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墓っ地・ざ・ろっく!

2020年度BEST

Maggie Lindemann - SUCKERPUNCH

Artist Maggie Lindemann
entertainment-2016-02-maggie-main

Album 『SUCKERPUNCH』
channels4_profile

Tracklist
01. intro / welcome in
02. take me nowhere
03. she knows it
04. casualty of your dreams
05. self sabotage
06. phases
07. i'm so lonely with you
08. break me!
09. girl next door
10. we never even dated
11. novocaine
12. you're not special
13. hear me out
14. how could you do this to me?
15. cages

2016年に発表したシングルの“Pretty Girl”がバズった事でも知られる、約600万人のフォロワーを誇るインスタグラマー兼シンガーソングライターこと、マギー・リンデマンの1stアルバム『SUCKERPUNCH』の何がファッキンホットかって、過去にバズった“Pretty Girl”の毒にも薬にもならないインディポップみたいな曲調に反して、(その名残として)在りし日のアヴリル・ラヴィーン的なティーン向けのガールズポップ/パンクのキャッチーさを保持しつつも、それこそ00年代の洋楽ロックシーンにおけるゴシック系オルタナティブ・ヘヴィ代表のEvanescenceFlyleafを連想させるハードロックを現代に蘇らせ、そしてエイミー・リーとFlyleafのレイシーとChvrchesのローレン・メイベリーを足して3で割ったような内省的な儚さと、いわゆるどこまでも堕ちていく系のロンリーな孤独を抱えたマギーのロリータボイスが激エモなヘヴィロックやってる件について。


決して、過去に流行った女性ボーカル物のロックの二番煎じではなく、その古き良き“00年代の洋楽ロック”と、BMTHのオリヴァー・サイクスが仕切ってる事でもお馴染みの20年代を象徴するアイコンがピックされたプレイリスト【misfits 2.0】の文脈が邂逅する、つまり在りし日の洋楽ロックの熱気とZ世代を司るハイパーポップ然としたヤニ臭いサイバーパンク精神を紡ぎ出す、それこそ次世代アーティストおよび次世代インスタグラマーを称するに相応しい、いま最もファッキンホットな存在が彼女なんですね。


その手の“雰囲気”を醸し出すイントロSEに次ぐ#2“take me nowhere”からして、00年代にタイムスリップした気分にさせる、さながら現代のエイミー・リーとばかりに奈落の底までGoing Underしながら2秒でインスタフォローするレベルのダークなロックチューンで、一転して「現代のアヴリル」あるいは【アヴリルmeetチャーチズ】、さしずめ「女版マシンガン・ケリー」とばかりにポップパンク・リバイバルよろしくな#3“she knows it”、BMTHのジョーダン・フィッシュさながらのダイナミクス溢れるシンセやトラッピーなイマドキのアレンジを効かせた#4“casualty of your dreams”、再びEvanescenceFlyleafの影響下にあるモダンなパワーバラードの#5“self sabotage”、オルタナティブな雰囲気を醸し出すPoppyヨロポッピーな#6“phases”、そして闇堕ちしたマギーの歌声と00年代オルタナ/ヘヴィロック然としたリフ回しからして、初期Evanescenceの伝説的な名盤『Fallen』を確信犯的にオマージュしてのける#7“i'm so lonely with you”は、耳にした瞬間から00年代のメインストリームの洋楽ロックリスナーなら「これごれぇ!」とガッツポしながら慟哭不可避だし、スクリレックスやプッシー・ライオット文脈のSiiickbrainをフィーチャリングした#8“break me!”においては、『amo』以降のBMTHリスペクトな客演パートの歌メロと「ウチら【misfits 2.0】入りしたいんや!チュパチュパ...」とナニをSucksするハードコアなアレンジまでもハイパーポップ然としており、そのヤニ臭い毒素とセクシャリティの解放を訴える反骨精神むき出しの主張はMVにも強く反映されている。

アルバム後半においても、Evanescenceリスペクトな重厚感溢れる#9“girl next door”、アコースティックなシットリ系のバラードも聴かせるボーカリストとしてのポテンシャルを伺わせる#10“we never even dated”、オルタナティブな#11“novocaine”、MGKファミリーらしいアヴリル風ポップパンクの#12“you're not special”、本作のハイライトを飾る#7と共にどこまでも堕ちていきながら2秒でインスタフォロー不可避の#13“hear me out”、オーランドのエモ/ポスト・ハードコアバンドSleeping With Sirensのケリン・クインをフィーチャリングしたParamore風ポップパンクの#14“how could you do this to me?”、最後に改めて現代のアヴリルを印象付ける、曲調もMVのファッションも当時のアヴリルをオマージュした#15“cages”まで、確かにギターをはじめ音作りに対する不満はないと言ったら嘘になるけど、FlyleafのCoverを発表するくらいには00年代ヘヴィロックの影響下にある音楽性、同様に影響を受けているであろうBMTHのオリィが仕切ってる【misfits 2.0】に対する求愛行為に近いアプローチも含めて、アヴリル・ラヴィーンが洋楽のアイコンだった『あの頃』のノスタルジーと、時を経てマシンガン・ケリーをアイコンとするポップパンク・リバイバル(≒BMTH~Evanescenceの共演)、およびZ世代を象徴するハイパーポップの精神性を兼ね備えたハイブリッドな洋楽ロックは、体感2秒でマギーのインスタフォローすること請け合いのファッキンホットな魅力を放っている。

【エッジランナーズのレベッカ】×【マギー・リンデマン】=【misfits 3.0】

個人的に、この手の次世代アーティスト兼インスタグラマーと聞いて想起するのは、他ならぬカナダのPoppyことモライア・ローズ・ペレイラやNova Twinsだったりするけど、このマギー・シンプソンはそのどちらにも属さない独自の路線を突き進んでいる。(一足先に合流したサラ・ボニトのように)将来的にBMTHのオリィとコラボして、晴れて【misfits 2.0】入りするかは予測不能だけど、念のため今から予言しときます→

「こーれ来年のサマソニで来日します」

Bring Me The Horizon 『Post Human: Survival Horror』

Artist Bring Me The Horizon
54484

EP 『Post Human: Survival Horror』
POST-HUMAN-SURVIVAL-HORROR

Tracklist
01. Dear Diary,
04. Obey
05. Itch For The Cure (When Will We Be Free?)
06. Kingslayer
07. 1x1
08. Ludens
09. One Day The Only Butterflies Left Will Be In Your Chest As You March Towards Your Death

ランキング
ランキング

上記のスクショは、今年(2020年)の年明け(1月3日付)に日本の音楽ダウンロードサイト=moraの全体ランキングを写したもの(もちろん洋楽アルバムランキングでは1位)。ご存知、この年末年始はソニーがBMTHを広告塔として起用したXperia 5のCMをパワープッシュしていた時期で、痛感したのはネット社会となった今でもTVCMの効果って絶大なんだということ。しかしその数カ月後、世界は一変してしまう。このBMTHもコロナ禍の煽りを受けたバンドで、この世界的なパンデミックからのロックダウン中にアーティストがやる事はゲームか音楽制作の二択しかない(ただの偏見)。

  • 予言その1 
コロナウイルスの影響により、東京オリンピック中止を予言していた大友克洋の漫画『AKIRA』が再注目される昨今。同じくして、ゲーム業界でもMGSシリーズの生みの親である小島秀夫監督の新作『デス・ストランディング』がコロナ禍の世界を予言していたんじゃないかと一部で話題を呼んだ。

今思えば、イギリスのEU離脱=ブレグジットは序章に過ぎなかった。今年の5月にはアメリカでブラック・ライヴズ・マター(BLM運動)が巻き起こり、人種のるつぼである米国内における人種間の対立は一層深まり、その後の米大統領選では民主党のジョー・バイデンがアメリカの分断ではなく結束を目指す大統領になると国民に誓った。この『デス・ストランディング』は、今まさに世界中で巻き起こっているコロナ禍における人と人の「分断」、隣人や家族との「分断」、ブレグジットや米大統領選に象徴される国と国との「分断」、そしてBLMに象徴される種と種の「分断」、それらコロナ禍における様々な「分断」を描き出していた。

