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墓っ地・ざ・ろっく!

邦楽

結束バンド - 結束バンド

Artist 結束バンド
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Album 結束バンド』
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Tracklist
01. 青春コンプレックス
02. ひとりぼっち東京
03. Distortion‼
04. ひみつ基地
05. ギターと孤独と蒼い惑星
06. ラブソングが歌えない
07. あのバンド
08. カラカラ
09. 小さな海
10. なにが悪い
11. 忘れてやらない
12. 星座になれたら
13. フラッシュバッカー
14. 転がる岩、君に朝が降る

陰キャならロックをやれ!!!

昨年の10月某日、いつもの日課でAmazonプライムビデオを立ち上げてみると、黒光りしたギターを抱えたピンクジャージ&ピンクヘアーの二次元キャラがこちらを見つめながら独りぼっちで佇んでいたので、「おっ、『けいおん!』の二番煎じアニメか?」と察するも、ちょうど暇だったから軽い気持ちでそのアニメ一話目を視聴した結果→2秒で「こーれ覇権です」と確信したのが、2022年度のアニメ業界を震撼させた『ぼっち・ざ・ろっく!』に他ならなかった(もちろん原作の存在すら知らなかった)。

何を隠そう、アニメ最終話を迎えて絶賛ぼっちロス状態と化した世界中のオタクたちを救済する聖杯、すなわち主人公の後藤ひとりを中心とする結束バンドの記念すべきデビューアルバムのリリース日であるクリスマスの二日前(イヴの前日)に、結束バンドならぬ(尿管)結石バンドを結成して独りもがき苦しんでいた超個人的な黒歴史はさて置き、いわゆるサブカルの聖地とされる東京の下北沢(シェルター)を舞台に紡ぎ出される『ぼっち・ざ・ろっく!』は、「まんがタイムきらら」にて絶賛連載中の原作漫画の作者はまじあき先生がアジカンに代表される00年代以降の邦ロックフリークである事からもわかるように、それこそ登場人物の名前をアジカンメンバーの名字から拝借したり、アジカンの楽曲タイトルをアニメ各話のタイトルとして引用するほどのアジカンフリークだ。そして、この結束バンドのデビュー作も(原作/アニメに負けず劣らず)00年代以降の邦ロックの文脈がサウンドの根底に脈々と流れた傑作となっている。

まずアニメの内容に関しても(アニメ版『惡の華』さながらの)ロトスコープアニメばりにヌルヌルと動くスムースな作画/流動的な演出をはじめ、それこそアジカンが主題歌を担当した森見登美彦原作のアニメ『四畳半神話大系』や『ピンポン』を手がけた=湯浅政明アニメに通じるシュールなギャグ要素を継承した世界観の中で、その奇抜なビジュアルで注目される八十八ヶ所巡礼や幾何学模様さながらのサイケロック然としたトリップな演出、実写の(ダム)映像やクレイアニメを駆使した実験的な演出、中でも2022年における「もう一つの覇権アニメ」こと『サイバーパンク エッジランナーズ』と共鳴するかのようなノイズ/グリッチ、さしずめハイパーポップ的な演出はあまりに衝撃的だったのと(「ぼっち・ざ・らじお!」#9参照)、個人的に2022年に視聴して最も印象的だった90年代アニメの『serial experiments lain』と奇しくもシンクロする一般相対性理論ネタが含まれていた点も、MBTI診断の結果がINTP-Tだった僕が『ぼっち・ざ・ろっく!』にドハマリした要因の一つで、2022年を象徴する覇権アニメとして世界的に大成功を収めた理由の一つだろう。少なくとも、今から十数年前にバンドブームを巻き起こした同「まんがタイムきらら」の4コマ漫画をアニメ化した『けいおん!』とは一線を画す作品と言っていい。


『ぼっち・ざ・ろっく!』の世界的な成功はアニメのみならず、メディアミックスの一環として結束バンドが昨年のクリスマスにセルフタイトルの1stアルバム『結束バンド』を発表するやいなや、単なる音楽系アニメにありがちな内輪向けのメディアミックスのソレとは明らかに違う、あたかも本当に実在するバンドさながらの絶大な人気と注目を集める事となった。結束バンドが世に放った渾身のアルバムは、正直ここまでギターロックとして本格的な志向を持った音楽アニメ/アニソンはかつて存在しただろうかってほど、その「ロック」を題材とした作品ならではの実に音楽的なアプローチは、国内外のアニヲタのみならず世界中のロックファンを魅了し、その熱狂的なバズ現象を裏付ける証明として、結束バンドの楽曲は今なおビルボード/ストリーミングのバイラルチャートを大いに賑わせている。

当事者含む業界からは「ロックはオワコン」と揶揄され、終いにはTHE LAST ROCKSTARSとかいうクソダサバンドがイキリ散らかしてしまう現代のロックシーンに対して、UKパンクロックを代表するThe Clashの「白い暴動」ならぬ「ピンクの暴動」とばかりのアナーキズムを以って権威に抗うかのごとし、さしずめ「結束バンドなりのガールズロックバンド革命」の狼煙を上げる“青春コンプレックス”からして、それこそイントロから聴こえてくるL側のカッティングはtricotのKDMTFことキダモティフォが、R側すなわちぼっちちゃん側のトリッキーなフレーズは、まるで赤い公園のギターヒーロー津野米咲先生が愛機のフェンダーをかき鳴らしているようにしか自分の耳には聴こえなくて自然と涙が溢れた(自分の耳がバグってる可能性大)。確かに、そんなことは物理的に絶対ありえない話ではあるんだけど、とにかくアニメのオープニングを担う“青春コンプレックス”の左右のステレオ感を強調させたギターワークを耳にした瞬間に、自分の中でぼざろの覇権は確定したんだ。


中でもサビの前にLRLRと空間をカッティングしていく、さしずめ音響系というか残響系のオルタナティブなアプローチ、および津野米咲先生さながらのフェンダーイズムを感じさせる遊び心に溢れたギターワークに関しても、それこそガールズバンド繋がりのかてぃ率いるHazeを頭ん中に想起させると同時に、赤い公園の初期の名盤である『透明なのか黒なのか』に(“副流煙”も)収録された“透明”とHazeの“煙霧”が否応にもシンクロニシティとオルタナティヴェートを引き起こした。つまり、二次元(アニメ)の世界から飛び出した結束バンドがリアルの世界で対バンすべき相手こそ、リアルの世界でぼっちちゃん顔負けの“引きこもりロック”を歌ってるHazeしか他にいないと思う。

