Welcome To My ”俺の感性”

墓っ地・ざ・ろっく!

2017年度BEST

Susanne Sundfør 『Music for People in Trouble』

Artist Susanne Sundfør
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Album 『Music for People in Trouble』
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Tracklist
1. Mantra
2. Reincarnation
3. Good Luck Bad Luck
4. The Sound Of War
5. Music For People In Trouble
6. Bedtime Story
7. Undercover
8. No One Believes In Love Anymore
9. The Golden Age
10. Mountaineers

世間が「平和の祭典」とされるオリンピックに熱狂する中、方や中東地域では今なお復讐の連鎖、報復の連鎖による紛争がやまない雨の如く後を絶たないでいる。この諸行無常の世界に救いの手を差し伸べるのは、やはり「音楽」なのかもしれない。いま一度、改めて「音楽の力」を再確認すべき時代がやってきたのかもしれない。このアルバムは、昨今より「繋がり」が求められる時代に、ノルウェイの歌姫スザンヌ・サンドフォーは北朝鮮とアメリカ、ネパールやブラジル、そしてアマゾンのジャングルに至る大陸を横断する旅路の中で、いま世界中で対立し合う国同士、いま世界中でいがみ合う人々の想いを一つ一つ紡ぎ出し、そしてバラバラに分断された国や地域を再び一つの世界に統一される事を祈るような、そんな「平和の象徴」=シンボルを謳った「和平の音楽」である。

前作の5thアルバム『Ten Love Songs』は、それはまるで荻野目洋子”ダンシング・ヒーロー”のような、あるいは「北欧の西野カナ」のような、もしくはCHVRCHESChelsea Wolfe、同郷の妹分であるAURORAに対する回答であるかのような、シンセをはじめイマドキの電子音楽をフィーチャーした、ある種の80年代の歌謡シンセ・ポップに振り切った作風で、そして何よりも”Kamikaze”=「カミカズイ~的な意味でも俺の中で話題を呼んだ。そんな彼女を一躍「ポップスター」に押し上げる大きなキッカケとなった、トム・クルーズ主演のSF映画『オブリビオン』の主題歌に起用されたM83とのコラボ(2013年)から同郷のエレクトロユニットRöyksoppとの再コラボ(2016年)に至る一連の流れから一転して、通算6作目となる今作の『Music for People in Trouble』では、彼女の原点である「シンガーソングライター」としてNEXT_の次元に進んだことを宣言するような、決して前作のような「ポップスター」さながらのキラキラした派手さはないが、シンプルにスザンヌの芯の通った歌声が胸に染み渡る大人のフォークソングを聴かせる。

2017年内の話でも、LAのPhoebe BridgersやUKのMarika Hackmanを筆頭に、いわゆる昨今のフォーク・ミュージック・リバイバル的な潮流に沿った案件でもあって、アコースティック・ギターを中心にグランドピアノやペダルスティール、フルートやクラリネット、更にはサックス、時にはスポークン・ワードを駆使しながら、その清らかな世界観を構築していく。ゲストにはレーベルのベラ・ユニオン繋がりでもあり、スザンヌが敬愛してやまないジョン・グラントが10曲目に参加し、マスタリングにはThe War On Drugs岡田拓郎くんの『ノスタルジア』でもお馴染みのグレッグ・カルビという、その手のインディ系フォーク・ミュージックの分野に長けた文字通りプロフェッショナルなエンジニアを迎えている所にも、今作のただならぬ「こだわり」を伺わせる。

スザンヌ自身が「今の時代って物事が次から次へとすごいスピードで変化してて、時にそれは暴力的で圧倒される。たくさんの人が不安を抱えていると思うの。わたしはそういった感情をこの作品を通して表現したかったの」と語るように、テクノロジーの進化、インターネット時代の到来、そしてSNS疲れなどの一種の現代病から解放するような、そして行き過ぎた資本主義がデッドラインを超えて世界中に蔓延する格差社会、それらを一度「無」に帰すような、人間が持つ本質的な部分に訴えかけるような、そんな現代人の荒んだ心に安らぎと平穏、そして調和を与えてくれる。例えるなら、これはまさに「楽園の音楽」だ。

スザンヌが世界中の国々を訪れる中で彼女が辿り着いた一つの答えこそ、かのニーチェが提唱した「ニヒリズム」の思想だった。その虚無主義的な思想を音楽を通じて表現するにあたって、スザンヌが導き出したのがより身近により自然体で奏でる、まるでその場に寄り添うような自然の音楽、よりオーガニックでよりアナログかつアンプラグドな、それはまるで「アンチ・テクノロジー」の音楽、そしてそれは世界中の人々の耳に届く「自由の音楽」だった。この音楽には、自分の体で、自分の目で世界を確かめた人間だからこそ成せる、ぐうの音も出ない説得力に溢れている。これこそ「今の音」だ。

ペダルスティールを駆使した#1”Mantra”と#2”Reincarnation”の冒頭からして、The War On Drugsをはじめとしたその手のピッチフォーク界隈への迎合を図ったような曲で、そんな中でも、今作の目玉となる#4”The Sound Of War”から#5”Music For People In Trouble”の流れは圧巻の一言だ。そこは争いのない小鳥のさえずりがこだまする美しく広大な地球を舞台にアコギ一本で語り弾く女神=シンボルという、もはや不気味なくらい平和な光景から一転、すると前触れもなく「ソレ」はやってきた。その曲調からして、「ソレ」はまるで平穏な日常に忍び寄る恐怖、それこそ”戦争の足音”すなわち「散歩する侵略者」の足音が聞こえてくるような、その「音(Sound)」こそ人類が最も恐るるべき「恐怖(Fear)の音」である。

前作では”Kamikaze”という曲でスザンヌなりの”Love”を描き出していたが、この”The Sound Of War”では自身の実体験とも呼べるより”リアル”な恐怖(Fear)を与えることで、より強い”Love”、そして”Peace”を人々の潜在意識に植え付けている。同郷の「繋がり」で言うと、ノルウェイの森のクマさんことUlverが地元のオーケストラとコラボした『Messe I.X - VI.X』、あるいは坂本龍一『async』みたいなアンビエント・ポップ/スポークン・ワード的なスピリチュアルな世界観、もしくはエンヤJulianna Barwick的なニューエイジ回帰というか、デビュー10周年にして彼女は何を悟ったのか、過去最高にスザンヌのパーソナルな部分と”Love&Peace”なリベラリズムが「音(Sound)」に込められている。ちょっと面白いのは、同じく2017年にリリースされたUlverの新作『The Assassination of Julius Caesar』がスザンヌの前作『Ten Love Songs』っぽいシンセ・ポップな作風で、逆にスザンヌの新作『Music for People in Trouble』Ulverの前作『Messe I.X - VI.X』っぽい作風になってるところで、これはそろそろコラボあるんじゃねー的な淡い期待。とにかく、色々な意味で今作はHostessから国内盤が出てもおかしくない内容。

4thアルバムの『The Silicone Veil』以前の「天上の歌声」と称すべき彼女の超絶歌唱が堪能できる#7”Undercover”は今作のハイライトで、そしてよりエンヤっぽさを醸し出す#9”The Golden Age”、そしてジョン・グラントとスザンヌのデュエット曲となるラストの#10”Mountaineers”まで、とにかくこれまで以上にミニマムなスタイルでありながらも、その「音(Sound)」が奏でる”Love”に、過去最大級のスケールに只々圧倒されると同時に、でも不思議と身を委ねてしまう心地よい癒やしの空間でもある。作品の完成度は過去作と比べても全く引けを取らないし、少なくとも前作よりはスルメっぽいアルバムで、噛めば噛むほど聴けば聴くほど味が出てくる感じ。改めてみても、これはちょっと凄い。彼女、もうエンヤジュリアナ・バーウィックと同じ領域にいる。

年間(色んな)BEST2017

年間BESTアルバム2017

14,ana_thema 『The Optimist』
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2001年作のアルバム6th『A Fine Day To Exit』の実質続編に当たるこのアルバムは、そのアルバムの最後を飾る”Temporary Peace”の約5分間の「無」から生まれた、約1時間に及ぶ「有」の音楽であると、つまり一曲の中にある無音部分に見た『夢』という名のパラレルワールド(平行世界)であると、僕はそう解釈した。2015年に奇跡の来日公演を果たし、そのステージの上で「神降ろしのアナセマ」となり、そして「神殺しのアナ_セマ」すなわちデビルマンに姿を変えたアナセマは、いわゆるペシミスト的な思考が蔓延した現代の日本人に対して、これから2020年の東京五輪に向けて日本人に必要なのは、他ならぬこのアルバムの主人公と同じオプティミスト的な思考であると説き伏せるような、そんな「意識高い系バンド」らしい作品でもあった。そんな彼らの師であるスティーヴン・ウィルソンが「80年代リバイバル」をやったかと思えば、そのSWの右腕であるアナセマが「90年代リバイバル」をやってのける師弟対決も面白かった。気になるのは、このコンセプト・アルバムの曲をライブでどう表現するのか?で、そういった意味でも約3年ぶりの再来日公演を期待したい。それとも過去にマサ伊藤の番組でヴィンセントが「フジロックに出たい」と語っていた『夢』が遂に叶うか・・・?もしや、このアルバムはそのフジロック出演を狙って、今や「フジロックの申し子」的な存在であるモグワイのプロデューサーであるトニー・ドゥーガンを迎えた可能性・・・?あのローレン・メイベリー率いるチャーチズがフジロック第一弾で発表されたってことは・・・ガチのマジで今年のフジロックあるで。

13,Marika Hackman 『I'm Not Your Man』
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「女版スティーヴン・ウィルソン」ことマリカちゃんがロンドンのガールズバンドThe Big Moonを迎え、かのHostess Entertainmentからリリースされた2ndアルバムは、奇遇にもアナセマと同じ「90年代リバイバル」を感じる作品で、つまりマリカがナードのティーン・エイジャーだった頃に夢中になっていたニルヴァーナをはじめとした、90年代のオルタナ/グランジ愛に溢れたリバイバル作品だった。アルバムタイトルの『I'm Not Your Man』は、まさにこのマリカがレズビアンであることを意味している。

12,Cigarettes After Sex 『S/T』
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絶賛炎上中のはあちゅうって、「童貞はCigarettes After Sexのデビュー作をベッドルーム・ミュージックにしながらクソして寝ろ」みたいなユーモア溢れるツイートだったらあそこまで炎上しなかった説あって、それくらい「究極の童貞煽り」みたいなバンド名を掲げた、グレッグ・ゴンザレス率いるCigarettes After Sexのデビュー作は、同じくHostess Entertainmentからリリースされたマリカがレズビアンなら、グレッグもLGBT直系のフェミニンな歌声とスロウダイヴ直系のミニマムでミニマルな極上のサウンドスケープを聴かせる。これには童貞のスティーヴン・ウィルソンもSpotifyのプレイリストで怒りのパワープッシュ。

11,Pain of Salvation 『In the Passing Light of Day』
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そのグレッグ・ゴンザレスに「女々しいねんお前」とドツいてそうな、範馬勇次郎の「鬼の顔」が浮かび上がったダニエル・ギルデンロウの背中と見せかけて、いたずら小僧が「このオッサンの背中にマンピー書いたろwww」的なノリで描かれた今作で完全復活したPoS。そのアートワークの通り、命の危機を経験した事で強靱な肉体と強靱な音を求めたダニエルが「メタル回帰」した復活作。なお、このツアー後にイケメンギタリストのラグナルが脱退した模様。

10,Mastodon 『Emperor of Sand』
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祝グラミー賞、祝サマソニ2018出演ということで、2017年はツイッターの代わりにマストドンなる新しいSNSが台頭した年であり、そしてバンドの方のマストドンも何作かぶりに復活した年でもあった。このアルバムを引っさげてのサマソニは最高のタイミングとしか言いようがない。しかもニッケルバックもサマソニとなると、これでストーン・サワーが追加されたらネタ的な意味で面白いし、某メイドが追加されたらほぼ間違いなく行くし、こっから更に目当てなのが2,3くらい追加されたら絶対に行くわ。例えば久々にチャーチズとか思ったけど、まさかのフジロックで驚いた。となると、チャーチズの代わりとして遂にPhantogramクルー?だって、今やNetflixの海外ドラマ見てたら普通に聴こえてくるほどメジャーな大物アーティストに成り上がったPhantogramが来日しない意味がわからない。あと何度も言ってるけど、意外とゴジラってフェスバンドだから普通にサマソニにフィットすると思うし、いい加減にデフヘヴン見たいからサマソニ呼んで欲しい。だからクリマン頼む!

9,NECRONOMIDOL 『DEATHLESS』
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2017年は、個人的なニュースとして「アイドル回帰」した年でもあって、それを象徴するような存在がネクロ魔だった。ベビメタが「アイドルとメタル」の融合を掲げるアイドルならば、このネクロ魔は「ブラック・メタルとアイドル」が融合した暗黒系アイドルだ。デフヘヴン顔負けの一曲目からド肝を抜かれた。でもこのフルアルバムより、同年に出たシングル『DAWNSLAYER』の方が凄くて(中でも”R'LYEH”は俺的アイドル楽曲大賞)、しかもそのシングルよりもつい最近リリースされたシングル『STRANGE AEONS』の方が凄いという、端的に言ってしまえば「いま最も面白いアイドル」の一つです。

8,BAND-MAID 『Just Bring It』
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2017年は、小鳩ミクとかいう「新しいオモチャ」を発見した事が個人的なサプライズだった。お陰で今年は8回もお給仕に帰宅して、小鳩ミクのモンスターレベルを「8」に上げた。そのメイドは秋冬ツアーのツアーファイナルで「世界征服」を掲げ、2018年に一体何を仕掛けてくるのかと楽しみにしていた。しかし、実際にフタを開けてみたら、どこぞの馬の骨かも分からないアマチュアバンドとの対バンをはじめ、かのワープド・ツアーにPassCodeと一緒に出演決定かと思いきや、まさかのBiSHに立ち位置を奪われちゃってる始末で、結局昨年と何も変わらない動きを見せていて「ダメだこりゃ」ってなった。こいつらバンドの「格」を知らなすぎる。少なくとも、昨年サマソニに出たバンドの「格」じゃない。この程度の覚悟ならサマソニなんか出ない方が良かったし、クリマンは二度とこいつらサマソニに呼ばなくていいです(アツい手のひら返し)。もうダメだこいつら。恐らく、今年のラウパにほぼ100㌫出るであろうLOVEBITESとホントに立場逆転しそう。勝ち馬に乗りたい人は今すぐLOVEBITESに乗り換えたほうがいいです。事実、既にJPU Recordsは乗り換えているw あと数日後のバレンタインにリリースされる2ndアルバムのティザーも聴いたけど、正直この『Just Bring It』は超えてないと思った。もちろん、たった数十秒の音源で何が分かるのかと思うかもしれないけど、何故なら俺レベルのインターネットトップレビュアーになると、たった数十秒だけでその曲の全体像を掴むことができちゃうからだ。だから、このアルバムのレビューは数年ぶりの「愛のある肩たたき」になるか、それとも今世紀最大の「爆笑レビュー」になるかどっちかだと思う。これで今年のサマソニにBiSHが出たら爆笑するわ。

7,ねごと 『ETERNALBEAT』
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Boom Boom Satellitesの意思を継ぐものとして、一番最初に指名されたのがガールズバンドのねごとだったのは、もはや何かの因果としか思えなかった。ねごととブンブンサテライツの関係性、それ即ちアナ_セマとブンブンサテライツの関係性と同意であり、2017年に両者が発表したアルバムには、紛れもなくブンブンサテライツの「遺伝(EDM)子」が込められている。同年に発表されたアルバム『SORK』には、引き続きブンブンサテライツの中野雅之氏を迎えた曲を収録し、今作以上にそのダンサブルなビート・サウンドを極めている。

6,MONDO GROSSO 『何度でも新しく生まれる』
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2017年は、1月からのドラマ『カルテット』を皮切りに、中頃にはMONDO GROSSOの14年ぶりとなる新曲『ラビリンス』の正体として話題を呼ぶと、その流れでMステからのフジロックにサプライズ出演、そしてクドカンのドラマ『監獄のお姫さま』まで、今年2017年は年始から年末まで「満島ひかりの年」だった。このアルバムのレビューは、ハッキリ言って満島ひかりがフジロックで歌って初めて完成するレビューだと思ってて、でも本当にフジロックに出るとは思ってもみなくて、だから実際にフジロックのステージで『ラビリンス』を披露した満島ひかりちゃんには只々感謝しかない。個人的にも、2017年は園子温監督の映画『アンチポルノ』のサイン入りポスターに当選して、久々に映画『愛のむきだし』を見返したりちょっとした縁もあって、極めつけには『監獄のお姫様』の中で『愛のむきだし』の「サソリ」をオマージュしたシーンが出てきて、テレビに向かって「クドカンやりやがったw」ってツッコんだよね。

5,Power Trip 『Nightmare Logic』
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なんかもう2017年の「メタル」はこいつらだけ聴いてりゃいいみたいな、正直このアルバム聴いてないやつはモグリなくらいの勢いあって、とにかくそれくらい頭悪い極悪スラッシュ。これがまたハゲ上がるくらいカッコよすぎて、メタル最王手のニュークリア・ブラストによる青田買いに巻き込まれないか心配になる。もうコンヴァージかデフヘヴンと一緒でいいから来日して欲しい。

4,Ulver 『The Assassination of Julius Caesar
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2017年の上半期にこのアルバムを聴いた時は、「今年これ超えるアルバムは出ないだろうな」って本当に思った。でもこの順位ってことは、つまりはそういうことなんだけど、ノルウェイの森のクマさんの通算13作目となるこのアルバムも、80sのニューウェーブやポスト・パンクをルーツとした「80年代リバイバル」の一貫で、没後20年のダイアナ妃(プリンセス・オブ・ウェールズ)とギリシャ神話の山野の女神ディアナ(アルテミス)を、その女神と関わりの深い現代の熊さんが芸術/神話/歴史/文学/絵画/音楽などの、あらゆる芸術的手法を用いてセクシャルに、そしてハラスメントに暴き出すような名作だった。

3,tricot 『3』
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なんかもう『3』だから3位にするという、もはや年間BESTの存在意義が問われ始めている気がする2017年問題。でも、その内容は3位でも全くおかしくないくらいの出来だから無問題。面白いというか、ちょっと皮肉だなと思ったのは、盟友赤い公園から佐藤千明が脱退してトリコットと同じ「3」人トリオのバンドになってしまったかと思えば、今度はトリコットがこのアルバムをリリースした後にドラムが正式加入して、つまり『3』+「1」=「4」のバンドになったことで、その「+1」が今後のトリコットにどのような化学変化を及ぼすのか、今は期待しかない。

2,岡田拓郎 『ノスタルジア』
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まさかのHostess Entertainmentからリリースされた、ex-森は生きているのリーダーだった岡田拓郎のソロデビュー作。やってることはまんまSWの新譜と同じ「ポップスの再定義」で、同時に彼は現代のインディ視点から「日本語ロック」を再構築している。正直、この年齢で今のSWと同じことやってる時点でかなりの天才だと思うし、もし奇跡的にSWが来日した暁には是非ともサポートしてほしいというか、それができるのって日本には岡田くんしか存在しない。

1,Steven Wilson 『To the Bone』
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このアルバムのレビューは、音楽シーンにおける「今の基準」と「これからの基準」である。なんだろう、SWに「お前が日本の基準を書け」と言われたような気がした。このアルバム、とにかくSWよりもジェレミー・ステーシーとクレイグ・ブランデルによる二人のドラムプレイがメチャクチャ良くて、今作を名盤たらしめている最も大きな要員となっている。で、この記事にまつわる面白エピソードを語ると、実はこの記事で一番最後に書いたのって『デッドストック』のくだりなんだけど、ほぼ全て書き終えた時に「やっべ、『デッドストック』最終話の見逃し配信今日の夜までじゃん!」って気づいて、急いで観たらまんま今作のコンセプトである「ポスト・トゥルース」の話やってて、なんだろう「引力」って本当に面白いなって。このアルバムが言いたいことって、要するに「あなたの思う真実は、彼らにとっての真実ではない」ということで、現代はインターネットを使ってあらゆる情報を得られる便利な時代、そのハズなのに、人間ってのは結局「自分に都合のいい真実(ポスト・トゥルース)」ばかりを求めて、本当の「真実」には一切目もくれず、挙げ句の果てには「まとめサイト」に書いてあることを鵜呑みにしてしまう。皮肉なのは、よくネットで「新聞の情報は隔たっている!」という人がいるけれど、結局その人もネットを使って「自分に都合のいい真実」を一方的に咀嚼しているだけってこと。SWは、このアルバムの中でそんな現代人に蔓延る、いわゆる「ネットde真実」を揶揄しているのだ。もう一つのエピソードとしては、当初はアナ_セマの新譜について書いてた時に、「これちょっと長くなりそうだな」と思って、ちょうどその頃にHostessからリリースされたこのアルバムを聴いたら、思いのほか「シンプルなポップス」でサクッと書けちゃいそうだったからSWに浮気した結果、まさかそれが約10年間ブログで書いてきたこと=伏線を綺麗に回収するような作品だとは思わなくて、その時の気分はまるで映画『メッセージ』の主人公ルイーズと同じ「時制のない世界」を彷徨うかのような奇跡体験で、改めて「引力」って怖いなって思った。もはやこれだけ「基準」を書かせて来日しなかったら「うるせぇ、メガネわんぞ」って感じ。

これは一昨年の年間BESTにも書いたことだけど、引き続いて、これからの時代には繋がりが大事になってくるんじゃないかとより強く思うようになっていて、年間BESTアルバムもHostess繋がりをはじめ、映画やリバイバルを含めて全てがトップのSWに繋がっている状態です。なんだろう、かのピッチフォークがケンドリック・ラマーの『DAMN.』を年間BESTアルバムの1位にするなら、うちはSWの『To the Bone』を1位にするよって、わりとシンプルな話。正直、岡田くんとSWのワンツーフィニッシュは、どの年間BESTよりもドヤ顔できる。

そして、2017年は様々な分野で「基準」が定められた年でもあった。もちろん、ここに選んだBESTアルバムは全てSpotifyで聴けます。というか、「これからの時代」はSpotifyはじめ他のサブスクで配信されていない音楽は、もはや「この世に存在しない音楽」と同じで、もう「これからの時代」はサブスクがレコード屋のCD棚の代わりとなる時代、その「基準」の「始まり」を宣言した年でもあった。


【俺的ラブメイト2017

1,彩ちゃん(BAND-MAID)
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選考理由:虎サーの姫

2,桜子(predia)
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選考理由:面白くて可愛い=オモカワ系アイドル

3,満島ひかり
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選考理由:2017年はやっぱり「満島ひかりの年」

4,泉里香
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選考理由:indeeeeeeeeeed!!