ドイツのメタルバンド=The Oceanのアルバム・コンセプトじゃないけど、いわゆる考古学の研究において、地球上の生物種は過去に「5度の大量絶滅」を経験していると考えられてきた。その考古学から着想を得た、ゲーム内における「6度目の大量絶滅」と「アメリカの分断」を描いたポスト・アポカリプスの世界観と、一方で現実問題として「6度目の大量絶滅」の危機に瀕しているコロナ禍の現人類を共振させた作品が『デス・ストランディング』である。確かに、小説でも映画でもSFの世界において終末論を扱ったポスト・アポカリプス的な設定は別に珍しくもなんともない。では何故このゲームが予言予言と囁かれるのか?それはノーマン・リーダス演じる主人公のサム・ポーター・ブリッジズが何故か「接触恐怖症」を患っている設定である点。当時、コロナ発生前にこのゲームをプレイした人間からすれば「接触恐怖症ってなんやねんw」と主人公のサムをインキャ扱いするだけで特に深い理由は考えなかった。しかし、今まさに現実世界ではウイルス保持者とその濃厚接触者は隔離され、人と人との距離を保つソーシャルディスタンスが推奨され、いわゆるインターネット(カイラル通信)を活用したオンラインのテレワークやリモートワークが推進される社会になっている(映画やライブもオンライン配信)。果たしてこれを「偶然」と言っていいものなのか、むしろ未来を知ってなきゃそのキャラ設定にしないでしょって思うし、これを「偶然」じゃなくて「予言」と言いたくなる人の気持がわかった気がする。

しかし、いま思えば小島監督はMGS2時代ではネット社会の未来を予見するような物語を題材にしてたし、メタルギアシリーズの最終章であるMGS5に至っては、いわゆるディストピア小説で有名なジョージ・オーウェルの『1984』から着想を得ており、もちろん発売当時も「なんで最終章で『1984』ネタ?」って思ったけど、それもこれも2020年も終わりを告げようとしている今思えば、小島監督が過去のMGSシリーズの中で描いてきた世界は、それこそコロナ以降のスーパーゴールデンシティという名の超監視社会の幕開けに地続きで繋がっている話だったんだ(皮肉にも今だからこそ理解できた)。よって、小島監督は決して「予言者」なのではなく、「未来」の世界を予測することに対して人一倍に長けたクリエイターなのである。

  • 予言その2
その『デス・ストランディング』に楽曲提供したBMTHも「予言」に大きく関わっているバンドだ。それは最新アルバム『amo』から2019年の10月に公開されたin the darkのMVに関する話。(これは前にも書いたけど)そのMVの世界観は日系アメリカ人のキャリー・フクナガ監督が手がけた、2018年に配信されたNetflixオリジナルドラマ『マニアック』を彷彿とさせ、同時に舞台となる日系の製薬会社内には日本語で「死の一撃」と「アーク」という二つのキーワードが登場する。この『マニアック』というドラマは、主演のエマ・ストーンとジョナ・ヒルが日系企業である製薬会社の謎めいた治験に参加する話で、この時点でコロナ禍においてコロナウイルスのワクチンを治験/開発する製薬会社がボロ儲け、もといその動向が取り沙汰される現実世界と妙に繋がっている。


一つ目の「アーク」というワードは、それこそ『デス・ストランディング』にも登場する環天頂アーク(逆さ虹)へと繋がっており(昨今も現実世界で幾度となく観測されている)、すなわち普通の虹色の世界とは真逆の不吉な予兆を暗示する「逆さに虹」のメタファーであるコロナウイルスは、今現在世界で175万人の命を奪い、そしてグローバル経済を中心とした世界経済に(二つ目のワードである)「死の一撃」を与え、人々から何気ない日常と普通の生活を奪いさった。この未曾有の惨状を前に、世界のトップは口を揃えてこう言った。

This is a War(これは戦争だ)

もっとも「面白いのはこれから」。このMVには東京オリンピック・パラリンピックの公式アートポスターを手がけている荒木飛呂彦の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の6部の女主人公である徐倫のコスプレをしたビリー・アイリッシュの(そこから更に)コスプレをした謎の女性が登場する。そのビリー・アイリッシュといえば、BMTHのフロントマンであるオリヴァー・サイクスが世界で最もリスペクトしている人物であり、現代音楽シーンの中心にいるティーンエイジャーだ。このMVには、小島監督と荒木飛呂彦が暗に繋がって(独りでに喜んで)いるという裏話はさて置き、実はその後、ビリー・アイリッシュがキャリー・フクナガが監督を務める007の新作『ノー・タイム・トゥ・ダイ』の主題歌を担当する事が発表され、冗談でビリーのコスプレネタを書いてた自分的にはネタじゃなくてマジだったのが流石に面白すぎて笑ったという話。実はこのMV、オリィ自身がディレクションしたもので、その時点で既に新作007の主題歌がビリー・アイリッシュだと知っていた説ある。ちなみに、キャリー・フクナガ監督と『デス・ストランディング』にも出演している米俳優のマーガレット・クアリーは交際の過去があると知って俄然ガッテンがいったというか、「え、ここまで繋がってんの・・・?」ってなった。しかし、コロナのせいで東京五輪も007の新作も延期、そして(自分もチケットを取っていた)ビリー・アイリッシュのライブに至っては延期ではなく中止となってしまったわけで、そういた意味でも、オリィが監督を務めた“in the dark”のMVが示す「予言」っぷりは小島監督並みに凄いかもしれないw


そのようにして、僕は『デス・ストランディング』の主人公サムが世界中のプレイヤーの一人一人のアバターとして、『悪夢』同然のポスト・アポカリプスの世界の中をドリームキャッチャーを背に道なき道を切り開いていく、つまり「人と人が交わる交差点」をキリスト教における十字架であると解釈した。しかし、コロナ禍の今では人と人が密に交わってはいけない人気のない交差点となり、今や世界がオレンジ色の空に染まった現代に、ウイルスの変異種が発生し尚々大変な事になっているイギリスを代表するゲーマーもといロックバンドであるBMTHがやれることは『サイバーパンク2077』、もとい全ての元凶であるCOVID-19に対して直情的な「怒り」をブチまける、ただそれだけだ。

改めて、今のオリヴァー・サイクスビリー・アイリッシュのインスタの投稿に毎回「いいね」を押すほどの“ビリー大好き芸人”、例えるなら「男の趣味に影響される女」の逆バージョンだ。今回のBMTHのアー写は元より、本作Post Human: Survival Horrorのアートワークも、遂には公式ツイッターやYouTubeのアイコンもオレンジ色に変わったのは、一体どんな意図があるのだろうか?あるいは、それもこれも日本贔屓ネタも全てビリー・アイリッシュに影響されただけなのか?


オレンジといえば、日本の某女ミュージシャンが残した遺作のタイトルもオレンジだった。コロナ禍に乗じて、世界中で『惡の華』が咲き乱れている昨今、日本の芸能界でも実写版『惡の華』の主人公=春日高男を演じた伊藤健太郎がやらかしたと思えば、競馬界では無敗の三冠馬誕生という新時代を告げる歴史的な幕開けを飾り、馬名に「目(eye)」を冠するアーモンドアイが芝G1七勝の壁という「ルドルフの呪い」を解いてオレンジ色の華を咲かせ、鞍上のルメールが「ぴえん🥺」と涙を流せば(ちなみに、その週の地方JBCの勝ち馬はオレンジ)、某女ミュージシャンが“Joy”を楽曲提供した元SMAPでオートレーサーの森くんが日本選手権をオレンジ帽で初優勝して旧友との約束を果たし「ぴえん🥺」と涙を流したのは、果たして偶然だろうか?そして、その年の「世相を表すレース」とされる競馬界きってのビッグレースで知られる先日の有馬記念では、馬名に新時代に相応しい「創世記」を冠するクロノジェネシスが優勝すれば、その紐でオレンジ枠の二頭が突っ込んできたのは果たして偶然だろうか?もし本当に有馬記念が「世相を表すレース」だとしたら、今年を表す色はオレンジしかないわけで、それを知っていた人ならオレンジ枠を買えたかもしれない(だからサラキアはフィエールマンより買えた)(←なお、オレンジが飛んでくるのを知ってて買ってても大本命が飛んで15万負けるバカ)。しかし、その歴史的なレース、その全てが誰かに対する追悼レースであるかのような結果となったのは、果たして偶然だろうか?もし、この世に「偶然」なんて存在しないとしたら?もし本当に追悼レースだとするなら、いったい誰の意思で、何の目的でオレンジ色の華を咲かせたのか?無論、その答えを知る人間は誰一人として存在しない。今はただ、天国にこの世と同じオレンジの華が咲いている事を切に願う。

オレンジの華

そんな2020年を取り巻くオレンジについての考察は、あくまで有馬記念で15万負けるギャンブラーの戯言に過ぎないので、華麗にスルーしてもらって構わないんですが、改めて世界がオレンジ色に染まる中、BMTHがロックダウン中に制作した本EPは、オリヴァー・サイクスの「アルバムはもう出さない」発言という「バンドマンの信じてはいけない言葉ランキング第3位」の発言からの「でもEPは出すよ」的な流れで誕生した『ポスト・ヒューマン』シリーズの第一弾。その内容としては、言うまでもなくコロナ禍により人と人の出会いや繋がりが絶たれた時代に、人類の生き残りを賭けたサバイバルホラーを題材としており、断絶された人々の手と手を再びつなぎ合わせるように、ヤングブラッドEvanescenceエイミー・リーをはじめ様々なアーティストとコラボした楽曲を取り揃えている。