この『結束バンド』は、現代の邦ロックを代表するKANA-BOONの谷口鮪が“Distortion‼”の作詞/作曲を、世界を股にかけるtricotのイッキュウ中嶋が“カラカラ”の作詞/作曲を、そしてガールズバンドthe peggiesの北澤ゆうほが“なにが悪い”の作詞/作曲を手がけるなど、その他著名なミュージシャンがコンポーザーとして参加している。HAKO-BOONの谷口鮪が担当した“Distortion‼”は、ギター/ボーカル担当の喜多郁代の活発的(陽キャ)な性格に則ったザ・アニソンらしいアップテンポな青春ロックナンバーで、一方でイッキュウ中嶋が手がけた“カラカラ”はtricot節としか他に形容しようがない“メタルリフ”を駆使したマスロック然としたサウンドの中に、イッキュウ中嶋がボーカルを担うジェニーハイでもお馴染みの川谷絵音のソロプロジェクトこと美的計画的なエッセンスを感じるベーシストの山田リョウのウェットなコーラスが映えるし、北澤ゆうほが手がけた“なにが悪い”はアニメ『るろうに剣心』のOPでも知られる川本真琴の“1/2”のオマージュで、CV.内田まれいの伊地知星歌を姉に持つドラマーの伊地知虹夏(僕の推しメン)の歌声にウッテツケのカラッと乾いた雰囲気がアルバムに多様性をもたらしている。

この『ぼっち・ざ・ろっく!』における象徴的な存在、そして絶対的な関係でもあるアジカンの背中を見続けてきた、KANA-BOONやtricotに代表される中堅ロックバンドとともに10年代の邦ロックシーンを深紅色に彩ってきたのが、本来であれば『結束バンド』の作詞/作曲者としてクレジットされていたであろう赤い公園すなわち津野米咲先生の存在、その2010年代の邦ロックシーンを語る上で欠かせない、そして決して忘れてはならない、忘れてやらない存在が“透明”のように透けて見えた、いや...量子物理学を介して実態としてそこに存在していた事が既に泣けるというか、もはや生半可な言葉では表わすことのできない真の「エモさ」を結束バンドが奏でる音楽から感じ取ることができた。事実、アニメの記念すべき一話目で主人公の後藤ひとりとドラマーの伊地知虹夏が運命的な出会いを果たす場所が、“赤いベンチ”の代わりに“転がる赤いジャングルジム”が設置された「公園」だという偶然も俄然エモく重なって涙腺にキターン!

また、赤い公園のオリジナルアルバムのタイトルには“ある法則”が存在する。例としてメジャーデビュー作となる『公園デビュー』を挙げると、【公園】+【デビュー】というように【漢字(二文字)】+【カタカナ】の組み合わせで表記を統一しており、奇しくも【結束】+【バンド】の『結束バンド』と全く同じ構図というわけ(遺作となった『THE PARK』だけがローマ字表記)。何が言いたいかというと、この『結束バンド』を聴いてる時につい「うっせぇわ」とツッコミたくなっちゃうほど、コンプかけまくった音圧のエグさとか諸々の偶然を含めた猛烈なデジャブ感は、まるで赤い公園の名盤『猛烈リトミック』を聴いている瞬間と同じ、その唸るような「歪」の一文字に集約されているんですね。正直、この真実にたどり着いた時は「何も言えねぇ」っつーか「そんなことある?」って。もちろん、原作者のはまじあき先生が赤い公園を聴いているか否か、なんて知る由もないけど。

CV.ソノヤ・ミズノ「そんな偶然は存在しないわ

実在する邦ロックの現役バンドマンを迎えた楽曲の内容も、ギターをはじめ各楽器に対するこだわりが如実に伝わってくるサウンド・プロダクションに関しても、『けいおん!』はじめ従来のアニメ/アニソンの枠組みを超えた本作品。アニメ最終話「君に朝が降る」では、ぼっちちゃんと喜多郁代が通う秀華高校の文化祭(秀華祭)で演奏している最中に、ギターの弦が切れたぼっちちゃんが咄嗟に変則ボトルネック奏法で神アレンジした“星座になれたら”は、竹内まりやを象徴とする古き良きファンキーなシティポップを原点としつつ、やくしまるえつこ率いる(一般)相対性理論のメルヘンチックなサブカルワールドを(伏線回収とばかりに)経由して、そして何かとシティポップ・リバイバルが話題に挙がるこの昨今に、まるで“透明”になった津野米咲先生の作詞/作曲スキルを拝借した結束バンドが令和代表として紡ぎ出すような、さしずめ“シモキティポップ”とでも呼ぶべき名曲の一つで、もはや某「めざましテレビ」のテーマソングに採用されても全然おかしくない。それこそ、アニメ『四畳半神話大系』のOP曲がアジカンで、相対性理論のやくしまるえつこがED曲のマイクを握っている点からも、ありとあらゆる伏線を回収するキーラーチューンと言えるかもしれない。また、奇しくもサンフランシスコ出身のZ世代ぼっちアーティストのdynasticの新作において、森見登美彦の原作を湯浅政明監督がアニメ化した映画『夜は短し歩けよ乙女』から星野源と花澤香菜さんのセリフをサンプリングした件は、何度も繰り返すけど偶然にしては面白いシンクロニシティだと。

「転がる岩、君に朝が降る」

そんなアニメ本編のクライマックスを飾るに相応しい名曲に引き続き、ほんのりローファイなイントロからして”ブッ壊れローファイメンタル”ことぼっちちゃんの陰気ャかつモノクロームな性格が具現化したような“フラッシュバッカー”は、もはやオルタナはオルタナでもドリーム・ポップやシューゲイザーに肉薄するノイジーな歪みとリヴァーブを効かせた、音響意識マシマシのエモエモの激エモアリーナバラードとなっている(例えるならtricotの“artsick”的な)。そして、この神がかり的なアルバム終盤の流れを締めくくる=大トリを飾るのが、「歌うこと」だけは「むむむむむむ無理」と頑なに断固拒否していた“ぼっちちゃん”こと主人公の後藤ひとりを見事に演じきった天才声優青山吉能だからこそ成せる、アニメ最終話ではEDとして起用されたアジカンの“転がる岩、君に朝が降る”の神カバーだ。

このご時世だからこそ脳髄にブッ刺さるリリックと、校内放送でデスメタルを流しちゃう中二病を患った陰キャらしいイキリと、Z世代のサブカルモンスターことParannoulとシンクロ率100㌫の内省的な感情が露呈した、それこそ熊本県出身の青山吉能が福岡県出身のYUIのデビュー当時さながらの刹那と焦燥に駆られて激しく狼狽する歌唱法(息遣い)を以ってアジカンの名曲を歌いこなす神業には素直に感動させられたし(ゴッチ版より好き)、最終話のEDでこの神カバーが流れた時は「こーれ覇権超えました」ってね(ぼっちちゃんのソロやアウトロのギターフレーズが微かにデフヘヴンをフラッシュバッカーさせてイーモゥ)。とにかく、アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』と『結束バンド』における「エモさにピーク」にアジカンのカバー曲を持ってくる粋なニクい演出まで、原作漫画を起点としてアニメ→バンドというマルチメディアムーブが完璧すぎて、あまりに神がかりすぎて、アニメ最終話からしばらく経った今でも信じられない自分がいる。もはや特別枠として今年のサマソニに出演させるべき存在です。

今はただ「これ描いて死ね」ならぬ「これ聴いて死ね」としか他に言葉が出ない。でも、今このレビューを書き終えて、自分の中でようやく正真正銘の覇権アニメとして、本当の意味で最終回を迎えた気がする。だから二期はよ(先に伊地知姉妹の映画化もあり)(アーティストとして活躍するまれいの起用は、そこまでの可能性を見込んでの事だと思いたい)。