5,ナタリア・ダイアー
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選考理由:『ストレンジャー・シングス』

6,飛鳥凛
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選考理由:イエ~イめっちゃ美乳

7,華村あすか
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選考理由:桜子の上位互換もとい下位互換


年間BEST映画ランキング2017
『PARKS パークス』
『ロマンポルノ・リブート』シリーズ
『彼女の人生は間違いじゃない』
『夜空はいつでも最高密度の青色だ』
『わたしは、ダニエル・ブレイク』
『ヒトラーの忘れもの』
『ドリーム』
『怪物はささやく』
『マンチェスター・バイ・ザ・シー』
『スウィート17モンスター』
『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』
『20センチュリー・ウーマン』
『さよなら、ぼくのモンスター』
『 哭声/コクソン』
『メッセージ』
『ムーンライト』

『ムーンライト』とか『メッセージ』とか今年の映画扱いでいいのかよっていう鋭いツッコミは、まぁ細けえことはいいんだよ的なアレ(『ラ・ラ・ランド』と『ダンケルク』は同監督とも前作のが好きだったからランク外)。個人的な好みで言えば『メッセージ』がダントツなんだけど、それ以上に今年は「基準」が作られたという意味では、『ムーンライト』を超える映画はないと思っている。と言うより、この『ムーンライト』を1位にしなきゃいけない理由が日本人にはあって、それこそ2017年のまさに年末の年越しに起こった『笑ってはいけない』のとあるシーンが世界を巻き込む騒動となった「ブラックフェイス問題」こそ、この映画『ムーンライト』を1位に選ぶこれ以上ないほど明確な、説得力に溢れた理由だ。つまり、2017年はお笑い界でも「基準」が定められた年と言える。つまり『めちゃイケ』や『とんねるずのみなさんのおかげでした』、そして『笑ってはいけない』のような「旧時代」のお笑いが終わりを告げた歴史的瞬間でもあった。2017年は『新感染』や『 お嬢さん』をはじめ、韓国映画の年でもあって、その中でも一番強烈だったのは3位の『コクソン』で、この映画って日本人役を演じた國村隼が韓国の映画祭で男優助演賞を獲得して初めて完結する(した)映画だと思っていて、この映画ってつまり「そういう映画」で、こんなトンデモナイ映画見せられたら日本映画はもう一生敵わない。

今年一番泣いた映画は『怪物はささやく』と『ドリーム』で、『ドリーム』も『ムーンライト』に通じる「2017年の基準」を感じる映画だった。普段からあまり観る機会がない邦画は、『ロマンポルノ・リブート』シリーズが全部良かったのと、音楽映画として秀逸な『パークス』をはじめ、『彼女の人生は間違いじゃない』とex-満島ひかりもとい石井裕也監督の『夜空はいつでも最高密度の青色だ』は、前者はまさに3.11以降の日本をメタ的に暴き出し、後者はその3.11から2020年までの日本を繋いでいくような映画で、そういった意味ではキネ旬ベスト・テン日本映画1位に選ばれるのにも納得する。園子温監督の映画『アンチポルノ』をはじめ、全部で5作品ある『ロマンポルノ・リブート』シリーズの楽しみ方としては、一通り全部見た後で出演している女優のツイッターをフォローして、女優のツイートがタイムラインに流れてくるたびに、映画内で魅せた「おっぱい」を思い出す言うなれば「おっぱい記憶検定」みたいな、一種の記憶力の向上にオヌヌメです。例えば、『アンチポルノ』の冨手麻妙のツイートが流れてきたら「デカい」ってなるし、『ホワイトリリー』の飛鳥凛ちゃんのツイートが流れてきたら、記憶を巡らせて「うわ・・・めっちゃ美乳やん・・・」ってなるし、今度は『ジムノペディに乱れる』の岡村いずみちゃんのツイートが流れてきて、記憶を巡らせたら「板尾許さねぇ・・・(by板尾の嫁)」ってなるし。


年間BESTドラマ2017
(順不同)
『カルテット』
『デビルマン』
『ストレンジャー・シングス』シーズン2
『ブラックミラー』シーズン4
『ダーク』
『The Sinner -記憶を埋める女-』
『マインドハンター』
『マンハント』
『ラインオブデューティ』シーズン4
『アトランタ』
『13の理由』
『このサイテーな世界の終わり』

2017年は、音楽は元より映画以上に海外ドラマに時間を費やした年でもあった。ほとんどNetflixのドラマって時点で色々と察することができると思うけど、2017年は、サブスクリプションにおける「これからの基準」を垣間見た年だった。まさに、それを象徴する出来事がNetflix資本で湯浅監督によって描かれた『デビルマン』である。大袈裟かもしれないけど、いわゆる「地上波アニメ」が終わりを告げた歴史的瞬間を垣間見た気がした。「これからの時代」は、このような地上波のTVアニメではなく、映像ストリーミング配信などのサブスクが資本のアニメやドラマがますます増えていく時代になると。その「第一歩」が『デビルマン』だったのだ。

『ストレンジャー・シングス』のドイツ版とされる『ダーク』は、さすがアインシュタインを生んだ国としか言いようがない、その名の通りダークなSFドラマで最高。コメディドラマは、『マスターオブゼロ』よりも『アトランタ』のが好きだった。特に7話は腹がネジ切れるくらい笑った。『このサイテーな世界の終わり』も一話目のキスシーンから「あ、これオモロイやつだ」ってなった。掘り出し物だったのは『-記憶を埋める女-』で、とりあえず劇中に出てくるクラブのシーンで流れる音楽がCigarettes After SexとPhantogramという、ピンズドで自分の好みを突いてきて最高すぎた。セックスは前作のEPから”Nothing's Gonna Hurt You Baby”が、Phantogramは自分が一番好きなEP『Nightlife』から”A Dark Tunel”が流れてきて、マジこのドラマ「わかってる」ってなった。そんな海外ドラマにも出てくる超大物メジャーアーティストのPhantogramが来日しない意味がわからないので、何度も言うけどいい加減にサマソニ呼んで欲しい。

そして『13の理由』、このドラマの終盤のシーンを見た時、僕は荒木飛呂彦が現在連載中の『ジョジョリオン』の「とあるシーン」を思い出した。ネタバレすると、それはヒロインが浴槽でリスカ自殺する場面で、そのシーンと『ジョジョリオン』のヒロインである広瀬康穂がSNSのイジメを苦にしてリスカ自殺(未遂)して、その現場を母親が目撃するという構図が全く同じなのだ。ネタバレと言っても、そもそもこのドラマ自体が現代日本でも社会問題化している「イジメ問題」をテーマにしたドラマで、このドラマの構成上「自殺」は「始まり」に過ぎないからだ。とは言え、なんだかんだ飛呂彦もNetflix(サブスク)と契約して、主にティーン・エイジャーの話がメインとなる『13の理由』をウォッチしていると分かったのは大きな収穫だったし、ヒロインをメンヘラ化させてリスカ自殺(未遂)させる飛呂彦ってやっぱり「生首ワッショイ」させた永井豪先生の正統後継者なんだなって。あと映画『ドント・ブリーズ』でもお馴染みの、ポスト・ジョセフ・ゴードン=レヴィットくんことディラン・ミネットくんが主役級で出演しているのも◎


あとがき


これは坂本龍一をはじめ、様々な著名人が言ってることなだけど、要約すると「近頃はインプットすることが多すぎてアウトプットする時間がない」と。僕自身、2017年に見た映画やドラマも「最低限」のインプットでしかなくて、これ以上インプットしようにも本当に時間がいくらあっても足りない。こうなると音楽の優先度は更に低くなっていくばかり。どうしよう?

ana_thema 『The Optimist』

Artist ana_thema
anathema

Album 『The Optimist』

_SL1000_

Tracklist
01. 32.63N 117.14W
02. Leaving It Behind
03. Endless Ways
04. The Optimist
05. San Francisco
07. Ghosts
08. Can't Let Go
09. Close Your Eyes
10. Wildfires
11. Back To The Start

2015年の夏に奇跡の初来日公演を果たしたアナセマことANATHEMA。バンド結成から27年目を迎えたアナセマは、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』荒木飛呂彦の作品遍歴と同じく、音楽遍歴が「流動的」なことでも有名なバンドで、その音楽性の移り変わりはザックリと大きく3つに分類することができる。

1990年にリヴァプールで結成された当初はPagan Angelという名で活動していたANATHEMAは、その憂鬱で破滅的かつ絶望的な世界と隣接した音楽性から、同じPeaceville一派であるMy Dying BrideParadise Lostと並んでUKゴシックメタルの「御三家」としてその名を馳せると、バンドは00年代に差し掛かると大きな転換期を迎える。それこそアナセマの長い音楽史の中でも「最も幸福だった日々」すなわち『Fine Days』とも呼ばれる黄金期」で、それは1999年作の『Judgement』を皮切りに、2001年作の『A Fine Day to Exit』と2003年作の『A Natural Disaster』では「90年代」のオルタナやグランジからの影響を感じさせる作品を立て続けに発表し、その『Fine Days』の時期に培った彼らの「オルタナティブ」に対する意識は、その後のana_themaの音楽性にも大きな影響を与える事となる。

その『Fine Days』の頃に世話になった所属レーベルのMusic For Nationsが買収されるとバンドはしばらく小休止となるが、バンドは2008年にスティーヴン・ウィルソンが主宰する新興レーベルのKscopeから過去作の名曲をリメイクした『Hindsight』をリリースし、「生まれ変わったアナセマ」を宣言すると、2010年に同じKscopeから奇跡の復活作となる『We're Here Because We're Here』を発表し、SWが掲げる「Post-Progressive」の右腕としてその存在感を誇示し始める。2012年にはプロデューサーにChrister André Cederbergを迎え、最高傑作と名高い『Weather Systems』というまるで「世界を一巡」させるような作品をリリースし、2014年には自身のバンド名であるANATHEMAという「呪い」を解く物語のような『Distant Satellites』をドロップすると、その翌年には奇跡の初来日公演を実現させる。

その初来日公演でアナセマは、それこそ漫画『デビルマン』のラストシーン(神VSサタン)の「その後」を新説書ならぬ新説音として描き出すような、それこそ「神堕ろしのアナセマ」となって、そして最終的には「神殺しのアナセマ」として空前絶後の壮絶的なライブを繰り広げた。その後、Netflix資本で湯浅政明監督の手によって漫画史上最高とも言える衝撃的な展開と壮大なラストシーンを描く『デビルマン』の新作アニメが制作発表されたのは、もはや全てが何かと繋がっているような、もはや何かの因果としか思えなかった。そして、その「神殺しのアナセマ」は今度はana_themaへと姿を変え、約3年ぶりに通算11作目となるオリジナルアルバム、その名も『The Optimist』を世に放つ。

「The Optimist」
意味:楽観主義者

今作のタイトル「The Optimist」の意味が「楽観主義者(オプティミスト)であると知った時、「え、それ俺じゃん」ってなった人も少なくないかもしれない。それはともかく、今作の『The Optimist』は、2001年作の『A Fine Day to Exit』のアートワークにインスパイアされた、言ってしまえば実質続編と解釈できる自身初となるコンセプト・アルバムで、その「旅」をテーマとした『A Fine Day to Exit』の中で、絶望の淵に追いやられたペシミスト(悲観主義者)の主人公が最後に行き着いた先、それがこの『The Optimist』「始まり」となる浜辺で、つまりこの物語は、それまでネガティブで後ろ向きな思考を持つペシミスト(悲観主義者)だった主人公が、一転して前向きでポジティブな思考を持つオプティミスト(楽観主義者)へと心変わりしていく「人生の旅」、その話の続きを描き出している。確かに、アナ_セマって元々コンセプチュアルなバンドではあるけれど(その中でも『A Fine Day to Exit』は特に)、はなっから「コンセプト・アルバム」を明言した作品は今作が初めてだ。

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改めて、今のアナ_セマって理論物理学の最高権威で知られるスティーヴン・ホーキング博士が主宰するStarmus Festivalに招待されて映画音楽界の巨匠ハンス・ジマーや歌姫サラ・ブライトマンと共演しちゃうくらい、今やあのU2と肩を並べるくらい「意識高い系バンド」の一つで、そもそもバンドの中心人物であるダニー・キャヴァナーの「意識の高さ」っつーのは過去のラジオ出演などからも明白であり、当然その「意識の高さ」は音楽面にも強く反映されていて、いつ何時だってアナ_セマはその時代その時代の音楽シーンの流行りを的確に捉え、そして自分たちの音楽に昇華してきた。決して二番煎じに陥らない確固たるオリジナリティをもって。

そんな、20年以上にも及ぶ彼らの音楽人生の中で一番の転機となったのは、アナ_セマ『Fine Days』すなわち黄金期」の真っ只中にいた2001年の『A Fine Day to Exit』だと断言していいだろう。少し前に「ノストラダムスの大予言」が世間を騒がせたかと思えば、今度は「2000年問題」が騒がれ始めた時代に発表されたこのアルバムは、「90年代」のロックを象徴するオルタナ/グランジの影響下にある作風で、それまでは広義の意味で言うとまだ「ゴシックメタル」の枠組みにいたアナ_セマが初めて「脱メタル」をアナウンスした瞬間でもあった。面白いのは、その「脱メタル」した先がオルタナ/グランジというメタルを「メタルの暗黒期」と呼ばれる時代に追いやった、言うなればメタル界の「敵」と呼ばれる音楽に寝返ったことだ。しかし、その一つの枠に囚われない貪欲な姿勢、その「したたかさ」こそアナ_セマの魅力の一つと言える。

 稲川VR淳二
new_スクリーンショット (34)「こんばんは、稲川VR淳二です。」

 稲川VR淳二
new_スクリーンショット (34)「実は私ねぇ、こう見えて怖い話の他にも音楽がひと一倍好きな人間で、特に最近はイマドキのプログレにハマっていましてねぇ、そんなイマドキのプログレの中でも特にお気に入りなのがアナセマというイギリスのバンドでしてねぇ、まずその”アナセマ”とかいうギリシャ語で”呪い”を意味するバンド名からしてホラー要素に溢れているわけなんですが、まぁ、それはともかく、実は今回そのアナセマが約3年ぶりに新作を発表したっていうんでね、早速聴いてみたわけなんですよ」

 稲川VR淳二
new_スクリーンショット (34)「恐る恐る一曲目を再生してみると、何やら浜辺に打ち付けるような波の音と息の荒い男の気配がする。その”Panic”状態に陥った「謎の男」は車に乗り込むと、大きく深い溜め息をついてからエンジンをかけ、そしてカーステレオをオンにして車を走らせる。ラジオからの情報によると、どうやら(サンフランシスコ・)ベイエリアが氾濫するほどの異常気象(Weather Systems)が起こっているらしい。私はそれを聴いた瞬間、うわぁ~嫌だなぁ~怖いなぁ~って。するとねぇ、今度はラジオから音楽が聴こえてくる。そしたら次の瞬間・・・」


ティキドゥンドゥン


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 稲川VR淳二
new_スクリーンショット (34)「なんだなんだなんだなんだなんだ、ダメだダメだダメだダメだ、だっておかしいじゃない。私の知ってるアナセマはロックバンドなのに、まるでEDM顔負けの打ち込みが聴こてくるんだもん。妙に変だなぁと思って、怖いもの見たさもあって我慢して聴き続けてみた。すると私ねぇ、気づいちゃったんですよ・・・」

「あぁ、これシン_ブンブンサテライツだって」
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「32.63N 117.14W」
32.63N 117.14W

この物語は、”32.63N 117.14W”という「とある場所」を示した曲から始まる。この「北緯32.63度 西経117.14度」をグーグルマップで調べてみると、そこはカリフォルニア州サンディエゴ郊外にあるシルバー・ストランド・ステート・ビーチの位置を示していた。ご存知、この場所はトラヴィス・スミスが手がけた『A Fine Day to Exit』のアートワークが撮影された場所だ。つまり、主人公のペシミストが『A Fine Day to Exit』の最後の曲である”Temporary Peace”の中で辿り着いた浜辺である。主人公のペシミストは、この場所から新しい人生の一歩を踏み出していく。そう、何度でも新しく生まれ変わるように・・・。

アナ_セマが2014年作の『Distant Satellites』について語っていたのは、これまでにない「インプロヴィゼーション」だったり、「エレクトロニック」な要素をはじめとした「実験的」なアプローチで、その「実験的」な要素を最も象徴していたのが表題曲の”Distant Satellites”だった。この曲は、いわゆるEDMにも精通するダンサブルなビートを刻み込む、20年にも及ぶ音楽の「旅」でアナ_セマが辿り着いた「ロックの未来形」であり、それはまさしく日本のBoom Boom Satellitesが示した「全く新しいロックの形」だった。それらの「伏線」を全て飲み込んだのが、実質オープニングナンバーと言える”Leaving It Behind”だ。

まずイントロから「あれ?俺ってEDMの音源なんて持ってたっけ」状態になる。その鳴り止まないダンサブルな電子音を皮切りに、いつにもなくエッジに尖った、それこそ『A Fine Day to Exit』を彷彿させるグラ_ンジ譲りのダーティでザラザラしたギターの音作りを、『We're Here Because We're Here』の立ち位置から再解釈したような、それはまるで赤い公園”ボール”のようなミニマルなリフ回し、それに覆いかぶさるように今度はAlice in Chains顔負けのボーカルが聴こえてきて、遂にはダンスフロアという名の宇宙に放り込まれるような場面もあって、正直ここまでどれだけの情報が詰め込まれているのかと、とにかくその情報量の多さに何をどう理解していいのか戸惑う。

