのすべて』『NHKにようこそ!』のサンプリングを駆使して超絶エピックな激情ハードコアに化けたかと思えば、“Age Of Fluctuation”に象徴されるような初期デフヘヴンmeet後期アナセマみたいなBkackgazeやノイジーなギターロックやってみたりと、現在進行系でシューゲイザー/ノイズの新しい形をシーンに提唱してみせた。そんなParannoulの革新的なスタイルに面食らったsonhos tomam contaの不安定な精神状態とシンクロするぶっ壊れローファイメンタルが炸裂する轟音ノイズと、一転して街頭のネオンが薄明かりに照らし出すドリーミーなアルペジオギターが交錯する#3“todos os sonhos que eu tive”をはじめ、Asian Glowのぶっ壊れメンタルとシンクロするようなぶっ壊れブラストビート主体の#6“tons de azul”、そして#8“vento caminha comigo”ではローファイ・ブラストビートと金切り声を撒き散らしながら、初期KATATONIA級の自殺メンタルとシンクロするアトモスフェリックな世界観をもって、いわゆるアンダーグラウンドなローファイ・ブラックメタルの領域を超越した、もはやぶっ壊れメンタルの美学すら覚えるような、そのローファイ・ブラックメタルをZ世代の視点から紐解いたある種のローファイ・ブラックゲイズだ。

そんな彼ら“ぶっ壊れ三人組”に共通するのは、2000年生まれを中心とするいわゆるZ世代の若者であるということ。そしてもう一つ、ブラジルの大都市サンパウロと韓国の首都ソウルという都市部に生まれた若者がこの現代社会に感じる孤独と将来への不安、それこそParannoulの名盤『To See the Next Part of the Dream』のセルフライナーノーツから言葉を引用させてもらうと、妄想」「劣等感」「過去」「不適応」「逃避」「妄想と幻滅」「闘争」「最も平凡な存在」「無気力」「自殺などの、現代のストレス社会に適合できなかった若者たちが心の内に抱えた、さしずめ“ぶっ壊れメンタル”代表こと碇シンジくんばりに内省的で憂鬱な感情や自己嫌悪(身体的コンプレックス)やどうしようもない絶望感を、それぞれ自身の音楽に投影しているシンクロ率にある。彼らを映画『シン・エヴァンゲリオン』のリツコのセリフから引用して例えるなら、ゲンドウに対する神に屈した絶望のリセットではなく、希望のコンティニューを選びますの名ゼリフを真っ向から否定するような、むしろ積極的にTVシリーズ以前のエヴァにおける絶望のリセットの世界線に向かった人達であり音楽なんですね。

なんだろう、ぶっ壊れメンタル三人組の各々が心に宿すATフィールドを持ち寄って中和された薄くて脆いガラスハートのパリパリATフィールドを、「自分の心の中にあるクソみたいなATフィールドを3㌧ハンマーでぶっ壊せ!」とばかりに「ロンギヌスの槍」「カシウスの槍」「ガイウスの槍」という“三本の槍”をもって各々が自分自身にブッ刺すことで、最終的に彼らにとって効き目のない薬よりも最良のセラピーであり精神安定剤として機能する今回のスプリット作品は、負け犬は負け犬でも“アクティブな負け犬”による地球の裏側に住むアクティブな負け犬のための、あるいはブラック企業に11年勤務してメンタルぶっ壊れた僕みたいなケーセッキ(犬野郎)に贈る真の人間讃歌である。その薄くて脆い㍉のガラスハートが粉々に砕け散った鋭利なローファイ/ノイズ・ミュージックは、昨今のトレンドであるローファイ・ヒップホップに対するZ世代なりの解釈であると同時に、内省的というエモを司る概念を超越した古谷実漫画の主人公のぶっ壊れメンタルともシンクロさせながら、最期は三人のぶっ壊れメンタリストが持つ“コア”な面と“コア”な面を重ね合わせたハードコアな負け犬根性をもって、このクソサイテーな世界を覆うATフィールドを3㌧ハンマーで叩き割って無事にエンディングを迎える。

彼ら三人のシンクロ率を高める、その内省的な感情の根幹部にあるハードコアな90年代エモムーブメントを象徴するミッドウェスト・エモをルーツとするミュージシャンでありながらも、各々が全く違う角度から一種のエモリバイバルとして咀嚼するZ世代の音楽センスに改めて脱帽する。また、エモならではのおセンチな感情をさらけ出す姿にはミレニアル世代のケーセッキとしてシンパシーを感じえないし、それこそ碇シンジ級のぶっ壊れローファイメンタルを煮詰めたような作品なので、今現在メンタルが弱ってたり病んだりしてる人やニートの僕みたいなリアル負け犬が聴くと別の意味でガンギマるからガチで注意したほうがいいですw