岡田拓郎 - Betsu No Jikan

Artist 岡田拓郎
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Album 『Betsu No Jikan』
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Tracklist
01. A Love Supreme
02. Moons
03. Sand
04. If Sea Could Sing
05. Reflections / Entering #3
06. Deep River

近年における岡田拓郎の“動き”に関する話をすると、まずポカリのCMでもお馴染みのアイナ・ジ・エンドとROTH BART BARONによるA_oのバックバンドの一員としてMステ出演を果たすと、今年に入ってからはNHKのドラマ『17才の帝国』の羊文学の塩塚モエカ(作詞)と坂東祐大(作曲)が手がけた主題歌である“声よ”の編曲を岡田拓郎が担当したりと、少し前までは想像できなかったほどの売れっ子ぶりを見せつけている。しかし、自分の中では“売れっ子”というよりも、宇多田ヒカルが今年の初めに発表した『BADモード』において、普段からJ-POPをナメている岡田拓郎がワンパンKOされたイメージの方が強い。


その宇多田ヒカルに対するカウンターパンチとばかりに、今年のフジロックにも出演したジム・オルークやWilcoのネルス・クライン、そして岡田拓郎も敬愛するはっぴいえんどの細野晴臣やKing Gnuの前身であるSrv.Vinciの元メンバーの石若駿ら、国内外を代表するミュージシャンを客演として迎え入れた本作の『Betsu No Jikan』は、2019年作の1stアルバム『ノスタルジア』や2020年作の2ndアルバム『Morning Sun』などの過去作とは一線を画す、それこそ表題の「別の時間(軸)」で時を過ごしてきた、さしずめ別の次元にいた岡田拓郎が現次元の岡田拓郎として時空を超えてやってきた「ワンラン上の岡田拓郎」のような印象を受けた。

前身のバンド森は生きているを含めて、これまでのキャリアの中で岡田拓郎が積み重ねてきた音楽、つまりアンビエント/ニューエイジ~アヴァンギャルド・ジャズ~シティポップが同じ時間のタイムライン上でスムースに往来する実験的な音楽、その様々な音楽ジャンルを超越した先にある一つの到達地点となる『Betsu No Jikan』は、過去イチでボーカルレスのインストゥルメンタルに重きを置いた作品であると同時に、マイルス・デイヴィスさながらの本格志向のフリージャズに著しく傾倒した、言うなれば“アソビ”のない作風だ。「過去」のタイムラインと繋がりのない「別の時間」および別の次元からやってたきた高次元の宇宙人、もとい「自由人」の立場から奏でる「自由」な音しか鳴っていないのにも関わらず、彼が根ざしている部分は森は生きているから一貫して不変、それすなわち「いつもそこにある音楽」に他ならなかった。なんだろう、“意識”することによって初めて時間の存在が証明できるように、過去においても「別の次元」の「同じ時間」を過ごしていた事に気づかなかった、いや意識的に気づかないふりをしていたのかもしれない。逆に言えば、人類に対して意識的(Conscious)になることを促すような音楽がそこ(There)に、手を伸ばせば触れる事のできる距離にあるだけだった。

まるで江戸川区のパノラマ島奇談を読んでいる最中のような、昭和モダンな佇まいのある不協和音(dissonant)を駆使したネオ・サイケデリカの調べは、ある種の高次元のプログレというか、それこそスティーヴン・ウィルソンのサイドプロジェクトであるBass Communionを想起させる。これはあくまで感覚的な話だけど、Ulverが2021年に発表したライブアルバム『Hexahedron』において、過去作の楽曲をフリージャズの精神をもって再構築してみせたアプローチと限りなく近い実験性を感じるというか(宇多田ヒカルの『BADモード』も感覚としてそれに近い)、終始一貫して“ライブ感”というか“ほぼライブ”を聴いてるような感覚に近い。もはやジム・オルークのみならず、かの石橋英子や喜多郎に肉薄する孤高の立ち位置、その存在感を確立するに至っている。それぐらい過去作とは時間軸も、次元そのものが違う印象。

確かに、岡田拓郎にとってはこれすらも“ポップス”を意図して作っているだろうけど、百歩譲って過去作はまだしも、この『Betsu No Jikan』に関しては、少なくともパンピーにとっては“ポップス”として聴くことはほぼ不可能だと思う。正直ここまでくると、特にジャズに対する教養がない自分の耳からでは理解が到底追いつかない作品であることだけは確かで、わずかにアソビゴコロのあった過去作の方がまだ楽しめたのも事実。正直ここまでやっちゃうと、悪い意味で次回作以降が怖いというか。

HAZUKI - EGØIST

Artist HAZUKI
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Album 『EGØIST』
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Tracklist
01. EGOIZM
02. XANADU
03. C.O.M.A.
04. 七夕乃雷 -Shichiseki no rai-
05. AM I A LOSER?
06. CALIGULA
07. LIGHT
08. THE MIDNIGHT BLISS
09. HEROIN(E)
10. ROMANCE
11. +ULTRA
12. BABY,I HATE U.
13. CYGNUS

以前の記事に「今年のヴィジュアル系はDIR EN GREYと摩天楼オペラとImperial Circus Dead Decadenceの新譜3枚だけ聴いときゃ間に合う」的な事を書いた気がするけど、それでは現在のヴィジュアル系ボーカリストのソロ事情ってどないやねんと。

いわゆる「V系バンドのボーカリストのソロ・プロジェクト」というと、一先ずX JAPANの出山ホームオブハート利三改め龍玄としはさて置き、代表される所ではルナシーの河村隆一やラルクのHYDEが有名だが(ラルクはV系じゃないだろ!w)、個人的にV系バンドのボーカリストのソロといえば、Janne Da Arcのボーカルyasuのソロ・プロジェクトであるAcid Black Cherryに他ならなくて、自分の中では過去に何度もライブに足を運ぶほどの存在だった。しかし、バンドマンのソロ活動において最大の懸念とも言える「本家のバンド(JDA)よりもソロ(ABC)の方が人気が出ちゃったパティーン」←これに該当したのがJanne Da Arcyasuの関係性だったのも事実。ご存知、その結末としては(表向きでは)某メンバーのやらかしによって、長らく活動休止中だった本家ジャンヌは解散を余儀なくされ、静養中だったyasu自身も活動休止という名の実質引退宣言を発表するに至った。ともあれ、自分の知る限りではV系バンドマンのボーカリストはソロでも成功している例が比較的多いイメージがある。

そんな、大阪の枚方市からヴィジュアル系バンドならではのナルシシズムやエロさを追求したのがJanne Da Arcのyasuだとするなら、yasuとは別次元の“エロさ”を名古屋県は名古屋市から発信しているのがlynch.のボーカルである葉月だ。そんな、名古屋県を代表するネオ・ヴィジュアル系バンドのフロンロマンであるHAZUKIの記念すべきソロデビュー作となる『EGØIST』は、(Acid Black Cherryよりも全然見識の広い)現代的なヘヴィミュージックに精通しているバンドのフロンロマンだからこそ成せるソロ・プロジェクト、そのヴィジュ仕草をまざまざと見せつけるような内容となっている。