「アナ_セマ」=「シン_ブンブンサテライツ」

まず足元から激しく打ち上げるような重低音が、本気と書いてマジでEDMなイントロからド肝を抜かれる。そして、2分50秒からのクラブのダンスフロアにタイムリープしたような、自然と体が踊りだすようなダンサブルなパートを耳にした瞬間、過去に僕はこの音に出会ったことがあると思った。それこそ、2015年に観たBoom Boom Satellitesと2017年に観たねごとのライブで体感したダンスフロアと全く同じビート感だった。この大胆不敵なエレクトリック・ロック、本当にBoom Boom Satellitesが蘇ったかと錯覚するほどだった。とにかく、これで全てが繋がった。僕は過去にBoom Boom Satellites「アナ_セマの未来である」と説いたことがある。しかし、アナ_セマよりひと足先にBBSの「意志」を受け継いだのが、日本のガールズバンドねごとだった。ねごとBBS中野雅之氏をプロデュースに迎えた『ETERNALBEAT』は、まさに「シン・ブンブンサテライツ」と呼ぶに相応しいアルバムだった。この”Leaving It Behind”は、まさに「アナ_セマの未来」を示すものであり、同時にねごとが示した「シン・ブンブンサテライツ」に対する彼らなりの答えでもある。

この曲の、言うなれば「90年代」のオルタナ/グランジ回帰は全て意図的なものである。カリフォルニアのビーチサイドから始まった人生の再起を図る旅は、まだ旅の序盤も序盤で、主人公のペシミストは未だ『A Fine Day to Exit』の頃の破滅主義者のような憂鬱な気分に後ろ髪を引かれている。フロントマンであるヴィンセント・カヴァナーの無感情で倦怠感溢れるボーカルは、まさにアリチェンニルヴァーナに代表される「90年代」のグランジ全盛を彷彿とさせ、主人公のペシミストが置かれた状況、その感情のままに歌っている。『A Fine Day to Exit』”Underworld”は、それこそグランジを象徴するダークで退廃的なヘヴィネスを忠実に再現していたが、この”Leaving It Behind”では『We're Here Because We're Here』のウェットに富んだクリーンなギターを、意図的にグランジ的な歪みを効かせたような乾いた音作りからも、これはファッション業界や映画界が中心となって世界的にあらゆる業界で囁かれている「90年代リバイバル」を、流行に敏感なアナ_セマなりにそのリバイバルブームに乗っかったと解釈できるし、改めてアナ_セマとかいうバンドがいかに「したたか」なバンドであるのかを再確認させる。

物語の主人公であるペシミストは、とりあえず太平洋沿岸を沿って車を走らせるも、未だに「90年代」の記憶の中に取り残されている。開幕から優しく包み込むようなピアノをバックに、「現代プログレ界のサッチャー」ことリー・ダグラスHold Onというラブリィな歌詞を繰り返すバラードの”Endless Ways”は、未だ鳴り止まない打ち込みと優美なストリングスで静寂的に幕を開け、そしてバンド・サウンドとともにU2顔負けのソリッドなカッティング・ギターで超絶epicッ!!に展開していく。全く新しいロックナンバーの”Leaving It Behind”と「バラードでツーバスドコドコして何が悪いの?」と一種の開き直りすら感じる究極のロック・バラードの”Endless Ways”、この対になるような曲楽曲の流れは、ここ最近の『We're~』から『Distant~』までの「三部作」を素直に踏襲している。しかし、その三部作と決定的に違うのは「90年代」「過去」「現在」「ana_thema」が邂逅した歴史的な「引かれ合い」が存在すること。今作における新しい名義となるana_thema「_」は、まさに「過去(ana)」「未来(thema)」を繋ぐ架け橋(あるいは境界線)となる「現在地(_)」で、SF的な表現に言い換えるとワームホール的な役割とその意味を果たしている。


それらのEDM的な要素をはじめ、Hold OnDreamを含んだバラードを歌う上で必要不可欠なエモい歌詞とU2やOG産のオル_タナバンドにも通じるカッティングを駆使した、まさに超絶epic!!「オルタナティブ・バラード」を聴いて思い出す事と言えば、他でもないBAND-MAID”Daydreaming”だったりするんだけど、これ聴いたらKATATONIAANATHEMA=ANATONIAの「オルタナティブ」にも精通するBAND-MAIDって実は凄いバンドなんじゃねーかって思ったりして、なんだろう、自分がBAND-MAIDに惹かれた理由が分かったというか、なんというか「音楽」即ち「引力」だなって改めて思ったりして、なんか本当に面白かったというか、何よりもPost-Progressiveとかいうジャンルがいかに「女性的」なジャンルなのかを思い知らされたような気がする。ハッ、もしかしてana_thema「_」BAND-MAID「-」をリスペクトしていた・・・?

改めて、アナ_セマスティーヴン・ウィルソン主宰のKscopeに移籍してから発表した『We're Here Because We're Here』『Weather Systems』、そして『Distant Satellites』までの俗にいう「三部作」というのは、まず始めに「地上」から、次に「空」から、そして最後は「宇宙」からという、ある意味で「神」すなわち「人類の創造者」からの視点で描かれていた。しかし、それまでの壮大なシチュエーションから一区切りするように、ここにきて再び「車の中」という現実的な世界に回帰したのが今作の『The Optimist』だ。名義の変更をはじめ、「90年代リバイバル」を目論んだサウンドから「コンセプト・アルバム」という点からも、間違いなく「三部作」とは一線を画した、少なくとも過去最高に挑戦的な作風と断言できる。決してただのリバイバル音楽ではなくて、常にその先にある「未来」を見据えているのがアナ_セマで、そういった面でも彼らは本当の意味で「オルタナティブ」な存在と言える。

再び主人公のペシミストは、「ある目的」を胸にサンフランシスコに向かって4時間ほど走らせるが、先ほどの予報どおり雨脚は更に酷くなるばかりだ。すると、この嵐に近い大雨の中、たった1人でヒッチハイクしている人を見かけた。主人公は「なんて不幸な人なんだ。彼は僕と同じペシミストかもしれない。」と少し同情した様子で、そのヒッチハイカーを車に乗せた。主人公が「your name.(君の名前は。)」と聞くと、そのヒッチハイカーはこう答えた。「I, Optimist(わたしは、オプティミスト)」であると。これが、それぞれの「過去」と「宿命」を背負った二人の「運命の出会い」だった。思えば、それはまるで映画『テルマ&ルイーズ』のような刹那的な逃避行だった。まさに、その二人の「過去」からの「この素晴らしき逃避行」を歌った曲が表題曲の”The Optimist”である。それはまるで、同じ目的同士で引かれ合った二人の行末を優しく見守るような、茨の道だった「過去」と決別して輝かしい「未来」を切り拓こうとする二人の道筋を黄金色に染め上げるような、二人の主人公に待ち受ける過酷な「運命」を映し出すような曲である。

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二人は更に4時間ほど走らせと、遂に旅の目的地である”San Francisco”に辿り着く。すると主人公のペシミストは、何かに取り憑かれるようにして強くハンドルを握ると、その勢いのままサンフランシスコの観光名所で知られるゴールデン・ゲート・ブリッジに向かって更に車を加速させる。まるで金門橋から眺める美しい夜景のように、疾走感溢れる晴れ晴れとしたキーボードの音色と、無数に建ち並ぶ高層ビル群の灯りが色めき立つ大都市を描き映すような、それこそ65daysofstatic直系の綺羅びやなエレクトロが、この凍えるように冷え込んだ闇夜のハイウェイに差し込む「希望」の光となって主人公の二人を暖かく出迎える。ついさっきまで口々に「死にたい」と自殺をほのめかしていた主人公のペシミストは、旅の途中で出会ったもう一人の主人公オプティミストの存在によって、少しずつであるが「前向き」な気持ちが芽生えつつあった。主人公のペシミストは、当初はこのサンフランシスコで自らの人生を終わらせるつもりだった。美しい夜景が楽しめる名所である一方で、自殺の名所でもあるこの金門橋から身を投げ出そうと覚悟を決めていたのだ。しかし、その「人生の終着点」に向かう途中で出会ったオプティミストの存在が、不思議と主人公のペシミストを「もう少しだけ」という考えにさせた。



なんでこんなとてつもない才能がアナ_セマに隠れとんねん笑うって。お前一体ナニモノやねんと。とにかく、まずは前作の『Distant Satellites』はエレクトロやドラムンベースなどの電子音楽の要素を大胆に取り入れるという「変化」があった。それと同時に、アナ_セマというバンドにも大きな「変化」があった事を思い出してほしい。言わずもがな、それこそ新しいドラマーとしてダニエル・カルドーゾを迎えたことだ。僕は前作のレビューにも書いたように、次作では彼の影響が表面化するだろうと予測した。その結果はどうだったのか?それは今作『The Optimist』Boom Boom Satellites顔負けの本格志向のエレクトロニカを耳にすれば納得するだろうし、それこそ彼が手がけたCardhouseによるエモいニカチューンを聴けば否応なしに分かる。しっかし、ドラムできて曲も書けるって天才かよ。最近はめっきり隠居状態のジョン・ダグラスもメインコンポーザーとして曲が書けるドラマーだし、なんかもうドラム叩けてピアノも弾けて曲も書けるとかYOSHIKIかな?とにかく、そういった面でも、ダニエル・カルドーゾの存在はアナ_セマをNEXT-ステージに押し上げた張本人と言っていい。

今作を語る上で欠かせない大きなポイントの一つとしてあるのが、今作のプロデュースを担当したトニー・ドゥーガンの存在だ。ご存知、彼はポストロック界のレジェンドであるモグワイをはじめ、国内ではART-SCHOOLくるりの作品を手がけた事でも知られるスコットランドを代表するエンジニアだ。この『The Optimist』は、プロデューサーのトニー・ドゥーガンモグワイが所有するグラスゴーのCastle Of Doom Studiosで制作され、マスタリングにはそのモグワイをはじめ、ニューオーダーアーケイド・ファイアなどの作品でも知られるFrank Arkwrightを迎えている。

いわゆる「ポストロック」とかいう90年代後半に誕生した音楽ジャンルは、現在のアナ_セマにとって、少なくともKscopeに移籍してからのアナ_セマにとって切っても切れない関係にある。そのアナ_セマがポストロックを意識し始めたのが、Kscopeに移籍して一発目にリリースされた、過去のアルバムをポストロック風に再解釈した2008年作の『Hindsight』で、そのPost-的な解釈とモダンな方向性をオリジナルアルバムに落とし込んだのが復活作の『We're Here Because We're Here』である。一方で、ポストロックは「現代のプログレッシブ・ロック」だと言う人もいるのも事実で、まさにその問に対する答えを示したのが、他ならぬ現代プログレッシブ・ロックの旗手とされるアナ_セマだったのは、やはり何かの因果としか思えなかった。

事実、Kscopeに移籍してからのアナ_セマは、そのポストロックに精通する「繰り返しの美学」に目覚めると、「究極のミニマリズム」とは何かを探るべく、1人のミニマリストとしてミニマリズムの極意を追い求めていた。曲を例に出すと、「三部作」の一部となる『We're Here Because We're Here』では”Thin Air”、二部となる『Weather Systems』では”Untouchable Part”、三部となる『Distant Satellites』では”The Lost Song Part”、これらの(組)曲に共通するのは、執拗に同じ音をミニマルに繰り返し繰り返し、その繰り返す「努力」を積み重ねていくことで曲の「未来」を切り拓いていく、まるで人の人生その一生を見ているような錯覚を憶えるほど、彼らは音楽人生を賭けてその哲学的とも呼べるテーマを自身の楽曲に込めてきた。その「繰り返しの美学」を貪欲に追い求めてきたアナ_セマが、この『The Optimist』でたどり着いたのは、「全く新しいロックの未来形」であり、そして「全く新しいポストロックの形」だった。

ところで、君たちは「細胞が裏返る」という経験をしたことがあるか?僕はある。それは2015年の夏に行われたアナ_セマの初来日公演での出来事だった。今でも思い出深いのは、2DAYS公演の二日目の日に拠点の品川から恵比寿駅に降りた瞬間に大雨が降ってきて、「おいおい、『Weather Systems』の演出にしてはえらい粋な演出だな」と思ったんだけど、この日のライブでその『Weather Systems』から「嵐の前の静けさ」ならぬ「静けさの前の嵐」でお馴染みの”The Storm Before The Calm”を演ったのは偶然にしては面白かった。でもライブで初めて”The Lost Song Part 1”を聴いた時は本当に細胞が裏返ったかと思った。その”The Lost Song Part 1”は、まさに彼らが語るような「インプロヴィゼーション」を強く感じさせる曲で、そのシンプルな音の積み重ねによるイキ過ぎを抑制しつつ、あくまでも段階的に絶頂へのリミッターを解除していく寸止めプレイみたいな曲構成である。この『The Optimist』は、その方向性を更に推し進めた俄然生々しくオーガニックなサウンドを突き詰めており、そして「三部作」の中で一貫して貫かれてきた「繰り返しの美学」、それらに対する答えが一つに集約されたのが今作のリード曲となる”Springfield”だ。



初期モグワイ直系のおセンチな寂寥感を伴うオーガニックで乾いたギター・プロダクションから、ピアノ→プログラミング→キーボード、そしてドラム&ベースのリズム隊の順に合流していく様は、それこそスタジオセッションの延長線上にある生々しいライブ感に溢れていて、そこへリー・ダグラスHow did I get here? I don’t belong hereという歌詞を、もはや「歌」というより「声」という名の楽器を繰り返し、その「繰り返しの美学」を追求した音の繰り返しが幾倍もの回転エネルギーへと姿を変え、そのエネルギーの蓄積が臨界点を超えて遂にビッグバンを引き起こすと、幾重にも折り重なったトレモロが天をも貫く稲妻となり、ただひたすらにかき鳴らされる轟音が大地を揺るがし、それと共鳴するようにとめどない感情が溢れ出すキーボード、そしてリー・ダグラスのまるで喜劇女優の如し狼狽を合図に、それは「怒り」か、あるいは「激情」か、はたまた「衝動」か、それらの抑えきれない感情が全てを破壊し尽くすようなAlcest直系の轟音ノイズとなって、未だかつて誰も辿り着けなかった「轟音の先にある轟音」のシン・世界へと旅の者を導いていく。

なんだこの超絶epicッ!!な高揚感と恍惚感、なんだこのカタルシス・・・。冗談じゃなしにリアルにメスイキしたわ。まずはリー・ダグラスのボイスと同じ旋律を奏でるトレモロから、そこから更にキュルキュルキュルキュルキュルキュルと唸りを上げるギター、過去の名曲”A Simple Mistake”直系のエモいキーボード、そしてリー・ダグラスによる2回の狼狽から鬼の形相で迫りくる轟音・・・それはまるでモノリスという文明に触れたことで「感情」や「知性」や「痛み」を繰り返し学習した猿がヒトとして進化する瞬間のような、それこそ宇宙の誕生、そして人類の進化の過程を見ているかのような、その生物学における「進化論」と全く同じように「音」がシン化していくような、ヒトが持つ五感のリミッターを段階的に解除していく。なんかもう5回はメスイキしたわ。それこそ「イケ!イッちゃえ!」とばかり、過去の「三部作」で自らが早漏だと知ってしまったアナ_セマは、早漏のウィークポイントである「イキスギ」を抑制するため、新たに「スローセックス」を会得したのである。

確かに、Kscopeへとレーベルを移してからのアナ_セマは、いわゆるポストロックの影響下にあるバンドへと様変わりした。しかし、それはあくまでも「テイスト」レベルの話で、決して本場本職のソレとは一線を画するものだった。だが遂に、このアルバムでは本場本職のモグワイ界隈のエンジニアとスタジオを借りて、ある種の『夢』を実現させている。いま思えば、この新作に伴うツアーのサポートにAlcestを指名したのが答えだったのかもしれない。ご存知、いわゆる「ポストブラック」の第一人者であるAlcestは、シガーロス界隈の人材を迎えた4thアルバム『Shelter』の中で、ずっと憧れだったSlowdiveニール・ハルステッドとの共演という子供の頃からの『夢』を実現させている。今回の件は、Alcest『Shelter』でやった事と全く同じで、本場本職の景色を知らなかったアナ_セマが初めて本場の景色から音楽と向き合っている。この曲は「Post-の世界」をよく知る彼らだからこそできた、それこそ「ポストロック」と「ポストブラック」の邂逅である。これは、ポストロックは「現代のプログレッシブ・ロック」という一つの解釈に対する彼らなりの答えでもあるんだ。

表題曲の”The Optimist”から”Springfield”に至るまでの流れを見ても分かるように、今作の「ボーカル」というのはあってないようなもので、要するに「歌モノ」として聴くのではなく、極端な話「インストモノ」として解釈すべき作品で、そういった面でも過去の「三部作」とは一線を画しているし、それにより俄然コンセプチュアルな世界を構築する上でとても大事なギミックとして働いている。特に”Springfield”でのリー・ダグラスなんて、それこそJulianna Barwickばりに環境ボイス化している。「三部作」の最終部で自らに降り掛かった「呪い」から解き放たれたアナ_セマは、「三部作」ではメインパートを担っていた「ボーカル」の要素すら徹底した「繰り返し美学」を強要しているのだ。

そのシンプルな音の積み重ねを、日々繰り返される何気ない日常のように繰り返し繰り返し、そこから更に執拗に繰り返しエンドレスにループし、その無限に繰り返した先で「黄金長方形」を描き出し、そして遂に「過去」から「未来」へと次元を超えていくような、それこそ「無音」から「轟音」へと姿を変えていく様は、まさに主人公のペシミストがもう一人の主人公であるオプティミストに生まれ変わっていく、ある種の輪廻転生を暗喩している。いや、主人公のペシミストは自分の中に眠るオプティミストの姿を夢見ていたのかもしれない。

サンフランシスコの名所であるゴールデン・ゲートブリッジを車で渡りきろうとした瞬間、この闇夜のハイウェイを切り裂くような雷鳴とともに降り注ぐ、それはまるでブラック・ホールの如しけたたかしい轟音を直に浴びた主人公のペシミストは車の中で気を失ってしまう。これは一種の臨死体験なのかもしれない。しばらくして目覚めると、助手席に居たはずのオプティミストの姿がない。ペシミストは車を降りて周囲を見渡すが、それでも彼の姿は見当たらない。近くにあった標識に目をやると、そこには「スプリングフィールド」と書かれていた。しかし轟音を浴びたせいで未だに記憶が少し曖昧で、意識も朦朧としたままだ。さっきまで助手席に居たはずのオプティミストが本当に実在した人物なのかすら怪しくなってきた。この世界の何が「夢」で何が「現実」なのか、自分が誰で一体何者なのか、もはや生きているのか死んでいるのか、この世界が三次元なのか二次元なのかすら正確に判別できない。とにかく、ペシミストは憔悴しきった今の自分を落ち着かせるため、その場から目と鼻の先にある表札に「モー・タバーン」と書かれた案内に吸い寄せられるようにして扉を開いた。

Moes-tavern

  ペシミスト
new_018「ガチャ」


(そこは、やけに年季の入った少し寂れたバーだった)


  店主モー
new_o035002911341988472963「へいっ!いらっしゃい!何にする?」

  ペシミスト
new_018「とりあえずビールで」

  店主モー
new_o035002911341988472963「あいよっ!ダフビールねっ!」


(ダフビール・・・初めて聞く銘柄だ)


  ペシミスト
new_018「(ゴクゴクゴク)」


(それはカラッカラの喉を潤した)


  店主モー
new_o035002911341988472963「お客さん新顔だねぇ、どっからこの街へ?」


(どうやら普段は常連客を相手にしているらしい)


