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墓っ地・ざ・ろっく!

ノルウェー

AURORA - The Gods We Can Touch

Artist AURORA
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Album 『The Gods We Can Touch』
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Tracklist
01. The Forbidden Fruits Of Eden
02. Everything Matters
03. Giving In To The Love
04. Cure For Me
05. You Keep Me Crawling
06. Exist For Love
07. Heathens
08. The Innocent
09. Exhale Inhale
10. A Temporary High
11. A Dangerous Thing
12. Artemis
13. Blood In The Wine
14. This Could Be A Dream
15. A Little Place Called The Moon

昨今のコロナ時代において外タレの来日が困難な状況にも関わらず、日本の三大フェスの一つであるサマソニの代替として開催された昨年のスーパーソニックに(時期が時期だけでに当然のようにキャンセルも出たりした中で)出演してくれたAURORA(極光少女)って、北欧の妖精を通り越してもはや天使なんじゃねぇかと思わざるを得なかった。

日本人にそんな大天使ぶりを見せつけた北欧ノルウェー出身のAURORAといえば、今や日本でも大ブームとなったディズニー映画『アナと雪の女王2』の主題歌「Into the Unknown」を本国版エルサ役のイディナ・メンゼルのみならず、日本版の松たか子ともフィーチャリングするというサプライズ級の大抜擢を足がかりにして一気にスター街道を駆け上がると(ちなみに、日本ではBiSHのセントチヒロ・チッチがファンを公言している)、新世代ニューエイジャーとしての威信を背負った“北欧の歌姫”という肩書きを大きく飛び越えて、今では“欧州のビリー・アイリッシュ”いや“世界の歌姫”としての地位を確立したとかしないとか。確かに、北欧の自然豊かな片田舎から生まれたリアル『もののけ姫』におけるサンが『もののけ姫』を生んだ国であるこの日本でフェスデビューするなら、見渡す限りの森林に囲まれた苗場で開催されるフジロック一択だと思ってやまなかったけど、しかしケツモチがデズニーとなった今ではフジロックよりもサマソニ(スパソニ)の方が色々な意味で象徴的なのかもしれない。そもそもの話、資本主義の象徴と称すべきネズミーと自然崇拝および山岳信仰をテーマとしている『もののけ姫』のサンは水と油の関係性だろ、みたいなマジレスは禁止で。

(これは皮肉だが)同じ北欧出身だけあって、悪い大人にそそのかされて環境保護団体のアイコンすなわち象徴として担ぎ上げられているグレタ・トゥーンベリちゃんの音楽バージョンが今現在のAURORAの立ち位置、みたいな意地の悪い詮索はさて置き、ともあれ現代ポップシーンにおいて一つのアイコニックな存在となったAURORAの約3年ぶりとなる4thアルバム『The Gods We Can Touch』は、近作にて確立したIKEA製の洗練された北欧ポップスは不変ながらも、“リアルサン”ならではの無国籍というか多国籍風のオリエンタルでエキゾチックな魅力はより一層磨きがかかり、デビュー当時のまだあどけない十代の極光少女らしいピーキーな子供っぽい青臭さが抜けきった一人の大人の女性としての上品かつ穏やかな歌声は、それこそケイト・ブッシュの後継者として俄然板がついてきたというか、この年にして早くも“ディーヴァ”さながらの貫禄が出てきた。とにかく、本作はその少し大人びた等身大のAURORAがそのまま作品に反映したような内容となっている。


北欧の妖精を司る存在として、自然の神秘であり北欧全土で観測されるオーロラのごとし美しい波が幻影と幻想をまとってこの地上に舞い降りるイントロの#1から、姉貴分であるSusanne Sundførの後継者として一段とアダルティで落ち着き払ったAURORAの歌声とフレンチシンガーPommeのフェミニンな歌声が北欧らしい陰影な世界をダークに彩るインディ・フォークの#2“Everything Matters”、“北欧のチャーチズ”ならではのダンサブルでキャッチーなエレポップの#3“Giving In To The Love”、IKEA製らしく洗練されたダンスポップナンバーで、ElsianeのElsieanneを想起させる低域を効かせた歌声の粋なアレンジが聴きどころの#4“Cure For Me”、北欧出身ならではの昭和歌謡に通じる哀愁を帯びた艶めかしい歌声を聴かせる#5“You Keep Me Crawling”、優美なストリングスをまとったアコギをバックに昭和のシャンソン歌手さながらのアダルティな歌声を披露する#6“Exist For Love”、それこそ苗場のステージでバリ島の男声合唱で知られる“ケチャ”をバックにAURORAが呪術的かつ妖艶な演舞劇を繰り広げる絵しか浮かばない#8“The Innocent”、エキゾチックな暗黒ミュージカルの世界観を形成するインディ・フォークの#9“Exhale Inhale”、キャッチーなシングル曲の#10“A Temporary High”、北欧の広大な大地や豊かな自然と対話するかの如し力強くも神秘的な歌声が地上に響き渡る#11“A Dangerous Thing”、「ケツモチがディズニー」という真の意味で“無敵の人”として現代の男性社会に蔓延るマチズモに抗うフェミニズムを内包したAURORAなりのガールズクラッシュを展開する#13“Blood In The Wine”、本作唯一となるバラードナンバーの#14“This Could Be A Dream”、グライムス的な中華風のオリエンタリズムを放つ#15“A Little Place Called The Moon”まで、一聴する限りでは派手さのない印象を受けるかもだけど、聴く回数を重ねるうちにどの曲も丁寧なアレンジで、細部にまでこだわりをもって音が練り込まれてる事に気づく。徐々に耳に馴染んでくるというか、だんだん心に浸透してくるイメージ。