本家lynch.のエクストリーミーな音楽性とシンクロするように、V系ならではの艶やかな歌声の葉月とスクリーマーとしての葉月が共存する、それこそDIR EN GREYのボーカリスト京に肉薄するほどストイックなボイスチェンジャーでも知られる彼は、このソロアルバムにおいてもJ-POPさながらの楽曲と、その対極にあるエクストリームな楽曲をスムースに歌い分ける、持ち前のフレキシブルな才能が遺憾なく発揮されている。

本作の幕開けを飾るバキバキの打ち込みSEに次ぐシングルで、世界的な歌姫オリビア・ニュートン=ジョンの同曲名を冠する#2“XANADU”からして、「声が出せないのであれば」とばかりにオーディエンスの気分をageるクラップユアハンズを要求しながら、相対性理論さながらの00年代のオルタナ風のバッキングを背に、ヴィジュアル系のルーツの一つである昭和歌謡さながらのクサいメロディを発する葉月の歌声が俄然“ポップ”で“キャッチー”に織りなす、まさにHAZUKIのソロデビューその幕開けを飾るに相応しい一曲となっている。

一転して、lynch.らしいメタルコア然としたモダンなスタイルとスクリーマーとしての葉月を垣間見せる#3“C.O.M.A.”、本作で最も“ポップ”と呼んでいいメルヘンチックなキラキラシンセをフィーチャーした、魔訶不思議アドベンチャー!ばりにエキゾチックな世界観に観客を誘う#4“七夕乃雷 -Shichiseki no rai-”、古き良きV系らしいパンキーでファンキーなアプローチを効かせた#5“AM I A LOSER?”、冒頭からジャジーでアダルティなオトナの雰囲気を醸し出す...それこそAcid Black Cherryの“黒猫 ~Adult Black Cat~”とシンクロするバーレスク東京さながらのシャッフルソングの#6“CALIGULA”、その流れでyasuも葉月もリスペクトするラルクのHYDEが作曲/プロデュースした中島美嘉の“GLAMOROUS SKY”とシンクロする#7“LIGHT”、そしてアルバム中盤のハイライトを飾る#8“THE MIDNIGHT BLISS”の何が凄いって、ギターの弦の重心をゴリッと落としたヘヴィネスとサビの悪魔と成り 永遠をこの夜に~とかいうヴィジュアル系然とし過ぎている厨ニ歌詞を情感を垂れ流しながら肉欲的に歌い上げる葉月のエロい歌声が好き過ぎるヘヴィバラードで、シンプルに葉月にしかできないバラードって感じで「んほ~たまんね~」ってなる。

確かに、邪道っちゃ邪道かもしれんけど、この手のヘヴィなバラードに弱い性癖というか嗜好回路を持つギャ男...とまではいかないピチピチのジャンナーだからしょうがないけど、とにかく秋口にさしかかる今まさに聴いてほしい、秋の夜空に映える一曲だと思う。また、それらの個人的な嗜好のみならず、ジョーダン・フィッシュさながらのモダンなシンセやインダストリアルなアレンジには、葉月なりのBMTH愛が仕込まれている気がするし、この曲の一定のテンポを維持する重厚感溢れるドラミングは摩天楼オペラのドラマーである響が担当しているとか・・・これ以上は書ききれないほど「俺の好き」が詰め込まれ過ぎている(そら“永遠”リピートするわ)。

再びギアチェンしてlynch.風のモダンヘヴィネスをベースに、間奏パートではDjentの影響下にあるテクニカルでマッシーな動きを見せる#9“HEROIN(E)”、そのタイトルはもとより、サックスをフィーチャーしたスカパンク的なチャラいノリまでJanne Da Arcの“ROMANCE”をフラッシュバックさせる#10“ROMANCE”、ポスト・マローン並のAEPXフリーク(最高ダイヤ帯)であるゲーマー葉月らしいタイトル(オクタンのタトゥー)が名付けられたラウドロックの#11“+ULTRA”、V系現場のライブハウスでしか見られない光景が頭に浮かび上がる#12“BABY,I HATE U.”、そしてアルバムのラストを飾る#13“CYGNUS”は、未来への希望と光に満ち溢れたノスタルジックなキーボードの旋律が、それこそ本家lynch.を襲った武道館公演の延期およびバンドの活動休止を含めて、この数年の間に身をもって苦渋を飲む経験を重ねてきた葉月の胸中を物語っているようでもあり、しかし一方で、その苦しい状況下でlynch.を支え続けたバンギャの想いが巨大なシンガロングとなって、この11月に遂に実現(約束)を果たす武道館の天井に響き渡るような、とにかく不慮の出来事によりバンドが活動停止に追い込まれた葉月の信念が凝縮されているようで、あまりに説得力に溢れ過ぎていて泣く。それはまるで(言)葉が奏でる響きと(夜)月が照らし出す朧気な光が、この世界の闇を覆い尽くすように...。

この『EGØIST』は「ヴィジュアル系バンドのボーカル葉月のソロ・プロジェクト」←ただそれだけのようでいて、実は葉月がライブハウスにおけるステージ側の視点からオーディエンスを「視ている」、一方でlynch.のファンは武道館のアリーナ/スタンド席側から未来の葉月とlynch.の姿を「視ている」、要するに「過去」と「未来」が交錯する2つの視点、すなわち“視覚”から“聴覚”が呼び起こされた結果の作品であると。ともあれ、同様にポップな視点とヘヴィな視点が理路整然と入り乱れた、一見矛盾するかのようなラウドロックを繰り広げる本作は、lynch.のファンのみならず、Acid Black Cherryや龍玄ナンチャラに代表されるヴィジュアル系ボーカリストが好きなら必須アイテムです。

DIR EN GREY - Phalaris

Artist DIR EN GREY
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Album 『Phalaris』
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Tracklist
01. Schadenfreude
02.
03. The Perfume Of Sins
04. 13
05. 現、忘我を喰らう
06. 落ちた事のある空
07. 盲愛に処す
08. 響
09. Eddie
10. 御伽
11. カムイ

2014年作の9thアルバム『ARCHE』以降のDIR EN GREYを司る邪神的な存在というと、インダストリアル~エレクトロ風のモダンな打ち込みを持ちより、DIR EN GREYの楽曲に彩りを与えた張本人であり、いわゆるマニピュレーターとして裏側からバンドを支えるsukekiyoでもお馴染みの匠師匠の存在に他ならなくて、前作から約3年9ヵ月ぶり通算11作目となる本作の『Phalaris』においても、裏方という普段は目立たない立場から“実質プロデューサー”として表立つかの如し、俺たちの匠師匠の存在感は日に日に増すばかりだ。