とは言え、この世界が一変した時代に前作の『amo』のようなメインストリームのポップスを歌ったところで説得力のカケラもない。確かに「神」への信仰は自由だが、少なくとも今の世界が直面している現実を見て言えることは「神はいない」、という事だけ。皮肉にもコロナの存在によってバンドの核である「コア」の部分を取り戻し、再びメタラーとしての凶悪性を取り戻し「anti-christ(アンチ・クライスト)」と化したBMTHが、空がオレンジ色に染まったクソサイテーな世界に「FACK OFF」する#1“Dear Diary,”からして、それこそ「BMTH is Back...」を宣言するFワード連呼厨と化したオリィの咆哮、かのフレドリック・ノルドストロームがエンジニアを担当した2ndアルバム『Suicide Season』をフラッシュバックさせる初期のデスコア〜メタルコア然としたブルータルな殺傷リフや北欧産デスラッシュばりのソロワーク、そして最も注目すべきは「メタルバンドBMTH」の完全復活を象徴するラストのブレイクダウンのリフだ。


BMTHのメタル回帰、それすなわちギタリスト=リー・マリアの活躍の場が増える事を意味している。ここでは、「リー・マリアがいかに天才的なギタリストなのか?」についての話。昨年の『amo』はメタルとは真逆のメインストリームのポップスに迎合した作風で、当然ながらギタリストであるリー・マリアの出番は皆無に等しかったが、彼は少ないながら役割が求められる要所要所の場面で地味に天才的な才能を発揮していたのも事実。彼の天才的な才能を垣間見せたのがダニ・フィルスをフィーチャリングした“wonderful life”で、この曲のリフではGojiraが“メシュゴジラ化”したアルバム『Magma』から“The Cell”のリフを引用することで、“10年代メタル総合ランキング同率1位”のゴジラメシュガーという二大モンスターバンドへのリスペクトと近代メタルシーンに対する見識を、それもピンポイントに、たった一つのリフをもって解いてしまうエグさに驚愕したのを思い出す。

これはその話の続きで、EPのオープニングを飾る“Dear Diary,”のブレイクダウンでリー・マリアが再び天才的な審美眼でチョイスしたリフ、それこそが10年周期で「ヘヴィネスの基準」を更新してくるヘヴィロック界のレジェンド=Deftones『恋の予感』からオープニングナンバーの“Swerve City”だった。このタイミングでしっかりとデブ豚をフォローしてくるブー太郎もといリー・マリアの「わかってる感」ったらない。というのも、デブ豚デブ豚メシュガーが編み出した現代ヘヴィネスをオルタナティブの解釈で現代ヘヴィロックに昇華させた天才集団で、その発端となった2010年作の『Diamond Eyes』と、それを更に大衆的にアップデイトした2012年作の『恋の予感』の革新的なヘヴィネスを引用することで(一応ここも日本要素)、またしても現メタルシーンで起こっている「ヘヴィネスの変革」に対する一発回答を示している。


このEPにおいて、リー・マリアのリフは徹底して一貫しており、「バイオハザード」と並び初代PSのホラーゲームを代表する「パラサイト・イヴ」の名を冠した#2“Parasite Eve”は(バイオみたいにリメイクの主題歌化決定?かと思ったら全然そんな事なかった)、前作『amo』におけるヒップホップ的なアレンジを踏襲しながら、オリィThis is a Warと激しく咆哮するブレイクダウンへと収束していくダイナミックな楽曲構成もさることながら、実はこの曲のメインリフも“Dear Diary,”のブレイクダウン=“Swerve City”のヌーメタ気味のグルーヴィなリフをベースにしている(日本の漫画『東京喰種』をオマージュしたMVにも注目)。それに次ぐ#3“Teardrops”は、5thアルバム『That's The Spirit』への回帰を示唆するキーボードのメロディやアレンジで構成された曲で、コラボ以外ではこの曲が最もBMTHの標準値と言えるかもしれない。というか、まだこんな曲書けるんだという驚きの方が強いw

今年の紅白出場者を見たジェイミー・ジャスタ「日本の音楽業界クソ過ぎ!」

4曲目以降はコラボ曲が続いていく。そもそも今の、というか『amo』以降のBMTHって「メタル界のBTS」だと思っていて、それこそBMTHも(BTSとコラボした)ホールジーと映画『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』内の楽曲でコラボしている。しかし今回、BMTHがコラボするアーティストがBABYMETALEvanescenceエイミー・リーと知った時は、正直なところ「今更というか全く旬じゃないけど大丈夫なのそれ?」と感じたのも事実。昨今、よく耳にする「洋楽が売れなくなった」その解決策として、日本の音楽業界が選んだ対策が「日本のバンドとコラボさせる」という、あまりに安直過ぎる発想に到っている現状はわりと地獄で、それこそエヴァネのエイミーが和楽器冒涜バンドとコラボしたり(正直キツい案件)、あのEvanescenceWithin Temptationとダブルヘッドライナーでツアーを回ったりする現状を見てしまうと、今のエヴァネも決して落ち目とは言わないけど、なりふり構わなくなってきた感も否めなくて、そんなこんな想いもあってジェイミー・ジャスタばりに「日本の音楽業界クソ過ぎ!」ってなった(やっぱりジェイミーは正しかったんだなって)。


コラボ第一弾は、ホールジーの現恋人でありリアルサイバーパンク野郎ことヤングブラッドとのコラボ。まず日本の特撮をオマージュしたMVもさることながら(謎のロマンスオチw)、その曲調としてもサビで「おっぺ~い」とシンガロングさせるフックの効いたキャッチーな歌モノで、もはやそう遠くない未来のサマソニで全ガロングしてる自分しか見えないぐらいの合唱曲だ。また、この曲のブレイクダウンでも、ギタリストのリー・マリアメシュガーが産み落としてしまったDjentを匂わせる可変ヘヴィネスを披露しており、改めて「ちびまる子ちゃんのブー太郎に似てる」ただそれだけじゃない、天才ギタリストとしてのセンスを爆発させている。無論、それは『amo』の反動もあってのこと。


コラボ第二弾は、ベビメタこと日本のBABYMETALとのコラボ。これ、実は大々的にフィーチャリングしている“Kingslayer”よりも、そのイントロ的な扱いの#5“Itch For The Cure”の方が面白い説ある。というのも、その曲調自体は前作『amo』にも見受けられたような、Pendulum65daysofstaticの影響下にあるドラムンベースなんだけど、それがもうPendulumスティーヴン・ウィルソンがコラボした楽曲のオマージュにしか聞こえなくて、半ば強引に【ベビメタ=SW】と解釈したら一周回って面白過ぎる名曲。それと同時に、僕が『amo』のレビューにも書いた「SW=オリィ説」への回答でもあるというか、もはや“元日本一のベビオタ現ベビメタアンチ兼日本の俺ィ”への私信としか思えないような曲なんですね。確かに、ベビメタSWの繋がりは皆無だけど、“メジャーアーティスト”という大雑把な括りでは繋がってなくはないw


そしてBABYMETALと本格的にコラボした#6“Kingslayer”は、今年歴史的なムーブメントを起こした世紀の駄作漫画『鬼滅の刃』が“デーモンスレイヤー”なら、HBOドラマ『ゲームオブスローンズ』のジェイミー・ラニスターの蔑称である“王殺し=キング・スレイヤー”の名を冠する曲で、言うなれば「PassCodeはCode Orangeへの回答を示すようなサイバーパンク系ピコリーモだ。この曲により、BMTHの“MANTRA”を会場前BGMとして使用したりカバーまでしてるパスコ含めたラウド系アイドルを全て過去に葬り去ってしまったのは罪深いっちゃ罪深いレベルの曲ではある。もっとも面白いのは、特に2番の「さぁ、時の扉を開けて行こうよ」のバックの演奏がベビメタの“KARATE”を神バンドが弾いてるようにしか聞こえなくて、まさかと思いクレジットを確認しても神バンドの名前はなく、普通にBMTHの天才ギタリストことリー・マリアが弾いてるらしくて、とにかく曲の完成度云々よりも“BMTHによるKARATEオマージュ”、それが一番の衝撃だった。と思ったら、この曲の共作者にベビメタ界隈のMK-METALが参加してるらしくて納得。