  ペシミスト
new_018「いや、サンディエゴから金門橋を渡ってここへ」

  店主モー
new_o035002911341988472963「へ~、ってことは旅の人か。わざわざご苦労なこって」


(すると、ここで店に新たな客人が現れた)


  ホーマー
beb8d593f4db1a17371da429c6c66261--article-html「よぉ~、モ~元気かぁ~?」


(その小太りの中年男は、どうやらこの店の常連のようだ)


  店主モー
new_o035002911341988472963「よぉホーマー、今日はレニーとカールは一緒じゃないのか」

  ホーマー
beb8d593f4db1a17371da429c6c66261--article-html「おう、今日は一人だ・・・ん?隣の奴、ここらで見ない顔だなぁ?」

  店主モー
new_o035002911341988472963「あぁ、彼はサンディエゴからの客人さ」

  ペシミスト
new_018「どうも」

  ホーマー
new_f04d8f8625e48e7ea61ac81993241cc6「まっ、ここには原発とダフビールとドーナツしかないけど、楽しんでってくれ」

  店主モー
new_o035002911341988472963「それよりホーマー、今日は平日だってのに仕事の方はいいのかい?」

  ホーマー
new_9724b2c637ff896b96fa4be9060b2b93「D'oh!!でも別にいっか」

  店主モー
new_o035002911341988472963「相変わらずの楽観主義者だなぁお前さんは」


(わたしは、その”楽観主義者”という言葉に妙な引っかかりを憶えた)


  ペシミスト
new_018「そうだ、オプティミストを探さなきゃ」


(ペシミストは、そそくさと店を後にする)


  店主モー
new_o035002911341988472963「もう行っちまうのかい?またな」

  楽観主義者
new_ba7d70cca458777e2945bba9a21528de「じゃね~」

「しかし、さっきの店は一体何だったんだ・・・?まるでテレビアニメのような・・・そうだ、あれは確か『シンプソンズ』のキャラクターじゃないか?」ペシミストは、酒の酔も相まって著しく頭の中が混乱した。ということは、これは『夢』なのか?これは悪夢だ、そうに違いない。ここは三次元ではなく、二次元の「アンダーワールド」なのか?確かに、『シンプソンズ』ホーマー・シンプソンはアニメ界最大の「楽観主義者」かもしれない。しかし、さっきまで助手席にいたオプティミストではない。それは確かだ。ペシミストは再びオプティミストの行方を追って、この周囲をくまなく探すことにした。

主人公のペシミストは、未だに「過去」の亡霊(Ghost)に取り憑かれている。7曲目の”Ghost”では、アルバム『We're Here Because We're Here』”Angels Walk Among Us”のメロディを引用したリー・ダグラスのボーカル曲で、続く#8”Can't Let Go”でも同アルバムから”Get Off Get Out”を彷彿させるクラップを交えたポップなビート感とニューエイジ風のコミカルなアレンジが施されている。面白いのは、7曲目以降は気のせいかデヴィン・タウンゼンドのアルバム『Ghost』に精通するスピリチュアルな、それこそニューエイジっぽい雰囲気もあって、俄然そのコンセプトの理解を深める大きな要素になっている。

改めて、この『The Optimist』はアメリカ西海岸を舞台に繰り広げられるコンセプト・アルバムだ。このアルバムには、「90年代」のオルタナ/グランジをはじめ、ポスト・ロックやインストゥルメンタル、今流行りのEDMやエレクトロ、そしてジャズに至るまで、とりあえずエレクトロからのジャズって聞くと「おいおい、映画『ラ・ラ・ランド』かよ」ってなるんだけど、とにかく「過去」と「現在」の様々な要素が入り交じった闇鍋に近い音楽やってて、確かに「ソングライティング」の面では過去の「三部作」に劣るかもしれないし、そこは否定しない。なんだろう、どんなギミックよりも「ソングライティング」を創作活動における最重要課題として自由にライティングしてきた彼らが、初めて「コンセプト」に注視してライティングしてきた印象。それは曲間にSEの演出を挟んでアルバムの物語を構築している事からも、つまり「アルバム」のフォーマットを最大限に活かしたアルバムと言える。思ったのは、プロデューサーにトニー・ドゥーガンを迎えたことでガラッと作風が変わるかと思いきや、「過去」のanathemaと「現在」のana_themaがやってきた事を素直に踏襲しつつ、そこに新解釈を加えた結果でしかなくて、目に見えてトニー要素を感じる曲といえば”San Francisco””Springfield”、そして”Wildfires”だけなのが逆に功を奏していると思った。

俺は一体誰なんだ?!

周囲を探せど探せど、一向にオプティミストの姿は見当たらない。ペシミストは、長旅の疲れもあって、この日は近くのモーテルで一夜を過ごすことにした。憔悴しきった彼は、ベッドに横になると2秒で深い眠りについた。9曲目の”Close your eyes”は、これまでの奇妙な旅路の疲れを癒やすような歌詞とともに、リー・ダグラスの歌とトロンボーンとコントラバスがジャズバーのムードを醸し出し、それが心地よい子守唄となって彼を一層深い眠りへと誘う。すると再び「悪夢」がペシミストに襲いかかる。たちまち山火事の如し轟音ノイズが彼に襲いかかり、またしても「過去」のトラウマがフラッシュバックする。「もう手遅れだ...」・・・彼は「悪夢」にうなされる中でWho am I?(俺は一体誰なんだ?!)」と自問自答する。すると、ここで見覚えのある部屋と聴き覚えのある音に目が覚める。

そこには聴き覚えのある砂浜に波が打ち付ける音とともに、アコースティック・ギターを手にして弾き語る男が現れる。そして、「Back to the Start」というかけ声と鳴り止まない拍手喝采をバックに、この物語は大団円を迎える。すると目の前にいた謎の男は急に立ち上がり、ペシミストが泊まっている部屋の扉を開き、そしてこう呟いた。

How are you?

そして、物語が幕を閉じた後のシークレットトラックには、アコギを靡かせる中年の男とその子供の幼女が楽しそうに話す姿が映し出される。その男の顔はボヤケて分からない。そこにいるのは前世の自分か、それとも未来の自分か、はたまた平行世界の自分か、しかしそんなことはどうでもよかった。何故なら、目の前にいる彼はペシミストではなく、オプティミストとして「幸福」だったあの頃へと立ち返り、再び人生のスタート_ラインに立って人生の再出発という名の新しい旅路につこうとしているのだから。

再び人生のスタートラインに立った主人公は気づく。これまでの自分はペシミストの仮面を被ったオプティミストだったという真実に。後ろ向きの性格だったペシミストが、前向きな性格のオプティミストへと姿を変える。それはまるで繰り返しながら無限ループする「運命」のように、「終わりのないのが終わり」・・・主人公はオプティミストとして再び人生のスタートラインに立ったんだ。それはまるで約138億年前に起こったビッグバンから宇宙が始まったように。

今作の大きなキーワードとしてあるのが「線(_)」である。「線(_)」、それは「境界線」を意味している。この『The Optimist』における「境界線」は、あらゆる物事に対するメタファーであり、その一方で「光と闇」、「善と悪」、「絶望と希望」、「ana_thema」、「神とサタン」、「空条仗世文と吉良吉影」、「アルファとオメガ」、「黄金の精神と漆黒の意志」、「無と有」、「過去と未来」、そして「楽観主義者(オプティミスト)と悲観主義者(ペシミスト)」、それらのあらゆる「境界線」を繋ぎ合わせる意味での「_」でもあったんだ。つまり、ana_themaにおける境界線(_)の意味というのは、「過去」anathemaとの決別を表しており、それこそスティーヴン・ウィルソンが自らの半生を自伝化したようなメジャーデビュー作を発表したように、これはオプティミスト(ana_thema)ペシミスト(anathema)という過去と決別した事を示す一種の比喩的表現でもある。今作のアナ_セマの何が凄いって、まず2曲目の”Leaving It Behind”で「過去のアナセマ」と「現在のアナセマ」を曲単位で表現したかと思えば、アルバム単位ではペシミスト(悲観主義者)とオプティミスト(楽観主義者)という対比を用いてそのコンセプトを高めつつ、そして新しいバンド表記であるana_thema「_」で「過去との決別」と同時に「過去との結合」を図っているところで、実はこういったミステリー小説みたいな「謎」のギミックが好きなバンドなんですね彼ら。

確かに、この『The Optimist』『A Fine Day to Exit』にインスパイアされたアルバムだが、僕の解釈はちょっと違った。僕は今作を”Temporary Peace”における5分の無音部分から生まれた作品だと理解した。ご存知、『A Fine Day to Exit』のラストを飾るこの曲は、約18分のうち実質初めの5,6分が曲と呼べるもので、その後は浜辺(シルバー・ストランド・ステート・ビーチ)のさざなみのSEと病んだ男の声、それ以降は5分間の無音部分、そして最後には「隠しトラック(Hidden Track)」として”In the Dog's House”が収録されている。

「無」から何も生まれない。しかし、138億年前に起きたビッグバンにより宇宙が誕生した。このアルバムは、”Temporary Peace”の約5分間の空白部分を補完して未完成品を完成品にするように、つまりビッグバンと同じ原理で例えると「0から1」になる瞬間、「0」から生まれた「1の音楽」である。つまり、”Temporary Peace”の無音部分が「境界線(_)」であり、その「境界線(_)」の空白を埋めるのがこの『The Optimist』である。決して『A Fine Day to Exit』のパート2ではないという事から、この『The Optimist』はそれを補完する一つの「サイドストーリー」として解釈すべきかもしれない。

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アナ_セマはいつだってこの僕を「日本一のジョジョヲタ」へと押し上げてくれる。僕は以前からアナ_セマのフレキシブルな音楽遍歴と漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の「フレキシブルさ」は全く同じであると、上記の相関図を使って説明してきた。例に漏れず、今作の『The Optimist』『ジョジョの奇妙な冒険』と大きな関わりを見せている。

まず、数年ぶりにアップデイトした上記の相関図を見てほしい。面白いのは、前作の『Distant Satellites』『A Natural Disaster』の世界を「一巡」させたアルバムだとすると、今作の『The Optimist』は言わずもがな『A Fine Day to Exit』の世界を「一巡」させたアルバムと解釈できる。これをジョジョの各部に当てはめてみると、ジョジョ4部が『A Fine Day to Exit』であり、そして『The Optimist』が現在連載中のジョジョ8部『ジョジョリオン』だ。ご存知、ジョジョ4部とジョジョ8部『ジョジョリオン』は世界の「一巡前」と「一巡後」のパラレルワールドで、設定としては同じ杜王町を舞台にしている。もっとも面白いのは、ジョジョ7部『スティール・ボール・ラン』ではアメリカ大陸レースとかいうスケールのデカい物語だった反面、次作となる『ジョジョリオン』では一つの家族というスケールの小さいミニマムな世界観を展開しており、一方のアナ_セマも前作の『Distant Satellites』で宇宙規模の話をやった後、次作の『The Optimist』では「車の中」という超絶ミニマムなスケールで話を展開していて、これも『ジョジョリオン』の世界設定と密接関係にある。そして、歌詞の中にあるWho am I?(俺は一体誰なんだ?!)という物語の核心を突くような言葉も、まさに『ジョジョリオン』の主人公である東方定助が放った叫びとリンクしている。そして最後のHow are you?に関して、僕は『ジョジョリオン』のラストシーンを見ているような気がしてならなかった。

ご存知、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』は7部の途中で週刊ジャンプからウルトラジャンプに連載を移した。今回のana_themaにおける「境界線(_)」をジョジョに当てはめてみると、週刊少年ジャンプで連載していた「過去のジョジョ」と完全に決別したのが、この『ジョジョリオン』である。しかし、その『ジョジョリオン』は巷で駄作だと嘆かれている。それには同意するし、同意もしない。僕は『ジョジョリオン』のことを面白い駄作と評価している。確かに、『ジョジョリオン』はこれまでのジョジョシリーズとは全く異なる描かれ方をした全く新しいジョ_ジョだ。だから「これまでのジョジョ」と同じ読み方をしている人には駄作と感じてしまうのも仕方がない。

それでは、「呪いを解く物語」として2011年の3.11をキッカケに始まった『ジョジョリオン』における「境界線(_)」は一体どこにあるのか?それこそ「3.11以前の日本」と「3.11以降の日本」を繋ぐ、そして「3.11以降の日本」と「2020年までの日本」を繋ぐメタファーとして物語を紡いでいるんじゃあないか、ということ。よく映画の感想などで「メタ的な」とか「メタ発言」とか耳にするけど、この『ジョジョリオン』はまさに「3.11以降の日本」を「メタ的な物語」として描いた漫画なのだ。事実、3.11以降に浮き彫りとなったのは、SNSが関係した10代のイジメ問題、自殺問題、幼児虐待、ネグレクト、薬物問題、仮想通貨など、3.11以降の日本に降り掛かった一種の「呪い」を解く物語、そのメタファーとしての『ジョジョリオン』である。今の荒木飛呂彦というのは、まさにスティーヴン・ウィルソンダニー・キャヴァナーばりに「意識高い系」の漫画家なのだ。そして「日本一のジョジョヲタ」である僕は「意識高い系インターネットレビューマン」なのである!

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アナセマ
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岡田拓郎 『ノスタルジア』

Artist 岡田拓郎
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Album 『ノスタルジア』
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Tracklist
01. アルコポン
02. ナンバー
03. アモルフェ(Feat. 三船雅也)
04. ノスタルジア
06. イクタス
07. 手のひらの景色
08. ブレイド
09. グリーン・リヴァー・ブルーズ
10. 遠い街角(Feat. 優河)

「森は生きているとは何だったのか?

スティーヴン・ウィルソンTo the Boneのレビューを書いている約一ヶ月間、そのSWの音楽を聴きながら頭の中で常に気にかけていた事があって、それというのも、2015年に解散した森は生きているの中心人物である岡田拓郎くんがOkada Takuro名義で「ソロデビュー・アルバム」を、同じくユニバーサルから「メジャーデビュー」を果たしたSW『To the Bone』と同じくあのHostess Entertainmentからリリースされると知ったからで、僕にとってこの一連の出来事はもはや「運命の引かれ合い」としか思えなかった。

先日、AbemaTVの『72時間ホンネテレビ』を観てて何よりも嬉しかったのは、元スマップの「森(くん)は生きている」ことで、しかしその一方でバンドの方の森は生きているが2015年に突如として解散したことが、個人的にここ最近の中で最もショッキングな出来事としてあって、何故なら森は生きているの存在は、現在はイギリスを拠点に活動する神戸出身のThe fin.とともに、このクソみたいな邦ロックが蔓延る今の邦楽シーンおよび日本語ロックシーンに現れた「救世主」、まさに「希望」そのものだったからだ。


改めて、森は生きているの遺作となった2ndアルバム『グッド・ナイト』は、それこそピンク・フロイドをはじめとした60年代から70年代のプログレッシブ・ロックおよびサイケデリック・ロックに代表されるアンダーグランド・ロック、トラディショナルなジャパニーズ・フォーク、アヴァンギャルド、アンビエントや環境音楽、そして現代的なポストロックが時を超えてクロスオーバーしたような、これぞまさにイギリスを発信源とするPost-Progressiveに対する極東からの回答であるかのようだった。その中でも約17分の大作”煙夜の夢”は、(まずこの曲をMVにしちゃう変態っぷりも然ることながら)それこそSWの創作理念の一つである聴き手を「音の旅」に連れて行くような、ちょっと童貞クサい純文学を実写映画化したような壮大なスケールで綴られた組曲で、それはまるでSW率いるPorcupine Treeの初期の名曲”The Sky Moves Sideways Phase”への回答のようでもあり、もはや森は生きている「日本のPorcupine Tree」あるいは「日本のTemples」に値する存在その証明でもあり、そのバンド内で中心的な役割を担っていた岡田くんSWは「ほぼ同一人物」と呼んじゃっても差し支えないくらい自分の中で親近感を持つ存在で、その僕がリスペクトする二人の音楽家が遂にこの2017年に邂逅してしまったのは、今世紀最大の衝撃だったし、同時に泣きそうなくらい嬉しかった。

「SWは『To the Bone』で何を示したのか?

スティーヴン・ウィルソンは、この「メジャーデビュー・アルバム」で自身のことを「プログレ側の人間」であると同時に「ポップス側の人間」であるということ、そして何よりも誰よりも「ニューエイジ側の人間」であるという自己紹介、あるいは明確な意思表示を音の中に詰め込んでいた。それはまるで現代の「キング・オブ・ニューエイジ」として「シン・時代」の幕開けを宣言するかのような歴史的な一枚だった。音楽的な面で特に『To the Bone』最大のコンセプトとして掲げていたのが、他ならぬ「ポップ・ミュージックの再定義」である。この度、SWがメジャー・デビューする上で避けて通れなかったのは、現代の音楽シーンの変化は元より、音楽リスナー側の環境の変化への対応で、つまり従来の「アルバム」として聴く時代は終わりを告げ、現代の音楽リスナーはSpotifyApple Musicなどのサブスクを使って「プレイリスト」という形で「自分だけのアルバム」を作って聴く「シン・時代」、それに対する適応である。これまでアンダーグランドの世界で「プログレ側の人間」として、当たり前のように「アルバム」で聴くことを前提に作品をクリエイトしてきた彼が、今度は一般大衆が「プレイリスト」で聴くことを前提にした、いわゆる「一口サイズのポップス」に挑戦しているのだ。結局このアルバムの何が凄いって、いわゆる「初老」と呼ばれ始める保守的になりがちな年齢(アラフィフ)にありながらも、あえて先進的で未来志向(リベラル)な考え方を選択する、あえて「困難」へと挑戦し続ける姿勢はまさに「ミュージシャン」、それ以前に「人」として人間の鑑だと呼べるし、それは同時に彼がこの地球上で最も「Progressive(進歩的)」な存在であることを証明している。このアルバムは、まさにそんな彼の「存在証明」でもあった。

そのSW『To the Bone』で示し出した「ポップスの再定義」・・・何を隠そう、岡田拓郎くんはこの『ノスタルジア』の中でSWと全く同じことをやってのけているのだ。この『ノスタルジア』は、森は生きているのどの作品とも違う。端的に言ってしまえば、SW『To the Bone』で80年代の洋楽ポップスを現代の音にアップデイトしたならば、岡田くんはこの『ノスタルジア』で当時のポップス(大衆音楽)だった70年代の歌謡曲をはじめ、吉田拓郎さだまさしなどの伝統的なジャパニーズ・フォークを現代の音に結合することで、この2017年の現代においる「ポップスの再定義」を実現させている。もちろん、SWがイメージする「ポップス」が「ただのポップス」でなかったように、岡田くんがクリエイトする「ポップス」も「ただのポップス」ではない。決してただの懐古主義的なノリではなくて、あくまでも「イマ」の音楽として邂逅させることを目的としている。お互いに共通するのは、まずSW『To the Bone』というタイトルは、あらゆる意味で自身を構築する「骨」となった「過去」への憧憬、あるいは「郷愁」であり、それすなわち岡田くんの『ノスタルジア』へとイコールで繋がる。