北欧が生んだ妖精として現代の『サウンド・オブ・ミュージック』さながら、その音楽に合わせて舞い踊るかの如しキャッチーな大衆向けのダンス・ポップのみならず、レジェンドABBAを生んだ北欧ならではのレトロな昭和歌謡的なムードを醸し出す懐メロから、一方でイマドキのウォーペイント大好きっ子としてお茶目な一面を垣間見せるダークなフォークソングまで、多様性のあるアレンジで楽しませる質の高いオルタナティブなポップ・ミュージックは、それこそ映画『アナ雪』が好きなキッズやティーンが摂取しても問題ない、トランス脂肪酸や人工甘味料などの毒素が添加されていない天然素材あるいは自然由来の素材で構成された、それこそ環境問題やSDGsの目標にきっと優しいかもしれない音楽だ。「ケツモチがディズニー」すなわちヘタに尖ったことできない制約がありながらも、今や「世界の歌姫」となった彼女にしかなし得ないバラエティに富んだ唯一無二の音楽を自由に伸び伸びとやっている印象。少なくとも、日本のスタジオジブリとディズニーを紡ぎ出す無敵の存在として、ジブリもアナ雪も大好きな日本人こそ国民全員が聴くベき一枚です。

Diskord - Degenerations

Artist Diskord
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Album 『Degenerations』
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Tracklist
02. Bionic Tomb Eternal
03. Abnegations
04. The Endless Spiral
05. Dirigiste Radio Hit
06. Lone Survivor
07. Dragged For Coronation
08. Clawing At The Fabric Of Space
09. Atoms Decay
10. Raging Berzerker In The Universe Rigid
11. Gnashing
12. Beyond The Grime

USを代表する“Dissonant Death Metal”がニューブランズウィック出身のReplicantならば、そのReplicantと同レーベルであり自身のBandcampページにも大きく“Dissonant”のワードを掲げている、そんなノルウェーを代表する“Dissonant Death Metal”がオスロ出身のDiskordで、そのデスタイルもGorgutsKralliceでお馴染みのコリン・マーストンをエンジニアとして迎えているだけあって、前作から約9年ぶりとなる3rdアルバム『Degenerations』では、Gorguts初期CynicあるいはCarcassリスペクトなオールドスクールのデスメタルに、現代デスメタルのトレンドである不協和音(Dissonant)的な不可思議なフレーズやジャズ/プログレやグラインド/マスコアの要素をはじめ、トリプルボーカルによるDIR EN GREYタイプに分類される低音グロウルやカーカスのジェフ・ウォーカーやダートラのミカエル・スタンネに代表されるパンキッシュに吐き散らすタイプのデスボイスなど多様な声色の変化を効かせながら、極めつけにアホっぽいカウベルの音やテルミンなどの前衛的かつアヴァンギャルドな楽器を交えた、しかしアヴァンギャルドはアヴァンギャルドでも“ノルウェーならでは”のアヴァンギャルド系とは一線を画した、しかし本作を聴き終えた後には“ノルウェーならでは”としか他に形容できない、それこそ本物の「カテゴライズ不能かつ不要芸人」を名乗るに相応しい、全く新しいデスメタルを主張する複雑怪奇が行き過ぎた変態バンドである。


いわゆる“Dissonant Death Metal”の火付け役と言っても過言じゃあないAd Nauseamをはじめ、UKのATVMCryptic Shiftのどれとも似て非なる、もはやデスメタルの皮を被った別のマスナニカです。なんだろう、気づいたら聴き終わってるというか、その間に何が起こったのか記憶がバグるようなアルバム。基本はゴリゴリのテクデスなのに、例えるなら3の倍数と3が付く数字のときだけアホになるでお馴染みの世界のナベアツのネタばりに、3の倍音の時にカウベルがポンポン鳴るたびに記憶がリセットされて「アホディェェェス」になるデスメタルというか、これもう「世界のナベアツ系デスメタル」あるいは「マスコア化したカーカス」もしくは「DIR EN GREYがバカテク化した世界線」だろっていう。