今回のスプリット作品における大本命であり大トリを担うParannoulにいたっては、65daysofstaticPendulumを連想させるドラムンベース的なエレクトロビーツを刻みながらPost-Progressiveなアプローチを垣間見せる#2“Insomnia”を皮切りに、グリッチーな導入から本家本元のぶっ壊れハードコアメンタル~ポストメタルラインの轟音を叩き込みつつ、トラップやピアノ/アンビエント/ニューエイジの要素を折り込みながら俄然ポスト・プログレッシブに構築する#5“Colors”、タイトル通り70秒のアンビエント/ニューエイジ系インストの#9を挟んで、本作の大トリを飾るラストの#10“Love Migraine”では、さすがに“ぶっ壊れ三人組”のリーダーだけあって、前半のメランコリックなムードからヘヴィ・シューゲらしい激しくエモーショナルな轟音が炸裂する後半まで着実に泣かせてくれる。

今回のスプリット、他の二人がリーダーのParannoulにシンクロしているだけあって全体的にPost-Progressive、すなわちana_thema化が顕著に現れた作品であると同時に、それこそ音楽ジャンルや性別の垣根を超えたLiturgyハンターハント・ヘンドリックス並の超越的(transcendental)な革新性を露見してて溜息しか出ないというか、上半期の音源からたった半年足らずで更に進化している彼らZ世代の成長力の高さにビビる。そのように国籍も言語も違うZ世代なりの解釈をもって、それぞれの得意分野で全く新しい音楽ジャンルを生み出さんとしてるのは、もうなんか笑うしかない。やっぱ各々のぶっ壊れATフィールドを互いに中和させた結果、その相乗効果によって限界突破したとしか思えない。とにかく、その音楽制作における常識や固定観念(ステレオタイプ)などの既成概念を叩き壊さんとする革新的なハードコア精神に溢れたアクティブな負け犬のカッコよさに慟哭不可避。

ブラジルの大都市サンパウロ、韓国の首都ソウルときて、なぜ日本の首都である東京のZ世代からぶっ壊れミュージシャンが現れる気配がないのか?しかし、それはいかに今の東京が魅力のないオワコン都市であるかを裏付けているのかもしれない。その件に関してちょっと皮肉っぽく推測すると、世界でも有数の若者が政治参加しない国として知られる日本は、Z世代の若者が老害主導の日本の未来に絶望して既に“ぶっ壊れ三銃士”に匹敵するぶっ壊れメンタルになってるから(既に)、だから選挙の投票率も低いんじゃねぇか説w

東京事変 『音楽』

Artist 東京事変
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Album 『音楽』
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01. 孔雀
02. 毒味
03. 紫電
04. 命の帳
05. 黄金比
06. 青のID
07. 闇なる白
09. 銀河民
10. 獣の理
11. 緑酒
12. 薬漬
13. 一服

おいら、もうずっと自分の中で椎名林檎=「日本のスティーヴン・ウィルソン」と信じてやまなくて、事実これまでもその自分勝手な“説”について書いたり書かなかったりしたわけ。近年、その“説”に俄然説得力を与える出来事があって、それは現代プログレ界を牽引してきたSWことスティーヴン・ウィルソンのバンド=Porcupine Treeが活動休止し、そのタイミングでSWは00年代後半にソロデビューを果たし、そして2017年の5thアルバム『To the Bone』を境にアンダーグランド界の帝王が満を持してメジャーデビュー、何を隠そう、その移籍先というのが業界最王手ユニバーサル・ミュージック傘下のEMI系に当たるCaroline International(2021年2月18日、Virgin Music Label & Artist Services.に改名)、つまりデビュー当時から東芝EMI/Virgin Music~ユニバーサル・ミュージックに籍を置く椎名林檎SWは、はれて実質的な意味で“レーベルメイト”となったわけ。

また、椎名林檎SWは、自身のバンドとソロ名義という大きく分けて2つのプロジェクトでキャリアを積み重ねてきた。無論、ソロ名義でキャリアを始め後に東京事変を旗揚げした椎名林檎と、Porcupine Treeというバンドでキャリアを始め後にソロへと移行したSWでは少し境遇というか勝手が違うけども。ともあれ、そのような前置きがありつつ、2012年に一度活動終了(解散)した東京事変は、その8年後の2020年に復活という名の「再生」を果たし、それこそお待たせしました。お待たせしすぎたかもしれませんの全裸監督精神に則り、実に約10年ぶりに発表された6thアルバム『音楽』が、もはや椎名林檎本人が「日本のスティーヴン・ウィルソン」であるという説を真正面から肯定するかのような大傑作となっている件について。