アルバムの幕開けを飾る一曲目の”アルコポン”から、それこそ2017年を象徴するバンドの一つと言っても過言じゃあない、ブルックリンのCigarettes After Sexにも精通するスロウコア然としたミニマルでローなテンポ/リズム、プログレ/サイケ界隈では定番のミョ~ン♫としたエフェクトを効かせたペダルスティールをはじめ、「80年代」のシューゲイザーをルーツとした電子ギターのリフレインやアコースティック・ギター、ピアノやパーカッション、マンドリンやオートハープ、それらの森は生きているでもお馴染みの楽器が奏でる色彩豊かな音色が調和した、その優美なサウンドにソッと寄り添うようにたゆたう岡田くんの優しい歌声と文学青年の悶々とした日々を綴った歌詞世界が、まるで休日の部屋に差し込む日差しを浴びながら昼寝しているような心地よい倦怠感ムンムンの蜃気楼を描き出していく様は、まさに表題である『ノスタルジア』「郷愁」の世界そのものであり、もはや「日本のThe War On Drugs」としか例えようがない、まるで80年代のAORを聴いているような懐かしさに苛まれそうになる。何を隠そう、SW『To the Bone』で「80年代愛」を叫んだように、そのSWと同じように岡田くんはペット・ショップ・ボーイズに代表される「80年代」のAORを愛する人間の1人で、この曲の中にはそんな彼の「80年代愛」が凝縮されている。なんだろう、確かに自然豊かな森のささやきのように多彩な音使いは森は生きているを素直に踏襲しているけど、そのいわゆる「ピッチフォークリスナー」ライクな雰囲気というか、森は生きているで培ってきた従来の音使いにモダンなアプローチを加えることで一転してグンと洗練された美音へと、そのベースにある音像/音響としては「ピッチフォーク大好き芸人」みたいなイマドキのインディへと意図的な「変化」を起こしている。その「変化」を裏付ける証拠に、今作のマスタリング・エンジニアにはボブ・ディランをはじめ、それこそCigarettes After SexThe War On Drugsの作品を手がけた(テッド・ジェンセン擁する)STERLING SOUNDグレッグ・カルビを迎えている事が何かもう全ての答え合わせです。

今作は岡田くん初のソロ・アルバムというわけで、森は生きているでは主にコーラスやコンポーザーなど言わば裏方の面でその才能を遺憾なく発揮していたけど、このソロアルバムでは「シンガーソングライター」としてボーカルは勿論のこと、森は生きているでは今作にもサポートで参加しているドラマーの増村くんが歌詞を書いていたが、今作では作曲は元より作詞まで自身で手がけ、ミックスからプロデュース、他ミュージシャンとのコラボレーション、そして様々な楽器を操るマルチプレイヤーとして、1人のミュージシャンとしてそのポテンシャルを爆発させている。ところで、SW『To the Bone』の中で強烈に印象づけたのは、ヘタなギタリストよりもギターに精通してないと出せないようなギターの音作りに対する徹底した「こだわり」だった。同じように岡田くんも今作の中でギターリストとして音楽オタクならではの「こだわり」を、ギターに対する「プレイヤー」としての「こだわり」を、様々なエフェクターやギター奏法を駆使しながら理想的な音作りを貪欲に追求している。それと同時に、SW『To the Bone』で垣間見せたのは、「80年代」という「過去」の音楽に対する咀嚼力の高さで、つまり創作における基本的な創作技術を忠実に守ることによって、SWがこのアルバムで掲げた「ポップスの再定義」を実現させる上で最大の近道へと繋がった。そのSSW界の先輩であるSWの背中を追うように、バンド時代では実現不可能だった、ある種の『夢』をこの岡田くん(SW)は果たそうとしていて、その『夢』を実現する過程の中で最重要課題となる「過去の音楽」への向き合い方、しかしその「過去」という『ノスタルジア』をどう理解(解釈)し、そしてどう料理するか、その最善かつ最適な方法を彼らは既に熟知している。

話は変わるけど、2013年に相対性理論『TOWN AGE』がリリースされた当初の主な評価として挙げられた、何故に「やくしまるえつこのソロっぽい」という風にフアンの間で賛否両論を巻き起こしたのかって、それこそトクマルシューゴ大友良英をはじめとした国内の実験音楽やニューエイジ界隈に影響されたやくしまるえつこヤクマルシューゴに変身したからだ。何を隠そう、岡田くんが”ナンバー”という曲の中でやってることって、(こう言ったら岡田くんに怒られるかもしれないが)端的に言ってしまえば「岡田拓郎なりのシティ・ポップ」、すなわち『NEW (TOWN) AGE』なのだ。つまり、さっきまで「80年代」のAORのノスタルジーに浸っていた彼は、今度は「90年代」に一世を風靡した「渋谷系」への憧憬あるいは「郷愁」に浸ることで、昨今オザケンの復帰により俄然現実味を帯びてきた「90年代リバイバル」に対する岡田くんなりの「答え」を示し出している。

話を戻すと、その”ナンバー”が付く曲タイトルは数多くあるけれど、”名古屋ナンバー”には気をつけろっていう話は置いといて、例えばトリコットの場合だと”神戸ナンバー”だったり、実は相対性理論の曲にも”品川ナンバー”とかいう名曲がある。勿論、その曲を意図して名づけられた訳ではないと思うが、そういった面でも、この曲には相対性理論(やくしまるえつこ)と岡田くんの強い「繋がり」を(少々強引だが)見出した。しっかし、このタイミングであの問題作『TOWN AGE』再評価の流れ、それを作り出した本人が森は生きているの岡田くんという神展開・・・こんなん泣くでしょ。

改めて、この『ノスタルジア』を聴いて思うのは、やっぱりトクマルシューゴというかヤクマルシューゴ的ないわゆる理系ミュージシャンの系譜に合流した感はあって、そのナントカシューゴ界隈をはじめジム・オルーク大友良英など、あらゆる界隈から岡田拓郎という1人の音楽家の「ルーツ」すなわち「骨」を紐解いていくようなアルバムだ。なんだろう、今後岡田くんはトクマルシューゴヤクマルシューゴの間の子であるオカマルシューゴと名乗るべきだし、もはやトクマルシューゴの後継者争いはヤクマルオカマルの一騎打ちだ。

現代...というか今年は特にだったけど、今って「映画」と「音楽」と「小説(文学)」それぞれの分野が隣り合わせで密接に関係している、つまり「繋がっている」ことを切に実感させられる時代でもあって、もはや言わずもがな、当たり前のようにこの岡田くんも得体の知れない「ナニか」と「繋がっている」。例えるなら、SW『To the Bone』を聴いて、その「80年代」のイメージを最も的確に表した映画がジョン・カーニー監督『シング・ストリート 未来へのうた 』だとすると、岡田くんの『ノスタルジア』は井の頭公園の開園100周年を記念して製作された、橋本愛主演の映画『PARKS パークス』だ。

この映画『PARKS パークス』は、『孤独のグルメ』の原作者ふらっと久住のバンドザ・スクリーントーンズによるDIY精神溢れる音楽をバックに、今にも井之頭五郎が登場してきそうなほど、緑に囲まれた井の頭公園を華やかに彩るような色とりどりの楽器が鳴り響く音楽映画だ。驚くなかれ、この映画の音楽を監修したのが他ならぬトクマルシューゴで、しかもそのエンディング曲を担当しているのが相対性理論ってんだから、更にそのサントラの中に大友良英と岡田くんも参加してるってんだからもう何か凄い。

改めて、劇中に井之頭五郎がヒョコっと登場してきそうなくらい、『孤独のグルメ』の音楽にも精通するパーカッションやアコギや笛などの楽器を駆使した、それこそトクマルシューゴ節全開のDIYな音楽に彩られたこの映画『PARKS パークス』は、リアル世界の井の頭公園でも園内放送されたやくしまるえつこによる園内アナウンスから幕を開ける。話の内容としては、序盤は「50年前に作られた曲に込められた恋人たちの記憶」を巡って奔走する普通の青春音楽ドラマっぽい感じだったけど、後半から急に「過去」「現在」「未来」が複雑に絡んでくるSFサスペンス・ドラマ的な序盤のイメージに反して予想だにしない展開に変わって、その瞬間に「あ、この映画普通じゃないな」って察した。というか、そもそも相対性理論の曲がテーマ曲になっている時点で察するべきだった。劇中クライマックスで「何が起こった!?」って考えている内に、エンディングの”弁天様はスピリチュア”が流れてきた時点で全てを察したよね。

とりあえず、能年玲奈系の顔立ちをした若手女優の永野芽郁橋本愛大友良英の組み合わせってだけで某『あまちゃん』を思い出して「うっ、頭が・・・」ってなるんだけど、まぁ、それはともかくとして、主演の橋本愛がギターを抱えて演奏するシーンとかきのこ帝国佐藤千亜妃にソックリだし、この映画にはトクマルや「謎のデブ」こと澤部渡(スカート)を筆頭に、今作のサントラにも参加しているミュージシャンがカメオ出演しているのだけど、中でも音楽監修のトクマル本人が出てきたシーンのトクマルの演技がヤバすぎてクソ笑ったんだけど。

オカマルシューゴ

そしてエンドクレジットで岡田くんと相対性理論が一緒の画に収まっているの見たら、「うわうわうわうわうわ・・・遂に繋がっちゃったよ・・・こんなん泣くって」ってなった。正直、ここまでクレジットを凝視した映画は初めてかもしれない。で、気になる岡田くんが手がけた曲は”Music For Film”というタイトルで、曲自体はまさに劇中クライマックスで「現実か虚構か」の狭間でSFっぽくなる絶妙なタイミングで登場するのだけど、肝心の曲調はそれこそハンス・ジマー坂本龍一『async』みたいなアンビエントで、なんだろう、ここでも再度「繋がってんなぁ・・・ハア」とため息ついた。

しかし、この映画『PARKS パークス』に関してもっとも面白い話は他にある。それというのは、映画の話の中で主演の橋本愛染谷悠太がバンドを組むってことになるんだけど、そこでバンドメンバーを集めて奔走する場面のシーンを筆頭に、それこそジョン・カーニー監督『はじまりのうた』をオマージュしたような演出が随所にあって、なんだろう、ここで初めてSWと岡田くん、そしてやくしまるえつこが「音楽」という枠組みを超えて、その「音楽」と密接に関係する「映画」を通して一本の線で繋がった瞬間だった。なんかもう面白すぎて泣いたよね。なんだろう、人って面白すぎると泣けるんだなって。

ポップスにおける普遍性=アヴァンギャルド

これらの「映画」「音楽」「文学」の垣根を超えた「繋がり」からも分かるように、いわゆる「シューゴ界隈」からの実験的な音楽に対して敬意を払いつつも、何だかんだ叫んだって彼は森は生きているを一番の「ルーツ」としていて、それこそROTH BART BARON三船雅也をゲストに迎えた”アモルフェ”は、いわゆる「New Age」を一つのルーツとする岡田くんのミュージシャンとしての本質をピンズドで突くような「ニューエイジ・フォーク」だ。個人的に、この曲を聴いた時にまず真っ先に頭に浮かんだのがデヴィン・タウンゼンド『Ghost』で、このアルバムはデヴィンの変態的な才能が岡本太郎ばりに爆発した、サブカル系ニューエイジ・フォークの傑作である。そのアルバムの表題曲”Ghost”のカントリー・フォーク然とした曲と岡田くんの”アモルフェ”には、「アヴァンギャルド」と「ポップス」という2つの精神が混在している。面白いのは、かつて音楽雑誌『ストレンジ・デイズ』森は生きている『グッド・ナイト』を取り上げた時のインタビューで(その号の表紙はSW『Hand. Cannot. Erase.』)、岡田くんはポップスにおける普遍性=アヴァンギャルドであると語っている。この彼の発言というのは、それこそ音楽界の異才あるいは奇才あるいは変態と称されるデヴィンSWの創作理念と共通する一つの「答え」で、その「答え」を突き詰めていくと最終的に辿り着くのが、それこそ今なおポップス界の頂点に君臨するビートルズである事は、もはや人類の共通認識でなければならない。



改めて、SW『To the Bone』で最大の野望として掲げていた「ポップスの再定義」、その「野望」あるいは「夢」を実現させるには従来の考えを捨てて、全く新しいやり方で一般大衆の耳に届くような、いわゆる「一口サイズのポップス」の制作に早急に取りかからなきゃならなかった。それは『To the Bone』に収録されたシングル曲を見れば分かるように、これまで「プログレ側の人間」として10分を超える長尺曲を得意としてきた彼が、いわゆる「ポピュラー音楽」として必須条件とも呼べる曲の長さが3分から4分の曲を中心にアルバムを構成している。その「一口サイズのポップス」、それは岡田くんもこの『ノスタルジア』の中で全く同じ考え方を示していて、もちろん森は生きている”煙夜の夢”のような超大作は皆無で、基本的に2分から3分の一口サイズの曲を意図的に書いてきているのが見て取れる。これは森は生きていると最も違う所の一つで、ひとえに「ポップスとは何か」を考えた時に、まず真っ先に曲が一口サイズになる現象は、SWと岡田くんに共通するものである。

表題曲の#4”ノスタルジア”やMVにもなっている#5”硝子瓶のアイロニー”は、まさに今作における「一口サイズのポップス」を象徴するような曲で、序盤のフォーク・ロック的な流れから一転して、ポップス然としたアップテンポなビートアンサンブルをはじめ、クラップやスライド・ギター、そして「80年代」のニューウェーブ/ポストパンクの影響下にあるモダンなアプローチを効かせたシンセを大々的にフィーチャーしている。これもバンド時代にはなかった試みの一つで、大衆の心を鷲掴みにするポップスならではの「キャッチー」な要素を与えている。しかし、一見「王道」のポップスのように見えて「ただのポップスじゃない」、その「実験性」と「大衆性」の狭間で蜃気楼のように揺れ動く幽玄な音世界は、まさに「70年代」の革新的かつ実験的な音楽から脱却を図ろうとする「80年代」の音楽が持つ最大の魅力でもある。その流れからの#6”イクタス”は、例えるならRoyal Blood的なブルージーな解釈がなされた岡田くんなりの哀愁バラードで、これがまたサイコーに良い。

様々な分野で、とある作品やとあるモノを評価する際に、よく「メジャーマイナー」「マイナーメジャー」という表現を用いた例え方をされる場合がある。例えば、漫画の世界だと『ジョジョの奇妙な冒険』荒木飛呂彦なんかは典型的な「メジャーマイナー」の作家である。その表現法を「音楽」の分野に応用して、この『ノスタルジア』がどれに分類されるのかちょっと考えてみた。はじめに、『To the Bone』におけるSW「メジャーマイナー」だと仮定すると、岡田くんの『ノスタルジア』トリコット『3』「マイナーメジャー」に分類される。まずSW『To the Bone』で、3大メジャーレーベルのユニバーサルから「メジャー」デビュー、Spotifyを活用した「イマドキ」のプロモーションやバズマーケティング、オエイシスの作品でも知られる「メジャー」なプロデューサーを迎え、ぞしてその音楽性は「80年代」のポピュラー音楽をリスペクトした「ポップスの再定義」を図っていることから、少なくともガワの面では「メジャーメジャー」と言っていいくらい「メジャー」だが、しかしその反面、音楽性は幼少の頃から「プログレ側の人間」かつ「ニューエイジ側の人間」であるSWがクリエイトするポップスはポップスでも「ただのポップス」ではない「マイナー」な音楽だから、SW『To the Bone』「メジャーマイナー」という結論に至る。あっ、予め言っておくと、「音楽」の分野に「メジャーマイナー」「マイナーメジャー」などの表現を使う場合、とあるモノや作品の知名度や人気を表わす本来の使い方ではなくて、今回の場合はあくまでも「音楽性」とその「精神性」を表しているので、その辺の誤用はあしからず。

それでは、岡田くんの『ノスタルジア』トリコット『3』が何故「マイナーメジャー」に分類されるのか?まずトリコット『3』の場合は、ひと足先に「メジャー」に行って「最悪の結果」に終わった盟友赤い公園に対するアンチテーゼとして解釈すると、この『3』でトリコットが示したのは、それこそ「インディーズ」=「マイナー」からでも「メジャー」を超えられる、「メジャー超え」できるという歴史的な証明である。まずアルバム一枚1500円ポッキリという点も「インディーズ」ならではのプロモーション戦略と言えるし、その音楽性もいわゆる「マスロック」とかいう「マイナー」な音楽ジャンルと、いわゆるJ-POPという「メジャー」なポピュラー音楽をクロスオーバーさせた、まさに「マイナーメジャー」と呼ぶに相応しい作品だった。

改めて、SW『To the Bone』「メジャーマイナー」ならば、岡田くんの『ノスタルジア』「マイナーメジャー」である。まずは森は生きているの存在をこの言葉を応用して表すならば、それは「マイナーマイナー」だ。その童貞文学青年みたいな、60年代や70年代の音楽が大好きなサイコーにオタク臭い音楽性から、その知名度的にも『ストレンジ・デイズ』みたいなオタク全開の音楽雑誌を愛読しているような童貞オタクしか知らない、これ以上ないってほど「マイナーマイナー」な存在である。それでは、その「マイナーマイナー」森は生きている「マイナーメジャー」の岡田くんは一体何がどう違うのか?まずは岡田くんがこの『ノスタルジア』でやってること、それは紛れもなく「ポップスの再定義」である。SW『To the Bone』で「80年代」の音楽をイマドキのポップスに再定義すると、この岡田くんは「マイナーマイナー」森は生きているを音楽的ルーツにしながらも、ピッチフォークリスナーライクな「マイナーメジャー」然としたインディ・ムードや「メジャー」に洗練されたプロダクション、そして70年代のジャパニーズ・フォークをルーツとする「大衆的(ポピュラー)」なメロディを駆使して、「日本の伝統的な大衆音楽」をイマドキのポップスにアップデイトしている所は、もう完全に「マイナーメジャー」としか言いようがない。でも結局のところ、「メジャーマイナー」とか「マイナーメジャー」とか、正直そんなんどうでもよくて、最終的にお互いに一緒の「ホステス所属」ってことに落ち着くし、なんかもうそれが全てですね。

この『ノスタルジア』「マイナーメジャー」的な作品である、その真実を紐解くような曲が#7”手のひらの景色”だ。僕は以前、椎名林檎『日出処』のレビュー記事の際に、とある曲で森は生きているの名前を出した憶えがある。そのお返しとばかりに、この曲は初期の椎名林檎やメジャー以降のきのこ帝国がやっててもおかしくないオルタナ系のJ-POPで、さっきまでは「マイナーメジャー」だった彼が一転して「メジャーマイナー」に変化する瞬間の怖さというか、あわよくば椎名林檎みたいなドが付くほど超メジャーなポップスに急接近するとか・・・岡田くん本当に天才すぎる。ある意味、これは「アンダーグランド」から「メインストリーム」のJ-POPに対するカウンターパンチだ。皮肉にも彼はSWと同じように、「アンダーグランド」の人間こそ「メインストリーム」の事情を最もよく知る人間であるという事実を、岡田くんはこのアルバムで証明している。なんかもう赤い公園津野米咲に聴かせてやりたい気分だ。

確かに、今作は「一口サイズのポップス」が詰まったアルバムだが、その中で最も長尺(6分台)となる#8”ブレイド”は今作のハイライトで、それこそ森は生きているのプログレッシブな側面を岡田くんなりに料理した名曲だ。まずイントロのフルートやサックス、そしてインプロ感むき出しのジャズビートを刻むドラムとピアノの音使い、叙情的な音作りまでSWがソロでやってきた事、すなわち「Post-Progressive」の音世界そのもので、特に暗転パートのシュールなアコギの響かせ方、音の空間の作り方がStorm CorrosionあるいはSWの2ndアルバム『Grace for Drowning』に匹敵するセンスを感じさせるし、更にはクライマックスを飾るメタル界のLGBT代表ことポール・マスヴィダル顔負けのフュージョンの流れを汲んだソロワークとか、なんかもう天才かよってなったし、この曲聞いてる間はずっと「holy...」連呼してたくらい。この曲は、まさに岡田くんの音楽的ルーツの一つでもあるジャズ/フュージョンに対する愛が凝縮されたような曲で、何を隠そう、SW『To the Bone』にもジャズ/フュージョンを扱った”Detonation”という”ブレイド”と同じくアルバム最長の曲があって、そういった「繋がり」を改めて感じさせたと同時に、なんかもう岡田くんマジ天才ってなった。26歳で既にSWと肩を並べる、いやもう超えてるんじゃないかってくらい、もはや嫉妬通り越して結婚したいわ。ごめん俺、もう岡田くんと結婚するわ。大袈裟じゃなしに、この曲をSWに聴かせたら2秒で来日するレベル。

そこからギャップレスで#9”グリーン・リヴァー・ブルーズ”に繋いで、流水のように瑞々しいピアノと初期Porcupine Treeみたいなアンビエンスを効かせた音響系のピアノインストぶっ込んでくる余裕・・・なにそれ天才かよ。そんなん「え、もしかして坂本龍一の後継者ですか?」ってなるし。