Ulver 『Hexahedron - Live At Henie Onstad Kunstsenter』

Artist Ulver
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Live Album 『Hexahedron - Live At Henie Onstad Kunstsenter』
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Tracklist
01. Enter The Void
02. Aeon Blue
03. Bounty Hunter
04. A Fearful Symmetry
05. The Long Way Home

個人的に、いわゆる“ライブアルバム”とされる音源って普段からそこまで興味ないというか(ライブ映像は別として)、現にこのブログにも書いてこなかった案件なんだけど、しかしこの北欧ノルウェーのブラック・メタル界の異端児=Ulverが先日発表したライブ作品『Hexahedron – Live at Henie Onstad Kunstsenter』は、2018年にオスロ郊外の岬にあるヘニー・オンスタッド美術館の伝説的なスタジオでの(ソールドアウトした)ショーを記録したライブアルバムで、その“芸術”という言葉の原点であるピカソの絵画や壁画、そして草間彌生の実験的な作品をはじめ、世界各国の現代美術作品約4000点を収蔵/展示したノルウェーを代表する美術センター内にあるコンサートホールで、出自がゴリゴリのブラックメタルバンドがライブを開催するという前代未聞の出来事に対し、バンドの頭脳であるTore Ylwizakerは、昨年出版された彼らのキャリアを網羅した書籍『Wolves Evolve - The Ulver Story』の中でこう語っている→

私たちの音楽を芸術の場に導くことは、私にとって魅力的なことです

そう、デビュー当時はノルウェー=ブラックメタルというステレオタイプの王道イメージのブラックメタルバンドだった彼らが、今や草間彌生級の“芸術品”あるいはピカソ級の“美術品”の一つとして認識される“アーティスト”になるまでの変遷を遂げ、曰くウルヴェルの歴史(The Ulver Story)のハイライトと自負する本作の『Hexahedron』は、約60分間のライブセッションを5つのパートに分けたライブ作品となっており、その内容もDNAの突然変異としか形容しがたい彼らの音楽的変遷の歴史をこの広大な宇宙空間に映し出すような、その実験的かつインプロヴィゼーション精神に溢れた音楽は、まさに“芸術”の一言である。

しかし、自分の中で【ウルヴェル】【ライブ】と聞いて真っ先に思い出されるのは、彼らが2011年に発表したライブ映像作品『The Norwegian National Opera』に他ならなくて、その内容も本公演のゲストとして迎えられたオーストリア人ギタリスト=クリスチャン・フェネスの影響下にある、“中期Ulver”を司るエクスペリメンタル~アンビエントな電子音楽を繰り広げていた。また、その芸術点の高い音楽のみならず、後方のスクリーンに映し出される人類の歴史における二大大罪の一つであるホロコーストに関係する映像と、日本の前衛芸術として知られる暗黒舞踏を想起させる奇妙で狂気的な舞台演出をかけ合わせた、色んな意味でパンチやチンポの効いた18禁の映像作品だった。

実は、このUlverを生み出した【ノルウェー】と【ホロコースト】は切っても切れない歴史的因縁があり、それこそ今年公開された『ホロコーストの罪人』という第二次世界大戦中のナチスによるホロコーストに加担したノルウェー最大の罪を描く実話を元にした映画の公開を皮切りに、近年というか2021年は何かとホロコーストを題材とした映画が連鎖するように公開された偶然(必然)もあり、ともあれ1940年にノルウェー本国がドイツ軍に占領された歴史的背景も含めて、ノルウェー人の中には今なおホロコーストに加担した罪への贖罪の念を背負っているのではないかと。言わずもがな、先の大戦の当事国である日本は日本でユダヤ人を救った英雄として崇められる杉原千畝を題材とした数々の映画に記録されているように、ノルウェー人と同じくして日本人とホロコーストも切っても切れない歴史的な深い結びつきがある。

そんな、音楽的にもビジュアル・コンセプト的にも今現在の彼らにダイレクトに繋がるライブ作品だった約10年前の『The Norwegian National Opera』を伏線として経た本作の『Hexahedron』は、ライブの幕開けを飾る#1“Enter The Void”からして、それこそレーベルメイトのトビー・ドライバー(Kayo Dot)をはじめ、クリストファー・ノーラン作品でもお馴染みの巨匠ハンス・ジマー坂本龍一とも共振するSF映画の劇伴的なスペース・アンビエント~デューン~ドローンのエレクトロな電子スタイルを軸に、時おり教会に響きわたるようなパイプオルガンの神秘的な音色を靡かせながら、約15分に及ぶミニマルなアンビエントを終始一貫して繰り広げる変態ぶりは、いかにもウルヴェルというバンドの“バンドじゃない別の何か”、そのアンタッチャブルなライブそのものを暗喩している。

