Welcome To My ”俺の感性”

墓っ地・ざ・ろっく!

Deafheaven

MØL - Diorama

Artist MØL
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Album 『Diorama』
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Tracklist
01. Fraktur
03. Serf
05. Redacted
06. Itinerari
07. Tvesind
08. Diorama

UKを代表する気鋭のインディーズレーベル、Holy Loar Recordsの創始者であるアレックス・フィッツパトリックがやらかした結果、レーベルに所属する気鋭の才能を持つ数多くのバンドが路頭に迷う事となったわけなんだけど、このデンマーク出身の新世代メタルバンドであるMØLもHoly Loarを背負って立つ有望株だったのは確かで、しかし奇遇にも悲運に見舞われたこのタイミングで(代表が新レーベルのAtomic Fireを立ち上げた)業界最大手のNuclear Blastに引き抜かれたのは何の因果か。しかし、本作を聴き終えた今思えば、結果的に新作をリリースするタイミングで半ば不可抗力的に引き抜かれたのは彼らにとって非常に幸運であり好都合な出来事だったのかもしれない。

そんな、フィッツパトリックに見出され鳴り物入りでHoly Loar Recordsからリリースされた1stアルバムJORDから約3年ぶりとなる2ndアルバム『Diorama』は、ヘヴィミュージック界を代表する重鎮テッド・ジェンセンをエンジニアに迎え、その楽曲自体も元レーベルおよびフィッツパトリックの趣味嗜好であるAlcestDeafheavenの影響下にあるブラックゲイズ~ポストメタル、あるいは新世代メタル界のホープとしての“らしさ”を前作から正統に引き継ぎつつも、まるでフィッツパトリックから喧嘩を吹っかけられたBFMVの新譜BFMVに加勢するかの如し、それこそフィッツパトリックへの手向けとしてMØLなりの「ご愁傷様」のお気持ちが込められた、心機一転そんな著しく洗練されたメジャー感を打ち出したエクストリーミーなサウンド、そのワンランク上の強度の高さからは確かな正当進化を伺わせる。


『ジオラマ』を冠する本作の幕開けを飾る#1“Fraktur”からして、Alcest『Kodama』Esben and the Witchを連想させるUKオルタナ気質に溢れた幻想的なオープニングから、Deafheavenのジョージ・クラークリスペクトな金切り声を皮切りに、バンドの出自がホーリーシーもといホーリーロアーであることを裏付けるようなカチコミ不可避の超絶エピックな洗練されたメロディ、そしてアウトロの音響意識までもDFHVNの正統後継者を襲名すれば、DFHVN『シン・バミューダ』の影響下にあるブラストビート全開のブラゲを軸としつつイーサリアルなクリーンパートを織り込んだ#2“Photophobic”および#3“Serf”、皮肉にもレーベルメイトとなったDark Tranquillityのミカエル・スタンネもビックリの、ヒマワリ畑が目の前一面に広がる超絶エピックなリフレインを響かせる#4“Vestige”、DFHVN普通の堕落した人間の愛における“Worthless Animal”から一部引用した#5“Redacted”、さしずめ“サンフランシスコ・ネイティブ”ならぬ“スカンディナヴィア・ネイティブ”として覚醒した北欧ならではの叙情的なメロディセンスを垣間見せる#6“Itinerari”および#7“Tvesind”、そして女性ボーカルをフィーチャーしたドラマティックなポストロックを展開する表題曲の#8“Diorama”は本作のハイライトで、改めてDFHVNが今年リリースしたInfinite Graniteにおいて脱メタルしたこのタイミングで、その大きな穴を埋めるようにフォロワーのMØLDFHVN化の著しい作品を発表するという神展開。とにかく、前作比で著しく上下の奥行きと立体感を増した楽曲面での内的要因と不可抗力(ホーリーシー)による外的要因、その全てにおいてタイミングの良さとバンドの「運」も含め極めて高い完成度を誇る、そして「やっぱりニュークリアブラストがナンバーワン!」と唸ること請け合いの1枚。

デフヘヴン - 普通の堕落した人間の愛

Artist Deafheaven
deafheaven

Album Ordinary Corrupt Human Love
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Tracklist
1. You Without End
3. Canary Yellow
4. Near
5. Glint
7. Worthless Animal

人は心のなかに、いまだ存在していないいくつかの場をもっており、そこに苦しみが入ることでその場は存在するようになる----------レオン・ブロワ


『真実の愛』とは・・・それは多分、もしかすると、例えばこのクソサイテーな世界の片隅で、クソみたいな胸いっぱいの愛を叫ぶのが新生アイドル研究会のBiS(二期)なら、このクソサイコーな西海岸のド真ん中で普通の堕落した人間の愛を叫ぶバンドが彼らDeafheavenなのかもしれない。そんなDFHVNの約3年ぶりとなる4thアルバムOrdinary Corrupt Human Love、このタイトルはイギリスの小説家グレアム・グリーン『情事の終り(The End Of The Affair)』から引用したものでで、そのOrdinary Corrupt Human Loveすなわち普通堕落した人間とは、物語の主人公である作家モーリスベンドリックスと不倫関係にある人妻サラ・マイルズが自身の日記に書き残した言葉である(いわゆる「不倫」を少しカッコよく言ったのが普通の堕落した人間の愛というわけ)。この小説の内容としては、それは「禁断の愛」か?それとも「真実の愛」か?その狭間で神(キリスト)の存在すなわち神(あなた)への信仰心を問いかけ、そして「愛と神」の間で激しく揺れ動く人間の情念を赤裸々に暴き出す究極のラブ・ストーリーである。

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おいら、彼らの音楽を比喩する時に必ずと言っていいほど用意する画像がある。それが、日系三世のグレッグ・アラキ監督の映画『ミステリアス・スキン(謎めいた肌)』の冒頭、いわゆるBUKKAKEのメタファーを描写する衝撃のシーンだ。DFHVNは、いわゆる新世代メタルの金字塔と呼び声の高い歴史的名盤サンベイザーの中で、思春期真っ只中のティーンエイジャーが生まれて初めて精通する瞬間を刹那的に描き出したかと思えば、一転して次作の3rdアルバム『シン・バミューダ』では、「イカなきゃ」という使命感に駆られた汁男優の白濁色のラブシャワーをBUKKAKEられたAV女優の笑顔の裏側に潜むドス黒い闇、あるいはAV男優吉村卓に顔面ベロチュウされまくって引退した桃谷エリカの絶望感を、地平線のように果てしなく続く激情をもって描ききっていた。彼らは、いつだって自らの音楽の中に人間が犯した「罪と罰」、「祈りと赦し」を神に乞い続けてきた。

近年、自分の中でここ数年で最も衝撃的な出来事が、音楽界隈ではなく海外ドラマ界隈で起こった。それこそ、シーズン1が公開されるとまたたく間に世界中でブームを起こしたNetflixオリジナルドラマ『13の理由』のシーズン2の1話をちょうど見終えた時だった。普段からNetflixにあるドラマシリーズを嗜んでいる人には伝わるはずだけど、Netflixドラマ特有の最後のクレジットをすっ飛ばして次の話に移る自動スキップ機能が発動する前にほんの一瞬だけ映る一番最初のクレジットに、あのグレッグ・アラキ(Gregg Araki)の名前が出てきた。その瞬間、僕は「え、ちょっと待って、いまグレッグ・アラキ(GREGG ARAKI)って出なかった?え?」って、初めは幻覚なんじゃねぇかと自分の目を疑った。「絶対にありえないこと」が起こっていることに一瞬戸惑った。そのまま続けて2話も見た。2話のクレジットもグレッグ・アラキだった。僕は嬉しくて涙が出た。