ベビメタの存在よりも、改めてこいつら(BMTH)天才だと思ったのは、この曲の最後にオリィがバグったように「Is this what you want? This is what you'll fucking get you motherfuking shit」とノイズ交じりにシャウトする部分が、新世代メタルのveinCode Orangeの存在に対するBMTHからの回答としか思えなくて、正直ベビメタコラボ云々以上に、それらの新世代メタルをしっかりと「認知」している点。この曲の本丸はコラボ相手のベビメタなんかじゃなくて、むしろそのベビメタはミスリードでしかなくて、この曲の本来の目的はベビメタという「FAKE METAL」よりもveinCode Orangeを新世代メタルを担う本物の存在として認めている、それを暗に示唆する行為に、そのエモさに泣く。やっぱこいつら相当したたかで頭いいです。

要するに、今のBABYMETALってその程度の存在でしかなくて、というのも、先日たまたまベビメタが“トラップメタル”をやったと噂される曲のMVが出たらしくて実際に聞いてみたら、全くもってトラップメタルじゃなくて笑ったんですけど、というのも、今年その“トラップメタル”を正しい解釈でやってのけたのって、他ならぬUlverLiturgy、そしてOranssi Pazuzuのブラックメタル勢なんですね。だからベビメタの事をトラップだなんだと言ってるような奴は信用しない方がいいです。お察しの通り、“日本のメタルメディア界のキング”である自分は未だにベビメタの3rdアルバムは未聴だし(厳密に言えば昨年夏のライブで何曲か聴いたけど覚えてない)、その似非トラップ曲を聴いたら俄然今さら聴くまでもない駄作ってのがわかります。今回の紅白初出場に至ってもそうで、もう既に旬の過ぎたオワコンだから最後っぺに大手芸能事務所(某ミューズ)の力でゴリ押したのは猿でもわかる話なんですね。つまりジェイミー・ジャスタ顔負けの「日本の音楽業界クソ過ぎ」案件なんですね。それこそBMTHとコラボして生まれた“キングスレイヤー”など、“日本の俺ィ”兼“日本のメタルメディア界のキング”の“王の盾”であるUlverLiturgy、そしてOranssi Pazuzuによる本物のトラップ攻撃でワンパンKOです(余談だけど、アニメ『キングスレイド』のOP曲はドリームキャッチャーなのは色々な意味で示唆的)。

といえば、2019年に初出場を果たした、今年の紅白出場者でもあるアニソン界の歌姫=LiSAも観に来ていた、昨年=2019年に新木場で行われたBMTHの来日公演。実は、というか噂では、そのライブにBABYMETALのメンツが観に来ていたという嘘か真かわからないような話があって、ただもしその話が事実だとしたら、その翌年=2020年の紅白歌合戦出場者の2組が観ていた「伝説のライブ」を一緒に自分も観ていたという事になる。なお、そのライブにおける自分の真の目的、つまり“平成最悪のヴィジュアル系バンド”ことJanne Da Arcが解散したやり場のない「怒り」をBUKKAKEようと、ジャンヌのyasuが「神」と崇めるHYDEの前座の時に本気出し過ぎた結果、本番であるはずのBMTHのライブ中に死にかけて途中退場するという「日本一ダサい男」と化していた。そんな「よくあるオチ」をはじめ、色々な意味で昨年の新木場公演は「濃いメンツで飲んだ」的な「伝説のライブ」と断言できる(もち、大阪公演では“日本の俺ィ”を証明すべく最前で観た模様)。しっかし、その新木場公演を観にきていた2組が翌年の紅白出場者とか・・・やっぱ俺ィもといオリィってアゲチンやなって。どうでもいいけど、そのベビメタ紅白出場の煽りを受けて、内定濃厚だったWACKのBiSHが落選したのはべクソm9(^Д^)プギャー


BMTHが前作の『amo』でもコラボしたイーロン・マスクのパートナーであるグライムス。ロンドン出身のAmyLoveGeorgiaSouthによるロックユニット=Nova Twinsを迎えた#7“1x1”は、過去にグライムスとコラボした(最近では初音ミクとコラボ曲を発表している)ノースカロライナ生まれでロンドン在住の新世代ラッパーAshnikkoを意識したようなダークでシリアスなトラックと、一昔前の洋楽ロックのメインストリームというかUSポストグランジみたいなオリィの歌声と、AmyLoveによるParamore全盛を思わせるポップパンク的な懐かしい歌声が映える名曲で、恐らくというかほぼ確実に、オリィの頭の中では実質AshnikkoBMTHのコラボをイメージしてできた曲だと思う。で思ったのは、今のオリィって30才を超えてキッズ的なエモさが薄れていい具合にガレたおっさんになってきたというか、これくらいの声が一番シブくてカッコいいよなって。この“1x1”の「holding on or letting go」の「ゴゥッ↑↑」の部分は本作におけるオリィのベストボイスだと思う。

BMTHのメタル回帰、および「コアい」ぐらいに「コアさ」を象徴するブレイクダウン復活、その伏線は『デス・ストランディング』に楽曲提供された#8“Ludens”にあると言っても過言じゃあなくて、当時は超ド級のポップスだった『amo』の反動もあってか、この曲がアルバム後に発表されるや否やBMTHファン、そして小島ゲーのファンの間で歓喜の渦を巻き起こしたのは記憶に新しい。今こうやってEPにパッケージされた曲として聴いても、『デス・ストランディング』の数あるカットシーンが今でも脳裏にフラッシュバックする。この曲の関係性を司るインダストリアル〜ノイズと「無音」の伏線を見事に回収しているのが、他でもないリズ・アーメッド主演の映画『サウンド・オブ・メタル』という2020年最高のオチ。改めて、全方面に対してめちゃくちゃ「繋がり」を持つ名曲だと思う。でも少し気になったのは、この曲順の流れで聴くと、この“Ludens”だけ音質が悪いというか音がスカスカに聴こえるのは気のせい?これはあくまで憶測だけど、提供先の『デススト』が要求したカツカツの納期に間に合わせるために、ツアー先のホテルで宅録ならぬホテ録した弊害がここに現れちゃってる説ある?でもミックスはお馴染みのダン・ランカスター、マスタリングもテッド・ジェンセンというまるで疑いようのない敏腕エンジニアが担当してるから、プロダクション自体に問題はないはずなんだけどね。これ、来年リリースされるCD版でも修正される気配もなさそうだし、ただの「気のせい」って事でいいの?

今思えば『amo』の目的って、端的に言ってしまえば今はなきLinkin Parkの正統後継者を襲名するお披露目式で、その結果としてXperiaの広告塔からの日本のDLサイトのランキング1位へと繋がる。確かに、確かに日本における「現代の洋楽」の象徴となったBMTHがリンキンと共に00年代前後の洋楽ロック全盛を支えたEvanescenceエイミー・リーとコラボするのは必然っちゃ必然かもしれないけど、コラボした曲自体は当たり障りのないバラード調の曲をオリィとエイミーがデュエットする形だから、その当たり障りの曲をEPの最後に持ってきている時点でお察しボンバー。しかし、このコラボに関しては曲の完成度云々よりも、当時の洋楽界を代表する歌姫=ディーヴァだったエイミーとデュエットする事に意味が、つまり当時のマイケミ/リンキン/ロスプロ/PATDなどの洋楽入門バンドと共にメインストリームのロックシーンで一線張ってたエイミーと意図してそれをやる事に意味があるんですね。このEPは、洋楽の入り口がマイケミ/リンキン/ロリペドもといロスプロ/パニック/ディオだった人には(ディオの浮き具合)、どこか懐かしさすら感じるかもしれない。確かに、他のコラボ相手のメンツが濃すぎるから仕方ないけど、この流れでエイミーとのコラボは浮きまくること必須だから、置ける場所が最後しかなかった感は否めないし(実際、ルーデンスとエイミーはボートラ感ある)、そんな中でもポストロック的な美メロギターを鳴らして、最後の最後まで主役の座を掻っさらっていくリー・マリアとかいう天才。

贔屓目に見ても特撮を筆頭に、アニメ/漫画/アイドルなど日本文化に溢れすぎているEP、そういった意味では“日本の俺ィ向け”、もとい日本向けの私信EPと言っても過言じゃあないかもしれない。正直、ここまで濃密なEPなかなかないというか、少なくともオリィの「もうEPしか出さない」宣言は正しかった、その裏付けにもなっている。そもそも、「EP」のフォーマットの利点って、普段のアルバムではできない実験的なイマジネーションを実現化させる所で、それは今作で言う所のアイドルであったり、普段のアルバムでは決してできないようなアーティストたちとのコラボを実現させている。それは同時に、“王の盾”であるUlverDeftonesと共鳴するように、閉鎖的なメタルシーンにダイバーシティの波とジェンダーフリーの精神を持ち込むことに成功している。あのリンキンができなかった事を、今のBMTHはものの見事にやってのけている。やっぱこいつら普通にカッコいいし、次のEPで一体何をやってくるのか想像もつかないから俄然期待感しかない。