その電子的な流れを引き継いだ#2“Aeon Blue”は、昨年リリースされた『惡の華(Flowers Of Evil)』の“One Last Dance”を、タンバリンやスネア/パーカッションなどの打楽器はもとより、トクマルシューゴばりに木琴の凛として弾むようなポップな音色が俄然インプロヴィゼーションの精神に則って再構築したような、それこそ中期Ulverによるエレクトロ資本が配給した映画音楽のような一種の電子パルスロックで、この曲の元々の世界観が喜多郎『シルクロード(絲綢之路)』風な事もあって、その音響意識の高いライブアレンジとの著しい相乗効果を生んでいる。原曲におけるスポークン・ワードがない分、俄然喜多郎感マシマシで、これもうUlverなりの『シン・シルクロード』だろっていうw

もうお気づきの通り、2018年に行われたライブなのになんで2020年作の『惡の華』の楽曲が使われてんの?って。それは言うまでもなく、その当時既に『惡の華』の原型の種という名の伏線が蒔かれていたということ。しかし逆に、逆に、ある意味、ある意味で真の原曲がライブ音源にあると解釈したら軽い狂気に近いなって。まるでエイリアンに捕食されたリプリーのように、一曲10分~15分の尺がクソなげぇ魑魅魍魎の天外魔境からリプリーの肉体を引っ張り出して、その肉片から『惡の華』のような80年代リバイバルな“ポップ・ミュージック”に再構築するとか...イヤイヤイヤイヤ、考えれば考えるほどやっぱこいつら天才過ぎてありえないだろ・・・。


俄然坂本龍一的というか、それこそキタノブルーに染まった久石譲顔負けの日本的な和音と、よりトライバリックかつオーガニックなパーカッションを中心とした#3“Bounty Hunter”、『惡の華』を象徴する名曲“Little Boy”を再構築した#4“A Fearful Symmetry”は、その原曲をよりグルーヴィかつミニマルスティックにアレンジしつつも、中盤以降は“パパベアー”ことKristoffer Ryggのスポークン・ワード風のボーカルやシンセウェイブなチルい要素をフィーチャーした、本公演の中で最も原曲のシンセ・ポップに近い曲となっている。その合法トリップ音楽とブラックボックス化した多次元世界に誘う映像技術が高次元でアセンションするかの如し、まるで『エヴァ・インフィニティ』さながらの上記のライブ映像は全人類必見。

それはまるで『The Norwegian National Opera』におけるホロコーストと対をなす、人類史における「もう一つのホロコースト(大量虐殺)」である原爆投下を10年の時を経て、それはまるで“戦争の知っている世代”の「記憶」と“戦争を知らない世代”の「記憶」を再び紡ぎ出すかのように、#4の原曲である“Little Boy”から核分裂して生まれた#5“The Long Way Home”は、“リトルボーイ”の原典におけるヒップ・ホップのバイブスを感じるトラップ的な革新的アプローチをはじめ、エイフェックス・ツインばりのダークなエレクトロやトライバリズム溢れるパーカッションからは、それこそ日本のSSWを代表する岡田拓郎の(サブスクでも一番人気の)名曲“Shore”を彷彿とさせ、またBPMを少し落としてAOR風のレトロ・シンセをフィーチャーした中盤以降の展開も岡田拓郎『The Beach EP』をインプロヴィゼーション意識全開で再構築し過ぎていて、流石にノルウェーと日本で共鳴しすぎやろと若干引きつつも、改めてこの界隈ホントに面白いなぁと。なんだろう、海外からはハンス・ジマーフェネス、日本からはそのフェネスと交流のある坂本龍一をはじめ、岡田拓郎(+duenn)喜多郎らの“ダブル郎”、そしてトクマルシューゴROTH BART BARONに代表される、それらのインプロ精神をモットーとしているLeft-Field Music集団を南米の未開の部族の儀式によってヘニー・オンスタッド美術館のステージ上に降霊させちゃってる、とにかくヤバすぎて身体が勝手にニート暗黒舞踏し始めるくらいにはヤバい。

大袈裟じゃなしに、約19分に及ぶ最後の“The Long Way Home”はマジで凄いと思った、というかライブ作品である本作のレビューを書く理由に相応しい名曲。それこそ、ライブアルバムの優先度が著しくスタジオアルバムより低い自分が聴いても、もはや原曲超えてじゃねぇかと感じるくらいの(原曲の定義はさて置き)、事実この曲の最後に聞こえてくる観客の盛大な歓声を耳にしてようやく、ここまで聴いてきた音の全てがライブ音源だったと気づいたくらいには、いわゆる一般的なライブ作品のイメージや概念を180度覆された、もはや“ライブ”であって“ライブ”じゃない実質“半スタジオアルバム”みたいな作品。よって単なるライブ作品と侮るなかれ、気づいた時には目の前が虚構か現実かわからない多次元構造の世界に迷い込み、そして“意識”するたびに時空を超えまくりなマトリックス状態になること必須の合法トリップ音楽です。要するに、フジロックはいい加減にUlverを苗場に呼んで平沢進御大とコラボさせるべきw