近作のDIR EN GREYにおいて、その存在を誇示する匠の象徴的な仕事といえば、2018年作の10thアルバム『The Insulated World』の翌年にリリースされたシングルの“The World Of Mercy”に他ならない。この曲は、前作における“Ranunculus”の延長線上にあるモダンな打ち込みを中心に構築された大作であり、まるで近年のBMTHPorcupine Treeのスティーヴン・ウィルソン(SWワークス)さながらの著しい打ち込み志向とシンクロするかのような、同時に彼らが古くから嗜好してきた大作路線の新機軸を切り開くかのような一曲だった。

そんなDIR EN GREYの大作志向の高まりを予感させた時期というか楽曲といえば、古くは『MACABRE』に始まり、中でも彼らの最高傑作と名高い『UROBOROS』を代表する“Vinushka”やDSSこと『DUM SPIRO SPERO』を代表する“The Blossoming Beelzebub”と“Diabolos”は、彼らが長年培ってきた大作路線のピーク期と言える。それら過去の名曲をはじめ、シングルの“The World Of Mercy”の大作志向を引き継ぐように本作の幕開けを飾る#1“Schadenfreude”からして、名盤『UROBOROS』と共鳴する呪詛的なニューエイジズムを内包したエクスペリメンタリズムと、傑作『DSS』における破滅的なドゥームネスが約十数年の時を経て邂逅する冒頭に始まり、そのイコンとなる二枚の傑作や名シングルの“激しさと、この胸の中で絡み付いた灼熱の闇”に象徴される、言うなればDIR EN GREYの黄金期と呼ぶべき時代のエクストリーム・ミュージックを司るブルータルな殺傷リフ、『ARCHE』における“Un Deux”や『The Insulated World』で培った「メシュガーをディルなりに再解釈」したマシらないギョントコア系のリフ、そして地獄の業火に晒されながら狂乱する京のアッチョンブリケボイスを咀嚼しながら『MACABRE』流の構築力で仕上げたような、それこそウロボ以降の集大成とでも言うべき大作らしい大作となっている。

「KATATONIAは好きですか?」

まるで“実質プロデューサー”の匠が「あの頃」のイェンス・ボグレン、そしてイェンスの右腕で知られるフランク・デフォルトに代わって、レトロモダンなキーボードと優美なストリングスを指揮する、要するにイェンス・ボグレン時代のKATATONIAで馴染み深い、いわゆる「Bサイド」と称されるゴシカルな耽美性を醸し出す#2“朧”は、先ほどとは一転してsukekiyoの支配下にある京の官能的な歌声をフィーチャーしたミドルテンポのオルタナチューンで、この手の「カタトニア好きか?」としか言いようがない曲は近作の中でも珍しいというか、ある意味ではウロボ以前の世界観に近い曲なのかもしれない。そういった意味でも、全盛期のKATATONIAとイェンス・ボグレンおよび今現在のDIR EN GREYと匠師匠の関係性は、いわゆる“実質プロデューサー”という枠組みでニアリーイコールと解釈すべきかもしれない。

ディルのフォロワーでもあるエクストリーム同人ヴィジュアル系メタルこと、Imperial Circus Dead Decadenceが先日発表した3rdアルバム殯――死へ耽る想いは戮辱すら喰らい、彼方の生を愛する為に命を讃える――。と本作の『Phalaris』って、実はめちゃめちゃ韻を踏めちゃう作品同士で、それこそICDDに対する本家からの回答とばかり、“実質プロデューサー”によるサイコスリラー映画のサントロの如し魑魅魍魎蠢くシンフォニーを抱えて、ドラムのシンヤが珍しくエクストリームメタル然としたブラストビートを刻みながら狂喜乱舞する#3“The Perfume Of Sins”は、本家ディルが誇る道化さながらの狂言師ならぬ京言師が取り仕切る見世物小屋でアヴァンギャルディなからくりサーカスを繰り広げる。

その後も「アルケー好きアルケ?」とツッコミ不可避なほど『ARCHE』の雰囲気を引きずったリフメイクとフックの効いた京の歌メロにフォーカスした#4“13”、京言師ならではのボイスパフォーマンスを発揮する#5“現、忘我を喰らう”、『DSS』を代表するDSこと“Different Sense”の系譜にあたるシングルの#6“落ちた事のある空”、再び“実質プロデューサー”である匠師匠の業に裏打ちされたスケキヨmeet懐春みたいな#8“響”、前作のパンク/ハードコアっぽさを踏襲した古き良きヴィジュアル系のヘドバン(BPM)を刻む#9“Eddie”、冒頭から『ARCHE』の名曲“Behind A Vacant Image”を思わせる匠ノイズを打ち出した#10“御伽”、そして本作における“体内性”を司る冒頭の“Schadenfreude”と対となる曲で、本作における“体外性”を司る同大作の#11“カムイ”は、過去作由来のエクストリーミーなアプローチを強調した同大作に対して、この曲では“朧”におけるKATATONIAのBサイドやsukekiyo的なオーケストレーション/アコースティックギターを軸に『MACABRE』的な構成で仕上げたような、言うなればSWもビックリの「ディルなりのポスト・プログレッシブ」であり、またバンドサウンドが合流する中盤以降はDeftones『Ohms』で啓示した“20年代のヘヴィネス”の在り方をディルなりに再現している。

ここまで本作を端的に総括すると、『ウロボ』や『DSS』はもとより、厳密に言えば『ARCHE』以降の近三作を総括する「集大成」的な作風であり、裏側から見れば“実質プロデューサー”である「匠の集大成」とも言えなくもない本作品。一方で、集大成っぽい要素を多分に孕んでいる作品群にありがちな「うん、そうだね」みたいな想定内の感想しか出てこないのも事実。正直、フォロワーのIDCCに喰われちゃってるというリアルな話はさて置き、シンプルにソングライティングに対して懸念を抱いた虜も少なからずいるはず。それほど既視感ならぬ既聴感が強い、悪くいえばネタ切れ、それこそ引用元の過去曲のが面白いという至極単純明快な話というか。だから虜は一度でいいからICDDの最新作と『Phalaris』を聴き比べてもろて。絶対に「feat.小岩井ことりィ?!」ってなるから。

ただ一つだけ言えることは、何度も「アルケーとカタトニア好きか?」とツッコまざるをえないほど、良くも悪くも「KATATONIA」の存在が一つの大きなキーワードとなっている本作品。というのも、当記事の冒頭部に『ARCHE』以降の【DIR EN GREYと匠師匠】ニアリーイコール【KATATONIAとイェンス・ボグレン】と書いたように、KATATONIAとイェンスが離別してリリースされた『死の王』こと『Dead End Kings』において、メンバー自身がエンジニアとしてミックスを手がけた結果どうなったか?その結果として、まるで「音が死んでる」ようなクソ音質の駄作が誕生してしまった事は、長いメタル史の記録に悪い意味で名を刻む悲劇として人々に記憶された。