・・・と、いざ「ドヤ顔」で言ってみても、個人的には当時の東京事変よりもソロ名義の椎名林檎のがずっと好みだったのも事実で、そこまで思い入れがあるというわけではない自分が本作の『音楽』を聴いて思うのは、結局のところ東京事変って、例えるなら椎名林檎という名の頭脳=スティーヴン・ウィルソンのバックバンドにサンダーキャットスクエアプッシャーが参加してるような天才集団でしかないんだなってこと。

10年ぶりとなるアルバムの幕開けを飾る#1“孔雀”は、仏教において克服すべき3つの煩悩である「貪・瞋・痴」の三毒を題材とした、メタル並みのクソダサジャケットでお馴染みの2019年作の林檎ソロ『三毒史』のオープニングを飾る“鶏と蛇と豚”の伏線回収とばかり、仏教の般若心経いわゆる“お経”をリリックとして取り入れたアダルトでファンキーなある種の仏教ラップで、ちなみに“三毒”といえば同年に復活したUSオルタナ界のレジェンド=TOOLFear Inoculumのレビューにも三毒ネタを書いたのを思い出して、それは椎名林檎『三毒史』から無意識下で着想を得たのか、はたまた偶然に仏教的なネタが被ったのかは不明であるw

なんだろう、本作における【サンダーキャット~スクエアプッシャー~スティーヴン・ウィルソン】ラインで全て解決できちゃうような、つまり椎名林檎=「日本のスティーヴン・ウィルソン」説を裏付けるようなファンクやジャズ/フュージョンをバックグランドとしたプログレッシブなアート・ロック、メンバー全員作曲できる事変メンバーの中でもメインコンポーザーであり鍵盤奏者の伊澤っち作曲の楽曲は特にそれが顕著で、例えば#3“紫電”のピアノの美しく優雅な旋律を耳にすれば、もうそれはSWバンドの鍵盤奏者=アダム・ホルツマンが演奏しているような錯覚を憶え、そして終盤の「ドヤ顔ですよね」の下りのダ~ンダ~ンダ~ンの転調パートを耳にすれば、それはもうSWSWでも特にジャズ色の強い2ndアルバム『Grace For Drowning』の“Sectarian”と同等の楽曲構成にしか聴こえない。この『音楽』って、実質的にSW作品を聴いているような感覚と全く同じソレというか、ソロになって著しくジャズ/フュージョン化が進んだSWと同じように、この東京事変における椎名林檎も各分野のプロフェッショナルが織りなすジャズ~プログレベースのアート・ロック、あくまでセッションでメシ食ってる職人集団によるセッション軸のオシャンティかつグルーヴィな『音楽』に、林檎の才色兼備な歌メロが加わるだけで化学反応を超越したプチ事変が巻き起こっちゃうでしょ。なんだろう、これはもう「椎名林檎なりの『The Raven That Refused To Sing』」と言っても過言じゃないかもしれない。事実、この『音楽』の後にSWソロの初期作聴くとシックリきすぎて笑うし。それぐらい、ポップス云々以前に現代的なプログレとしても聴かせる『音楽』の面白さはちょっと異常だし、このメンツにイギリスのサックス/フルート奏者のテオ・トラヴィスが加入した音源妄想すんの楽しすぎw



林檎ソロにも通じる#4“命の帳”のクリーントーンのギターひとつとってもSWを想起させるし、武富士の某CMをイメージさせるAORチックな武富士シンセによるメインリフとUSインディロックみたいな浮雲の小気味よいカッティングギター、そして中盤の転調からはスペースロックmeetフュージョン・ファンク風に東京事変なりのシティ・ポップを繰り広げる#5“黄金比”で建築された“黄金都市”、初期のまだ雑味のあった頃の事変を想起させる#6“青のID”、開始2秒いや0.2秒で伊澤っち作曲だとわかるジャズいなピアノを軸に、浮雲中心のファンキーなパートから転調を織り交ぜて林檎中心のジャズパートへ、そして伊澤っちの筋肉がはち切れんばかりのスリリングなソロパートが絡み合う、隅から隅までサンダーキャット然とし過ぎている#7“闇なる白”、そしてローファイ味を無くした雷猫みたいなスペースサイケ風を装って始まる#9“銀河民”は、伊澤っちパートの歌詞に「ちょ大丈夫人類 ケンチャナヨ退化してんじゃね 進化しよういっそ早う遊ぼう」ってのがあって(「ちょ」はキムタクリスペクトか?w)、そのタイトルの“銀河民”といい、劉慈欣のSF小説『三体』に登場する“主”を待ち望む降臨派の心の内を歌っているかのような、あるいは東京五輪の開会式・閉会式のプランニングチームに就任していた“過去”を持つ椎名林檎が東京五輪を取り巻く“現状”を憐れむかのような曲の気がしないでもないというか、このコロナ禍において自由と尊厳を奪われたニッポンの衆に再び尊厳と自由、そして勇気を与えるかのような、とにかく「これこそが真のオリンピア精神だ」と言わんばかりの皮肉と母なる愛が込められている。ちなみに、この曲には「ケンチャナヨ(大丈夫)」の他に「クロッタニカ(そうだから)」や「ケイセッキ(←そんな歌詞ねぇからw)」などの韓国語をブッ込んできて驚いたというか、これまでネトウヨマーケティングを展開してきた椎名林檎がこのタイミングでブッ込んできたのは、もはやイギリス人のSWもビックリのトンデモナイ皮肉に感じちゃう。というか、韓国の歌姫であるIUの新譜の最後の曲について初期の椎名林檎っぽいって書いたけど、その伏線がこんな形で回収されるとは思ってもみなかった引力。