林家ペー

何を隠そう、おいら、もう10年以上も前に映画『ミステリアス・スキン』を観て、まだ今ほどブレイクしていない精々子役上がりのジョセフ・ゴードン=レヴィットくんを初めて目にした時、その役柄といいアジア人体型に近い華奢な体つきに妙な親近感を感じて男ながらに一目惚れしたのと、しまいには「抱きたい」と思っちゃったんだからしょうがない(それぐらい衝撃的な出会いだった)。で、この映画での体を張った演技やラブコメ映画『500日のサマー』をキッカケに一気にハリウッドスターに駆け上がったジョセフくんと、映画『ドント・ブリーズ』『13の理由』の主演を務め一躍人気俳優の仲間入りを果たしたディラン・ミネットくんは似た者同士というか、役者としてかなり近いフィーリングを僕は感じ取っていた。だから尚さら、こうやってグレッグ・アラキ『13の理由』が十数年の時を経て繋がったのは、こんな引かれ合い見たことないってくらい驚きというか奇跡的な出来事で、というか、また今気づいたけどシーズン1から複数話監督してたみたいで俄然驚いた(自分の気づかなさに)。そもそも『13の理由』のテーマの一つであるLGBTQ.Q.に対する差別や性暴力みたいな事って、それこそグレッグ・アラキ『ミステリアス・スキン』の中で表現してたりするわけで。ちなみに、グレッグが監督したドラマシリーズで最も重要な1話と2話ともにグレッグ・アラキのゲイならではの”性的嗜好”が画に表れていて、個人的にこれはもう『ミステリアス・スキン』の地続きの続編としか観れなかった。そう考えたら、この出会いは奇跡でも何でもない、ただの必然だったように思う。しかし、映画『ミステリアス・スキン』の内容が内容だけに、今や売れっ子となったジョセフくんが円盤化NGにしてるんじゃねえかと疑ってて、もしそうならNetflixが責任を持って配信すべきでしょってずっと思ってたんだけど、ちょっと調べてみたら2017年に日本でも円盤化されたと知ってソッコーでポチったけど、何か質問ある?(ちなみに、円盤の特典はゴードンくんの生写真w)

(ここまでの文章は、2018年8月13日に書いた文を微編集したもの)

本作のアートワークに描かれた、風を切るように颯爽と情熱的にマフラーを靡かせるダンディなグラサン姿のパンク婆からして、何やらこれまでとは違う雰囲気を醸し出す。幕開けを飾る#1“You Without End”からして、彼らの地元であるサンフランシスコが位置する西海岸のビーチの浜辺に寄せては返す美しいさざ波(浜辺美波)のSEとともに、まるで官能小説の一幕にありがちな事後のピロートークのような、フェミニンでアンニュイ、ホモセクシャルでハラスメントな倦怠感むき出しのギター、そしてエルトン・ジョン顔負けのジャズ風のピアノが流れ出し、“あの頃”をフラッシュバックさせる女性の語り声(スポークン・ワード)が「過去」の記憶を呼び起こす。それはまるで、かつてのダチでありバンドメンバーだったニック・バセット率いるWhirrというルーツと原点回帰を示唆するような、まだプロではなくただ純粋に音楽が好きだった“あの頃”の親友ニックと共に「この指Demoマジにサイコー過ぎるだろwww俺たちピッチに見つかっちゃうかもなwwwチュパチュパwwwこの指ハッピーターンの粉の味して超ウメェwwwお前も舐めてみな、飛ぶぞwww」だなんだと、西海岸の浜辺でワチャワチャはしゃいでいた“あの頃”の淡い思い出が蘇る。

未来への希望に満ちていた青春時代、いつしか疎遠になってしまったニックと交わした言葉、それが最後の会話になるとも知らずに、And then the world will grow(ズッ友だよ~♪)And then the world will grow(ズッ友だよ~♪)と約束したひと夏の青春の記憶を運んでくるコーラスワークと共鳴するように、ズットモダヤ゛ォ゛ォ゛!!ズットモダヤ゛ォ゛ォ゛!!と青春の痛みを痛みで補うようにシャウトするフロントマンのジョージ・クラーク、そして思春期の黒歴史が走馬灯のようにフラッシュバックさせる、衝動的に胸を掻きむしりたくなるアキバ系ギタリスト=ケリー・マッコイが奏でるトレモロに呼応する、それは怒りか、それとも愛か、もはや体がねじ切れるんじゃねぇかくらいのスクリーム→イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛ヤ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!は、それはまるで西海岸の名所である砂漠地帯のデスバレー(死の谷)へと続く道、道路脇にパームツリーが立ち並ぶ灼熱のアスファルトが照らし出す蜃気楼の中で、亡霊のように浮かんでは消え、そしてまたおぼろげに浮かんでは消える、そんな燃え盛るようなむき出しの愛を込めたジョージ・クラークの叫びは、それこそ冒頭に書いた「人は心の隙間を苦痛で埋めることで、その存在証明を示す」というフランスの小説家レオン・ブロワの言葉を実践するように、苦しみや痛みを叫ぶことで心に空いた隙間を埋めていくかのごとし。

確かに、DFHVNの作品にはピアノをフィーチャーした楽曲がバンドの個性を際立たせる役割を担っており、そういった意味ではDFHVNを象徴する最たる楽器がピアノと言っても過言ではないほど、彼らにとってピアノは切っても切れない関係にあって、特に本作ではそのピアノが音出しの一発目からメインの旋律として機能させている所からも、あらゆる面で過去作と一線を画す作品である事を示唆している。というよりは、それこそ2ndアルバム『サンベイザー』の根幹部を担う“Dream House”からの“Irresistible”というピアノインストの世界線と現在を紡ぎ出す続編と解釈するのもアリかもしれない。また、この“You Without End”に至っては、他の楽曲と比較しても意図的にマイルドなサウンド・プロダクションに聴こえるというか、なんだろう、いい意味で普通のロックバンドじゃないけど、ある種のピアノ・ロック的な“エルトンメタル”あるいは“エルトンゲイズ”とでも呼称したいくらいには、ピアノを軸に構築された楽曲と言える。


デスバレーの熱波に頭がやられた影響か、二曲目の“Honeycomb”では先ほどまでの優美で甘味な音世界から一転、冒頭の不穏なSEから青春時代の淡い思い出がズタズタに切り裂かれ、エルム街の悪夢が襲いかかるようなBlackgaze然としたゲイズギターや思春期のトラウマをエグり出すようなトレモロが、激しい動悸とともに徐々に加速していくBPM(平常心)に合わせて狂気乱舞したかと思えば、4分30秒以降の「シュ~」とパンク婆が高速で風を切るような擬音を合図に、まるで気分は海外ドラマ『フルハウス』のOPとばかり、(地元愛に溢れたMVにも登場する)西海岸の名所であるゴールデン・ゲート・ブリッジを時速300キロで(道路脇から飛び抜けちゃう勢いで)リア充がウェーイ!と突っ走るような、まるで日本のメロコアや青春パンクばりに爽やかなギターソロが炸裂するロックンロールゲイズを繰り広げる(この時のドラムがクソ気持ちいい)。このタイミングでメタル界の格言であるアチエネはメロコアの正統後継者としてデフヘヴンはメロコアが爆誕するという神展開。

アメリカ屈指の経済都市としても知られるカリフォルニア州といえば、バークレー出身のグリーン・デイをはじめとする青春パンクやメロコア、90年代のパンクブームを象徴する通称“エピタフ系”と呼ばれるバンドが主流である。ある意味で「デフヘヴンはメロコア」と仮定するならば、このDFHVNもLAパンクの一種としてカテゴライズできなくもない。もちろん、彼らの地元サンフランシスコのバンドといえばメタル界のレジェンドであるメタリカが最も有名だが、そんな彼らに対するジモティー愛は既に前作の『シン・バミューダ』で示している通りだ。

実は、この『普通の堕落した人間の愛』って、サンフランシスコという“一つの州”の概念を超えた“一つの国”への地元愛や土着愛に満ち溢れたマイルドヤンキー系ブラックであると同時に、DFHVNのもう一つのルーツ=第二の故郷がアメリカ中西部にあることを示唆する作品でもある。そのアメリカ中西部といえば、90年代に独自のエモシーンを確立した土地として知られ、いわゆる「エモ」ではなく伝統的な「emo(イーモゥ)」の精神を受け継ぐ、American Footballに代表されるようなMidwest emoが盛んである。何を隠そう、本作は全編に渡ってメロディの湿度がMidwest emoを経由している気がしてならなくて、そのアメリカ中西部が生み出した本物のemo(イーモゥ)への憧憬が顕著に現れたのが三曲目の“Canary Yellow”である。この曲はemoやポスト・ハードコアをルーツとするポストメタルで、このクソサイテーなモノクロの世界に蜜蜂風味のキャンディポップのフルーティな香りとカラフルな彩りを施すメロディ、リズム隊が織りなすマスロックをイメージさせる徹底したグルーヴ、そしてクライマックスでのケリー・マッコイによるギタリストとしての遊び心を忘れないブルージーなソロワークから、“あの頃”の地元のマブダチと一緒に肩を組んで童話『かごめかごめ』のような円を作って、皆でOn and on and on we choke on(死ぬまで一生ズッ友だよ~♪)On and on and on we choke on(死ぬまで一生ズッ友だよ~♪)とシンガロングする輪の中心で『真実の愛』を叫ぶジョージ・クラーク→

ズットモダヤ゛ォ゛ォ゛!!ズットモダヤ゛ォ゛ォ゛!!