重度のKATATONIAフアンである僕が当記事で提唱したい説...それこそが『Phalaris』=『Dead End Kings』説、つまりDIR EN GREYなりの『死の王』であるということ。もとより色素の薄い音楽を奏でるバンドが、著しく無印良品みたいなモノクロームの無機的な世界観に振り切った本作品、その要因となるサウンド・プロダクションやメロディの点でも、近作において最も取っつきにくい印象を受ける。繰り返し聴いても過去一で「音が悪い」、メンバー全員の難聴を疑うほど音質が悪い。それもそのはず、本作のエンジニアにはBFMVのセルフタイトル作品や、過去に俺的クソ音質大賞を受賞しているTrivium『In Waves』を手がけたカール・バウンが関わってると知ったら全てに納得したというか(クソ音質マイスターとクソ音質メイカーは引かれ合うじゃないけど)、もはやここまでくると確信犯というか、こいつらわざとクソ音質にしてる説が濃厚になった。わざとじゃなきゃここまでクソ音質ムーブしないはずだから。とにかく、本作の「音が死んでる」ようなモコモコした淡白な音質を耳にしたら、歴史的駄作である『死の王』『In Waves』のトラウマが蘇ってしまった。

確かに、過去この“死音”を擁して面白いアルバムが作られていたとしたら全然納得できるけど、残念ながらこの世に一枚も存在しないのも事実で、むしろ歴史的な駄作と評価されることの方が断然多い。このクソ音質を好意的に解釈すると、このクソ音質を背負って史上初めて面白い作品に挑んだ歴史的な作品であるということ。つまり、ヴィジュアル系を代表するクソ音質マイスターが史上最悪のクソ音質をもって面白い作品を生み出さんとする、それこそチクビームのクソ音質を知りながらも故意にクソ音質を追求するド変態、もとい貪欲な姿勢に何を感じるかによって、本作の評価を大きく左右する事になりそう。少なくとも、本作を聴いて真っ先にチクビームのアレがフラッシュバックした自分みたいな人は、トラウマ級の作品になってしまうかもしれない。そのクソチクビを知っているor知らないかで評価が一転する奇々怪々が過ぎる作品・・・要するに、チクビームが全部悪いw

俄然このクソ音質を好意的に解釈するなら、あえて「音を殺している」んじゃねぇか説だ。つまり、本作におけるクソ音質は「ディルなりのデスメタル」のメタファーだったんだよ!な~んてエクストリーム擁護はさて置き、この『Phalaris』に内在するブルータル/デスメタル由来のエクストリームメタルのアプローチに対する、ある種の好意的な忌避の可能性というか。例えば、サウンド・プロダクションが音楽ジャンルを司る上において最たる要素であると仮定するなら、今作は“メタル”ではなく、あくまで“ヴィジュアル系”としての立場を暗喩しているとも言えるし、もしそうだとしたら全てに納得できなくもない。そのサウンド・プロダクションの是非についての考え方が、ヘヴィ・ミュージック界の中でヴィジュアル系として生き残る術であり、その術を模索し続けた結果を体現したような本作におけるヴィジュアル系宣言は、ただただエモ過ぎて泣く。

マジメな話、かのイェンス・ボグレンが手がけたシングルの“激しさと、この胸の中で絡み付いた灼熱の闇”がアルバム版でクソ音質化した逸話に象徴されるように、古くからDIR EN GREYはサウンド・プロダクションの悪さに定評のあるバンドで、それこそ当時『UROBOROS』がメタリカの『Load/Reload』に匹敵するクソ音質と揶揄され過ぎた結果、『DSS』を手がけた海外エンジニアのチュー・マッドセンを迎えてリマスタリングされた同作が、今ではその超越的な音楽性と原盤のクソ音質が正解だった事実を鑑みれば、今作におけるクソ音質も彼らにとっては「最高音質」なんですね。つまりメンバー全員が難聴だとか、全く音にこだわってないからクソ音質になっているのではなく、人一倍に音にこだわっているからこそのクソ音質、つまり全て意図されたクソ音質であると。

本作のような「音質に“答え”が書いてある作品」というのは、サウンド・プロダクションだけで「PTの音」だと知らしめていたPorcupine Treeの復活作が、奇しくも本作と同じ11thアルバムだったのは果たして偶然だろうか。ともあれ、作品ごとにミックス/プロダクションを変化させて独自の世界観を創造したり、一方で世界の色を殺したりと、彼らの音質に対するこだわりは並のバンドの比ではない、言わば「創造的破壊」の思想が根底にあるのだと改めて痛感させられた。しかし、その好意的クソ音質のサウンド・プロダクションと、著しく鮮度の落ちたソングライティングの兼ね合いをフラットな視点から批評すると、正直なところ「ディルなりのメシュガー」をやってのけた前作の方が俄然ユニークで面白かったと言わざるをえない。一つだけ確かなことは、本作に点数を付ける場合、10点満点中7点以上は絶対に付けられないアルバム。それだけは確かだと思う。

春ねむり - 春火燎原

Artist 春ねむり
no title

Album 『春火燎原』
aaass

Tracklist
01. sanctum sanctorum
02. Déconstruction
03. あなたを離さないで
04. ゆめをみている(déconstructed)
05. zzz #sn1572
06. 春火燎原
08. パンドーラー
09. iconostasis
10. シスター with Sisters
11. そうぞうする
12. Bang
13. Heart of Gold
14. 春雷
15. zzz #arabesque
16. Old Fashioned
17. 森が燃えているのは
18. Kick in the World(déconstructed)
19. 祈りだけがある
21. omega et alpha

春ねむりといえば、自分の中で2020年作のEPLOVETHEISM以降は存在感が薄くて、というより新曲(シングル)や今年のSXSWでロシアの活動家プッシー・ライオットと共演した話などのザックリとした情報は耳に入っていたけど、個人的に彼女の音楽ってシングルの単体で聴くよりもアルバムのまとまったフォーマットで聴きたいアーティストっていうイメージがあるので、今の今まで詳細な近影は知らぬ存ぜぬの状態だったのも確か。逆に言えば、このように曲の数が出揃ってからようやく音源を聴く気が起きる、昨今の大ストリーミング時代にそぐわない古い体質の人間なので、フルアルバムとしては2018年作の1stアルバム『春と修羅』以来となる、今作の2ndアルバム『春火燎原』にて久々に春ねむりの音楽と再会を果たした。がしかし、いざ蓋を開けてみるとまさかの全21曲でトータル一時間超えは流石に想定外。しかし、シングルを掻い摘んで咀嚼する現代のストリーミング時代の価値観も旧来のアルバム/パッケージ時代の価値観すらも超えた、ある種の「覚悟」が込められた作品である事の裏返しだと解釈したら俄然期待度が増したのも事実。

本作はコロナ禍の真っ只中に制作され、満を持して発表に漕ぎ着けた作品とのこと。それよりも、1stアルバムやEPの中で春ねむりが詠っている歌詞の内容と、いわゆる「コロナ以降」の世界で今まさに巻き起こっている出来事がシンクロしている偶合の話はさておき、彼女はデビュー当初から一貫して「生と死」を最大のテーマに、自身の革新性を孕んだユニークな音楽を介して地上に生きる全ての「生命」と真摯に向き合い、一貫して「祈り(Pray)」を捧げてきたアーティストだ。そして今まさに、イジメにより自ら命を絶つ10代やパワハラにより命を投げ出す大人が後を絶たない時代に、そして2022年2月24日に弾かれたミサイルの“トリガー”すなわち戦争(開戦)の合図が世界中に鳴り響いたこの現代において、理不尽な暴力に晒され命の灯火を消された者、もしくは一部の資本家および権力者が作為的に作り出した戦場で人の命のみならず動物の命も軽々しく愚弄され、一日また一日と日常的に命が消えゆくこのクソサイテーな世界の中心で愛を叫び、灼熱の魂を焦がす春ねむりの言霊が「祈り」に変わり、ある種の鎮魂歌(レクイエム)として本作『春火燎原』の中に宿している。これは、あらゆる「生命」の気高さを歌う「人間讃歌」であると。