(最後は2020年で個人的に一番感動したスクショ)
ジャンヌ×BMTH

アマゾンプライムで映画『サウンド・オブ・メタル 〜聞こえるということ〜』を観た

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アマゾンプライムビデオで配信中のリズ・アーメッド主演の映画『サウンド・オブ・メタル 〜聞こえるということ〜』を5回観ての感想をば。

初期のCode Orangeを彷彿とさせる、グランジ風のアンダーグラウンド・メタル/ハードコアバンド=BLACKGAMMON(ブラックギャモン)のドラマーであるルーベン(リズ・アーメッド)と、その恋人でありバンドのギター兼ボーカルを担当しているルー(愛称ルイーズ)(オリヴィア・クック)は、自前のトレーラーハウスを運転しながら各地のライブハウスをどさ回りするバンドマンだ。そんなある日、ドラマーであるルーベンが徐々に聴力を失う難聴を患うも、教会が支援するとある治療施設の聴覚障害者のコミュニティに歓迎され、そこでルーベンは様々な大人や子供と出会う。初めは馴染めずにいたルーベンは、手話を身につけると徐々に他の盲ろう者とも打ち解けていく。しかし、一方でバンドマンとしての夢を諦めきれない自分と現実の狭間で葛藤しながら、将来の人生について大きな選択を迫られる一人のバンドマンをめぐる物語。

恋人であるルーとは、いわゆる普通の恋人関係というよりは、先の見えない不安という心の隙間を埋め合うように、何かしらの依存症を持つ者同士お互いに依存し合う関係性だ。このような依存関係って現実世界でも別に珍しくもなくて、今回の例とは少し勝手が違うけど、例えるなら売れないバンドマンとそれに貢ぐメンヘラ女はその最たる例の一つだ。何を隠そう、この映画はその「依存症」が一つのキーワードとなっていて、ルーベンはルーと出会う4年前までヘロイン中毒者だった過去を持ち、片や恋人のルーはルーで左腕に年季の入ったリストカットの傷跡が夥しくあり、今もリスカの後遺症なのか腕を指で引っ掻くクセがある。そんな自傷行為という名の依存症を患っている二人の男女が織りなす映画で、ルーベンとルイーズ(呼び名はルー)で少し名前が被ってるのも、依存症を持つ者同士依存し合う同類であるという一種のメタファーなのかもしれない。

コミュニティの長であるジョーが入所前のルーベンに放った言葉「耳を治すのではなく心を治す」。これこそが本作における最大のパンチラインで、簡単に言えば「人生の不幸」とは耳が聞こえないことではなく、「心の平穏」が存在しないことであるという教え。ルーベンはコミュニティで老若男女の様々なろう者と交流を深めていく中で、人生における「真の幸福」に気づきかけてきた矢先、未だ彼の中に眠るバンドマンとしての想いがそれに抗う。

映画の中盤を構成する聴覚障害者施設パートは、序盤のライブハウス内の爆音とは真逆のBGMらしいBGMがほとんどない(そこにあるのは虫や小鳥のさえずりなどの環境音楽=アンビエント音楽だけ)、つまりメタル/ハードコアという音楽ジャンルで最も耳の環境に悪いラウドな環境から、一転して盲ろう者だけの静かな自然に取り囲まれた真逆の環境に身を置く事となる。ここで、「なぜ本作の主役がメタルバンドのドラマーなのか?」という皆が気になっているであろう疑問の答えを想像するに、恐らく対象が「無音」あるいは「環境音」から最も遠い存在だから説w いや、笑い話でもなんでもなくて、映画の演出的な部分でもライブハウスでの粗暴な怒りに満ち溢れた感情的な爆音と、人里離れた緑豊かな森林に囲まれたコミュニティで流れる無音あるいは環境音、そのギャップを効かせた「音響」の演出は監督が意図したものだと思う。だから別に監督がメタルに対して悪いイメージや偏見があるわけではないと思う(謎のフォロー)。

さっきまでの環境音パートが嘘のように、それこそ「嵐の前の静けさ」とばかりに、不穏な未来を暗示するかのような「ゴゴゴゴ」という轟音を放つ黒い雨雲から場面は終盤へと切り替わり、そして恐怖のノイズ地獄が幕を開ける。ルーベンは決意し、自前のトレーラーハウスと音楽機材を全て売り払い、高額な手術でインプラントを埋め込んで聴力を取り戻すも、所詮は「脳を錯覚させて聞こえるようにしている」だけの代物で、やはり「失われた聴力は二度と元に戻らない」と言われているように、彼の耳は完全な状態には戻らなかった。

それ以降のシーンはホラー映画にも似た恐怖を覚えた。その後、ルーベンはフランスの実家に帰っているルーに再会すべくフランスへと渡る。彼女と再会すると、そこには眉毛を銀色に染め上げ、ステージ上で「ホールこそ私のゴールなの そこにいて欲しい 暴いて欲しい 意外とウブなあんた あたしが食べてあげる」というような謎の歌詞を怒りと共に咆哮していたバンドマンとしてのルーの面影はなく、欧米人らしく賑やかなパーティに参加する一般的な普通のフランス人女性としての日々を過ごしていた。そんな別人となったルーを一眼見ると、ルーベンは真っ先に彼女の左腕に引っ掻き傷の跡がないことに気づく。パーティではフランス映画界のレジェンド=マチュー・アマルリック演じるルーの父親のピアノの伴奏に合わせて、娘のルーがライブハウスで放ってい自殺的で暴力的で悲劇的な咆哮とは真逆の美しい歌声を母語であるフランス語で披露する。このシーンは本作最高の名ホラーシーンでもある。

パーティが終わり、それこそ二人してトレーラーハウス内のベッドで寝ていた時と同じように、ルーの部屋のヘッドで恋人同士らしくイチャイチャムードに発展するや否や、またしてもルーベンはルーが再び左腕を引っ掻くクセ=依存症が再発したことに気づく(このベッドシーンでルーが水を飲む場面は、序盤の演奏シーンの歌詞の伏線回収でもある)。そこでようやくルーベンは、極度の不安やストレスから発作のように引き起こされる腕を引っ掻くクセ=依存症の原因は自分にあると理解する。4年前にルーと出会ってドラッグ依存から抜け出せたルーベンとは違い、ルーはルーベンがいることで依存症がぶり返す精神的不安の状態、それを誘発するトリガー的な存在でしかない哀しい現実を知ってしまう。ルーベンとルー(ルイーズ)、皮肉にも互いに助け合い依存しあってきた恋人同士の二人が別れて初めて依存症からの真の解放を得る事となる。

このベッドシーンは、精神的にも経済的にも不安定で継続的なストレス状態に晒されていたバンド時代からの解放を示唆し、バンド時代とは真逆のフランスの実家という安定した環境がルーの精神に安堵感を与え、バンド時代には得られなかった「心の平穏」を取り戻した場面。翌朝、全てを察したルーベンは別れの挨拶もなしにルーの実家を抜け出し、あてもなくフランスの街を彷徨い、しばらくしてからフランスの平凡な日常と街並みが見渡せるベンチに腰掛ける。しかし、今のルーベンの耳には、街にこだまする人々の日常会話も、教会の荘厳な鐘の音も、親子の美しい歌声も、自然が奏でる環境音すらも全てがノイズ=騒音にしか聞こえない恐怖。ルーベンは何を思ったのか、その場でインプラントを取り外して完全なる「無音」状態に身を置く。この「完全なる無音」という「真の静寂」に彼は何を感じ、そして何を聞いたのだろうか?それは彼だけにしかわからない事なのかもしれない。しかし、彼はその瞬間に初めて「耳を治すのではなく、心を治す」と言ったジョーの言葉を理解したに違いない。そう、今まさに自分が置かれている「無」の状況こそジョーの言った「心の平穏」であると。

なんだろう、例えるなら仏教における「諸行無常の響きあり」じゃないけど、彼の耳には教会の大きな鐘の音も聞こえない「無音」のはずなのに、今の彼は「心の平穏」の中でしっかりと鐘の音が響き渡っているに違いないと。ルーベンにとって「無音」こそが「心の平穏」だと気づくこのラストシーンは見事としか言いようがない。美しい、ただただ美しい「無音」。それこそ日本の禅の精神じゃないけど、それに限りなく近い「無(音)」にあることが人間の真理であり幸福であるという教え。これ何が凄いって、最終的に神の存在を問うレベルの領域に物語が収束していく事で、デフォで歌詞に「Anti Christ」入ってるような(ただの偏見)、バックグラウンドや思想としてアンチ・クライストあるいは無神論者および無宗教である“メタラー”のルーベンがたどり着いた「真の幸福」、その答えが仏教的なオチだったのはちょっとというか相当な皮肉。でもそれが、それこそが、この映画の主人公になぜ“メタラー”が選ばれたのか?その本当の理由なんだって。この映画、いろいろな意味でメタラーじゃなきゃ成立しない映画なんですね。