四曲目の“Near”は、Alcestとのコラボでも知られるスロウダイヴや一発屋と化したシガレッツ・アフター・セックスを連想させるスロウコア/ドリーム・ポップで、この曲では驚くべき事にジョージがバンド史上初となるクリーンボイスを披露している。このジョージのクリーンボイス導入は、2021年8月20日にリリースされる彼らの5thアルバム『Infinite Granite』への伏線となっている。


小説『情事の終り』の主人公モーリス・ベンドリックスとその愛人サラ、二人の間を引き裂くのは悪魔か、それとも神か。憎しみと妬みが欺瞞と疑惑を生み、互いの想いはすれ違い、そして神への信仰から食い違う愛の形に対面した二人の苦悩が儚く散りゆくイントロのメロディから、突如としてシングルの“From The Kettle Onto The Coil”のセルフオマージュの如く唸るようなゲイズギターが炸裂する#5“Glint”、複数の作家・小説家から引用した情緒的で官能的な本作品のロマン主義を象徴する#6“Night People”は、『普通の堕落した人間の愛』を求めて暗闇の世界を彷徨うサラの情熱的な想いと『真実の愛』に気づいたモーリスが悲哀の恋文あるいは激情的なロマンスを語り合うかのような二人の求愛行為、その二人を演じるようにしてレーベルメイトのSSWチェルシー・ウルフとジョージ(クリーンボイス)がデュエットするピアノバラードで、いわゆるコンセプト・アルバムとしての側面が色濃い作風だからこそ可能にした楽曲と言える。

ピアノをフィーチャーした#1“You Without End”から漂うそこはかとないジャズ・ロック的な伏線は、アルバムのラストを飾る#7“Worthless Animal”で見事に回収される事となる。#1における「いい意味で普通のロックバンド」たらしめている“普遍性”とその要因となるキーマンこそ、他ならぬ本作から新加入したベーシストのクリス・ジョンソンによるものだと確信できる。何故なら、以前までのDFHVNって極端な話だけどメタル界の格言である「ベースいらなくね」案件のサウンドで、しかし本作では一転して「ベースいるくね」のバンドに大変身を遂げている。特に#7ではジャズいアプローチをもってバンドに新しい風を運んでおり、そんな彼のブッリブリなベースラインとドラムのダニエル・トレイシーが織りなすリズム隊のプレイが、バンド史上最高のグルーヴ感とバチグソなタイト感を生み出している。気のせいか、BPM指数が体感的に歴代最低に感じるのも、同じBPMなのに彼のプレイによって俄然タイトなイメージに錯覚させるというか、なんだろう、「ロックバンドとしてのデフヘヴン」を司る上で欠かせない最後のピースがカチッとハマった感。そして、その「ロックバンドとしての普遍性」が今後の彼らにもたらすものとは?それこそメタルというジャンルを超越したモンスターロックバンドとしての、つまり“ポスト・メタリカ”としての座である(ごめん盛った)。そういった意味では、今の彼らは俄然フジロックじゃなくてサマソニで観たいバンドになった。

全ての物語に“始まり”があれば、それはいつか“終わり”を迎える。愛人サラの突然の死によって、悲劇的な幕切れを迎えた三角関係のその後。小説『情事の終り』の終盤に示される答えは、不倫という『普通の堕落した人間の愛』ではなく、妬みや憎悪を超えた先にある“隣人愛”だった。著者であるグレアム・グリーンは、キリスト教における“隣人愛”もまた、人間を肯定する正しい愛の形、あるいは性別を超えた人間愛であると。小説の終盤、いわゆる腐女子視点だとカップリングできちゃう主人公モーリス・ベンドリックスとサラの夫ヘンリー・マイルズの間に奇妙な友情が芽生え、サラの亡き後に恋敵であるはずの男二人で同棲生活を始めちゃうも、なんだかんだで最終的には神に全てを寝取られるという、これがホントの神展開w

「こいつらどんだけしたたかで頭いいんだ」と改めて感心するのは、小説『情事の終り』の終盤で提示されたサラと主人公ベンドリックスの『真実の愛』と見せかけた男同士の禁断の“隣人愛”と、本作『普通の堕落した人間の愛』における地元愛と見せかけた中西部(Midwest emo)に対する“隣人愛”を共振させている点で(これはゲイと揶揄されたDFHVNの隠語的なメタファーである)、つまり本作は地元愛と中西部への憧憬、この2つの州や地域を股にかけた青春時代の記憶(ノスタルジー)と自らのルーツ(DNA)を辿る音の旅であると。それこそ“音の旅”といえば、イギリスのアナセマも西海岸を舞台にした遺作を発表したが、本作もまたサンフランシスコ生まれのネイティブ仲間で地元を巡ってたら飛ばし過ぎて中西部にも寄り道しちゃった音の旅。寄り道したと言っても、#1の冒頭と#7のアウトロが同じ浜辺に寄せて返す美しい波(浜辺美波)SEを使っている事から、地元サンフランシスコで燃えるような大恋愛を経験したパンク婆が年月を経て地元に帰ると、まだ若かりし頃に「やっぱ地元サイコー!」とか言いながら仲間とビーチでサンバイザーを付けてウェーイ!してた思い出が蘇り、そして「過去」と「現在」が無限ループする輪廻転生的な考察や解釈の余地を持つ“シスコゲイズ”であると。

確かに、基本的なギターのフレーズや楽曲構成諸々に関しては過去作を踏襲している、言い換えれば“集大成”と呼んでも差し支えない内容で、その一方でクリーンボイスの導入やロックバンドとしての普遍的なアプローチなど、次作への布石が要所に散りばめられている。しかし本作は、音楽的な部分よりも諸々のコンセプトありきの作品であることは確かで、それこそ一冊の小説を読んでいるかのような純文学的な作風で、その小説『情事の終り』などから引用したコンセプティブな隣人愛と中西部のemo(イーモゥ)愛を共振させる『真実の愛』に気づいた当時は、正直これは凄すぎて書けないと途中で断念したくらいには、リアルタイムというか今でも思い入れのある作品の一つと断言してもいいくらいには当時めちゃくちゃ聴き込んでて、でも逆に思い入れが強くなり過ぎて当時は書ききれなかった代物。それくらい、ここまでたどり着いてようやく正当な評価を下せる作品だと、2018年のリリース当時から約3年経ってようやく書けた今だからこそ改めて思う。しかし今となっては、当時まだ存命していたBiS二期が解散し、映画『君の名前で僕を呼んで』のルカ・グァダニーノが手がけた新作ドラマ『僕らのままで/WE ARE WHO WE ARE』が制作される始末...(時の流れ怖い)。ちなみに、当時(2018年)に書き残していた冒頭文の微編集した箇所は時系列のタイムパラドックス修正がほとんど。

事実、来月に本作から約3年ぶりの新作となる5thアルバム『Infinite Granite』のリリースが予定されている状況の中、本作について書けるラストチャンスが今このタイミングだった。というより、上半期のBandcamp界隈でバズったParannoul『To See the Next Part of the Dream』に触発されたのが一番大きくて、何故ならその作品におけるemo(イーモゥ)とシューゲイザーの邂逅的な音楽性って、まさにDFHVNが数年前にやった事でもあったから。ちなみに、そのParannoulの新譜と本作『普通の堕落した人間の愛』は、奇しくもトータルタイムが1時間1分と全く同じなのも偶然にしては面白いなって。