Leprous - Aphelion

Artist Leprous
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Album 『Aphelion』
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Tracklist
02. Out of Here
03. Silhouette
04. All The Moments
05. Have You Ever?
07. The Shadow Side
08. On Hold
10. Nighttime Disguise

あくまで個人的な意見を述べるとするなら、今のLeprousって名物フロントマンのエイナルがシャンソン歌手ばりにエグい歌唱力を習得してしまった結果、隣国スウェーデンから颯爽と登場し光の速さで消えた某ダーティ・ループスが闇落ちした変態ポップスみたいなイメージあって、そんな彼らの前作から約2年ぶりとなる7thアルバム『Aphelion』は、冒頭の“Running Low”からエイナルのソウルフルな超絶的歌唱力とサスペンスフルなストリングス(チェロ)をフィーチャーした、それこそ脱メタル化したOpethリスペクトな奇々怪々のアヴァン・プログレを軸に展開される、オペラティックかつギャルドな北欧産劇団四季さながらの孤高の世界観は、通算七作目にして更なる深化を遂げている。

そのメタルやプログレやオルタナなどの概念を超越した、例えばメシュガーの存在自体が誰も真似できない一つの音楽ジャンルなら、このLeprousもメシュガーの後継者でも、Post-Djentでも、エクストリーム・メタルでも、極端な話もはやロックですらない別の何か、さしずめシャンソンあるいはゴスペルの亜種みたいな喜劇的かつ実験的な音楽は、哲学者ニーチェが提唱する深淵の精神世界に聴くものを引きずり込む。

2011年の2ndアルバムから2019年の前作までは、イェンス・ボグレン~デヴィッド・カスティロラインの王道路線を貫き通してきた彼らだが、本作に至ってはLeprousとともに10年間歩んできたそれらの(裏方)エンジニアとは完全に手を切った形で制作され、彼らは10年のディケイドを区切りにメタルというジャンルを超越した先にある、人類がまだ見ぬ未踏の地に歩まんとする強い意思を感じさせる作品でもある。

インダストリアルなオルタナ成分を強調した#3“Silhouette”、シガーロスに急接近するポストロック的な#4“All The Moments”、そしてその超越的な意識の高さを象徴する#5“Have You Ever?”は、そのエイフェックス・ツインばりに低音を効かせたダークなエレクトロな電子的アプローチをはじめスリリングなストリングやピアノを擁した作家性の強い作風という面でも、現代プログレ界を代表するスティーヴン・ウィルソンのソロプロジェクトにおけるエクストリームではなくエクスペリメンタルなアート・ロック、その系譜に名を連ねるようになった事を意味している。その伝統的なクラシック・ロックとモダンな電子音がジャンルの垣根を超えて共存し合うジャンルレスな音世界は、それこそ“イェンスの呪縛”から逃れて初めて自由を手にした本作だからこそ可能にしたものと言える。

個人的に、ex-KATATONIADaniel Liljekvistの次の好きなメタルドラマーであるBaard Kolstadのドラムが堪能できる、と同時にようやく「レプティリアンらしい、もといレプラスらしい」と呼べなくもないシングル曲の#6“The Silent Revelation”に至っても、メタラーがイメージするような普通のメタルとは一線を画す曲なのは確か。と愚痴ってみても、センセーショナルに煽るストリングスとサンダーキャット並のコーラスワークを駆使したファンキーでブルージーな#7“The Shadow Side”、完全にあの往年の名曲のオマージュというかカバー曲にしか聴こえない、まさにシャンソン歌手さながらのエイナルの超絶歌唱が炸裂する慈悲深きバラードの#8“On Hold”、からの素直に感動を覚えるほど優美なアコースティック・バラードの#9“Castaway Angels”、そして最後の最後にメシュガーの正統後継者感をチラ見せするドSな#10“Nighttime Disguise”まで、正直ここまでの説得力しかない歌声を目の前にしたら、どんな不平不満も「全部許す!」となっちゃうのも事実。

でも正直、前作を踏襲したこの「エイナルのオナニー路線」も本作でやりきった感は否めないので、次作あたりでそろそろメタル路線に回帰してほしいというか、リアルな話...次作以降もこの路線が続くとなると天才ドラマーのバードくんが脱退する可能性が著しく高まってきそうなので、唯一そこだけは懸念する部分。確かに、本作は一聴するだけでは地味に聴こえがちだけど、噛めば噛むほど味が出るスルメタイプの作品であることは確かで、脱イェンスして初となる本作は本作で過去作同様に飽きさせない豊富なアレンジと各メンバーの変態的なスキルに裏打ちされた楽曲の完成度は尋常じゃないほど高く(事実、近作の中では一番好き)、最後の#10も一応メタラーに対してのアリバイ作りになってるというか、それこそ次回作の伏線である可能性もなきにしもあらず。しかし、そんな淡い期待を持つよりも今はバードくんの生え際が心配で夜も眠れない。