冒頭の#1“sanctum sanctorum”からして、EPLOVETHEISMの最後に収録された“りんごのうた”にも引用された讃美歌アメイジング・グレイスの「祈り」を地続き的に引き継ぐような、教会に鳴り響くパイプオルガンと聖歌隊による神聖なクワイアを背に、修道女たちが命の灯火を両手に祈りの行進を促すオープニングに相応しい曲で、それこそ『春と修羅』の元ネタである宮沢賢治と同じようにキリスト教的な救済信仰を掲げることで、人種や宗教の垣根を超えた寛容の精神をこの『春火燎原』の入り口として啓示する。その流れを汲む#2“Déconstruction”では、まるでフランス革命における21世紀の「民衆を導く自由の女神」、すなわち気高い勇気を持った現代におけるライオットガールの象徴的存在として先陣を切り、聖者のマーチングバンドを従えながらキリスト最期の地であるゴルゴダの丘に凱旋し、そして宇多田ヒカル『BADモード』ばりのFワードを発しながら聖地にレインボーフラッグを突き立てる。

本作に関して一つ驚いたのは、この『春火燎原』についてAlcestのネージュがコメントを出していること。何を隠そう、春ねむりの音楽ってシューゲイザーやノイズロックを孕んだオルタナティブなJ-POPである一方で、いわゆる激情ハードコアやBlackzageと共振するエクストリーミーな側面を内包している。それこそメタラーの自分が春ねむりに魅了されるキッカケとなった2020年作のEPLOVETHEISMは、冒頭のシンフォニックかつオペラティックな壮大過ぎるトラックからして、LGBTQ.Q.のハンターハント・ヘンドリックス率いるブルックリンのLiturgyに肉薄するキリスト教的な文脈およびtranscendentalな超越性を垣間見せたかと思えば、リード曲の“愛よりたしかなものなんてない”では、中間のブラックメタル並のデプレッシブな咆哮を皮切りに、そして最後に表題を叫ぶ「愛よりたしかなものなんてぇ!」における語尾の「てぇ!」の部分は、もはや本家のネージュを超えたんじゃねぇかくらいのベストシャウトを披露していた。とにかく、EPならではの実験的なアプローチと「スクリーマーとしての春ねむり」の爆誕に喜びと興奮を覚えた僕は、春ねむりのシャウトは語尾の歪みというか揺れがネージュの咆哮と全く同じ点に気づき、ポエトリーラッパーを肩書きとする彼女の秘めたシャウトの才能に着目したのだ。でも、春ねむりのシャウトって意図して喉を酷使してガナっているのではなく、あくまで通常の歌唱法と同じ自然現象で発声された、感情表現の延長線上のものとして聞こえるのが真に唯一無二だと思う。

恐らく、カズオ・イシグロの有名小説のタイトルをもじった#3“あなたを離さないで”は、冒頭から『春と修羅』の“せかいをとりかえしておくれ”を想起させるセンセーショナルなポエトリーラップをフィーチャーした春ねむり節全開のビートを刻むノイズポップかと思いきや、一転して春ねむりの剥き出しのコアさを孕んだ咆哮をトリガーに怒涛の転調をキメる、その急転直下な楽曲構成を目の当たりにした瞬間は「えぇ!?」とリアルに声が出た。それこそ先述したネージュ風のシャウトとはひと味違う、アンダーグラウンドシーンのオーガニックなハードコア/パンク精神と共鳴する咆哮にド肝を抜かれるとともに、その咆哮は怒りというよりも歯を食いしばるような咆哮、救えたはずの命を救えなかった後悔(懺悔)から湧き出た超自然的な感情表現というか。ちなみに、最後の「あなたを離さないで」の語尾もしっかりと歪ませている。

『春と修羅』では宮沢賢治の口語詩を引用していたが、今作の表題となる『春火燎原』は四字熟語の「星火燎原」の「星」を“フルアルバム”であることをイコンとして示す「春」にもじった造語となっている。それこそ、春ねむりが宮沢賢治の短編小説『よだかの星』を朗読するインタールードの#5“zzz #sn1572”を挟んで、まさに「スクリーマーとしての春ねむり」を象徴する表題曲の#6“春火燎原”は、彼女が一貫して詠ってきた「生と死」を司るリリックを「命の火を灯せ」とばかりに灼熱の魂を焦がしながら激情する咆哮、そして現代ポストメタルに肉薄する重厚感溢れるサウンドメイクまで、まさに本作の表題を冠するに相応しい組曲となっている。

あの『春と修羅』を初めて耳にした時は、それこそ押見修造の『惡の華』を原作としたアニメの二期の主題歌を担うに相応しい存在であると、また岩井俊二映画と共鳴する内省的な世界観、つまり心の闇を抱えた10代の心音とシンクロする焦燥と激情を孕んだ、歪みのあるギター・ノイズを軸とした(神聖かまってちゃんに代表される)サブカル的な音楽性で思い起こされるのは、昨年のBandcamp界隈を賑わせたサブカルムーブメントの立役者であり、岩井俊二の青春映画『リリィ・シュシュのすべて』をサンプリングしたParannoulの存在に他ならない。その曲名からして『春と修羅』の“ゆめをみよう”のリリックと文脈的に繋がる曲で、同時に思春期のノスタルジーと黒歴史(トラウマ)を孕んだ自傷作用を誘発する、Parannoulの“White Ceiling”顔負けのサンプリング術を垣間見せる#7“セブンス・ヘブン”から、続く#8“パンドーラー”におけるいわゆる“ぶっ壊れローファイメンタル”と共鳴するグリッチ/ノイズ然としたハードコアな演出面に関しても、それこそ『惡の華』の主人公・春日高男みたいに学校の教室や会社のオフィスで孤独な疎外感を抱えたアンタッチャブルな者たちと価値観を共有し、救済を与えるかのような楽曲と言える。すなわち、これは昨今のアンダーグラウンドシーンにおけるサブカルムーブメントの真の源流が春ねむりにある事実を暗に示唆している。