逆に、観客が10人くらいしかいなかった「伝説の名古屋公演」をほぼ最前で観ている自分が書かなきゃ誰が書くねん的な謎の使命感と、あとは単純に自らのモチベを奮い立たせるために「デッへのレビュー書けたら可愛い女の子と3Pできる!デッへのレビュー書けたら可愛い女の子と3Pできる!絶対に3Pできる!」と自分をだまくらかした結果、なんだかんだ当時のiPadにメモっといた膨大な短文(黒歴史)を引っ張り出して、それをいつもどおりパズルのように組み立てたら、恐らく当時もこのような事が書きたかったんだろうな~的な感じのレビューが書けたと思うので・・・今から僕と3Pしてくれる可愛い読者の女の子募集します!某選手村に対抗して選手ムラムラ3P堕落プレイがしたいです!僕の目の前に『NHKにようこそ!』における岬ちゃん現れてください!もし3Pしてくれたら当時海外マーチから取り寄せた『サンベイザー』5周年記念ピンクTシャツをプレゼントします!(←林家ペー・パー子かよw)というか、むしろそれを女の子に着てもらって3Pしたいです!よろしくお願いします!3Pーー!!3Pーーー!!3Pーーーー!!

アマゾンプライムで映画『サウンド・オブ・メタル 〜聞こえるということ〜』を観た

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アマゾンプライムビデオで配信中のリズ・アーメッド主演の映画『サウンド・オブ・メタル 〜聞こえるということ〜』を5回観ての感想をば。

初期のCode Orangeを彷彿とさせる、グランジ風のアンダーグラウンド・メタル/ハードコアバンド=BLACKGAMMON(ブラックギャモン)のドラマーであるルーベン(リズ・アーメッド)と、その恋人でありバンドのギター兼ボーカルを担当しているルー(愛称ルイーズ)(オリヴィア・クック)は、自前のトレーラーハウスを運転しながら各地のライブハウスをどさ回りするバンドマンだ。そんなある日、ドラマーであるルーベンが徐々に聴力を失う難聴を患うも、教会が支援するとある治療施設の聴覚障害者のコミュニティに歓迎され、そこでルーベンは様々な大人や子供と出会う。初めは馴染めずにいたルーベンは、手話を身につけると徐々に他の盲ろう者とも打ち解けていく。しかし、一方でバンドマンとしての夢を諦めきれない自分と現実の狭間で葛藤しながら、将来の人生について大きな選択を迫られる一人のバンドマンをめぐる物語。

恋人であるルーとは、いわゆる普通の恋人関係というよりは、先の見えない不安という心の隙間を埋め合うように、何かしらの依存症を持つ者同士お互いに依存し合う関係性だ。このような依存関係って現実世界でも別に珍しくもなくて、今回の例とは少し勝手が違うけど、例えるなら売れないバンドマンとそれに貢ぐメンヘラ女はその最たる例の一つだ。何を隠そう、この映画はその「依存症」が一つのキーワードとなっていて、ルーベンはルーと出会う4年前までヘロイン中毒者だった過去を持ち、片や恋人のルーはルーで左腕に年季の入ったリストカットの傷跡が夥しくあり、今もリスカの後遺症なのか腕を指で引っ掻くクセがある。そんな自傷行為という名の依存症を患っている二人の男女が織りなす映画で、ルーベンとルイーズ(呼び名はルー)で少し名前が被ってるのも、依存症を持つ者同士依存し合う同類であるという一種のメタファーなのかもしれない。

コミュニティの長であるジョーが入所前のルーベンに放った言葉「耳を治すのではなく心を治す」。これこそが本作における最大のパンチラインで、簡単に言えば「人生の不幸」とは耳が聞こえないことではなく、「心の平穏」が存在しないことであるという教え。ルーベンはコミュニティで老若男女の様々なろう者と交流を深めていく中で、人生における「真の幸福」に気づきかけてきた矢先、未だ彼の中に眠るバンドマンとしての想いがそれに抗う。

映画の中盤を構成する聴覚障害者施設パートは、序盤のライブハウス内の爆音とは真逆のBGMらしいBGMがほとんどない(そこにあるのは虫や小鳥のさえずりなどの環境音楽=アンビエント音楽だけ)、つまりメタル/ハードコアという音楽ジャンルで最も耳の環境に悪いラウドな環境から、一転して盲ろう者だけの静かな自然に取り囲まれた真逆の環境に身を置く事となる。ここで、「なぜ本作の主役がメタルバンドのドラマーなのか?」という皆が気になっているであろう疑問の答えを想像するに、恐らく対象が「無音」あるいは「環境音」から最も遠い存在だから説w いや、笑い話でもなんでもなくて、映画の演出的な部分でもライブハウスでの粗暴な怒りに満ち溢れた感情的な爆音と、人里離れた緑豊かな森林に囲まれたコミュニティで流れる無音あるいは環境音、そのギャップを効かせた「音響」の演出は監督が意図したものだと思う。だから別に監督がメタルに対して悪いイメージや偏見があるわけではないと思う(謎のフォロー)。

さっきまでの環境音パートが嘘のように、それこそ「嵐の前の静けさ」とばかりに、不穏な未来を暗示するかのような「ゴゴゴゴ」という轟音を放つ黒い雨雲から場面は終盤へと切り替わり、そして恐怖のノイズ地獄が幕を開ける。ルーベンは決意し、自前のトレーラーハウスと音楽機材を全て売り払い、高額な手術でインプラントを埋め込んで聴力を取り戻すも、所詮は「脳を錯覚させて聞こえるようにしている」だけの代物で、やはり「失われた聴力は二度と元に戻らない」と言われているように、彼の耳は完全な状態には戻らなかった。

それ以降のシーンはホラー映画にも似た恐怖を覚えた。その後、ルーベンはフランスの実家に帰っているルーに再会すべくフランスへと渡る。彼女と再会すると、そこには眉毛を銀色に染め上げ、ステージ上で「ホールこそ私のゴールなの そこにいて欲しい 暴いて欲しい 意外とウブなあんた あたしが食べてあげる」というような謎の歌詞を怒りと共に咆哮していたバンドマンとしてのルーの面影はなく、欧米人らしく賑やかなパーティに参加する一般的な普通のフランス人女性としての日々を過ごしていた。そんな別人となったルーを一眼見ると、ルーベンは真っ先に彼女の左腕に引っ掻き傷の跡がないことに気づく。パーティではフランス映画界のレジェンド=マチュー・アマルリック演じるルーの父親のピアノの伴奏に合わせて、娘のルーがライブハウスで放ってい自殺的で暴力的で悲劇的な咆哮とは真逆の美しい歌声を母語であるフランス語で披露する。このシーンは本作最高の名ホラーシーンでもある。

パーティが終わり、それこそ二人してトレーラーハウス内のベッドで寝ていた時と同じように、ルーの部屋のヘッドで恋人同士らしくイチャイチャムードに発展するや否や、またしてもルーベンはルーが再び左腕を引っ掻くクセ=依存症が再発したことに気づく(このベッドシーンでルーが水を飲む場面は、序盤の演奏シーンの歌詞の伏線回収でもある)。そこでようやくルーベンは、極度の不安やストレスから発作のように引き起こされる腕を引っ掻くクセ=依存症の原因は自分にあると理解する。4年前にルーと出会ってドラッグ依存から抜け出せたルーベンとは違い、ルーはルーベンがいることで依存症がぶり返す精神的不安の状態、それを誘発するトリガー的な存在でしかない哀しい現実を知ってしまう。ルーベンとルー(ルイーズ)、皮肉にも互いに助け合い依存しあってきた恋人同士の二人が別れて初めて依存症からの真の解放を得る事となる。