Ulver 『惡の華』

Artist Ulver
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Album 『Flowers of Evil』
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Tracklist
01. One Last Dance
03. Machine Guns And Peacock Feathers
04. Hour Of The Wolf
05. Apocalypse 1993
06. Little Boy
07. Nostalgia
08. A Thousand Cuts

『惡の華』って、この僕が今最も2期あるいは続編を渇望しているアニメの原作漫画で、そんな中あのUlver『惡の華(Flowers of Evil)』という名前を2期アニメ開始の伏線として自身のフルアルバムの表題に採用するという神展開。ちなみに、『惡の華』の海外版タイトルは言わずもがな『Flowers of Evil』です。実のところ、アニメ版の『惡の華』って海外ではそれなりに高い評価を受けているのに、一方のアニメ先進国とされる日本では2期が始まる気配すらない、それすなわち日本のアニオタ=世界のアニメを知らないニワカであることを証明しているんですね。もちろん、本作における本当の元ネタはアニメ『惡の華』にも登場するフランスの詩人シャルル・ピエール・ボードレールの詩集『悪の華』から。

まぁ、そんな冗談はさて置き、ここで読者の皆にちょっとした質問がある。もし『惡の華』という言葉を比喩的な表現として用いる場合、どのようなシチュエーションあるいは現象をイメージし、それを想像するだろう。そりゃ『悪』=『Evil』という文字が入ってる時点でロクなもんじゃないのは確かだけど、実はその問いの答えこそ僕たち日本人が一番よく知るモノなんじゃないかって。まず人類史を例にして、『悪』と聞いて真っ先に思い浮かべるのが戦争あるいは紛争行為であり、日本も先の大戦で枢軸国として参加した当事者である事は「歴史」が証明している。その第二次世界大戦中に我々人類が犯した、決して忘れてはならない人類が犯した「負の歴史」を象徴する最たる『悪』、その『世界二大大罪』の一つが当時日本の同盟国だったナチス・ドイツがアウシュビッツ強制収容所で行ったホロコーストであり、そしてもう一つが1945年8月6日に広島に投下されたリトルボーイ(Little Boy)、1945年8月9日に長崎に投下されたファットマン(Fat Man)という日本に投下された2つの原子爆弾に他ならない。

惡の華

度々、例えがアニメや漫画の話で「悪」いけど、漫画『ハンターハンター』のキメラアント編に出てくる人間の底すら無い悪意を・・・!の名言でも知られるネテロ会長の技名に、時限爆弾のキノコ雲を“薔薇”の花として比喩した「貧者の薔薇」というのがある。恐らく、これは現実世界で言うところの核爆弾を意図しており、それと全く同じようにUlverも原爆が地上に炸裂して発生するキノコ雲を『惡の華』として比喩したのが本作である。本作における2ndシングルの“Little Boy”のアートワークには、自分の記憶が正しければ日本の教科書にも記載されている世界一有名なキノコ雲が使われている。

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アートワークの話で言うならば、本作のジャケットのデザインを初めて見た時、2つのイメージが頭の中に浮かび上がった。一つは言うまでもなくアウシュビッツ強制収容所でガス室送りにされる女性の哀しみを超えた何とも言えないような表情であり、そしてもう一つがNetflixのオリジナルドラマアンオーソドックスの強烈過ぎるトップ画だった。このドラマは、ホロコーストの当事者であるドイツを舞台に、ユダヤ教の超正統派ハシディック(サトマール派)の厳しい戒律から逃れるハンガリー系ユダヤ人女性が音楽と出会うダイバーシティ案件の社会派ドラマで、歴史資料でもホロコーストで犠牲となった600万人の中にはハンガリー系ユダヤ人女性も数多く、そのハンガリー系ユダヤ人女性がドイツのベルリンへ逃避行する物語ならば、このドラマの裏に隠されたテーマがホロコーストなのは明白だ。

ハシディックの戒律には成人した女性は髪を剃るというしきたりがあって、アンオーソドックスのトップ画はまさにその瞬間を捉えたワンシーンで、もちろんホロコーストにおける女性の断髪とハシディックにおける戒律は全くの別物であるのだけど、その戒律によって頭を剃られたドラマの女性=エスティの哀しみを超えた慟哭の表情と、本作『惡の華』のガス室送りにされる前に髪の毛を切られる女性の絶望を超えた悲哀の表情が自分の中で重なってしまったのも事実。だから初めは確証がなかった。このアートワークの女性がガス室送りにされる前の表情なのか、それともハシディックの戒律により頭を剃られる女性の表情なのか。でもドラマを観て気づいた、それはある意味で同じ表情なんじゃないかって。人間として、女性として、「毛髪を奪う」という尊厳という名の魂を奪われた二人の女性の表情が示す二面性、二つで一つの顔を持つ表情であると解釈したら、俄然このアートワークには今から約80年前に行われたホロコーストの解釈と、この2020年においてNetflixアンオーソドックスを通して世界中に知れ渡った超正統派ハシディックの信仰心、正直どちらもUlverが題材にしそうな事でもあるし、むしろ両方の意味合いがあると考えた方が面白いし、こう言っちゃ怒られるかもしれんけどそっちの方が皮肉っぽいです。恐らく、というか普通にホロコーストだと思われるけど。何故なら、ホロコーストは原爆投下という『惡の華』と同等の人類の大罪だから(もちろん、その国や立場によって『罪』の大きさや『悪』の解釈は変わってくるが)。しかしながら、Ulver『惡の華』とNetflixアンオーソドックスが2020年代のタイミングで登場したということは、これからの20年代が人類の命と尊厳を揺るがす時代になる事を暗示しているのかもしれない。