亀田っちは流石に“林檎らしさ”を引き出すのが一番うまいと再確認させる、例えるなら斉藤和義の“歩いて帰ろう”と『勝訴ストリップ(というか“虚言症”)の頃の椎名林檎がタイムトリップして邂逅を果たしたような#10“獣の理”、東京利権五輪の「おもてなし」なんかよりもこの曲のMVを世界に発信したほうがよっぽど有意義な#11“緑酒”、そして本作のハイライト、いや「再生」宣言以降のハイライトを飾る#12“薬漬”は、日本の赤いガールズバンドが後世に残した黒盤をフラッシュバックさせる、となると自然とSWとも共振する“副流煙”を浴びせるように幽玄かつサイケデリックなムードから、ノイズロック然とした浮雲によるダーティかつソリッドなギター、そしてクライマックスを飾る林檎の狼狽に共鳴して唸り声をあげる浮雲のメタル魂が炸裂するギター・・・なんだろう、自分の中にあるもう一人の日本のスティーヴン・ウィルソンが影で一緒に弾いてるようにしか思えなくて、これもう実質ブラック・ゲイズだろみたいな轟音ノイズ(これ絶対にアイツが浮雲に憑依してるでしょw)、このカタルシスを呼び覚ます轟音パートすらもSW的というか、例えるなら“Pariah”のようにクライマックスに向けて段階的に盛り上がっていく曲構成と目玉となる【女性の狼狽】【ゲイズ】の組み合わせ・・・この黒猫でも雷猫でもない稲妻の如しギュルギュル鳴らす系のゲイズって、どう聴いてもただのシューゲイザーじゃない、いわゆるシューゲイザー・メタルに片足突っ込んでる轟音ノイズってどっかで聴いたことある気がしたけど、なかなかどうして思い出せない・・・(喉元まで出てきてるのに)。まず真っ先にAlcestではない、とするとDeafheavenか・・・?と、ずっと曖昧なまま本当の答えが導き出せないでいた次の瞬間・・・・・

「あーーーーーーーー!!思い出したーーーーーーーー!!このゲイズって完全にアナセマの“スプリングフィールド”だーーーーーーーーーーーーー!!あ゛ーーーーーーーーーーーーーー!!あ゛ーーーーーーーーーーーーーー!!あ゛ーーーーーーーーーーーーーー!!ケイセッキヤァーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!あーーーーーーーーーーー!!スッキリしたーーーーーー!!そしてまた全てが繋がったーーーーーーーーーーーーー!!やっぱ林檎ちゃん天才だーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」

というか、この曲も伊澤っち作曲かよ・・・ただの天才じゃん(やっぱり「筋肉」は嘘つかないよなw)。でも改めて、「日本のスティーヴン・ウィルソン」としての完全究極体伏線回収(勝手な決めつけ)、そして「もう一人の日本のスティーヴン・ウィルソン」こと某ギタリストへの鎮魂曲を書いてくれたことに、今はただ林檎ちゃんには感謝の念しかない。間違いなく天まで轟いてる、というか、しつこいようだけどアイツも裏で一緒に弾いてるだろこれw 確かに、この曲のタイトルが“薬漬け”なのは「シャレにならない、もう笑えない」けど、一周回って逆に粋なのか?逆に。