このベッドシーンは、精神的にも経済的にも不安定で継続的なストレス状態に晒されていたバンド時代からの解放を示唆し、バンド時代とは真逆のフランスの実家という安定した環境がルーの精神に安堵感を与え、バンド時代には得られなかった「心の平穏」を取り戻した場面。翌朝、全てを察したルーベンは別れの挨拶もなしにルーの実家を抜け出し、あてもなくフランスの街を彷徨い、しばらくしてからフランスの平凡な日常と街並みが見渡せるベンチに腰掛ける。しかし、今のルーベンの耳には、街にこだまする人々の日常会話も、教会の荘厳な鐘の音も、親子の美しい歌声も、自然が奏でる環境音すらも全てがノイズ=騒音にしか聞こえない恐怖。ルーベンは何を思ったのか、その場でインプラントを取り外して完全なる「無音」状態に身を置く。この「完全なる無音」という「真の静寂」に彼は何を感じ、そして何を聞いたのだろうか?それは彼だけにしかわからない事なのかもしれない。しかし、彼はその瞬間に初めて「耳を治すのではなく、心を治す」と言ったジョーの言葉を理解したに違いない。そう、今まさに自分が置かれている「無」の状況こそジョーの言った「心の平穏」であると。

なんだろう、例えるなら仏教における「諸行無常の響きあり」じゃないけど、彼の耳には教会の大きな鐘の音も聞こえない「無音」のはずなのに、今の彼は「心の平穏」の中でしっかりと鐘の音が響き渡っているに違いないと。ルーベンにとって「無音」こそが「心の平穏」だと気づくこのラストシーンは見事としか言いようがない。美しい、ただただ美しい「無音」。それこそ日本の禅の精神じゃないけど、それに限りなく近い「無(音)」にあることが人間の真理であり幸福であるという教え。これ何が凄いって、最終的に神の存在を問うレベルの領域に物語が収束していく事で、デフォで歌詞に「Anti Christ」入ってるような(ただの偏見)、バックグラウンドや思想としてアンチ・クライストあるいは無神論者および無宗教である“メタラー”のルーベンがたどり着いた「真の幸福」、その答えが仏教的なオチだったのはちょっとというか相当な皮肉。でもそれが、それこそが、この映画の主人公になぜ“メタラー”が選ばれたのか?その本当の理由なんだって。この映画、いろいろな意味でメタラーじゃなきゃ成立しない映画なんですね。

本作は「対比」が一つのメタ的な演出として、また音楽的な構成を築き上げている。まず序盤はライブハウスで怒りの感情に満ち溢れたメタル/ハードコア、中盤は自然に囲まれた環境音楽=アンビエント、終盤のインプラント手術以降はノイズ、そしてラストシーンは「無音」という、音楽的なメタ構成も意図的に狙ってやってるんじゃないかと思うぐらい、各パートを司る「音の変化」もルーベンの感情の変化と共鳴している。

この映画、ありがちな「耳を大事にしよう」みたいな啓発映画なんかじゃなくて、もちろん健常者に対する「耳を大事に」的な啓発目的もなくないだろうけど、むしろ聴覚障害者の視点から盲ろう者側から見える世界、ろう者側の理念であったり、ろう者の幸福についてだったり、耳が聞こえる聞こえないの話じゃなくて、身体的なハンデよりも心の問題などの内面的な部分を描いている。

人間、誰しもが何かに「依存」して生きている。それは耳が聞こえる人間にも、耳が聞こえない人間にも等しく平等に存在する。障害を扱っている映画だから健常者の自分には関係ない他人事の話なんかじゃ決してなくて、耳が聞こえる健常者にも、耳が聞こえない盲ろう者にも共感する部分がそれぞれ平等にある、そんな真のバリアフリー映画だと思った。このように障害を擬似体験させる似たような映画だと、最近では視覚障害を扱ったNetflixの『バードボックス』を思い出した。哲学的?なオチもそれっぽいっちゃそれっぽいし。

ルーベンが日本の伝説的ハードコアバンド=GISMのTシャツを着ている場面を筆頭に、数あるメタル雑誌の中から選ばれたのがエクストリーム系のDECIBEL MAGAZINEってのが地味にわかってる感凄いし、トレーラーハウスの内装に貼り付けてあるフライヤーにPINKU JISATSU(ピンク自殺)やVIOLENT PACHINKOという架空のヴィジュアル系バンドの名前が載ってる、と思ったらその2組のバンドは本当に実在する(前者は)スペインのヴィジュアル系らしくて(ちなみにルーの母親の死因は自殺)、とにかく雑誌の表紙やインタビューページの切り抜きを含めて、メタル/ヴィジュアル系/ハードコアに関するプロップ(小道具)や資料関係がメタラー視点から見ても相当コアでマニアックな映画である事がわかる。

後半、舞台がフランスに移るってのもあるし、フランス映画界のレジェンド俳優や実際に盲ろう者の役者を起用している点、そしてドキュメンタリータッチというわけではないけど、いわゆるハリウッド映画のそれとは違うカメラワークもフランス映画というか欧州映画の匂いが強い。監督は映画『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ』の脚本を担当したダリウス・マーダーとのことで(そういえばこの映画のゴズリングはメタリカTシャツ着てた気がする)(むしろ監督メタラー説)、(このご時世な事もあって全然観てないけど)今年の年間BEST映画1位間違いなしの一本だし、メタラーでもメタラーじゃなくても全てのミュージシャンに勧めたい映画でもあるし、同時に映画監督は元より音響監督こそ見るべき音響映画でもあり、それこそ某佐村河内もアニメ『聲の形』のヒロインこそ観るべき、いやもう全人類が観るべき映画です。初めて「アマゾンスタジオすげぇ・・・」ってなったくらいには名作なんで。確かに、聴力も元に戻らなければ、バンドマンとしての未来も閉ざされちゃったから絶望っちゃ絶望だけど、ルーベンは最後の最後で「心の平穏」を見つけ出せたから普通にハッピーエンドだと思う。

改めて、耳を大事にしようという至極当たり前なことでもあっても、いざライブでテンション上がっちゃうと自分の耳の健康を蔑ろにしがちだから自戒の意味を込めて、この状況下でライブに足を運べない時だからこそ、いま一度再確認すべきタイミングなんじゃないかって。ルーベンと一緒に、この映画のラストシーンのエンドロールで初めてジョーの言葉、その重みを痛感すること請け合い。

しかし、主演のリズはジェイク・ギレンホール主演の映画『ナイトクローラー』で初めて知って、HBOドラマ『ナイト・オブ・キリング』でも難しい役柄を演じていたけど、今回も手話やドラムの練習を積んで役に挑んでいて、改めて良い役者だなぁと再認。でもそれ以上に『レディ・プレイヤー1』のオリヴィア・クックの方が「モデルはコード・オレンジのレバ・マイヤーズさんですか?」とツッコミ不可避の役作りがハンパない。流石にあの眉毛はやりすぎだけどw

難聴のリスクはステージに立つミュージシャンだけの問題ではなく、ライブハウスに足を運ぶリスナー側の問題でもある。よくロックやメタルのライブに行く人なら経験あると思う。ライブ終演後に「ピー」という耳鳴りがする経験が。というのも、これを書いている僕自身、Deafheavenの観客が10人くらいしかいなかったいわゆる「伝説の名古屋公演」の際に、人がいないから必然的にスピーカーの前で観る事になって、しかも耳栓を着用してなかったからそのライブ後は二週間ぐらい耳鳴りが治らなかった経験者だ。そういうリアルにヤバい状況に陥った人間がこの映画を観ると正直「シャレにならない、もう笑えない」、そんな話なんですね。幸い、というか運よく耳鳴りの症状は完治したんだけど、ヘタしたらそのまま難聴コースになって映画のルーベンと同じ道を進む可能性があったと想像しただけで恐怖しかない。もちろん、そのDeafhevanの伝説の名古屋公演以降(2回目の来日公演も含む)は必ずライブ用耳栓を着用してライブに行くようにしてます(でも去年のBMTHのライブではテンション上がってしなかった)(←こういうのがダメ)。