本作は「対比」が一つのメタ的な演出として、また音楽的な構成を築き上げている。まず序盤はライブハウスで怒りの感情に満ち溢れたメタル/ハードコア、中盤は自然に囲まれた環境音楽=アンビエント、終盤のインプラント手術以降はノイズ、そしてラストシーンは「無音」という、音楽的なメタ構成も意図的に狙ってやってるんじゃないかと思うぐらい、各パートを司る「音の変化」もルーベンの感情の変化と共鳴している。

この映画、ありがちな「耳を大事にしよう」みたいな啓発映画なんかじゃなくて、もちろん健常者に対する「耳を大事に」的な啓発目的もなくないだろうけど、むしろ聴覚障害者の視点から盲ろう者側から見える世界、ろう者側の理念であったり、ろう者の幸福についてだったり、耳が聞こえる聞こえないの話じゃなくて、身体的なハンデよりも心の問題などの内面的な部分を描いている。

人間、誰しもが何かに「依存」して生きている。それは耳が聞こえる人間にも、耳が聞こえない人間にも等しく平等に存在する。障害を扱っている映画だから健常者の自分には関係ない他人事の話なんかじゃ決してなくて、耳が聞こえる健常者にも、耳が聞こえない盲ろう者にも共感する部分がそれぞれ平等にある、そんな真のバリアフリー映画だと思った。このように障害を擬似体験させる似たような映画だと、最近では視覚障害を扱ったNetflixの『バードボックス』を思い出した。哲学的?なオチもそれっぽいっちゃそれっぽいし。

ルーベンが日本の伝説的ハードコアバンド=GISMのTシャツを着ている場面を筆頭に、数あるメタル雑誌の中から選ばれたのがエクストリーム系のDECIBEL MAGAZINEってのが地味にわかってる感凄いし、トレーラーハウスの内装に貼り付けてあるフライヤーにPINKU JISATSU(ピンク自殺)やVIOLENT PACHINKOという架空のヴィジュアル系バンドの名前が載ってる、と思ったらその2組のバンドは本当に実在する(前者は)スペインのヴィジュアル系らしくて(ちなみにルーの母親の死因は自殺)、とにかく雑誌の表紙やインタビューページの切り抜きを含めて、メタル/ヴィジュアル系/ハードコアに関するプロップ(小道具)や資料関係がメタラー視点から見ても相当コアでマニアックな映画である事がわかる。

後半、舞台がフランスに移るってのもあるし、フランス映画界のレジェンド俳優や実際に盲ろう者の役者を起用している点、そしてドキュメンタリータッチというわけではないけど、いわゆるハリウッド映画のそれとは違うカメラワークもフランス映画というか欧州映画の匂いが強い。監督は映画『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ』の脚本を担当したダリウス・マーダーとのことで(そういえばこの映画のゴズリングはメタリカTシャツ着てた気がする)(むしろ監督メタラー説)、(このご時世な事もあって全然観てないけど)今年の年間BEST映画1位間違いなしの一本だし、メタラーでもメタラーじゃなくても全てのミュージシャンに勧めたい映画でもあるし、同時に映画監督は元より音響監督こそ見るべき音響映画でもあり、それこそ某佐村河内もアニメ『聲の形』のヒロインこそ観るべき、いやもう全人類が観るべき映画です。初めて「アマゾンスタジオすげぇ・・・」ってなったくらいには名作なんで。確かに、聴力も元に戻らなければ、バンドマンとしての未来も閉ざされちゃったから絶望っちゃ絶望だけど、ルーベンは最後の最後で「心の平穏」を見つけ出せたから普通にハッピーエンドだと思う。

改めて、耳を大事にしようという至極当たり前なことでもあっても、いざライブでテンション上がっちゃうと自分の耳の健康を蔑ろにしがちだから自戒の意味を込めて、この状況下でライブに足を運べない時だからこそ、いま一度再確認すべきタイミングなんじゃないかって。ルーベンと一緒に、この映画のラストシーンのエンドロールで初めてジョーの言葉、その重みを痛感すること請け合い。

しかし、主演のリズはジェイク・ギレンホール主演の映画『ナイトクローラー』で初めて知って、HBOドラマ『ナイト・オブ・キリング』でも難しい役柄を演じていたけど、今回も手話やドラムの練習を積んで役に挑んでいて、改めて良い役者だなぁと再認。でもそれ以上に『レディ・プレイヤー1』のオリヴィア・クックの方が「モデルはコード・オレンジのレバ・マイヤーズさんですか?」とツッコミ不可避の役作りがハンパない。流石にあの眉毛はやりすぎだけどw

難聴のリスクはステージに立つミュージシャンだけの問題ではなく、ライブハウスに足を運ぶリスナー側の問題でもある。よくロックやメタルのライブに行く人なら経験あると思う。ライブ終演後に「ピー」という耳鳴りがする経験が。というのも、これを書いている僕自身、Deafheavenの観客が10人くらいしかいなかったいわゆる「伝説の名古屋公演」の際に、人がいないから必然的にスピーカーの前で観る事になって、しかも耳栓を着用してなかったからそのライブ後は二週間ぐらい耳鳴りが治らなかった経験者だ。そういうリアルにヤバい状況に陥った人間がこの映画を観ると正直「シャレにならない、もう笑えない」、そんな話なんですね。幸い、というか運よく耳鳴りの症状は完治したんだけど、ヘタしたらそのまま難聴コースになって映画のルーベンと同じ道を進む可能性があったと想像しただけで恐怖しかない。もちろん、そのDeafhevanの伝説の名古屋公演以降(2回目の来日公演も含む)は必ずライブ用耳栓を着用してライブに行くようにしてます(でも去年のBMTHのライブではテンション上がってしなかった)(←こういうのがダメ)。


そんなDeafheavenの10周年デビューを記念するスタジオライブアルバム『10 Years Gone』は、メンバーは元よりスピーカーからエグいぐらいのギターノイズを(ルーベンもドン引きするぐらい)超至近距離から鼓膜ダイレクトで浴び続けた伝説の名古屋公演の軽いトラウマとともに、今やメタルシーンを代表するバンドにまで成り上がったバンドへの感慨深い想いがふつふつと浮かび上がる。相変わらずバチグソ丁寧な演奏してんなって思うし、何よりも選曲が最高過ぎる。まず一曲目が個人的に5本指に入るぐらい好きな曲であるシングル曲の“From the Kettle Onto the Coil”とか「こいつらわかってんな感」しかないし、いわゆる「指DEMO」時代の“Daedalus”も貴重過ぎるし、1stアルバムからは“Language Games”、3rdアルバムからはキザミとケリー・マッコイの慟哭のギターが映える“Baby Blue”、ラストはDeafheavenを司る2ndアルバムからバンド史上最高の名曲“Dream House”という、全8曲なのにどれもバンドを語る上で欠かせないし外せない完璧な選曲となっている。そんな最高のライブアルバムを聴いていると、久々にライブが観たくなってくるのはメタラーの性。

話を戻して、映画の中でジョーはルーベンに「書くこと」を勧める。アルコール依存症であるジョーは「書くこと」で「心の平穏」を取り戻していると。そのシーンでふと思った、自分にとっての「心の平穏」もジョーと同じ「書くこと」なのかもしれないと。今まさにこうやって音楽を聴きながら何かについて「書くこと」こそ「心の平穏」、あるいはそれに限りなく近い「無(音)」状態に繋がっているんじゃないかって。

Liturgy 『Origin of the Alimonies』

Artist Liturgy
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Album 『Origin of the Alimonies』
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Tracklist
01. The Seperation Of HAQQ From HAEL
02. OIOION's Birth
03. Lonely OIOION
04. The Fall Of SHIEYMN
05. SIHEYMN's Lament
06. Apparition Of The Eternal Church
07. The Armistice

【朗報】ハンター・ハント・ヘンドリックス、めちゃくちゃ可愛い女の娘だった

前作の4thアルバム『H.A.Q.Q.』を聴いて改めて思ったのは、彼らLiturgyの音楽の率直な感想として浮かび上がる「何がなんだかわからない」、そんな彼らの「わけのわからなさ」を司るのがバンドの中心人物であるハンター・ハント・ヘンドリックスの性別(SEX)のわからなさを起因としている説を証明するかのような、約1年ぶりとなる5thアルバム『Origin of the Alimonies』のキリスト教における三位一体を象ったアートワークを見た瞬間、今から二十数年前の僕の身に起きた黒歴史すなわちトラウマという名の『惡の華』が咲いたよ(ハナガサイタヨ〜)。