この『音楽』におけるが示す“色”の役割とその意味について。端的に言ってしまえば、このアルバムが“孔雀”から始まっているのが全てを物語っていて、要するに孔雀と題して虹色をメタとして示すことで、あらゆる世界の分断を憂い、虹色の世界=環天頂アークの実現を祈る椎名林檎なりのリベラリズムと人類への愛がダイレクトに込められている。ここまでストレートな“答え”がある『音楽』って、林檎関連作品の中でも稀なんじゃないか?ぐらい。一見、この手の反知性主義者を揶揄するようなリリックやリベラル的な歌詞って説教臭いと受け止められがちだけど(別に林檎が近所の説教臭いお節介おばさんになったという訳ではなくて)、そこまで極端に思慮的ではなく、それでいてもの凄く楽観的(Optimist)な包容力のあるリリックをもって、今の世界を取り巻く現状について優しく語りかけている。事実、このタイミングでSWと同じリベラルな“left-field music”を示すように、アルバムラストを飾る“一服”にもあるセンターライン(中道)周辺のリリックの伏線回収としている。もはやニッポンの衆は全員、一人残らず椎名林檎の子宮から生まれてきたんじゃねーか説が芽生えるくらい、つまり「日本の母=ビッグ・ママ」こそ椎名林檎であり、ただただ圧倒的な「母なる愛」に抱かれる。ハッ・・・もしや彼女こそ三体世界における“主”だったのか・・・?

なんだろう、SWがソロ名義でやってることと全く同じ、つまりメジャーデビュー以降のSWが発表した『To the Bone』と今年のThe Future Bitesは、昨今のポスト・トゥルース時代における危機感をリアルな声としてリリックに込めた非常にパーソナルな作品だったけど、今回の事変も全くもってそれと同じなんですね。要するに、初期のジャズ~プログレラインの音楽的側面と“今”の現実世界で巻き起こっている出来事の“今”の“今”を映し出すリリック/コンセプトの両立という、SWでもなし得なかった難関をクリアしちゃったのが今回の事変なんですね。奇しくも同年に、SW東京事変の新譜が発表される因果(前者は延期で、後者も2020年にほぼ完成していたらしい)、そのThe Future Bites“left-field music”を示したスティーヴン・ウィルソンへの回答として、「日本のスティーヴン・ウィルソン」なりの“left-field music”を提示した『音楽』は、同じ「ポップ・ミュージック」あるいは「ポスト・ポップ」として否応なしビンビンに共鳴しまくっている。それこそ、事変が主題歌を担当した某子供探偵の名台詞「真実はいつもひとつ」ならぬ「真実はいつも『音楽』の中にある」ことを改めて思い知らされた一枚。いや、このアルバム相当ヤバいな・・・。間違いなく「何かが宿ってる」、色々な意味で宿ってる『音楽』だと思う。しっかし、こんな名盤を聴かずして逝っちゃうなんて、アイツもとんだ大馬鹿野郎だな~~~!!って、そうそう、本作を象徴する“虹色”に必要不可欠なオレンジ色が“誰”で補完されてるなんて、もう言わなくてもわかるよな?

The Ocean 『Phanerozoic II: Mesozoic | Cenozoic』

Artist The Ocean
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Album 『Phanerozoic II: Mesozoic | Cenozoic』
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Tracklist
【Mesozoic】
01. Triassic
02. Jurassic | Cretaceous
【Cenozoic】
03. Palaeocene
04. Eocene
06. Miocene | Pliocene
08. Holocene

ドイツが産んだ近年の名作といえば、今年配信のシーズン3で完結したNetflixのドラマ『ダーク』は近年稀に見る本格SFドラマの傑作で、理論物理学の天才アインシュタインを生んだドイツを代表するメタルバンド=The Ocean Collectiveもデビュー当初から一貫して考古学における土層(地層)を題材とした地質学をはじめ、旧約聖書における人間中心主義やコペルニクスの地動説、そして謎多き深海などの地球環境/思想/宗教に基づいた学説的な作品を売りとするインテリ系のバンドとして知られる。

中でも彼らを代表する2007年作の3rdアルバム『Precambrian』では、「地球が誕生した約46億年前以降、肉眼で見える大きさで硬い殻をもった生物の化石が初めて産出する5億4100万年前以前の期間を指す地質時代」=【冥王代】【太古代】【原生代】の3つに区分される「先カンブリア時代」を描き出していた。そのアートワークが示唆するように、その『Precambrian』のCDの裏ジャケに描かれた年表の最後にある空欄部分の約5億4100万年から現在(0)までの期間=【顕生代】、その【顕生代】における約5億4100万-約2億5190万年前に相当する【古生代(Palaeozoic)】を描いた2018年作の7thアルバム『Phanerozoic I: Palaeozoic』【顕生代】における約2億5217万年前から約6600万年前に相当する【中生代(Mesozoic)】と、約6500万年前から現代までに相当する【新生代(Cenozoic)】を描いた本作の『Phanerozoic II: Mesozoic / Cenozoic』の2部作をもって、2007年作の『Precambrian』から13年の歳月を経て現在に至るまでの地質年表が完成する運びとなった。