そんなDeafheavenの10周年デビューを記念するスタジオライブアルバム『10 Years Gone』は、メンバーは元よりスピーカーからエグいぐらいのギターノイズを(ルーベンもドン引きするぐらい)超至近距離から鼓膜ダイレクトで浴び続けた伝説の名古屋公演の軽いトラウマとともに、今やメタルシーンを代表するバンドにまで成り上がったバンドへの感慨深い想いがふつふつと浮かび上がる。相変わらずバチグソ丁寧な演奏してんなって思うし、何よりも選曲が最高過ぎる。まず一曲目が個人的に5本指に入るぐらい好きな曲であるシングル曲の“From the Kettle Onto the Coil”とか「こいつらわかってんな感」しかないし、いわゆる「指DEMO」時代の“Daedalus”も貴重過ぎるし、1stアルバムからは“Language Games”、3rdアルバムからはキザミとケリー・マッコイの慟哭のギターが映える“Baby Blue”、ラストはDeafheavenを司る2ndアルバムからバンド史上最高の名曲“Dream House”という、全8曲なのにどれもバンドを語る上で欠かせないし外せない完璧な選曲となっている。そんな最高のライブアルバムを聴いていると、久々にライブが観たくなってくるのはメタラーの性。

話を戻して、映画の中でジョーはルーベンに「書くこと」を勧める。アルコール依存症であるジョーは「書くこと」で「心の平穏」を取り戻していると。そのシーンでふと思った、自分にとっての「心の平穏」もジョーと同じ「書くこと」なのかもしれないと。今まさにこうやって音楽を聴きながら何かについて「書くこと」こそ「心の平穏」、あるいはそれに限りなく近い「無(音)」状態に繋がっているんじゃないかって。

Baroness 『Gold & Grey』

Artist Baroness
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Album 『Gold & Grey』
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Tracklist
02. I'm Already Gone
04. Sevens
06. Anchor's Lament
07. Throw Me An Anchor
09. Blankets Of Ash
10. Emmet - Radiating Light
12. Crooked Mile
14. Can Oscura
16. Assault On East Falls
17. Pale Sun

デブニャンもといバロニャンの愛称で知られるBaronessといえば、その楽曲よりも注目されがちなのが各アルバムそれぞれにポケモン方式で色分けされた、フロントマン=ジョン・ベイズリー作の芸術的なアートワークだ。まず記念すべき赤色を冠した2007年作の1stアルバムRed Albumでは、IsisPelicanに代表される00年代のヘヴィ・ミュージックのトレンドの一つであるポストメタル・ムーブメントにあやかったような作風で、いわゆるハードコアの枠組みで語られるようなアンダーグラウンド・メタル期待の新星として、メタル/ハードコアの双方からアツい熱視線を浴びると、続いて青色を冠した2009年作の2ndアルバムBlue Recordでは、一転してMastodonHigh on Fireに代表されるUS新世代メタルの領域に足を  踏み入れる。時は流れ10年代に突入し、今度は黄色緑色のリアルポケモン方式を採用した3rdアルバムYellow & Greenを発表すると、これまでは「ダメよーダメダメ」とジラシにジラシまくって批判を浴びていた禁断の聖域が遂に解禁・・・それこそ全世界待望となる“チクビ解禁”、このマンを辞しての“チクビ解禁”により、バロニャンの北欧の親戚であるオペニャンことOpeth大好きなクラシックなサイケデリック/プログレッシブ・ロックへのアプローチを強めると、次作の紫色を冠した4thアルバムPurpleからはもうショックミーーーーーーーー!!ならぬチックビーーーーーーーー!!とばかり惜しげもなく綺麗な乳首を晒していく、“名乳”もとい“名実”ともにお子ちゃま厳禁=R18のアダルトな音楽性へと進化を遂げる。

このようにして、バロニャンはポストメタル/ヘヴィロックから新世代メタルへと、まさにヘヴィ・ミュージック・シーンの移り変わりと00年代前半のIsisから00年代後半のMastodonの世代交代を追体験させるような、それこそ“時代”を象徴するようなバンドでありながら、作品ごとに音と乳首の色をカメレオンのごとく変幻自在に変化させ、デビュー当時からシーンの流行(トレンド)を審美し、常日頃から“オルタナティブ”な知性と貪欲な探究心ならぬ好奇心をもって、その類稀なる咀嚼力の高さを証明し続けてきた彼らが、次なる寄生先もとい次なる時代の“トレンド”として狙いを定めたのが、10年代の新世代メタルを象徴する“デッヘ”ことDeafheavenの存在だった。

「伝説 is Back...」

そんな、同じ“色(鎌)使い”チルボドが一方的に対抗意識を燃やしている(らしい)バロニャンはこの度、新メンバーとしてサイド刈り上げ系女性ギタリストのジーナ・グリーソンを迎え入れ、色の種類で最上級に位置する金色からの銀色と見せかけた灰色を冠する5thアルバムGold & Greyを約4年ぶりに発表した。まず、そのアルバムから一足先に先行公開された2ndシングルの“Seasons”を聴いた瞬間→「ダメだダメだダメだ、これダメだ、天才だこれ」って軽く引いたもんね。この曲の何が凄いって、まずリバーブがかった仄暗いATMSフィールドを張り巡らせる音響的な空間描写に長けたアンビエント・パートとオルタナ・ギターをチロチロジャカジャカと靡かせる、これまでのバロニャンのイメージを覆す音使いに驚愕するのもつかの間、何よりもド肝をぬかれたのが“ポストブラック界の伝説”ことAltar of Plaguesの歴史的名盤『Teethed Glory & Injury』をルーツとするギターの音像とプロダクションを経由したポスト・メタリックでソリッドかつノイジーなオルタナティブ・ヘヴィネス、そしてブラストビートからのDeafheavenAlcestに代表されるBlackgaze直系のノイジーなビッグバンが炸裂するクライマックスまで、なんかもう尋常じゃないくらいカッコヨ過ぎて泣いたのと、結論から言ってしまえば「完全に“伝説”の再来だこれ・・・」ってこと。


まず金玉アルバムを再生すると、幕開けを飾る#1“Front Toward Enemy”から“伝説”を経由したシングルの“Seasons”を経由した“ガー”“ガー”でもメシュガーが鳴らす“ガー”とは一線をがす“ガー”のオルタナ精神を宿した“伝説リフ”を中心に“オルタナティブ・スラッジ化したMastodon”をやってのけ、かと思えば一転してUlver『ユリウス・カエサルの暗殺』オマージュとばかりにアンニュイなアレンジを効かせた、それこそ(そのアルバムにも深く関わっている)キリング・ジョークキュアーをはじめとする往年のUKオルタナやシューゲイザー特有の音響意識を伴いながらメロゥなムードに誘う#2“I'm Already Gone”を筆頭に、まずアルバムを一聴して耳を捉えるのは、先述したとおりUKオルタナやシューゲイザー特有の空気感および空間表現に対する意識の高さだ。前作に引き続き今作のプロデューサーであるマーキュリー・レヴデイヴ・フリッドマンとの相互理解が2作目にして開花した結果、彼が手がけたモグワイMGMTをはじめ復活した日本のナンバガ(≠ZAZEN BOYS)ART-SCHOOL、それらの影響下にあるtricotばりにギタージャギジャギベースバキバキベギベギな、まさに「This is Alterna」な音像と音作りから成るポスト-ノイズを展開し、そして今作におけるその“オルタナティブ”な意図と目的を精密に再現するのがグレッグ・カルビによるマスタリングで、そのグレッグ・カルビといえばデッヘ界隈のNothingやピッチ界隈のThe War On Drugs、そして日本の岡田拓郎くんの作品でもお馴染みの世界的なエンジニアで、その“残響ノイズ”を意識した“オルタナティブ”なサウンド・プロダクションの伏線までも綺麗に回収しててもう完璧。ここでもしっかりと全てが“繋”がってるんだよね。