その昨今のサブカルムーブメントのシーンを形作った原型と言っても過言ではない、の子率いる神聖かまってちゃんをはじめ、同インターネット世代の水曜日のカンパネラDAOKOと比肩する春ねむりが生み落すトラックメイクの凄みたらしめるは、この『春火燎原』おいて未来のシーンを担う次世代すなわちZ世代へとバトンを繋がんとしている点←これに尽きる。というのも、ラッパーのSistersを客演に迎えた#10“シスター”を皮切りに、エッジーなギターの歪みを効かせたインダストリアル/90年代グランジ風の#16“Old Fashioned”、そして彼女なりのフェミニズムが内在した#17“森が燃えているのは”において、春ねむりはZ世代を象徴する新興ジャンルであり多様性を表現するハイパーポップの潮流、つまりZ世代の台頭とともに一つ上の世代(Old)の視点から自らの立ち位置を著しくアップデイトするという行為、それこそ水曜日のカンパネラDAOKOがなし得なかった「次世代へとバトンを繋ぐ行為」をいともたやすくやってのけているヤバさ。

要するに、この『春火燎原』において春ねむりは、Spotifyのプレイリスト「misfits 2.0」にフックアップされているハイパーポップやZillaKamiに代表されるトラップ・メタル文脈との邂逅を果たしちゃってるんですね。現に、本作には外部の共同プロデュースとしてZ世代のハイパーポップアーティストで知られるウ山あまねを迎えている点からもそれは明白で、そのハイパーポップを司るAlice Glass顔負けのオートチューンやヒップホップおよびトラップのビートを咀嚼した洋楽的なトラックメイクはもとより、持ち前のポエトリーラップとは一線を画した本格志向のラップに挑戦している点も本作のポイントと言える。もとより、現代のライオットガールとしての彼女の立ち位置とハイパーポップの文脈ってニアリーイコールみたいなもんで、もしかしてもしかすると次に(反体制を掲げるロシアのユニットIC3PEAKやレインボーカラーを象徴するヤングブラッドと共演済みの)Bring Me the Horizonとコラボするに相応しいのは、(同じく今年のSXSWに出演した)日本のハイパーポップを代表するZ世代の4s4kiではなくこの春ねむりなのかもしれない。

「今の今」の出来事がダイレクトに歌詞に描かれている#4“ゆめをみている(déconstructed)”やシングルの#12“Bang”を筆頭に、春ねむりならではのリリックの強度、そのリリックの説得力が悲しいかな日に日に増しに増す過酷な「今」を生きる現代人からすると、この『春火燎原』における彼女は表現者としてのパフォーマンス/スキルがあまりに真摯に迫り過ぎて、軽い気持ちで聴けないほど重く突き刺さる「痛み」と(思春期の黒歴史を抱えた人間だけがわかる)厨二病的な「痛い」の二つの「痛み」が否応なしに五臓六腑に響き渡る。正直、ここまで変な冷や汗をかくほど、いい意味で背筋が凍る音楽ってなかなか巡り会えるもんじゃないと思う。それぐらいリリックの重みが尋常じゃないってことだけど。

一見、本作はリアルタイムの世界情勢と皮肉にもシンクロするヘヴィなリリックに比重が偏った作品と思いがちだが、実はそれ以上に音楽的な部分もネクストステージにアップデイトさせている。坂本龍一や久石譲に精通するクラシカルな美意識を内包しつつも、あくまでシューゲイザーやノイズロックを経由したギターロック的なポエトリーラップだった過去作に対して、この『春火燎原』では『春と修羅』で培った強固なアイデンティティとEPならではの特定のジャンルにとらわれない実験的なソングライティングを両立させながらも、それこそ春ねむり自身のラップや咆哮(シャウト)などの歌唱法の変化に象徴されるように、繊細な感情と粗暴な感情が複雑に入り乱れた表現力の著しい高まりと、音楽的に著しく現代音楽のトレンドであるヒップホップに傾倒しているキライ、しかし結果として春ねむりが創り出す強靭なリリックと現代のパンク精神を宿したヒップホップという名のロックンロールが備えた強いメッセージ性は、否応なしにシンクロ率100%を記録している。また、よりハードコアでアンダーグラウンドなプロダクションが言葉の生々しさを際立たせ、俄然ヒップホップというジャンルとしての強度を高めている。

その生命力溢れる神がかり的な流れから、本作のハイライトを飾る「déconstructed=脱構造」という哲学的な言葉を掲げた#18“Kick in the World(déconstructed)”は、その言葉の意味を示す「古い構造を破壊し新たな構造を生成する」が如く、東宝のゴジラあるいはランチを求める井之頭五郎もしくは『進撃の巨人』の主人公エレン・イェーガー顔負けの歪んだ思想をもって、「Kick in the World!!」と咆哮しながら地ならしを発動して地上の生命を蹂躙していく、それこそ春ねむりの音楽を司る「破壊と創造」を繰り返すハードコア/パンク精神に溢れた曲となっている。続く#19“祈りだけがある”では、この世に怨みつらみを残して死んでいった亡者たちのうめき声、すなわち「声なき声」の代弁者である春ねむりは、今だ成仏できずにいる亡者の木霊を背負ってる人、背負い過ぎている人として、この『春火燎原』に言霊として込めた「祈りの儀式」によって彼ら魑魅魍魎の魂を浄化し、そして天国へと送り出す。その「祈り」は決してセンセーショナルな訴え方ではなく、それはもはや悟りに近い祈りなのかもしれない。

谷川俊太郎の詩集「生きる」から詩を引用した曲で、都合のいい命なんて一つもないと、徹底して「生きる」ことを肯定し、全面的に生命の美しさを肯定する#20“生きる”、その詩集「生きる」の一節にある「鳥ははばたくということ」を示唆する小鳥のさえずりや八咫烏の鳴き声を録音したインタールードの#21“omega et alpha”は、それこそ映画『ドント・ルック・アップ』の皮肉なラストシーンを想起させるような、まるで地ならしにより地上の生命と人類同士の争いが消え無人となった地球に真の平和が訪れ、ニューエイジの思想を掲げた春ねむりがアダムとイヴの如く『復活』、そして「命」の灯火を再点火し新たな神話が始まる・・・みたいな、そんな皮肉な見方ができるのも彼女のニヒリズムならでは。

この『春火燎原』に伴うアーティスト写真やアートワークから考察できるのは、今年のアカデミー賞を賑わせた濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』における「生と死」の狭間をメタする渚の上に立って(走って)死者と対面し「痛み」を共有する、その霊的な原理を用いて音楽の世界で表現しているのが春ねむりなのかもしれない、ということ。そういった意味でも、2022年の「今」こそ聴かれなきゃいけない作品だと思うし、2022年の年間BESTが確定している宇多田ヒカル『BADモード』を超える唯一の可能性を孕んだ日本人アーティストの音楽と言えるのかもしれない。そして、ここ数年の間に当ブログで取り上げてきたサブカル文脈とZ世代を紡ぎ出す、その文脈から現在のBMTHにも繋がる伏線回収から、ハイパーポップはもとよりヒップホップやトラップメタルとのシンクロ、近々で言うと「東京の山田花子(Z世代)」ことmoreruやイスラム教徒であり文芸誌「文芸思潮」の第17回現代詩賞の佳作を受賞している試金氏のParvāneの存在まで、ありとあらゆる文脈を全てひっくるめて音楽の歴史そのものを更新するかのような、もはや今年の2月24日に戦争の引き金を「Bang!!」と弾いたのも全て「計画通り」だったとしか思えない完全究極体伏線回収アルバムだ・・・!
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