まず「深海」をテーマにした2013年作の6thアルバム『Pelagial』を振り返ってみる。実にユニークだと思ったのは、深海を形成する水深200mまでの表層(Epipelagic)から約6000m以深までの超深海層(Hadopelagic)に至る5つの海層レベルを各メタルバンドの音で再現していた点。例えば、水深の浅い表層から中深層(Mesopelagic)〜漸深層(Bathypelagic)までをUSのMastodon的なポストハードコアで再現し、水深が深くなるにつれて「コア」が徐々に巨大化して「核」のメタファーであるフランスのGojiraへと変貌し、最終的には大水圧により探査不可能とされる深海層(Abyssopelagic)から超深海層(Hadopelagic)まではニューロシスばりのポストメタル然としたヘヴィネスに到達、そして人類未開の水域の最低レベルにある底生地帯(Benthic)に生息する底魚(Demersal)と遭遇する。それはまるで貴重な黒いトゲトゲのウニかと思いきや、そのトゲトゲの正体は芸能界の伏魔殿という名の『悪の華』に触れた能年玲奈が干されて織田nonもといのんに姿を変えられてしまう「深海物語」で、ある種のメタル版『あまちゃん』と称すべき傑作だった。

そんな傑作『Pelagial』から約5年ぶり、先述した通り『Precambrian(先カンブリア時代)』の続編にあたる顕生代の序章=古生代を描いた『Phanerozoic I: Palaeozoic』は、これまでの彼らがインスパイアされてきた同レーベルの盟友Cult of LunaGojiraをベースとした比較的王道的な色のない無印エクストリーム/ポスト・メタルを展開しつつ、中にはKATATONIAヨナス・レンクスを迎えた曲もあった。決して地味というわけじゃないが、扱い的にはあくまでも序章ってのもあって、別段突出した何かがあるというわけでもなかった(感覚的には2010年リリースの2部作の前者『Heliocentric』に近い)。しかし本編に当たる今作は、その前作の漠然とした「つかみどころの無さ」を払拭するような、それこそ約13年前の傑作『Precambrian』に匹敵する新時代のエクストリーム・メタル王の座を襲名するかのような一枚となっている。

顕生代における中生代(Mesozoic)の幕開けを飾る#1“Triassic”は、約2億5217年前〜約2億130万年前までを指す「三畳紀」と呼ばれ、この頃から爬虫類や恐竜が出現して繁栄を遂げる。その曲調としては、それこそRiversideのマリウス・デューダくんのソロプロジェクト=Lunatic Soulを想起させる、現代プログレ〜ネオサイケ〜ポスト・プログレッシブラインに沿ったベースギターやパーカッションを駆使したオリエンタルかつエクスペリメンタルなプログレメタルで、中生代の後期にあたる鳥類が誕生し恐竜が繁栄する「ジュラ紀」と、花を咲かせる被子植物が出現する「白亜紀」を描き出す約13分を超える大作の#2“Jurassic | Cretaceous”は、イントロからプログレメタル然としたヘヴィなリフとドイツ人らしいクラシック音楽の素養を垣間見せ、そのイントロが明けると「三畳紀」のトライバルな流れを汲んだスティックやカウベル使いのドラミングから、二大暗黒メタルを代表するTOOLの名盤『Lateralus』とその名盤の影響下にあるOpethの名盤『Ghost Reveries』という世界三大プログレメタルのラスボスを召喚するグルーヴィに刻むリフ回し、中盤からは前作に引き続きヨナス・レンクスを迎えてKATATONIAのBサイド然としたミニマルなエレクトロパートに突入(まだヨナスがボーカリストとして勘違い、もとい自覚を持っていない頃の陰鬱ボイスなのが良い)(むしろまだこの歌い方できるんだなって感心してしまったw)、するとクライマックスでは「白亜紀末」に起きた地球規模の大絶滅をブルータルかつエクストリームに描き出すと、最後はメイナード・キーナンが憑依したような「例」のパンキッシュな歌唱からTOOLでもお馴染みのリフに収束していく、まさに46億年分の歴史が詰まった圧倒的なスケール感・・・!

なんだろう、この一曲の中にTOOLとその取り巻き、もとい10年代の現代プログレを一つにコレクティブさせたような、もはや20年代最高のプログレメタル絵巻と呼んでも過言じゃあない名曲で、改めて今のメタルシーンでTOOLOpethらのレジェンドと真っ向からタイマン張れる中堅バンドってこいつらしかいないって。そのレジェンドに対して玉砕覚悟で単騎突撃カチコミに行ってるカッコ良さったらないし、それこそ聴いてる途中で「ホーリーイェス!ホーリーイェス!」ってガッツポーズするくらいには、それこそプログレ界のレジェンド=TOOLへの回答を示すような新世代ポストメタルVS現代ポストメタの構図がアツ過ぎる。この時点で優勝。