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その衝撃の出会いとは、まだ自分が10歳にも満たない子供の頃の話。父親のカーステにあったX JAPANのカセットテープ版『Jealousy』の表紙に写し出されたYOSHIKIの裸体アートワークを目にした時だった。人生経験の浅い10歳前後ってまだ長髪=「女性の象徴」という固定概念が根付いてる時期でもあるし、同様に胸元にあるおっぱいの膨らみもそうだった。確かに、確かに現実の世の中にはAAAカップの女性が存在している可能性もなきにしもあらずで、その女性特有の胸部の膨らみも「長髪」と同様に「女性」を象徴するアイコンの一つだった。つまり、幼少期という未知の存在に対する先入観や偏見のある子供時代の自分にとっては『Jealousy』のアートワークは『未知との遭遇』そのものであり、当然のように頭の中が混乱したわけ。それこそ「えっ、なんで・・・?この表紙に写っている黒パンティを履いた長髪の人(YOSHIKI)は女性なのに何でおっぱいがないの?!わかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないいいいいいうわああああああああああああぁぁぁぁぁあああああぁああ(ドピュ」という風に、それが思春期に差しかかる直前に起こった、自分の中にある『惡の華』が目覚めた瞬間だった。

そんな他人に言えない黒歴史を持つ僕は、この『Origin of the Alimonies』のアートワークに刻み込まれたヘンドリックスの裸体と『Jealousy』YOSHIKIの裸体が時を超えて重なり合い、ある種のトラウマとして脳裏にフラッシュバックした事は今さら言うまでもない。まず女性の象徴の一つである「長髪」と胸部にあるおっぱいの膨らみ、女性特有のファッションの一部である艶やかなネイルが施され、そしてこんな真っピンクな乳首は未だかつて見たことがなかった。それこそ「ヒャダ!!この長髪の人、ピンクチクビの美乳なのにチンコが生えてるフタナリなのかなんなのかもうわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないいいいいいいうわあああああああああぁぁぁぁっぁあああ(ドピュ」みたいな、言うなれば20年越しの「セカンド精通」を果たした黒歴史的な瞬間だった。

冗談じゃなく本当にわからないし(というか普通に男を疑う余地すらなかった)、普通に考えたらLGBTQ.Q.に属する人である事が推測できるし(恐らくトランスジェンダー)、今流行りのディープ・フェイクなのかすらわからない。なんだろう、この性別(SEX)も髪型やおっぱいなどの身体的特徴すらも「何がなんだかわからない」、その男女の性別における「曖昧さ」こそがLiturgyの音楽を紐解く上において最も重要な真髄であり真実でもあって、つまりどちらか「一つ」に定められた性別の境界線を超越(Transcendental)したブラックメタルがこのLiturgyであり、「男らしさ」や「女らしさ」という悪しき時代の呪縛から解放された、「男性(Man)」でも「女性(Women)」でもない“ジェンダー”の概念をTranscendentalした宇宙人もとい「超越者」と性別欄に記すべき存在がこのハンター・ハント・ヘンドリックスなんですね。

よって思春期を迎える前にYOSHIKIの裸体で精通している僕が、約20年の時を経てLiturgyヘンドリックスと引かれ合うことは以外でもないんでもない「別に普通」の出来事だったんですね。ある意味、僕は幼少時の時点で「ジェンダーフリーの美学」を無意識のうちに学んでいたという事でもある。無意識のうちに「ジェンダーフリーの美学」を学んでいた案件といえば、他でもない僕が「DNAレベルで日本一のジョジョオタ」である理由、それこそ女性誌の女性モデルの顔をベースに男性キャラを描く荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』という一種の「ジェンダーレス漫画」の底の根へと繋がっている話でもあって、(今でこそダイバーシティ=多様性が求められる時代だが)当時の荒木飛呂彦は週刊少年ジャンプという圧倒的に男性主人公が多い漫画雑誌で徐倫という女性キャラを主人公にしたジェンダーフリーの精神が根付いた偉大な漫画家でもある。

実は、YOSHIKIヘンドリックスには他にも共通点があって、それこそロック畑のミュージシャンでありながらクラシック/オペラにも精通している点。なんだろう、どの国も、いつの時代も、音楽界や芸術界で古い既成概念を打ち破る破天荒な異端児はクラシックに精通し、なお且つ性別をも超越しているんだなって。俄然面白いのは、YOSHIKIといえば天皇陛下御即位十年を祝う国民祭典で自身で作曲した奉祝曲を御前演奏している人物で、一方のヘンドリックスは4thアルバム『H.A.Q.Q.』の中で日本の伝統的な古典音楽=雅楽でもお馴染みの篳篥や龍笛を駆使した、例えるなら『乱歩地獄』を総合演出家エイフェックス・ツインが喜劇化したような傑作を生み出したこと。互いにクラシック音楽だけでなく日本の古典音楽や国民的な典礼(Liturgy)にも精通しているという謎の共通点w

前作のレビューでもチョロっと書いたけど、「なにがなんだかわからない」まま最終的に出した結論が「クラシック音楽の方程式でブラックメタルを解いた」のがLiturgyの音楽であるということ。何を隠そう本作の『Origin of the Alimonies』は、その問いに対するバンド直々の回答であるかのように、集大成的な前作から方向性はそのままに、ヘンドリックスという異端児を形成するクラシック/オペラの教養から展開されるクラシックならではの常識的かつ様式美的な要素とブラックメタルならではの非常識的かつ非様式美的な要素という相反する者同士が、2020年というリアルにバグった世界で運命的な邂逅を果たしたような、性別で例えるなら【ブラックメタル=男】と【クラシック=女】というように、交わりっこない音楽同士が性別を超えてTranscendentalしちゃったのが本作品(『H.A.Q.Q.』における「METAPHYSICS」パート)。そのクラシックの様式美的な固定概念と、ジェンダーの世界における固定概念がバグって(不協和)音を立てて崩れ落ちていく「破壊の美学」という点でも、もはやヘンドリックス「ブラックメタル界のYOSHIKI」と言っても過言じゃあないかもしれない。

TVゲームでもプログラミングの世界でも“バグ”というのは付き物で、(勿論ないに越したことはないんだけど)どうやっても出ちゃうのがバグという厄介な存在だ(そのためにデバッカーの仕事がある)。例えば、ゲームにおける「見えない壁」があるとする。それはオープンワールドと呼ばれるゲームでも存在する。その壁はプレイヤーの力ではどうやっても通ることができない。しかし、そのどうやっても越えられない壁を越える方法が一つだけある。それが「バグ」だ。

IT業界におけるコンピュータ・プログラムのバグ=ウイルスと同じ解釈で、ゲームにおけるバグの一つであるグリッチを音楽的ギミック=バグ表現として応用しているのがこのLiturgyに他ならなくて、彼女たちはクラシック音楽とブラックメタルの間を隔てる絶対に越えられない「見えない壁」を、そのデジタル界におけるバグ=人間界におけるウイルス=音楽界における(ババババババババ)グリッチという名の「裏技」、つまり想定外の不確定要素を逆手にとって意図的にバグらせることでその見えない壁をTranscendentalさせ、「正常」を超えた「異常」とはまた別次元の裏世界にたどり着いている。それはまるで新人類の誕生を暗示しているようでもあり、これがホントの「ウイルス進化論」ならぬ「バグ進化論」ってほどに。

実は今年、Liturgyの他にも音楽ジャンルの境界線=ボーダーラインを超えたTranscendentalなバンドが複数実在していた。それがポストブラックメタルの開祖であるUlverと、そのUlverのオルタナティブな精神を受け継ぐ後継者であるアンダーグラウンド・メタル界の重鎮Oranssi Pazuzuという2組の北欧バンドだった。その2組が今年リリースした2020年の年間BESTアルバムに共通する“トラップ”、もはやクラシックとブラックメタルの壁をTranscendentalさせた超越者にとっては、僕が提唱している「Djent=Trap説」に対する答えを用意するのはあまりに容易い事だったのかもしれない。

本作の中で最もTranscendentalしちゃってる#5“SIHEYMN's Lament”は、ジャズ風味のある前半に展開されるトラッピーなビートを刻むパートから、後半に展開される(厳密に言えばDjentの生みの親である)メシュガー然とした現代モダン・ヘヴィネス、そのクラシックとは真逆のイマドキのトラップとモダンなヘヴィネスを邂逅させるという、改めてポストメタル界におけるガニキの影響力たるや、だてに「10年代メタル総選挙ランキング同率1位」じゃないなって。