その音作りやプロダクションまで基本的には“オルタナ”をベースにしている一方で、SSWのGrouper坂本龍一、そしてスティーヴン・ウィルソン擁するNo-Manもビックリの音響意識の高いアンビエント・ポップあるいはアート・ポップ的なインストの#4“Sevens”や#8“I'd Do Anything”を聴いて思ったのは、奇しくもGrouperも新譜の『Grid Of Points』で“こっち側”に来たことを踏まえて考えると、今のバロニャンにとってこれほどまでに“シックリ”くるインストはないし、この瞬間にもうバロニャンが“そっち側”=“ピッチ側”に行ったことを示唆している。つまり、今作をわかりやすく一言で言ってしまえば“ピッチフォーク大好き”で、その“ピッチフォーク大好き”感を象徴する最大の曲と言っていい#5“Tourniquet”は、それこそバロニャンのルーツでありアイデンティティでもあるストーナー流れのメロディ=バロディをオルタナ化してリバーブを施したような、西海岸ルーツのDeafheaven直系のノスタルジーに誘うような黄金色に光り輝くメロディと“伝説リフ”がクロスした、それこそ“伝説”“伝説”の運命が交差したような、全く新しいバロニャン=シン・バロニャンを予感させる今世紀最大の轟音ポストメタルで、その#5のアウトロからピアノとストリングスが奏でるインストの#6“Anchor's Lament”へと繋がるアルバム構成とかまんまデッヘ『サンベイザー』“Dream House”“Irresistible”のオマージュ、あるいはデッヘもリスペクトするモグワイのオマージュだし、はっきり言って“デッヘ愛”というよりも“ピッチ愛”に溢れすぎている、これはもう“バロニャンなりのサンベイザー”と呼んじゃっていいかもしれない。

文字通り“ポストブラック界の伝説”ことAltar of Plaguesが2013年に残した遺作『Teethed Glory & Injury』は、これまでのポスト・ブラックメタル界の常識を覆すような、一方で“ポスト・ブラック”ד漆黒のキザミ”という前代未聞の邂逅を実現させた名盤で、そのインダストリアル×ノイズとブラック・メタルならではの“アンチ・クライスト”な“悪魔崇拝”×カルト宗教団体顔負けの狂気性を配合させた禁断のエクスペリメンタル・ブラック、それは例えるなら“オルタナティブ・スラッジ”あるいは“オルタナティブ・ブラック”とでも称するべきか、兎に角これまでのヘヴィ・ミュージックの常識を覆すような音像(プロダクション)は、奇しくも同年に発表されたポスト・ブラックの金字塔となるデッヘの『サンベイザー』と対をなす、ラース・フォントリアー映画ばりにヤバイ世界観と漆黒の邪悪ネスを身にまとった“地獄王ペイモン”を司る象徴(シンボル)であり、今作のバロニャンはそのデッヘサンベイザー』Altar of Plagues『Teethed Glory & Injury』というポストブラック界の光と闇、あるいは表と裏の二大名盤を飲み込んだ、もはや禁忌などというレベルじゃない神と悪魔が同居するアンタッチャブルな領域に足を踏み入れていて、もうこの時点でいかにこのアルバムが“ヤバイ”のかが分かるし、いやいやいや、もうなんだこの才能・・・やっぱわけわかんねぇ。なんだろう、ザックリ例えるならポスト・ブラック・メタルの音作りでフー・ファイターズやってる感じという訳のわからなさがもう天才としか。なんだろう、バロニャン史上初めて楽曲がアートワークのインパクトを超えてきた感。だからデッヘは元より、“伝説”の名前がない批評やピッチフォークは信用しない方がいいです。これ、“伝説”の存在を通して初めてその“ヤバさ”が理解できるアルバムだし、逆に“伝説”の存在なしにこのアルバム語る事の方が難しいと思う。

今作は同じ2色アルバムのバロモンイエロー&グリーンみたいに曲タイトルで色分けされておらず、ゴールドグレーの間には明確な境界線はないけど、ブックレットの折り返しから考察するに9曲目に当たるインストの“Blankets Of Ash”ゴールドグレーのちょうど中間に位置する曲だから、イエロー&グリーンと同じ9曲目から10曲目が一つの色の区切りとして考えていいと思う。で、「そういえば新メンにジーナ加入したんだったわw」とスッとぼけながら、北欧の親戚であるオペニャンあるいはテキサスのTrue Widowばりにメロゥでアコギな男女デュエットソングを披露する#10“Emmet - Radiating Light”、それこそイエロー&グリーンを彷彿とさせるヴィンテージかつフォーキッシュな香り漂う#11“Cold Blooded Angels”と、立て続けにグレー”=“灰色の世界に相応しい幕開けで始まる。このように、特定の“色”“音”で判断できるのはポケモン方式を採用しているバロニャンならではだよね。

神々しいくらいにド派手な色気のある作風だったゴールドに対して、後半のグレーは色のイメージどおりシットリ系の“いつものバロニャン”かと思いきや、今回のバロニャンは想定を超えてくる猫だった。それこそ「オメーは事実上解散したきのこ帝国あるいは初期の某Red Parkはたまた残響レコード出身者かよw」みたいなギターをガッガッガッってするあのやつ〜オルタナ系のバンドが必ずやるルーティーンみたいな弦をガッガッガッって鳴らすあのやつ〜でお馴染みのギターインストの#12“Crooked Mile”を聴けば分かるように、極端な話、今作はいわゆる日本の“残響系”に精通するほど、細部にまで徹底してこだわり抜かれた“オルタナ愛”に満ち溢れた作品である。

そしてグレーのハイライトを飾る#13“Broken Halo”と1stシングルの#15“Borderlines”は、過去すべての色の乳首をしたー・に回帰するような、それこそ旧世代メタルのMastodon大好きな王道プログレ・メタルを繰り広げ、オルタナだなんだ言ったところで結局は初恋の相手が忘れられない女々しい男のように、フロントマン=ジョン・ベイズリーの頭の中はで一杯おっぱい。しかしがいなきゃ今のバロニャンは存在しえなかったのも事実で、しかしバロニャンが評価される所以ってありがちなフォロワーに陥らない確かな審美眼と“したたかさ”の持ち主であることだ。まずデビュー作ではシーンのトレンドであるポスト・メタルに乗っかると、続く2ndアルバムのブルーで目をつけたのが当時の“新世代メタル”の象徴としていたMastodonの存在だった。ここで改めて、このアルバムの何が凄いって、そのデビュー当時のトレンドだったポスト・メタル〜(旧)新世代メタルから(現)新世代メタルを象徴するDeafheaven=ポスト・ブラックへの寄生変遷、まさにヘヴィ・ロックシーンの移り変わりを音で体現し続けてきたバンドならではの“時代”が記録された、ゴールドだけに金字塔と呼ぶに相応しい名盤で、これには乳首丸出しのビッチもといピッチもチクニー不可避の8.0点。チクニー・・・それはまたの名を・・・

ゴールド・エクスペリエンス=黄金体験

大人しく初恋のバンドに“回帰”したかと思いきや、岡田拓郎くんの“After The Rain”を彷彿とさせるエレクトロニカでド肝を抜いてくる#16“Assault On East Falls”、そしてスライドギターというかミョ〜ンとしたギターの動きやメロトロンみたいな音作りまで、もはやバロニャンなりの“21世紀のスキッツォイド・マン”をやってのける#17“Pale Sun”まで、モダンな電子音の後に60年代プログレとかギャップ萌えの度が過ぎるし、これにはスティーヴン・ウィルソンミカエル・オーカーフェルトもドン引き・・・。実はゴールドよりもグレーの方がジャンルレスな闇鍋オルタナだったというよくあるオチ。そして、本当の意味で“プログレッシブ”なのはMastodonではなくバロニャンだったという、それもよくあるオチ

結局のところ、今回の“オルタナ”と“ノイズ”のコラボレーションの行き着く先に一体何があるのか?って話で、それが、それこそが“新世代メタル”の象徴であるDeafheavenとのツーマン・ツアーに他ならなかった。今作における(デイヴ・フリッドマンが手がけた)モグワイ的なオルタナ流のノイズと、そのモグワイを敬愛するデッヘ(=伝説)およびAlcest的なBlackgaze流のノイズの粒子衝突は奇跡的な実験成功例であり、そのモグワイデッヘおよびAlcestと聞いてふと閃いたのが、他ならぬ近年ana_themaの実験的な音楽変遷とバロニャンの音楽変遷ならぬ色変遷の共振であり(キーワードはモグワイ)、つまり近年のana_themaAlcestと一緒にツアー回ったのと、2019年にバロニャンデッヘが一緒にツアー回るのって完全に韻踏めちゃう案件だよなって。そう、ここでも“Welcome to My 俺の感性”を取り巻く“繋がり”が存在していて、つまりBMTH『amo』“ポップス”面における“俺感”の総括だと解釈するなら、このバロニャン『Gold & Grey』“メタル/プログレ/オルタナ”面における“俺感”の総括と言っても過言じゃあない(もはやBMTHオリィ同様にジョン“俺感”の読者説ある)。しっかし10年代の終わりに、こいつらガチのマジに“伝説”からオルタナ系のガルバンまで全部全部ぜーーーーーんぶ“繋”げやがった・・・。もう完全に“引力”案件のアルバムだこれ。もう嬉しすぎて『amo』ぶりに泣いたわ、俺ィは一体ナニを書いてるんだ・・・って悲しすぎて泣いたもんホント。こうなったら俺ィも愛嬌いっぱいの可愛らしいチクビ解禁するしかないのか!?というわけで、これからは“チクビーマンさん”に改名したいと思います。