「白亜紀末」の大絶滅により中生代が終わりを告げると、能年玲奈が超深海層で探し求めていた棘皮動物のウニをはじめとする哺乳類と鳥類が繁栄した新生代(Cenozoic)が幕を開ける。ゲストボーカルに過去作でもお馴染みのトーマス・リシュダールを迎えたハードコアの#3“Palaeocene”、いかにもポスト・プログレッシブ的なATMS系エレクトロインストの#5“Oligocene”、冒頭の咆哮は元よりバックのアレンジ的な面でも盟友Cult of Lunaのヨハネスが「ちょっと待って、これ俺やんw」てなるのが容易に想像できる#6“Miocene | Pliocene”、荘厳なストリングスとオルガンをフィーチャーしたバロック調のゴシックな前半から突如ブラストビートを駆使して「The OceanなりのBlackgaze」をやってのける#7“Pleistocene”、ここまでTOOLOpethに代表される暗黒プログレ勢を全て網羅しているのにも関わらず、「ちょっと待って、誰か忘れてね?」と気づいた矢先にエンディングを締め括る#8“Holocene”で、現代プログレを語る上で欠かせない最重要人物であるスティーヴン・ウィルソン率いるPorcupine Treeの中期の名盤『In Absentia』をオマージュするという、この「僕が考えた最強のプログレ」を俺たちのイェンス・ボグレンがミックスしている、そんな「誰かの夢」を実現させた涙なしには語れない名盤です。ちなみに、最後の#8はドラマー兼コンポーザーのポールが歌っている。

46億年前というまるで想像のつかないような先カンブリア時代から地層に「記憶」として刻み込まれた生命の歴史、そして大絶滅を経験してもなお生命を紡いできた生体の発展(Progress)と人類の進化の歴史を描き尽くしている。本作の舞台である顕生代は、先カンブリア記とは違い化石が大量に発見され、恐竜の繁栄が最も豊かだった時代だけあって、前章と比較してもより知的で、より生物的な「動き」と「色」に溢れた作風となっている。例えるなら、傑作『Pelagial』「深海大好きあまちゃんメタル」とすると、本作は「地層大好きブラタモリメタル」だ。

その名の通り海洋戦術に長けたThe Ocean Collectiveは、海の波動を自在に操り浜辺美波をはじめ様々な波の音=音波を発信することで、TOOLOpeth、そしてPorcupine TreeKATATONIAなどの現代プログレをコレクティブの一部として飲み込み、巨大な大波という名の轟音で盟友Cult of Lunaすら喰らい尽くす。というか、そのCoLは新作でキーボードが脱退して中期の王道ポストメタルに回帰したかと思えば、逆にライバルのThe Oceanがエレクトロなシンセやサンプラーを駆使したモダンな方向性に舵を切るという謎の談合感ある。確かに、初期の頃からMastodonConvergeらのハードコア勢からの影響を惜しみ隠さず取り入れてきたバンドで、その影響元が今作では現代プログレ界隈になったというだけで、それらの確かな影響と自前のポストメタルをベースメイクに柔軟性をもって対応する姿は、まるで照明の加減で色が七色に変化するクラゲのよう。それすなわち、日々進化し続けるポストメタルの可能性を大幅に広げるブレイクスルーならぬジャーマンスープレックスをブチかましている。そういった意味では、バンドの頭脳であるロビン・ステップスという男は「ポストメタル界のスティーヴン・ウィルソン」なのかもしれない。これはどうでもいい話だけど、Netflix『ダーク』の主人公の名前もヨナスで思った。もしかしてKATATONIAのヨナスってドイツ系?

Elder 『Omens』

Artist Elder
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Album 『Omens』
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Tracklist
01. Omens
02. In Procession
03. Halcyon
04. Embers
05. One Light Retreating

数日前の僕「PRR復活!!!!!」

今の僕「PRR復活!!!!!・・・え?『救世主』は二度復活する・・・だと?」

Elderって、2017年作の4thアルバム『Reflections Of A Floating World』をBandcampで買ったはいいけど、結局数回しか聴かなかった程度の印象しかなくて、そんな自分が奇跡の復活を遂げたネオ・プログレ界のレジェンドことPure Reason Revolutionの伝説の1stアルバムをフラッシュバックさせる、まるで彫刻家ミケランジェロのモーゼ像が朽ち果てたようなアートワークに目を惹かれて、約三年ぶりとなる5thアルバム『Omens』を聴いてみたら、実はコッチのがPRRの復活作なんじゃねぇかと錯覚するぐらい、それこそ2005年前後のネオ・プログレ経由のネオ・サイケとストーナー経由のヘヴィ・サイケが時を超えて運命的、いや必然的な出会いを果たしてて泣いた。