SW『To the Bone』って、ある意味では彼が幼少期に母親からドナ・サマー『誘惑』をプレゼントされた事を伏線とした、言うなれば「女性的」なアルバムだったわけです。勿論、僕はずっと前から「Post-Progressive」とかいうジャンルは「女性的」なジャンルであると説いてきた。まさにそれを証明するかのような作品だった。この『ノスタルジア』にも、やっぱり「女性的」な、どこかフェミニンな雰囲気があって、そのアンニュイな作風は『To the Bone』と瓜二つと言える。例えば日本のアイドル界隈を見れば分かるように、「女性」というのは大衆のアイコンとして存在し続けるものである。この『ノスタルジア』における「象徴」として存在しうるのが、他ならぬシンガーソングライターの優河をボーカルに迎えた#10”遠い街角”である。

元々、森は生きているのデビュー当時から「ポップス」に対する素養の高さ、その若かりし野心と類まれなるセンスを断片的に垣間見せていたけれど、この岡田くんのソロでは表面的に、かつ真正面から「ポップス」を描き出している。その結果が、「ポップス=アヴァンギャルド」であるという答えだった。なんだろう、自然に寄り添うようなアンプラグド的なDIY精神を貫いていた森は生きているに対して、一転して現代的というか未来志向のモダンなアレンジを取り入れた岡田くんソロといった感じで、例えるなら森は生きているがこってり味の豚骨ラーメンで、岡田くんのソロがアッサリしょうゆ味みたいな感覚もあって、なんだろう、毎年ノーベル文学賞が発表される時期になると集合する重度のハルキストが、村上春樹を差し置いてノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロに寝返ったような感覚もあって、なんだろう、村上春樹作品に出てくる主人公がSEXして童貞卒業したような感覚。まぁ、それは冗談として、そのヴィンテージな音世界とモダンなサウンドとの融合、それこそ「懐かしい、でも新しい」みたいな糸井重里のキャッチコピーにありそうな音楽は、まんま『To the Bone』の世界に繋がっている。

確かに、どんだけ岡田くん好きなの俺みたいなところもあって、でもこんなん聴かされたら流石のやくしまるえつこも岡田くんを認めざるを得ないでしょ。何故なら、岡田くんを否定することはスティーヴン・ウィルソンを否定する事となり、それすなわち「日本のSW」であるえつこ自身を否定することになってしまうからだ。それはともかくとして、岡田くんはこの『ノスタルジア』で、やくしまるえつこに肩を並べる「日本のSW」である事を証明してみせたのだ。リアルな話、もしSWがライブをするために来日した場合、この今の日本でSWのサポートできるミュージシャンって岡田くんしかいないでしょ(えつこは元より)。というか、SWに見せても恥ずかしくない唯一の「日本の音楽」が岡田くんの音楽です。それくらい、「繋がり」という点からこの『ノスタルジア』は、ありとあらゆる角度からSW『To the Bone』を補完するものであり、そしてこの「2017年」を締めくくるに相応しいサイコーのアルバムだ。

ノスタルジア
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Steven Wilson 『To the Bone』

Artist Steven Wilson
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Album 『To the Bone』
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Tracklist

01. To The Bone
03. Pariah
04. The Same Asylum As Before
05. Refuge
07. Blank Tapes
08. People Who Eat Darkness
10. Detonation
11. Song Of Unborn

「1967年11月、ロンドン近郊のヘメル・ヘムステッドで一人の子供が生まれた。その子供は8歳クリスマスに父親からピンク・フロイドの『狂気』をプレゼントされると、それを聴いて”ナニカ”に目覚めて「プログレ側の人間」としてすくすくと成長し、その子供は大人になると90年代以降のプログレッシブ・ロックを語る上で欠かせない、21世紀プログレ界を代表する最重要人物となった。そんな彼は、8歳のクリスマスに父親からピンク・フロイドの『狂気』を贈られると同時に、一方で母親からドナ・サマーの『愛の誘惑』をプレゼントされたのである。彼は父親から「プログレ側の人間」として育てられる傍ら、一方で母親からは「ポップス側の人間」として英才教育を受けて育ったのである。それから約50年後、それらの幼少期に得た「学び」が彼の骨(Bone)となり肉となり、そして(肉)声となり「音」となったアルバム『To the Bone』で、記念すべきメジャーデビューを飾る。この歳にして晴れて「メジャーアーティスト」の仲間入りを果たした彼は、アルバムのプロモーションのために出演した朝の情報番組で初対面したキャスターにこう聞かれた、「Your Name.(君の名は)」と。すると彼はこう答えた。」

『わたしは、スティーヴン・ウィルソン』

今回のSWはいつもとどこか違う。まずレーベルが違う。これまではKscopeという実質ほぼ身内のレーベルから作品を発表し続けていたが、今回は3大メジャーレーベルの一つで知られるユニバーサル・ミュージックに買収され、SW自身が「アイドル」として崇拝するビートルズデヴィッド・ボウイピンク・フロイドケイト・ブッシュディープ・パープルデュラン・デュラン、そしてX JAPANも所属していた(ここでXSWが繋がったのは面白い)イギリスの老舗レーベルEMI傘下のCaroline Internationalへと移籍(ここでPhantogramと繋がるか普通?)、そして国内盤はあのHostess Entertainmentからってんだから驚いた。しかし、この度の「ホステス入り」の伏線は既にあって、それはUK出身の「女版SW」ことマリカ・ハックマンSWSpotifyのプレイリストでパワープッシュしている、サマソニ2017の「ホステス・クラブ・オールナイター」にも出演したCigarettes After Sexの新作が共にホステスからリリースされていて、つまり、これまではレアなレコードを目当てにディスクユニオンに来日(来店)するもライブだけは頑なにしてこなかったSWが、今回めでたく「ホステス入り」を果たした事で、もしかしてだけど(もしかしてだけど~♪)いつかのサマソニで来日公演が実現する可能性が出てきたと想像しただけで何かもう凄い。

次にアルバムジャケットが違う。本家のPorcupine Treeをはじめ、SWが数多く手がけるサイドプロジェクトでも自画像をジャケにすることはなかった彼が初めて、メガネは体の一部とばかり生まれたままの裸の姿で目を閉じた状態の自身を晒した、それこそ『To the Bone』という今作のタイトルを暗示するようなアートワークからして違う。それらの「変化」は一体ナニを意味するのか?

今作についてSWは、「僕は主に「70年代」のプログレにルーツを持つ人間だと思われがちだが、「80年代」に成人を迎えて当時ムーブメントを起こしていたポストパンクやニューウェイブを聴いて育った人間でもあり、この『To the Bone』は、その「80年代」の音楽からインスピレーションを受けた作品だ」というような主旨を語っていて、いわゆる「70年代」の革新的かつ実験的な潮流から脱却を図ろうとする「80年代」の音楽の魅力を知り尽くしているSWが、それこそ自身のパーソナルな面を全てさらけ出すように、それこそ「丸裸」のジャケが物語るように、全てが新しく生まれ変わった姿で、まるで自身のメジャーデビューという新たなる門出を祝うかのようなアルバムとなっている。

ポール・マッカトニーイエスなどの大物アーティストをプロデュースしてきた重鎮トレヴァー・ホーンが、日本のアニメ『THE REFLECTION』の音楽を全面プロデュースしていると聞き、更にはサマソニ2017で日本のアイドルとコラボしているのを知ってしまったSWは、子供の頃からずっと憧れ続けていた「70年代」の音楽に失望し、それをキッカケに今度は「80年代」の音楽に傾倒し始めたのである(えっ)。先述したように、「80年代」の音楽とSWは切っても切れない関係にあって、彼の「80年代音楽愛」を象徴する一つに、前作Hand. Cannot. Erase.の歌詞にも登場するDead Can Dance、Felt、This Mortal Coilを筆頭に、Cocteau Twinsなどのいわゆる4AD界隈のポストパンクやプログレッシブ・ポップへの憧憬を恥ずかしげもなく、むしろ見せびらかすように自身の作品の中に取り入れるほどの「80年代」愛好者だ。ところで「80年代のUKミュージック」といえば、最近ではAlcestキュアーコクトー・ツインズからの影響を公言する「ビッグ・イン・ジャパン」ことKodamaを発表すると、今度はUlverデペッシュ・モードキリング・ジョークなどの「80年代」を象徴するポストパンク/ニューウェイブ愛に満ち溢れた「ビッグ・イン・ウェールズ」ことThe Assassination of Julius Caesarが記憶に新しい。いわゆる「コッチ側」に属するバンドが立て続けに、それらの一種の「80年代リバイバル」と呼ぶべき現象、その伏線とも取れる作品からしても、改めて「80年代」の音楽が30年経った今なお現代の音楽に根強い影響を及ぼしている事実に、その色褪せることない影響力は「70年代」の音楽を凌駕している。とにかく、イギリスの音楽シーンが「70年代」というアンダーグラウンドシーンから、より大衆的なメインストリームシーンへと移行する瞬間、つまり「70年代」「80年代」「境界線上」で創られる音楽の面白さは、後にも先にも「あの時代」でしか味わえない絶妙な魅力に溢れている。

同じくSWは、「70年代」から「80年代」にかけて本格的に広まった音楽ジャンルの一つである「New Age」にも強く影響を受けている人物で、主にデヴィッド・ボウイと共演した坂本龍一『戦場のメリークリスマス』をはじめ、映画『インターステラー』『ダンケルク』でも知られるハンス・ジマーマイク・オールドフィールドの二人は、その最もたる例だ。そして僕たちは、SWが70年代に音楽的なルーツを持つ「プログレ側の人間」であること以前に、子供の頃からABBAドナ・サマーを聴かされて「ポップス側の人間」として育てられながらも、彼の本質はそのどちらでもなく、その本性が「ニューエイジ側の人間」にあることを思い知らされる。それを真正面から証明するかのような曲が、今作の表題曲となる”To the Bone”である。

「ポスト・トゥルース」

SWは一貫して自身の作品の中で、21世紀におけるテクノロジーの進化、それに伴う世界情勢の変化、テロの脅威、インターネット時代とともに押し寄せるSNS社会の波、インスタバエの流行、それらの様々な「時代の変化」が音楽業界に及ぼしたのは、Spotifyをはじめとしたサブスクリプションの台頭、そして「ストリーミング時代」の幕開けであり、その時代の荒波の中でSWは「音楽はただ消費されるだけのもの」となってしまった現代の音楽シーン、音楽リスナーを取り巻く環境の変化に憂慮し、それをイギリス人らしく音楽を通して時にユニークに、時に辛辣に皮肉ってきた。昨年、2016年を象徴する出来事として、英国のEU離脱や米国大統領選でのトランプ勝利などが挙げられる。それらの「世界の歪み」を象徴する出来事を発端として、特に問題視されたのは、SNSを使った事実(真実)とは異なる「フェイクニュース」の拡散である(日本ではまとめサイト問題など)。そして、その年の「報道の自由度ランキング」で、日本は180カ国・地域のうち72位、G7の中で最下位という日本人が憂慮すべき不名誉な立場に晒された。本来は「真実」を報道すべき既存のマスメディアに対する不信感が世界的に広がる中、この日本では露骨なメディア規制(圧力)を仕掛けている安倍マリオと、それを擁護するネトウヨと呼ばれる存在がSNSや匿名掲示板をはじめ猛威を奮っている。【Post-Truth】→「真実はもっとフレキシブルなものでいい」という近年の間違った風潮が具現化した存在がネトウヨである。現代は、それこそ「嘘を嘘だと見抜ける人でないと難しい」という某氏の言葉がそっくりそのまま当てはまる「ポスト・トゥルース時代」に突入しているのだ。

某子供名探偵の口癖のように「真実はいつもひとつ」でなければならなくて、「真実」は決して複数存在してはならない。「真実」「100」のものであり、決して「99」であってはならないのだ。面白いのは、今作最大の『メッセージ』としてある「真実はフレキシブルであってはならない」という問いかけに対して、「SWの音楽は常にフレキシブルなものである」ことを皮肉にも証明していることだ。

ここで少し話は変わるが、この「真実(事実)」に関して、先日放送されたテレビ東京のドラマ『デッドストック ~未知への挑戦~』の最終回で興味深い話があった。最終話のザックリとした話の道筋としては、テレビ東京の未確認素材センターに勤務する新人ディレクター演じる元ももクロあかりんUA息子村上虹郎が、本人役として登場する森達也監督の紹介で70年代にスプーン曲げで一世を風靡した”清田くん”の現在を取材をすることになるが、それは結局山登りをしてまでスプーン曲げの映像が撮れなくて二人は落胆する。すると、ここで森監督がドキュメンタリー映画監督ならではの角度から話を始める。まず曲がることもリアルだけど、曲がらないこともリアルだろというくだりから、たかがコップですら、どっから見るかで形が全然違う。現実はもっともっと多面的かつ多重的かつ多層的、どっから見るかで全然変わる、それが真実だという。それでもたった一つの真実本当の真実を追求しようとする二人の新人ディレクターに対して、森監督はテレビ(メディア)が求めているのは本当のリアル(真実)ではない、リアル(本物)らしく見えること。リアルは(真実)、テレビのフレームの中では逆にリアルじゃなくなっちゃうという、まるでメディアの真実と真理を突くかのような核心的な言葉を放つ。それに対して、今度はあかりんスプーン曲げをワンカットで見せることがCGと変わらないと言われてしまう場合、どうスプーン曲げを見せることが視聴者を納得させられる真実でありリアルなんですか、そこに正解はないですかと疑問を投げかける。すかさず森監督はないよ、正解なんかないと無情にも吐き捨てる。つまり「真実に正解はない」と。森監督は更に言う、自分の真実、自分の視点を伝えること、その真実はもしかしたら真実らしく見えないかもしれない。ジレンマだよね、いいんだよジレンマで、矛盾でいいんだよと。最終的に森監督は、「真実」「矛盾」していいと、つまり「真実はフレキシブルなものでいい」と結論づける。この話で本当に面白いというか衝撃的だったのはラストシーンで、そこに映し出される衝撃的な光景はまさに「真実はフレキシブルであってはならない」という、それこそこの『To the Bone』のコンセプトその本質を描いた、SWもビックリの何とも皮肉の効いたラストでこの話は幕を閉じる。ある種の哲学的な話にも聞こえるこの最終話は、まさに「フェイクニュース(嘘)」「リアル(真実)」が複雑に入り乱れる現代の「ポスト・トゥルース時代」への「メディア側」からの回答であり、その「嘘」と「真実」をテレビドラマという虚構の中で、ドキュメンタリー(モキュメンタリー)形式であたかも「事実」であるかのように描き出すという、このご時世にテレ東はトンデモナイ最終回をブッ込んで来たわけだ。他の局じゃちょっと考えられないコンセプトで、やっぱテレ東ってスゲーわって。

一旦自分の世界の辻褄を合わせると、僕らは他のみんなの世界をぶち壊しに行きたくなる、彼らの真実が自分の真実と噛み合わなくなるから・・・

上記の”To the Bone”の冒頭で語られるオープニング・ダイアローグは、まさしく先ほどの『デッドストック』最終話に直結するような、あるいはミサイルが上空を飛び交うクソみたいな世界に対する最後通告のような、今作最大のテーマでもあるこの世の「真実」は一体どこにあるのか?まさにアルバムの核心的な部分をあぶり出すようなこの曲は、「Post-Truth(ポスト真実)」をテーマにした曲で、歌詞はSWがリスペクトするXTCアンディ・パートリッジによるものだ。再生すると、まずそのプロダクションの良さにハッとさせられる。その「New Age」ならではのプロダクションとともに、語り部のJasmine Walkesなる女性のモノローグが終わると、まるで坂本龍一喜多郎、そしてエンヤなどのニューエイジャーという名のシャーマン達による集団儀式がアマゾン奥地で催され、森の精霊のごとしスピリチュアルなヒーリングボイスからサックス顔負けのハーモニカやマラカスなどのパーカッション、それら「80年代」を代表するニューエイジャーへのリスペクトを込めた神秘的なトラックとともに「シン時代」の幕開けを宣言し、新たなる夜明けとともに、瞳を閉じたままのSWが遂に目覚めると、全く新しい「シン・SW」という新たなる生命の誕生を盛大に祝福する。

今回は「音」も違う。UKロック界のレジェンドオエイシスの作品でも知られるポール・ステイシーとの共同プロデュースによってもたらされた、「90年代」以降の普遍的な「UKロック」を踏襲したギター・サウンドとポールの双子の兄弟であり現キング・クリムゾンのドラマーとしても知られるジェレミー・ステイシーのタイトなドラミングが織りなす、未開の部族の宴の如し多民族的なグルーヴ感を発するノリの良いギター・ロックを展開し、そしてより「ポップ」に歌い上げるSWと前作からお馴染みとなったイスラエルの女性シンガーニネット・タイエブによるドナ・サマー顔負けのソウルフルなバッキングボーカルを聴けば分かるように、そのオールドスタイルのギター・サウンドからボーカル、ほのかにブルージーでファンキーなフレーズを聴かせるGソロやアレンジまで全てが「ポップ」なチューニングが施されており、ジョイス・キャロル・ヴィンセントの悲劇的なコンセプトを背負った前作の『Hand. Cannot. Erase.』から一転して、今度は一聴しただけで分かるように、大衆的かつ普遍的な「ポップス」のアップテンポなノリを内包した「ポップ・ロック」を聴かせる。しかし、「ただのポップス」で終わらないのがSWの凄い所で、オープニングの語り部から自らが「70年代」の「ニューエイジ側の人間」である事を証明しつつ、オエイシスにも通じる「90年代」の「UKロック」や「80年代」のポピュラー・ミュージックに対する理解と敬意を示しつつ、その終始ノリが良い曲調から一転して緩やかに展開するアウトロは、「80年代」の「プログレッシブ・ポップ」への彼なりの憧憬でもある。なんかもう「おかず全部のせ」みたいな、それこそディープなヒップホップからイマドキのエレクトロニカにも精通するSWの幅広い音楽的嗜好を垣間見るような、ありとあらゆる「時代の音」が「ポップス」に集約された今作を象徴するかのような、その「アルバム」のコンセプトを一曲の「ポップス」として凝縮しパッケージングしたような、まさしく「キング・オブ・ポップ」あるいは「ポスト・ポップ」と呼ぶべき一曲だ。

正直、まるで一本の映画のようなスケール感を持った7分近い「ポップス」は今まで聞いたことがなかった。普段のSWなら、というよりSW「プログレ側の人間」として見た時、彼に7分の曲を書かせようもんなら必ず「プログレ」になるというか、当然聴き手もそれを疑うことなくSWが書く「7分の曲」=「プログレ」としてこれまでは解釈してきたが、この曲は違う。「7分の曲」であるのにも関わらず、どこをどう聴いても「ポップス」にしか聴こえないのだ。普通の人からすれば「ポップス」といえば3分から4分の一口サイズで消費するものだが、この曲はいわゆる普通の「ポップス」とは一線をがしている。このシン・SWは、これまでの「ポップス」の概念を根底から覆すように、つまり全く新しい考えを持った一人の挑戦者として、この「7分のポップス」をもって現代のポピュラー・ミュージックの世界に挑まんとしているのだ。

2016年に発表した『4 ½』は、その「4」「½」というタイトルが示すとおり、前作の『Hand. Cannot. Erase.』と次作すなわち『To the Bone』を結ぶ補助的な役割を担う作品だったが、そのアルバムの中でSWは僕たちにとあるヒントを与えた。それこそ、中期以降の本家Porcupine Treeへの明確な回帰だった。しかし、2009年に発表した問題作のThe Incidentを最後に、PTを活動休止にして今現在までソロアーティストとして活動してきたSWが、なぜ今になって「PT回帰」に至るまでに、そしてなぜ回帰せねばならなかったのか?その答えこそが、この『To the Bone』を紐解く大きな鍵となることを、あの日の僕たちはまだ知らない。