これ本来ならDeafheavenとの北米ツアーの流れのままツーマンで来日すべき案件でしょって、皆んなで一緒にショックミーーーーーー!!ならぬチックビーーーーーー!!したい!いや、ジーナちゃんと一緒にチックビーーーーーー!!ならぬショックミーーーーーー!!したくない?って思ったけど、ちょっと待ってデッヘの来日公演の相手皇帝じゃん・・・。そもそもこんな名盤、てっきりワードレコーズあたりが日本先行リリースしてくれるとばかり安心してたのに、(ただでさえ前作から自主レーベル化して流通クソなのに)そのワードどころか他のレーベルも国内盤を出す気配がなくて、やっぱ日本のメタルレーベルなんてどこも信用できねぇなって呆れ果てた矢先、まさかのソニー・ミュージックから10月に国内盤リリースの発表という、隅から隅までDeafheavenに乗っかっていくビッチ・パーフェクトなスタイル・・・だけど、それもよくあるオチ。まぁ、それはそうと、色界最強のゴールドが来たら次は何色か?と予想するのもバロニャンの嗜みで、そのヒントとして今回“バロニャンなりのサンベイザー”やったという事は・・・次こそ全世界のチクビーマン待望のンク“ブラック”ピンク乳首黒乳首『Black & Pinkあるぞこれw

Gold & Grey
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Baroness
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POWER TRIP Japan Tour 2018@Huck Finn

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来日に関してちょっと話したいことがあって、Deafheavenって(自分の記憶が正しければ)フジロック2016で来日したのを最後に、めっきり単独でも来日しなくなったよなって。その原因って一体なんだ?って考えた時に、まず思い浮かんだ理由は、今やピッチフォーク主導のバズマーケティングのお陰で世界中で売れてるから日本は放置プレイされているのが一つ、そしてもう一つが2ndアルバム『サンベイザー』まではDaymare Recordingsから国内盤がリリースされていたのにも関わらず、3rdアルバム『New Bermuda』以降は国内盤が出されておらず(しかし3rdの国内盤は何故かソニーから出ている)、これは恐らくDeafheavenが本国のレーベルをDeathwishからAnti-に移した説が濃厚。もともと、デイメアDeathwishにコネがあって、その兼ね合いでDeafheavenの国内盤をリリースしていたと同時に、まだ無名だった彼らを奇跡的に初来日させた1stアルバムと彼らがブレイクするキッカケとなった2ndアルバムに伴う単独公演も実現させてくれた、国内でも有数の素晴らしいレーベルだった。今でも思い出すのは、初来日公演の時に観客が13人しかいなかった「伝説の名古屋公演」で、今やアリーナ級のモンスターバンドになりつつある彼らのライブを、その13人分の1人として伝説を目撃できたのは、今でこそ感慨深いものがある。そのデイメアDeafheavenから離れたのと同じタイミングで単独での来日がなくなったという事は、つまりはそういうことで、様々な権利関係のアレなことを察する事ができる(ファッキンソニー案件)。

確かに、デイメアDeathwishの他にも密な関係を持つレーベルが複数あって、その中の一つにSouthern Lordがある。この度、あの「伝説の名古屋公演」を実現させたデイメアが、ある意味でデフヘヴンの後釜として初来日させたバンドこそ、Southern Lordが生んだ現メタル界で最も重要なバンドであり、それがPower Tripだった。何を隠そう、Power Tripは昨年リリースした2ndアルバム『Nightmare Logic』がメタル界隈でもバズりにバズって、そのNYハードコア/パンクとスレイヤーやエクソダスなどのレジェンドがクロスオーバーした獣性むき出しの極悪スラッシュ、そして旧世代のMastodon的な世代間をDeafheavenとともに受け継いだ新世代メタルの中心がこいつらだ。つまり、今のPower Tripは紛れもなくDeafheavenの系譜にあるバンドで、そのPower Tripの初来日公演を実現させたのが、Deafheavenの初来日公演を実現させたデイメアだったのは何の因果か、あの「伝説の名古屋公演」を生で観ている自分としては妙な感動があって、とにかく今はデイメアに対する感謝の気持ちしかない。そんな心持で、僕はTWICEの新譜を聴いて「あぁ~ナヨンにイジメられてぇ~」とか思いながら、本日のライブ会場となるHuck Finnへと向かった。

ライブが始まってわかった。Power Tripのライブは、スラッシュ・メタルというより完全にパンクのソレだったんだ。2ndアルバムから1曲目の”Soul Sacrifice”と2017年度最高のバズソングこと”Executioner's Tax (Swing of the Axe)”を立て続けに披露し一気にブチ上げ、そしてフロントマンライリー・ゲイルのイキのいい煽りにまんまとノせられて、ヘドバン、ダイブ、サーフ、モッシュ、そしてサーコピッ!!まで、これもう完全にパンクだって。実際に曲を聴けば分かると思うけど、彼らが2013年に発表した1stアルバム『Manifest Decimation』ってメタルというより完全にハードコア/パンクなんですね。そんで2ndアルバムで化けすぎた結果、そこで初めてスラッシャーおよびメタラーに見つかって、想像以上にバズりすぎたってのもあって、そのバズり具合に実は本人たちが1番戸惑ってる説あって、明日にでも解散してガチで伝説のバンドになっちゃわないか心配になるくらい。実際、どこまで自分たちが想像した未来なのかは知る由もないけどね。

ライブの感想としては、テキサス仕込みのめちゃくちゃ強いパワーにトリップしたわ(ひでぇ感想)。リアルに2ndアルバムの音源の数百倍ものキレッキレのキレ味で、もはやエグいを通り越して目の前で殺戮が執り行われているような錯覚を覚えるほどの殺傷力。まるで料亭でさばかれる生魚を、その場で包丁でさばいて直で口に放り込まれるような新鮮な脂の乗ったキザミ。逆にライブであんな気持ちいい音出せるんだなって。真顔でマーシャルすげぇなって。あと、なんだろう、こうライブが始まってみると2ndアルバムの曲がパンクっぽく聴こえて、逆に1stアルバムの曲がスラッシュ・メタルとして生き返る逆転現象がまた面白くて、そういった意味でもこいつら完全にライブバンドだなって。

驚いたという意味ではセトリもそうだった。割合的には1stと2ndの曲が半々、むしろアンコールを含めると1stからの方が多かったかもしれない。普通のバンドならバズった2ndアルバムの曲を中心に選曲するはずだけど、決してそうじゃないのがテキサス親父らしいというか、この辺のセトリからも垣間見れる彼らの出自がパンクである証拠、決してメタルに日和ったわけではないというパンクスとしてのプライド、今回の賛否両論?ありそうなセトリは、そんな彼らの反骨心の現れなのかも。事実、1stアルバムなしじゃ今の立場もなかっただろうからね。

行く前は「伝説の名古屋公演」のトラウマが蘇ってきて不安だったけど、さすがに今回は休日だし、デフヘヴンの初来日公演の時とは状況が違う、ましてやバズり具合も違う。てなわけで、自分が到着した7時くらいには会場は既に7,8割は埋まってた感じ(なお半数以上パンクス)。演奏時間は体感で15分しか経ってないんじゃねぇかくらい、実際は45分~くらいの短さだったけど、終わった頃には新鮮な刺し身の切り身を延々と食べ続けてたような満腹感すらあった。「今、観なきゃ損する」とはこのこと。あれ?これもしかして来年のダンロードフェス・ジャパンで、deafheavenPower Tripとかいう”新世代”の共演あるんじゃね?清水社長~!

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