この手のドゥーム/ストーナー方面からプログレ方面に移行したバンドといえば、つい最近ではリトルロック出身のクマラーことPallbearerが真っ先に思い浮かぶ。しかしPallbearerの場合はプログレ化した弊害により本来の持ち味が消え失せてコレジャナイ感満載だったけど、このElderPallbearerと違ってプログレ化に大成功している。もちろん、これまでもプログレ的なバックグラウンドを持ち合わせていたけど、ここにきて遂にそれが本格化している。まずスウェーデンのAnekdotenを彷彿とさせるレトロなキーボードやメロトロンが織りなすスペースサイケな宇宙空間を演出したり、PRRの伝説の1stアルバムを彷彿とさせる電子音を駆使したモダンなアプローチだったり、それこそ2000年代のネオ・プログレッシブ的というか、それこそPRRの約10年ぶりの復活作から地続きで聴けるというか、例えるならPost-Progressiveという言葉が生まれずに、そのままネオ・プログレッシブが主流だった世界線のPRRみたいな、とにかくネオ・プログレ方面にゲージ全振りしてプログレ化計画が完了している。

まるで2005年前後の平穏な時代の世界線と2020年のポストコロナ時代の世界線が時空の歪みの影響により繋がってしまったような訳のわからなさ。今作において、その「訳のわからなさ」を象徴するのが3曲目の“Halcyon”で、この曲で聴ける内なる激情を秘めたポスト・エピックなリフレインは完全にSWソロ〜ana_themaライン、すなわち10年代のプログレを象徴するPost-Progressive路線に乗ってきている。その“Post-化”の極め付けとなる5曲目の“One Light Retreating”は、イントロのリフレインからしてPRRの正統後継者であるana_themaの金字塔とも呼べる2010年作の傑作『We're Here Because We're Here』の名曲“Thin Air”と繋がることで、00年代のネオ・プログレッシブから10年代のPost-Progressiveへと進化していった現代プログレの“歴史”を辿り、そして新時代=20年代のプログレを切り拓いていく事を堂々宣言する。なんだろう、PRRの復活と連動するように新世代のプログレとして君臨してしまった感がすごい。まるでプログレ界の“歴史”を追憶していくようなアルバムの流れは、まんまPRRが復活作の『Eupnea』でやった事と同じで、やっぱり世界線がバグってきてるとしか思えねぇわw

まず間違いなく言えるのは、これまでとは明らかにメロディの傾向が変わったこと。バンドの専売特許であるストーナー特有の“臭み”を消して、アート・ロック指数の高いミニマルでメロウなリフレインを中心に構築していくリリカルな展開美、10年代の西海岸系インスト/マスロックなどの新世代プログレ勢らと共振する、それこそ近作のIntronautを想起させるポスト・インストゥルメンタルのモダンなアプローチと、70年代を思わせる古典的なプログレ/サイケとしての側面とヘヴィロック的な側面が絶妙に均衡している。また、ケミカル臭のしないキレイメなサウンド・プロダクションも俄然その“Post-化”に貢献しており、同時にボーカルのポテンシャルもメイチの仕上げと言わんばかりのパフォーマンスで答えている。しかし、それ以上に“ソングライティング”の高さが全ての要素を飲み込んでる感じ。

もはやPallbearerと謎の逆転現象が起きてるというか、ここでふと思い出したけど、Pallbearerってドゥームメタル時代の初期ANATHEMAをリスペクトしているバンドでもあって、一方でElderは革新的な変化が起こった10年代のana_themaをリスペクトしているという点では、その世界線の違うana_THEMAの影響がそれぞれの作品にしっかりと反映されているのが面白い。そういった意味でも、Elderは完全に「プログレ知ってる人たち」なんですね。ひとえにプログレと言っても、そのオタ臭いイメージとは裏腹に音がめちゃくちゃエネルギッシュで、ここでも懐古主義的なクマラーとの違いを見せつけている。特にPost-化が最高潮に達する#5のアウトロとか、ここだけ聴いたら誰もElderとは思わないレベル。

正直、20年代は『悪夢』のメタル暗黒時代に突入すると予想してたら、2020年を迎えて半年も経たないうちに、この先10年分の名盤が駆け込み需要で押し寄せてきた感じ。PRRenvyのレジェンド達の復活作も最高傑作レベルに凄けりゃ、Oranssi PazuzuといいElderといい充実期を迎えたバンドが最高傑作を超えた歴史的名盤を連発してくるとか、マジで地球滅亡すんじゃねぇかと思うぐらいの駆け込み需要。結果的に、PRRをフラッシュバックさせたジャケからして名盤の予感しかしなかったけど、その予感は見事に的中した。何故なら、今作を聴き終えた後の第一声が「あ、これニュークリア・ブラストがアップし始めたわ」だったからw
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