これまでにSWは、複数のサイドプロジェクトの中で様々な音楽的嗜好を多方面に披露してきた。最古参のNo-Manではエレクトロニカの側面を、Opethミカエル・オーカーフェルトと組んだStorm Corrosionではサイケデリック/フォークの側面を、Bass Communionではノイズ/アンビエントへのアプローチを垣間見せた。それらのプロジェクトの中でも特に「ポップス」の側面を強く持つのが、他ならぬ当ブログ「Welcome To My ”俺の感性”」の元ネタであり、イスラエル人のアヴィヴ・ゲフィンとのプロジェクトである「黒のフィールド」ことBlackfieldである。2曲目の”Nowhere Now”は、開幕のピアノや気持ちのいいくらい爽快なドラミングをはじめ、アコースティックなクリーン・ギターや初期のBlackfieldを彷彿させるSWのポップでウェットなボーカル・メロディをフィーチャーした、複雑なタネも仕掛もない、全域に渡ってクリーン・トーンで展開し、全パートに渡って「ポップス」が貫かれた、一点の曇りもない前向きな「希望」に満ち溢れたキャッチーなポップ・ロックで、まさに今作の根幹に脈々と流れる「ポップス」を象徴するかのような一曲と言える。で、このMVについて、まず「こんなにアクティブなSWは今まで見たことがない」ってくらい、天を仰いで歌うSWとかガラにもなさ過ぎて「SWってこんなキャラじゃなくね・・え・・・えっ」ってなるくらいツッコミどころ満載のSWはさておき、一歩間違えたら素人が作った映像に見られそうなこのMVは、チリのアタカマ砂漠の「アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計(ALMA)」をロケ地に、SWがたった一人で天を仰いだり歩いたり語り弾いたりする非常にシュールな絵になっている。ご存知、SW「宇宙大好き芸人」としても知られ、Blackfieldの4thアルバム『Blackfield IV』でも名作SF映画『コンタクト』の舞台となった事でも知られるVLAらしき天文台をアートワークにしていて、そういった意味でも、この曲は「意図的」にBlackfieldを意識して書かれた曲なのが分かる。



「世界一美しいハスキーボイス」ことニネット・タイエブとのデュエット曲となる3曲目の”Pariah”は、前作の”Perfect Life”をアップデイトさせたようなマッシブ・アタック的なインダストリアル/トリップ・ホップへのアプローチと、No-Manを現代版にアップデイトしたようなアンビエント・ポップ風のアレンジを効かせながら、SWニネットがまるで恋人のように見つめ合いながら交互に会話を交わすように、モノクロームの世界でゆったりと落ち着いた曲調で展開するかと思いきや、終盤に差し掛かるとビッグバンの如し爆発力のある展開を見せ、そこでのシューゲイザー風のノイジーな轟音ギターは互いの感情を的確に表現している。このMVを見れば分かるように、言うなれば童貞メガネ喪男扮するSWのハッキリしないウジウジした態度に「ウンザリ」した彼女扮するニネット「私と音楽、どっちが大事なの?!」みたいにブチ切れて、そして遂に喪男のウジウジが限界に達して「ふえ~~~ん...でもLovely」ってなってるSWの顔アップにクソ笑う。もうこれだけで名作認定。

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「なぜSWは再びPTにチューニングを合わせざるをえなかったのか?」

それを断片的に証明するかのような、4曲目の”The Same Asylum as Before”は、Porcupine Treeが最も「ポップス」に近かった頃すなわち『Lightbulb Sun』の頃の中期PTを彷彿させる、イギリスの気候のようにソフト&ウェットで湿り気のある、そして夕焼けのようにホットでアコースティックな、まさにプログレッシブ・ロックならではの叙情性と情緒に溢れた音像を踏襲し、それらを「プログレッシブ・ポップ」に刷新したような曲で、これは一種のプログレ畑の人間がやる極上のプログレッシブ・ポップというか、これまでプログレ界隈でしのぎを削ってきた生粋のプログレヲタクが、このアルバムで「プログレッシブ・ポップ」に挑むなんてのは至って容易なことだった。

今作のハイライトを飾る5曲目の”Refuge”は、再びNo-Manを彷彿させるアンビエント・ポップ的なアレンジとピアノで静かにセンチメンタルな幕開けを飾り、次に無数の銀河が輝き放つように宇宙空間を形成していくスペーシーなキーボード、次に宇宙規模の広大なスケール感とワイドレンジなダイナミズムを加えるドラム、それらが一つ一つが音の恒星となってスーパーノヴァを起こしながら内なる衝動を爆発させていき、そして子供の頃に見た『夢』が無限にどこまでも広がっていくような、そしてクライマックスを飾る光を超える速さで眩いばかりの閃光を解き放つ、ハーモニカとギターが「未来」を繋いでいくような超絶epicッ!!で超絶エモーショナルなソロパートは、「現代人」である人類から「未来人」への『メッセージ』か、はたまた天国のデヴィッド・ボウイプリンスなどの「80年代」を輝かしい時代へと導いた偉大なる先人たちへの鎮魂歌か。この曲の音使いや作曲のベースには前作の”Regret #9”があって(タイトル的にも)、ここまで一貫してやってきた「ポップス」から一転して、一つの映画を観ているかのような、叙情的なシーンを一つ一つ丁寧に紡いでいくような曲構成は、まさにSWが主戦場としてきた「70年代」の「プログレ」からの応用である。



2008年に公開された名作映画『スラムドッグ$ミリオネア』以降、最近では『きっと、うまくいく』『PK』など、近年インド映画が世界中から注目を浴びるようになって久しい。そのインド映画でもお馴染みのボリウッドのダンサーを迎えた6曲目の”Permanating”のMVは、なんかもうインド映画=謎の踊り踊らせときゃええやろ的な、もはやインド人に失礼なくらいステレオタイプのインド人を描写した映像となっている。そのウキウキな謎の踊りと同調するように、一緒に楽しく歌って踊って仲良く飛び跳ねるようなピアノを弾き殴りながら裏声で歌い上げるSWの姿は、もはやエルトン・ジョンあるいはスティーヴィー・ワンダーに代表される「大衆のアイコン」さながらの存在感を放っており、それこそエルトン・ジョンが伴奏を手がけたミュージカル『リトル・ダンサー』的なダンサブル要素を持つ曲である。この曲についてSWは、ELO”Mr. Blue Sky”ABBA”マンマ・ミーア”へのアプローチがあると語るように、老若男女誰もが知る名曲中の名曲を元ネタにするあたり、いかにしてSW「メジャーアーティスト」の仲間入りを果たしたのかを痛感させる。ここで改めて「メジャーアーティスト」という言葉が出てきたが、SWが本当に「メジャーアーティスト」の仲間入りした事を証明する一つの証というかギミックが今回のMVに隠されていて、それはMVの右下に表示された「VEVO」のロゴである。邦楽のMVでもたまに見る「VEVO」の意味は既にご存知な方も多いかと思うが、恥ずかしながら自分はこれまでずっと「VEVOて何のロゴやねん」と「VEVO製の特殊なカメラでも使ってんの?」ってくらいにしか思ってなくて、しかし今回SWのお陰でその意味をようやく理解できた。簡単に説明すると、今回からSWが所属することになったCaroline Internationalは、大手のユニバーサル・ミュージックの傘下にあるレーベルで、そのユニバーサル(EMI)とソニー・ミュージックのMVは全て「VEVO」仕様のMVとなるらしい。つまり、言い換えれば「VEVO」というの3大メジャーレーベルに属する「メジャーアーティスト」の証でもあって、そういったガワの面でもちょっとした「変化」が起きている。

再びニネットとデュエットした7曲目の”Blank Tapes”は、ピアノとギターのシンプルなリフレインを中心に聴かせるフォーキーなバラードで、8曲目の”People Who Eat Darkness”では、イントロのリフを皮切りに、エッジの効いたギターの音作りやボーカルのアレンジまで全てがディープ・パープルの名曲”ハイウェイスター”のオマージュと言っていい、「70年代」のヴィンテージ感溢れるクラシックなハードロックを展開し、「ポップス」のノリに支配された今作の中で最もロックンロールな疾走感溢れる曲調の中、しかし転調パートではしっかりとプログレスなSW節を覗かせるのが何ともニクい。

「コーンウォール一派」

ここまで執拗にやれ「70年代」だ、やれ「80年代」だとシツコクも言ってきたけれど、SWは決して「70年代」や「80年代」だけに収まるようなアーティストではない。彼は、まず誰よりも「現代人」なのである。SWは、誰もが知っているようなポップ・ソングからヒップホップ/ラップ、そしてアングラなエレクトロニカにも精通する幅広い音楽的嗜好回路を持ち合わせている。そんな彼が特に近年、というかSWは昔からエイフェックス・ツインスクエアプッシャーに代表される、俗に言う「コーンウォール一派」に心酔していて、直近の曲にもインダストリアルやエレクトロニカなどの打ち込み音を駆使した楽曲が増えている事からも、それは明白な事実である。確かに、エイフェックス・ツインは漫画家の荒木飛呂彦相対性理論やくしまるえつこにも影響を与えるほど、電子音楽界の最高峰とも呼べる偉大な前衛的アーティストの一人だ。何を隠そう、僕は事あるごとに、というか過去に『The Raven That Refused to Sing』の記事で荒木飛呂彦スティーヴン・ウィルソンを共振させ、そして相対性理論天声ジングルではやくしまるえつこ荒木飛呂彦、そしてエイフェックス・ツインの存在を共振させてきた、つまり【荒木飛呂彦≒スティーヴン・ウィルソン≒やくしまるえつこ】であると説いてきたが、ここで初めてその決定的な証拠がSW側から提示されたのは嬉しい誤算だった。今作でも俄然その「繋がり」を証明するかの如く、スイス出身の女性SSWことSophie Hungerとデュエットした9曲目の”Song of I”では、母親の胎内で眠る胎児の鼓動のようなインダストリアルなサウンドで「イマドキ」のバッキバキに尖った音楽をアップロードしたかと思えば、続く10曲目の”Detonation”では、Djentにも精通する変則的な拍を刻む無機的な打ち込みメインの幕開けから、ミニマルなリフレインを中心にPT『Fear of a Blank Planet』を彷彿させるサイケデリックな世界観を繰り広げる中盤、そして後半から場の空気がガラッと変わって一気にジャズ/フュージョンっぽくなる曲で、その変態的な電子音から緊迫感溢れるダイナミックな曲構成をはじめ、そしてこの曲の根幹にあるスクエアプッシャー愛マイルス・デイビス愛に溢れたジャズ/フュージョンの要素は、もはや「SWなりの”Tetra-Sync”」としか他に形容しようがなかった。



このMVを観てまず頭に浮かんだのは、BBC制作のドラマ『シャーロック』「忌まわしき花嫁」で、そのホラーテイスト溢れるビジュアルの映像とシアトリカルかつ喜劇的に演出するストリングスが絶妙にマッチした曲だ。既にお気付きのとおり、”Nowhere Now”のMVでは過去最高に「こいつ動くぞ」感を、続く”Pariah”のMVでは童貞喪男を演じたかと思えば、”Permanating”のMVではボリウッドダンサーを迎えて映画『サウンド・オブ・ミュージック』顔負けのSW先生を演じたりと、ここまでシングル化された全てのMVでSW自らが主演を務めていて、このように映画やドラマなどの現代の流行から積極的に「大衆文化」すなわち「ポップカルチャー」への迎合を図りながらも、改めて新しく生まれ変わった自分を、それこそ「わたしは、スティーヴン・ウィルソン」と名刺代わりの自己紹介とばかり、自身のありのままの姿を全てをさらけ出している。

ついさっきまでボリウッドの「不思議な踊り」やディープ・パープル顔負けのクラシック・ロックやってみせた後に、そこから数十年の時を超えて「現代人」ならではの打ち込み系に切り替わる一種のギャップというか、そのソングライティング面でのジグザグな振り幅こそ今作を象徴する一つの流れと言ってよくて、それと同時に、いい意味で「アルバム」っぽくない構成でもあった。しかし、最後を締めくくる11曲目の”Song of Unborn”では、これが「アルバム」だということを再認識させる。あたかもあざとく「これはアルバム最後の曲ですよ」とご丁寧にお知らせしてくれるような、なんだろう「アルバムのクライマックスを飾るためだけに存在する曲」みたいな、とにかく荘厳な男女混声クワイヤを駆使した神聖な曲で、中でも最後に繰り返される「Don't be afraid to die」「Don't be afraid to be alibve」「Don't be afraid」という「希望」に溢れた歌詞で幕引きする所も、僕たちは今まで「シングル」の集合体ではなく「アルバム」を聴いていたんだと、僕たちはまんまとSWの術中にハマっていた事を知る。

まず「アルバム」の初めに今作の「コンセプト」を司る表題曲の『To the Bone』で全く新しい「シン・SW」をお披露目しておいて、その中身はポップ・ソングからヴィンテージ・ロックからモダンなエレクトロまで、その時代その時代の音を細部まで徹底してこだわり抜かれたアレンジと音作りで現代の音としてアップデイトし、そして『To the 【Bone】』と対になる『Song of 【Unborn】』という再びアルバムの「コンセプト」を象徴する曲を最後に、「アルバム」のフォーマットとして一つにパッケージングするという、これはまさに「音の旅」である。SWは、今作について子宮の中から現代文明の瓦礫を覗いて『どうしてこんなところに生まれたいと思うんだ?』と自問している、まだ生まれていない子供の視点から何かを書いてみたかったんだと語っている。それは最後の”Song of Unborn”というタイトルが物語っていて、まだ生まれる前の胎内に眠る曲が「こんなクソみたいな時代に生まれたくない」という叫び声でもあるかのよう。実は、このシチュエーションを今の日本の状況に置き換えてもシックリくる。ミサイルが上空を飛び交う国に生まれたいと「胎内の子供」が思うわけがない。今回のに象徴されるアートワークは、母親の血が通った赤い子宮の中でスヤァ...と眠るケツの青い胎児を比喩し、まだ生まれる前の「希望」に満ち溢れた「未来の子供」「いやいやいやいや、こんクソみたいな時代に生まれたくないんやけど」と、「心の叫び」ならぬ「胎児の叫び」を比喩していたのだ。つまりSWが最後に残したのは「ただの希望」、それ以上でもそれ以下でもなかった。

「逆再生」

この「始まり」と「終わり」が対になるようなアルバムのストーリー構成は、何を隠そう相対性理論天声ジングルと全く同じ発想で、過去に僕は『天声ジングル』について「逆再生」して聴くのが本当に正しい曲順なんじゃあないかと書いた。つまり、オープニングの”天地創造”をラストの”フラッシュバック”から人類の歴史を思い返すように記憶を巻き戻していく構図だ。で試しに今作を「逆再生」して聴いてみると、驚くほど違和感がないというか、通常でも「逆再生」してもハイライトが”Refuge”になるあたりは、まんま『天声ジングル』”弁天様はスピリチュア”と同じ役割を担っているし、双方の曲に共通するのは、他ならぬ「宇宙」であることも。そういった面でも、冗談じゃなしにこれは意図的に「逆再生」を想定して制作されたものなんじゃあないかって。ヘタしたら「逆再生」の方がアルバム構成的に盛り上がるというか、実質オープニングとなる裏(表)題曲の『【Song of 【Unborn】』では母親の胎内で「こんな不確かな時代に生まれたくねぇんだけどマヂ迷惑なんだよクソBBA」と愚痴りながらドカドカと腹を蹴り飛ばす胎児に「希望はあるから」と暗に焚き付けて、そんな悪魔みたいな子供が生まれてくる266日の間に、あらゆる時代の【Songという名の「希望」を胎教として与え続け、その「希望」が母体の胎内を巡って胎児の血となり骨となった結果、「あっ、この”音楽”という確かな”シン・ジツ”に溢れた世界になら生まれてみてもいいかな」と心変わりさせてから、実質ラストとなる表題曲の『To the 【born】』で満を持してどじゃ~ん!とこの世に生まれてきた天使のように可愛い子供の第一声は、「オギャー」という泣き声ではなく「ここがシン・ジツだ」に違いない。

この「逆再生」に関する話で本当に面白いのはここからだ。実はつい最近、ヒップホップ界のレジェンドケンドリック・ラマーの新作『DAMN.』「逆再生(リヴァース)」を想定して作られた事をケンドリック自身が認めたのである。『DAMN.』の発売当初、実際にApple MusicSpotifyなどのサブスクで曲順を逆にしたプレイリストも多く作られるほど、『DAMN.』は逆から聴けるという指摘は決して少なくなかったと言う。ここでまたしても繋がるのが相対性理論天声ジングルである。2015年にリリースされたこのアルバムは、それこそ「やくしまるえつこなりの日本語ラップ」であり、まさにケンドリック・ラマーが新作で試みた「逆再生」演出を、えつこは一足先に相対性理論のアルバムで再現していたのである。このケンドリックの件は、『天声ジングル』は「逆再生」できると言及した僕の解釈を真っ向から肯定するかのような出来事だった。確かに、この『To the Bone』「逆再生」できると力説する人間は恐らく世界でも僕しかいないかもしれない。しかし、まさかやくしまるえつこを経由してスティーヴン・ウィルソンケンドリック・ラマーが繋がるなんて思ってもみなかった。勿論、その二人を繋げるには相対性理論『天声ジングル』を世界で最も理解できる奴だけだった。それが「日本一のジョジョヲタ」である僕だった。つまり、ケンドリック・ラマースティーヴン・ウィルソンを繋げる事ができたのは世界でも僕ただ一人だけだったんだ。なんだろう、こんな面白い話って他にある?って感じ。ともあれ、この「逆再生(リヴァース)」という一つの大きなギミックが、このアルバムの最も革新的な部分であると僕は理解した。

この『To the Bone』には、ドナ・サマーABBAをはじめとした世界的なディーヴァをはじめ、そのアレンジには80年代のプログレッシブ・ポップやアート・ポップ、エレクトロ・ポップやアンビエント・ポップなど、どの曲にも常に「ポップさ」が点在する。それこそ、晴れて「メジャーアーティスト」となったSWによる、デヴィッド・ボウイプリンスなどの歴代ポップスターの「なりきりポップス」みたいな、これまでは70年代のプログレッシブ・ロックのレジェンド達の数々の名作をリミックスで蘇らせてきたエンジニアとしてのSWが、今度は「メジャーアーティスト」として歴代のポップスターをモダンなアレンジを施して現代に蘇らせた、歴代最高峰のポップスを歴代最高峰のアレンジと歴代最高峰のプロダクションでパッケージングした、全てが歴代最高峰の「ポップアルバム」だ。全11曲で60分ジャスト、つまりこの『To the Bone』というタイトルには、時計の針が一周して「何度でも新しく生まれる」というある種の意味合いが込められているのかもしれない。そうやって深く考えれば考えるほど、このアルバムはちょっと本当にどうしようもなく「トンデモナイ」という結論に行き着く。

バックバンドも違う。前作までは「プログレッシブ・ロック」を演奏するのに必要なそれ相応のスキルを持ったプロフェッショナルなメンバーが集結した、いわゆる「SWバンド」がバックバンドとしてSWをサポートしていたが、今回はオエイシス界隈でも知られる「メジャーならでは」のミュージシャン/プロデューサーを筆頭に、様々な国のシンガーやミュージシャンの協力により成り立っている、SW史上過去最高にインターナショナルでジェンダーフリーな作品と言える。まさしくその意味というのは、更に混沌さを増す世界情勢や現代社会の闇の部分を浮き彫りにすると同時に、バラバラになった世界を一つにするような、SWなりの黄金のリベラリズム」が込められた一枚となっている。ボーカルとギターは勿論のこと、半数以上の曲でSWがベースパートを弾いていることからも、俄然「ソロアルバム」っぽいというか、むしろ本当の意味での「ソロアーティスト」としてのデビュー作、つまりシンガー・ソングライター(SSW)としてのメジャーデビュー作と解釈すべきかもしれない。もはや「ソロ」という概念を超越したSW自身を投影したかのような作品である。