ところで、ホロコーストを題材にした近年の映画(もちろん名作『シンドラーのリスト』以外)で、個人的に最も印象に残った映画を一つ挙げるとすならば、それは間違いなく『サウルの息子』だと思う。この映画も第二次世界大戦下のアウシュビッツ強制収容所を舞台に、ゾンダーコマンドの囚人であるユダヤ系ハンガリー人の主人公=サウルが自分の息子と思わしき遺体を、せめてもの報いとしてユダヤ教に則った尊厳ある埋葬をするために奔走する、音楽ジャンルで例えるならポストブラック・メタルのように激情的でエモーショナルなハンガリー映画で、この映画もわりかしメタ的な解釈を必要としていた憶えがある。この映画の何が凄いって、初めは自分の息子と思わしき遺体を抱えて強制収容所を奔走するサウルが、途中から旧約聖書に登場するイスラエル王国の最初の王=サウルへと姿を変え、『サウル(自分)の息子』ではなく、サウル=イスラエル王の息子=『ユダヤ人の息子』にタイトルの意味が変わる衝撃的なメタ展開で、同じようにハンガリー系ユダヤ人を扱ったアンオーソドックスの主人公=エスティがあるシーンの時に放つ失われた600万人を取り戻すという台詞は、必然的に『サウルの息子』とも時代を超えてなお激しく共振する。

北欧ノルウェイの森のクマさんことUlverは、初期のブラック・メタル時代からオルタナティブな音楽変遷を辿り、そして2020年の現在に至るまで、思想/信仰/神話/文化/歴史/芸術への執着にも近い関心をもって、一貫して人類が犯してきた『罪』をメタ的に描き出し、現実とファンタジーの境界線を曖昧にさせるモノクロームのディストピア、つまり今現在の世界と共鳴する“一匹狼”の名に相応しい孤高の世界観を築き上げてきた。例えば、前作の『ユリウス・カエサルの暗殺』では、ローマ神話に登場する(ギリシャ神話ではアルテミスに相当する)ディアナと“プリンセス・オブ・ウェールズ”の愛称で親しまれたダイアナ妃の悲劇的な運命を共振させ、2016年の米大統領選以降、欧米を皮切りにアジア、そして日本でも顕著に目立ち始めたポピュリズムの台頭を予見していた。このように、Ulverは自身のライブ作品の世界観を形成する演出の一つとしてホロコーストを利用する、誤解を恐れずにいうと彼らが一種の“社会派バンド”である事を念頭において話すと、一方の原子爆弾というのも、今をトキメクBTSがネタにしたり(←コラ)日本のDIR EN GREYが楽曲コンセプトとして採用し、ライブ演出としても自らを司る世界観の一つとして取り入れているアーティストは決して少なくない。では、アジア人としては57年ぶりに坂本九“Sukiyaki”が持つビルボードチャート1位の記録を塗り替えた(原爆をネタにして炎上した)BTSと、それらの大罪をアーティストの世界観を司る『メッセージ』として自らの作品に盛り込んだUlverDIR EN GREY、果たしてどちらがミュージシャンとして優れているのだろうか?

な〜んて話はさて置き、歌詞の中にもタイトルのFlowers of Evilが込められた曲で、本作の『惡の華』の名を象徴する2ndシングルの#6“Little Boy”を聴いて連想したのは、日本のSSWで知られる岡田拓郎くん“Shore”DIR EN GREY率いるsukekiyo“濡羽色”で、この2つの曲に通じるものこそ“トラップ”である。この“Little Boy”は、終始鳴り響くハイハットの不規則なトラッピーなビートを刻んでくるのは確信犯だし(2分20秒からは特に顕著)、ラップの常套句である「YO(ヨ〜)」という所からも、これはもう「Ulverなりの(ト)ラップ」なんですね。しかし彼らがこれまでやってきたこと、それらの伏線を辿れば全く違和感ない着地点ではあるし、逆に必然的だし、思えば前作の最後の曲=“Coming Home”が伏線だったのかもしれない。また、アウトロでは前作に引き続きエンジニア/実質プロデューサーとしてキリング・ジョーク“Youth”によるケルティックなバグパイプが、まるで雲の上の存在=「神」の視点から人類同士の醜い争いによってそして誰もいなくなった地上を憐むような表情で無慈悲な音色を奏でる様は、目の前に「真実の歴史」をまざまざと突きつけられた気がした。