今年、まさかUlverOranssi Pazuzu以外に「メタルにおけるトラップのあり方」を正しい解釈で持ち込んだバンドが登場するなんて想像もしてなかったけど(間違った解釈の例がBABYMETAL)、冷静に考えたら不可能を可能にしちゃう実験的というよりは常識を超えた超越者兼変態であるこのLiturgyがそれをやらないわけがなかった(むしろ3rdアルバム『The Ark Work』の実験性がここへと繋がった感)。もっとも面白いのは、それらに該当するバンド全てがブラックメタル界隈からというのが何より興味深い話で、結局のところ古臭い既成概念をブチ壊すのはブラックメタルという音楽界の異端児という「よくあるオチ」でしかなくて、正直本作におけるクラシックとブラックメタルの融合ウンヌンよりも断然コッチのが凄い事やってる説まである。

Emma Ruth Rundle & Thou 『May Our Chambers Be Full』

Artist Emma Ruth Rundle & Thou
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Collaboration Album 『May Our Chambers Be Full』
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Tracklist
01. Killing Floor
02. Monolith
03. Out Of Existence
04. Ancestral Recall
05. Magickal Cost
06. Into Being
07. The Valley

チェルシー・ウルフの姐御といえば、同レーベルSargent HouseのポストメタルバンドRussian Circlesとのコラボに感化されて何かに目覚めたのか、ポストメタル界のレジェンド=Isisのアーロン・ターナーを迎えた4thアルバム『Abyss』以降、明確にゴシック・ドゥーム/ポストメタル路線に方向転換して驚いたのも今は昔。そんなチェルシー姐さんを筆頭に、実はこの手の女性SSWとポストメタルという一見関連性のなさそうなジャンル同士の異文化交流は古くから独自のルートを通じてあるにはあって、(SSWではないけど)一つ例を挙げるなら「しばらく冬眠するわ」と無期限活動休止を宣言したのに、ブルックリン出身のJulie Christmasとのコラボ作品で何事もなかったように復活したスウェーデンのCult of Lunaが記憶に新しい。それらに象徴される「コラボレーション」の機運が著しく高まってきている流れを汲んで、満を持してチェルシー姐さんの妹分であり同じカリフォルニア出身の同レーベルで同い年のEmma Ruth Rundleが、日本のVampilliaとのコラボでもお馴染みのThe Bodyの盟友でありルイジアナ州の激遅重ヘヴィロックバンド=Thouとのコラボを実現させるという神コラボ展開。

Emma Ruth Rundleって、元はといえばIsis人脈が立ち上げたRed Sparowesのメンバーで、2010年を境にバンドの活動が止まってからはソロ名義でSSWとして活動しつつ、2015年にはMarriagesというポストロック系のバンドでアルバムを発表したり、当時まだ同レーベルだったDeafheavenのツアーにソロで参加したりと、もう完全に「ポストメタル界の姫」のイメージが定着しているSSWだ。しかし、実際に彼女がソロ作でやってる音楽性といえば、ポストメタルとは無縁のTrespassers WilliamやUKのEsben And The Witchとも共振するインディ/ドリーム・ポップやドリーン/ノイズの素養を含んだポストロックの影響下にあるネオフォーク的な抒情的な憂いを帯びたメランコリックな音楽で、例えば姉貴分のチェルシー姐さんがゴシック/イーサリアルをルーツとするSSWなら、妹分のエマはフォーク・ミュージックをルーツとするSSWといったイメージ。変な言い方だけど、それら数々の“前科”があるERRThouのコラボは不思議でもなんでもない案件なんですね。

ちなみに、初期の頃は「UKの相対性理論」だったEsben And The Witchも今やスティーヴ・アルビニを長とするノイズ界隈の一員として活動し、今やSeason Of Mistというバリバリのメタルレーベル所属で、過去にはアンダーグラウンド/ヘヴィミュージックの祭典Roadburn Festivalにも出演している。ちなみに、残念ながら中止が発表された今年のRoadburnではEER40 Watt Sunのコラボをはじめ(←このコラボはエグい)、冒頭のJulie Christmasや2020年のメタルを象徴するOranssi PazuzuRussian CirclesRed Sparowesの再結成ライブ、そしてCult of Lunaのフロントマン=ヨハネスの出演が予定されており、俄然それらの夢のコラボや夢の再結成ライブが実現しなかったのは本当に残念で仕方ない(来年に期待)。要するに、「Roadburn界隈」の一言で全部説明できちゃう案件が今回のコラボなんですねw

今年のヘヴィミュージック界隈で一番興味深い出来事って、それこそ22年ぶりに復活作の『Inlet』を発表したUSオルタナ界のレジェンド=Humが、Deftonesの新作にも影響与えてんじゃねえかぐらいの、むしろDeftonesが新作の『Ohms』で本当にやりたかった事をHumがやっちゃったんじゃねぇかぐらいの、その新時代の「ヘヴィネスの基準」をヘヴィミュージック・シーンに提示してきた事で、何を隠そう、今回のERRThouによるコラボ作品は、結論から言えば「新世代ポストメタル」のビッグウェーブに乗っかった傑作なんですね。

ERRのSSWとしての音楽性が持つエモーショナルな叙情性と、Thouの音楽性が持つ(Nirvanaのカヴァーからもわかるように)90年代のシアトルサウンドをリスペクトしたハードコア/パンク精神溢れるスラッジーなDIYヘヴィネスの相性はこの上なくグンバツで、一見、水と油のように交わることのないモノ同士だからこそ、言わば光と影の関係性のように、闇の中にある一筋の光、あるいは光の中に差し込む闇の如し、(男と女の関係のように)切っても切れない表裏一体の関係性から成り立つ相乗効果により、お互いの新たな一面と未知のポテンシャルを引き出し合っている。これは本当に極端な例えだけど、ERRのインディ・フォーク的な側面とThouのブルージーな側面は、まさに日本のSSWを代表する岡田拓郎がドゥームメタル化したらこんな感じになると妄想しても存外シックリきちゃうのがまた面白い。

初期のPallbearerを彷彿とさせる、フューネラル・ドゥーム然とした重厚なヘヴィネスと一種のメロドゥーム的な慟哭不可避のギターのフレーズや叙情的なギターソロが織りなすポスト・アポカリプス時代の『死亡遊戯』を描き出す#1“Killing Floor”とThouバンド主体のスラッジーな#2“Monolith”、チェルシー姐さんリスペクトなERRによる艶美なパートと獰猛な咆哮とエゲツない重低音を轟かせるThouパートの対比を描きながら、ブルーズじみた泣きのギターソロ/フレーズと著しく感情的に歌い上げるエマのエモーショナルな歌声が邂逅する哀愁ダダ漏れの終盤の展開、その想定外にドラマティックな楽曲構成に脳天ブチ抜かれる#3“Out Of Existence”、スラッジ/デスメタル要素の色濃い#4“Ancestral Recall”、同レーベルのレジェンド=EarthCult of Lunaを連想させるブルーズ臭溢れるスロウコアな前半パートからブラストでブルデス化する後半パートに分かれた#5“Magickal Cost”、そして本作のハイライトを飾る約9分にも及ぶ#7“The Valley”は、冒頭から西部劇映画のサントラ顔負けの情緒的なフィドルの音色をフィーチャーした、それこそERRの叙情的なアンビエント~ポストロックの側面が表面化したような曲で、まさに「女版Hum」を襲名するかのような新世代ポストメタル然としたヘヴィネスをクライマックスに持ってくる完璧な流れ。

改めて今回の異種コラボ、単なるThouのソロとERRのソロをミックスさせただけのコラボじゃない所がミソで、むしろPallbearerに代表される現代ヘヴィロック界のトレンドと直結するような、それこそPallbearerの1stアルバム~2ndアルバムにおけるトラディショナル・ドゥームとポスト・メタルの狭間にあるような抒情的なヘヴィミュージックで、そして90年代のグランジにも精通しているのも俄然同時期にアンダーグラウンドで名を馳せたHum、彼らが発表した今年のヘヴィロックを象徴する金字塔であり復活作の『Inlet』へと結びついていく。そこからたぐり寄せた紐の先にある謎の覆面の正体こそ「女版Hum」だったという「よくあるオチ」。ERRERRで、エマよりもいち早くヘヴィミュージックを取り入れたチェルシー姐さんをイメージ/オマージュしている部分もあって、実際にERRのソロ作におけるメロディを聴いてもDeftonesに影響されてそうな曲もあったりするので、そういった意味でも俄然なるべくしてなった必然的なコラボと言える。
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