「懐かしい、でも新しい」

まるで糸井重里が考えたキャッチコピーのような今作、これまでと「違う」とか「変わった」とか言うけれど、無論全てが新しいというわけではない。随所で見られるギターのフレーズやメロディ、リフレインやソロワーク、そして曲構成に至るギミック面にしても、それはこれまで僕たちがSWがサイドプロジェクトを含めた数々の作品で耳にしてきた馴染みのある音そのものだ。それこそ、アルバム後半のモダンな打ち込み主体の楽曲に関しても、実質SWKscopeが世に広めたと言っていいPost-Progressive自体が、そもそも「ポップス」とモダンな「エレクトロニカ」などの様々な要素をクロスオーバーさせたジャンル、つまり「Post-系」の根幹を司る重要なパーツでもある。全てが真新しくて全てが違うと言ってみても、しかしやってる事の根幹にある大事な部分は何一つ変わっちゃあいない。SWにとっては、メジャーでもアンダーグラウンドでも結局やることはこれまでと同じ、ただの「Post-」をやってるだけであり、結局はいつものSWと何ら変わりないのだ。全てが真新しいにも関わらず、その全てがSWそのものでしかないのがホントに怖い。

前作の重厚なコンセプト・アルバムから一転して、このクソみたいな世界に咲き誇るクソ前向きな「希望」に満ち溢れた「ポップス」へと転換する恐ろしいまでの振り幅は、遡ること8歳の頃に両親からピンク・フロイドドナ・サマーのアルバムをプレゼントされた時から現在に至るまでの約50年間、これまであらゆる「時代」の様々な「音」を咀嚼し、その影響を高度な次元で昇華して自らの音楽に反映してきた彼だが、そのSWの最大の魅力とも呼べる、その時代その時代の「過去の音」を「現代の音」として刷新させるエンジニア(技術者)としての職人芸と咀嚼力の高さ、そして音楽的な振り幅の広さは、今作で集大成とも呼べるほどの才能を爆発させた結果でもある。それを証明するかのように、一曲一曲が映画のワンシーンのように情緒と郷愁に溢れた多面的な表情を描写し、それこそSWの子供の頃の「思い出(ノスタルジア)」が詰まったフォトアルバムを一枚一枚めくっていくような、そのSWが子供の頃から触れてきた「思い出の音楽」と、一方で今なお新しい音楽と対話し続ける「イマのSW」が時代を越えて共鳴し合うかのような、これはもうスティーヴン・ウィルソンの自伝映画『わたしは、スティーヴン・ウィルソン(I, Steven Wilson)』としか形容できない、もはや「ポップス」とかそんな次元の話じゃねぇ、これはスティーヴン・ウィルソンの人生そのものが記録された「人生のサウンド・トラック」だ。

これはある意味、「アンダーグラウンド・アーティスト」として活躍してきたスティーヴン・ウィルソンにとっての、人生を賭けた大きな「メジャー・アーティスト」への挑戦だった。まるで「創造者たるや常に挑戦者たれ」と言わんばかり、彼は日頃のインタビューでも「同じことはしない」と語り、常に新しいことに挑戦し続けるクリエイターとしての貪欲な姿勢、それこそ「オルタナティブ人間」としての才能を改めて証明するかのように、これまではアンダーグラウンド・シーンでお山の大将気取ってた彼が、「挑戦者」として生まれて初めてメインストリームの世界に挑んだ歴史的なアルバムなのだ。なんだろう、アンダーグラウンドのことを知り尽くしているからこそ、いざメジャーに行っても何不自由なくやれてしまう、それってつまりアンダーグラウンドの人間がメインストリームの世界を最もよく知っている典型例で、その「アンダーグラウンド」と「メインストリーム」の話から頭の中で閃いたのは、今のスティーヴン・ウィルソンが置かれた状況って、実は2016年に『君の名は。』を発表した新海誠と全く同じ状況なんじゃね?ってこと。

「200億の童貞」

つまり、前作の『言の葉の庭』までは「アンダーグラウンド」すなわちマニア向けのアニメ監督として名を馳せていたインテリクソメガネの新海誠が、新作の君の名は。で本家本元の東宝の全面バックアップを受けると、前作の『Hand. Cannot. Erase.』までは70年代に一世を風靡した「アンダーグラウンド・ロック」の正統後継者として名を馳せていたインテリクソメガネのスティーヴン・ウィルソンが、新作の『To the Bone』でメジャーレーベルのユニバーサル傘下のCaroline Internationalと契約する。新海誠『君の名は。』で数々のヒット作を飛ばした有能プロデューサーを迎えると、今度はSW『To the Bone』でオエイシス界隈の有能プロデューサーを迎える。新海誠『君の名は。』でジブリを手掛けた作画監督やアニメーター、つまり「ジャパニーズ・アニメーション」の歴史を築き上げてきたジブリの宮﨑駿や『エヴァンゲリオン』の庵野秀明、『時をかける少女』の細田守監督や今はなき今敏監督に代表される「メインストリーム」すなわち「大衆アニメ」の分野で活躍するアニメ監督からの影響と、新海誠「アンダーグラウンド」で培ってきた「過去の遺産」すなわち「新海誠レガシー」をセルフオマージュして「メインストリーム」にブチ上げた「全日本アニメーション」を発表すれば、今度はSW『To the Bone』で多国籍のミュージシャンを迎え、ドナ・サマーABBAなどのメジャーなポップ・アイコンからの影響とSW「アンダーグラウンド」で培ってきた「過去の遺産」すなわち「SWレガシー」をセルフオマージュして「イマドキ」にブラッシュアップした「キング・オブ・ポップ」を発表する。新海誠『君の名は。』で自らの存在を「否定の世界」「アンダーグラウンド」から「肯定の世界」「メインストリーム」にブチ上げると、今度はSW『To the Bone』というジャスト60分のアルバムで、自らの「過去」「アンダーグラウンド」「否定の世界」から時計の針を一周(60分)させて「ポップス」という「メインストリーム」=「肯定の世界」へと一巡させる。新海誠『君の名は。』「童貞」を捧げて「ゲスの極みシン・海誠」へと生まれ変わり興行成績200億超の歴史的な映画を生み出すと、今度はSW『To the Bone』「童貞」を捧げて「シン・SW」へと生まれ変わり、自身最高位となるUKチャート週間3位を獲得する。正直、お互いにここまで理想的な童貞の捧げ方は未だかつて前例がない。つまり、この『君の名は。』における新海誠と、この『To the Bone』におけるスティーヴン・ウィルソンの共通点を見抜いた僕は、彼らと同じ「200億の童貞」と同等の価値を持つ黄金の童貞」なのかもしれない(ポスト・トゥルース)。

「ストリーミング時代」

SWは常に憂慮し続けてきた。音楽はSpotify、映画やドラマもNetflixをはじめとしたサブスクリプションの時代に移行しつつある現代のクリエイティブ業界に対して。SWは、「”アルバム”は長編映画や長編小説と同じ、ある種のリスナーや読者をその世界に連れていく機会であると捉えていて、前作の『Hand. Cannot. Erase.』ジョイス・キャロル・ヴィンセントの悲劇をコンセプトにした、それこそSWが言うような「アルバム」だからこそ表現できる作品の代表例だった。今はSpotifyなどのストリーミングで好きな曲をプレイリストにして聴く時代、つまり「アルバム」が「シングル」扱いされるようになってしまった時代に、SWは数十年前にデビューして以来ずっと「アルバム」というフォーマットに「こだわり」を持って音楽制作に挑んできた。そんな風に、身を挺して「アルバム」のフォーマットであることの重要性を問いただしてきた彼が何故、これまで否定的だったストリーミングの世界に自ら飛び込み、現代の「ストリーミング時代」を生きる「ストリーミング人間」に対する挑戦状を叩きつけたのか?



SWは、新しい作品をを出すたびにインターネット時代ならではのブログやSNSなどのツールを通じて、何時だって僕たちに新作を紐解くヒントを用意してくれる。今回は、今年に入ってからSteven Wilson' Headphone Dustなる自身のSpotifyのプレイリストを公開し、新作の『To the Bone』を紐解くヒントを与え続けてくれていたのだ。定期的に更新される、端的に言ってSW「人生のプレイリスト」には、デヴィッド・ボウイプリンスは勿論のこと、主に「80年代」の音楽からアンダーグラウンドのエレクトロニカまで、それら様々なジャンルと幅広い世代のアーティストが選曲されている。なんだろう、今回のアルバムって結局、世界的に「ストリーミング」が主流となった時代だからこそというか、その「ストリーミング時代」に対するSWなりの回答のような気もして、なんだろう、ライブじゃなくてレアなレコードを探しにわざわざ来日するくらい、アナログ(レコード)時代を生き抜いた人から、現代の「ストリーミング時代」を生きる人への『メッセージ』なんじゃないかって。つまり、「ストリーミング時代」の今はワンタッチで世界中の様々な音楽に触れることができるが、SWSpotifyなどのサブスクがこの世に存在しない時代から、それこそ両親の英才教育もあって子供の頃から世界中の音楽に人一倍触れてきた人間、言うなれば「人間Spotify」がこの「ストリーミング時代」にその是非を問いかけるような、これはもう一種の「ストリーミング・アルバム」と言えるのかもしれない。

まず今作の半数以上がシングルカットされている所からもそれは明白で、これまでのように「アルバム」のコンセプトで聴かせる意識は過去最高に薄く、それこそSpotifyのプレイリストのようにシャッフルして聴けちゃう感じというか、さっきの話じゃないけど「シングル」=「アルバム」のような一曲一曲の重みの違いというか、「アルバム」という「映画」のワンシーン(一曲)をかい摘んで聴けちゃう気軽さもあって、そういう面でも過去最高に「大衆向け」の仕様になっているのも事実で、意図的にサブスクの時代を考慮した作風でもあるのだ。でも、そのワンシーン(一曲)を一つに合わせて聴くと結局は「アルバム」というSWの自伝映画になってるオチ。勿論、先ほどの「逆再生」の話も「アルバム」というフォーマットだからこそ成り立つギミックで、それこそSpotifyのプレイリストのように曲順を自由にイジっても「逆再生」させてもいい、過去最高に「フレキシブル」なアルバムと言える。これは「アルバム」で聴く時代が終わりを告げ、「シングル」でどれだけリスナーの気を引くかの時代に、プログレッシブ・ロックという「アルバム」のフォーマットの中でしか生きられない辺境ジャンルの中で、「俺すごい」と自己満足してきたSWが出したSWなりの「アンサー・ソング」である。確かに、「エンジニア」としても活躍する彼は、いわゆる「プロダクション」の面でもその「こだわり」は人一倍強いはずで、それこそ音質などの面で「ストリーミングはゴミだ」と思ってないわけがない。そんな保守的なイメージを持つ彼が何故?って話で、これまでは「プログレ」という聴く側も前時代的な考えを持つ、それこそ音質に対する「こだわり」はポップスを聴いている人よりも強く、その音楽を嗜む上でのフォーマットもアナログレコードを中心に、最低でもCD音源で聴くのがプログレオタクなのである。しかし、イギリスではレコードの売上が好調とされる中、そこをあえて逆行するように今回メジャーデビューしたからには、これまで通りプログレオタク相手にヌルい商売やってる余裕はなくて、これから「メジャーアーティスト」として活動するにあたって、近年急成長を見せるサブスクリプション(定額制)の新潮流からは嫌でも逃れられないわけで、何よりもまず「そこ」を一番に考えなきゃいけないシン・時代に、しかもこの年になってあえて「そこ」へ挑戦する貪欲な姿勢は、まさに本当の意味で前衛的ミュージシャンと呼ぶべき事案だし、そういった意味でも今作でSW「プログレ」という枠組みから完全に脱却し、長いキャリアの中で初めていわゆる「洋楽」と呼ばれる枠組みへの仲間入りを果たしたのである。

じゃあ結局、そうする意味ってあったの?と。それは朝の情報番組などのテレビ出演を見れば分かるように、そういった積極的なマーケティング/プロモーション活動をはじめとしたマネージメントの面でも、「メジャーアーティスト」として過去類を見ないほど力を入れている。その営業努力が実った結果、今作はイギリスの週間アルバムチャートで自己最高となる3位を獲得している。しかし、それ以上に今作の「成功」を裏付ける結果がある。それはSpotifyUK「バイラル50チャート」にランクインしたことだ。「バイラル50チャート」とは、簡潔に説明するといわゆるネット上の「口コミ」に起因するチャートの事で、それってつまり、現代のSNS社会だから可能にした全く新しいバズ戦略(バズ・マーケティング)と呼ばれるものだ。もはや当初の「目的」であり「狙い」だったであろう「Spotifyにおける成功」は、この『To the Bone』の存在価値とその存在意義を俄然高める、他の何よりも重要な意味合いを持っている。

話は変わるが、メジャーに進出しない若いインディーズのアーティストが口々に言うのは、(メジャー)レーベルの意向(売上など)が優先されるようになって、自分たちが本当にやりたい音楽をやらせてもらえない、みたいな事だ。事実、レーベルから求められる売上のノルマや人気と「自分たちの音楽」の両立の難しさに悲鳴を上げているメジャーアーティストはゴマンといる。SWがこのアルバムで指し示したのは、まさにインディーズあるいは自主レーベルで培ってきた「自分たちの音楽」とメジャーレーベルから求められる「結果」を両立させた、つまりインディーズからメジャーに行っても「自分たちの音楽」を継続することは「可能」であるという重要なヒントを、実際にメジャーデビューして現実と理想の間でもがき苦しんでいる若手ミュージシャンに、「いま最も成功しているアーティスト」の一人として「勇気」と「希望」を与えるような作品でもあるんじゃないかって。



この『To the Bone』を初めて聴いた時に真っ先に何を思い出したかって、それこそ昨年公開されたジョン・カーニー監督の映画『シング・ストリート 未来へのうた』で、この映画にも先日来日したEMI所属のデュラン・デュランをはじめ、モーター・ヘッドキュアーなどのまさに「80年代」を象徴する音楽に溢れた、それこそスティーヴン・ウィルソン(67年生まれ)を筆頭に、『メタルギア』シリーズの小島秀夫監督(63年生まれ)や漫画家の荒木飛呂彦(60年生まれ)に代表される「60年代生まれ」の世代の人間は涙なしには語れない、今回の『To the Bone』と共鳴するように「80年代愛」に溢れた音楽映画の名作である。この同じ「60年代生まれ」の世界を代表する3人のクリエイターには、実のところ共通する部分があまりにも多い。SW「音楽」小島監督「ゲーム」飛呂彦「漫画」、それぞれの分野で活躍する彼らの作品を見れば明白で、それこそ「映画」だったり、あるいは「小説」だったり、あるいは「音楽」から強くインスパイアされているのがよく分かる。例えば「音楽」では、デヴィッド・ボウイプリンス「アイドル」として崇拝する対象とし、特に荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』に登場するスタンド名からも分かるように、それこそSWと同じくピンク・フロイドキング・クリムゾンなどの「70年代」のプログレをはじめ、ディオサバスなどのヘヴィ・メタルからホワイトスネイクディープ・パープル(ハイウェイ・スター)などのブリティッシュハード・ロック、ドイツ出身のCAN、そしてスパイス・ガールズなどのアイドル・ポップスにいたるまで、いわゆるMTVの全盛に強い影響を受けた一人だ。一方で小島監督『To the Bone』『シング・ストリート』と同じく「80年代」のUKミュージックとともに青春を過ごした人で、その証拠として『メタルギアソリッド5』のPVにもマイク・オールドフィールドの楽曲を使用するほどディープな音楽オタクとしても知られる。次に「映画」では、スティーヴン・ウィルソンクリストファー・ノーラン監督の最新映画『ダンケルク』の音楽を手がけた鬼才ハンス・ジマーの楽曲をSpotifyのプレイリストにいち早く選曲しているし、同じく小島監督も既にノーランと『ダンケルク』公開記念対談を実現させ、かつ『ダンケルク』のサントラをウォークマンで聴いているほどのノーラン好き&映画好きでも知られる。一方で荒木飛呂彦は、ノーランの『メメント』のオマージュとも呼べる「時間軸」を利用した演出を『ジョジョ』に取り入れたり、何と言っても映画『インターステラー』では「引力、即ち愛!!」の世界を地で行くような、それこそ『ジョジョ6部』以外のナニモノでもなくて、初めてこの映画を観た時はそれはもう衝撃的だった。その両者の作品に共通するのは名作SF映画『コンタクト』であり、それは自ずと「宇宙大好き芸人」SWとも共振する。とにかく、『時間軸』を利用したサスペンスフルな作風をはじめ、その創作理念や生活習慣までも飛呂彦はノーランに影響されているんじゃあないかと思う時がある。彼らに共通する創作理念は、いわゆる「娯楽性」と「作家性」の両立であり、そして彼らは元は「アンダーグラウンド」の住人でもあったこと。そして何を隠そう、先ほど書いた新海誠監督『君の名は。』は、一種の『新海誠なりのインターステラー』と解釈できるある意味「引力、即ち愛!!」だったし、つまり「漫画家界のクリストファー・ノーラン」荒木飛呂彦ならば、「アニメ界のクリストファー・ノーラン」新海誠であると。それを証明するように、つい先日『君の名は。』が映画『SW』シリーズでも知られるJ・J・エイブラムス(66年生まれ)プロデュースでハリウッド実写化が発表されたのは、僕の一説が正しかったことを暗に示唆していた。そして、その発表に対して小島秀夫荒木飛呂彦が嫉妬する構図w

SWが世界の出来事に憂慮するのと全く同じように、「80年代」に生まれた僕は、子供の頃から日本の政治家に代表される「日本のおっさん」に対して強い憂慮を感じてきた。なぜ「日本のおっさん」の感性は「世界一ダサい」のかと。しかしそんな中でも、唯一荒木飛呂彦小島秀夫、この二人だけは違ったんだ。この二人を「西の小島秀夫」「東の荒木飛呂彦」として解釈しリスペクトしていけば、きっと自分はいずれ「本物のオタク」になれるんじゃないかって。そして現在、僕は果たして「本物のオタク」になれたのだろうか?僕は、この記事でそれを証明したかった。だからこのレビューは、僕が子供の頃から影響を受けてきた荒木飛呂彦小島秀夫、そしてスティーヴン・ウィルソンと同年代のクリエイターをリンクさせなきゃいけない、今ここで「繋げなきゃいけない」レビューだと思った。ここを最後まで書ききらなきゃ「説得力」がないと。思い返せば僕とSWとの出会いは、このブログを初めて間もない頃に運命的に出会ったPorcupine TreeFear of a Blank Planetだった。あれから約10年、僕は「ソロアーティスト」となったスティーヴン・ウィルソン『To the Bone』を通して、荒木飛呂彦小島秀夫を共振させることに成功したのだ。僕は、この3人の作品に共通する宇宙規模の世界観や思想を経由して現代社会の瓦礫を覗いてみた時に、改めてこれからのシン・時代に必要なのは黄金のリベラリズム」であるという一つの答えに辿り着いた。まるで10年越しの伏線を全て回収するかのような、もはやこれが書きたいがためにこの10年ブログやってきた感もあって、それこそ「10年」という一周(一巡)した区切りで遂に全ての伏線が繋がったというか、僕は潜在意識の中で10年前から既にこのレビューを書く運命にあったのかもしれない。今の気分は、10年前に書き始めたレビューという名の連続推理小説をようやく書き終えたような、まるで新しいパンツを履いたばかりの正月元旦の朝のスゲー爽やかな気分だ。これはある意味、僕たち「80年代生まれ」が主催する「60年代生まれ」が集まる同窓会「60年会」だった。僕は10年かけて、この「60年会」の偉人たちが自身の作品(コンテンツ)を通して何を伝えようとしているのか、その『メッセージ』の片鱗をようやく理解できたような気がする。しっかし、この度の同窓会「60年会」の主宰を、Welcome To My ”俺の感性”の管理人である僕とやくしまるえつこに託してくれたSWには、「ありがとう」...それしか言う言葉が見つからない。何故なら、これで心置き無くこのブログを終わらせることができるのだから。

トゥ・ザ・ボーン
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