旧約聖書の一文献である『伝道の書(コヘレトの言葉)』から一部歌詞を引用した#1“One Last Dance”は、坂本龍一とのコラボで知られるクリスチャン・フェネスハンス・ジマー顔負けのスペース・アンビエント的なスコア感を醸し出しながら、まるで人類の故郷である地球で起きた人類の歴史、あるいは偽りの歴史、改竄された歴史、そして真実の歴史、それら人類が歩んできた尊い「歴史」を追憶するように、大沢たかお主演の『深夜特急』あるいは喜多郎顔負けの『シルクロード』上に淡い夕焼けと共に映し出すと、Holy Mountain(聖なる山)の山頂にあるレーダー峰から「主よ!これが我々人類という名の猿=ウッキーモンスターの限界です!この「歴史」こそ我々ウッキーモンスターの限界であり、その証明です!今すぐ地球に降臨し我々ウッキーモンスターに知恵を授けたまえ!ウッキー!」という「人類の限界説」を、地球から4光年先の三体星系に棲む(救世)主である三体人への『メッセージ』として送信し(←ただの三体脳)、そして聴きようによってはケニーGばりのサックスにも聴こえるフェネスのノイジーなギターソロが、人類の「正の歴史」「負の歴史」「記憶」「記録」が走馬灯のように脳裏を駆け巡る瞬間の如し、それこそガス室送りにされるユダヤ人女性の表情とアンオーソドックスのハンガリー人女性と全く同じ慟哭の表情で、人類が犯した大罪を懺悔し、贖罪と救済を求めるかのような、それはまるで燃え盛る教会の中で「終末のワルツ」を踊る降臨派の如し異様な光景だった(←ただの三体脳)。

それはまるで時空を超えて「歴史」という名の過去の遺産を掘り起こすかのような、それこそ某『映像の世紀』みたいなドキュメンタリーを見ているかのような、当時のモノクロ映像が現代の映像技術の進歩によりカラーで鮮明に蘇ったような、人類の歴史の闇の深層部に迫るような、緻密な構成で人類史の光と闇を照らし出す、全人類に共通する地球という名の故郷=『ノスタルジア』を描き出すサウンド・トラックのようだった。

本作を司る“Little Boy”のトラッピーなビートの名残をほのかに漂わせるのは、この“One Last Dance”がリトルボーイと共に本作を象徴する一曲だからであって、Under the Moonというお馴染みの歌詞を筆頭に、そのアンビエント〜スポークン・ワード的なムーディでポエトリーな世界観は、前作を踏襲しているというよりは中期Ulverが発表したアイコニックな作品である『Shadows of the Sun』の抒情的なアプローチに近い印象。その映画のスコアのような壮大で重厚なサウンドスケープは、坂本龍一ジム・オルーク、そしてデヴィッド・シルヴィアンとのコラボでも知られるクリスチャン・フェネスが得意とする電子音楽が根幹となっている。この電子的なアプローチやギターのアレンジ、その全てがフェネスの音を起因としている。フェネスはこの一曲目しか参加してないのにも関わらず、その後の全ての曲に影響与えているんじゃねぇかぐらいの存在感。少なからず言えることは、中期Ulverのエレクトロ路線はフェネスの影響が大きかったということ。それすなわち、ジム・オルーク坂本龍一をリスペクトし、そして自身でも『都市計画(Urban Planning)』というアンビエント作品を発表している日本の岡田拓郎くんUlver“トラップ”以外の点でも超自然的に繋がる。


しかし前作『ユリウス・カエサルの暗殺』の要素が全くないと言えば嘘で、むしろベースメイクは前作を基調とした作品であると断言できる。それを分かりやすく証明するのが1stシングルの#2“Russian Doll”で、彼女は1989年に生まれたという歌詞から始まるこの曲は、前作と同様にデペッシュ・モードキリング・ジョークなどの80年代ニューウェイブ/シンセポップに代表される、いわゆる80年代リバイバル然とした優美なシンセウェイブを展開する(何よりもUlverの伝説の1stアルバム『Bergtatt』のTシャツを着たデスメタル女子がダンスを踊るMVが「女性の解放」を表現しているような、これぞまさしく音楽ジャンルを超えたダイバーシティで、出自がメタルのバンドがこのMVを撮るのはちょっと衝撃的過ぎてマジ最高)(もちろんLOONAの例のMVを思い出した)。その80年代リバイバル路線を更にテンポアップさせた、二人のディスコクイーンとのデュエットを披露する#3“Machine Guns And Peacock Feathers”は、俄然80年代リバイバルが鮮明化したような、ほとばしるユーロビート感を内包したセンセーショナルなシンセとヘヴィっちゃヘヴィなギターリフで展開する。前作で言うところの“Angelus Novus”を彷彿とさせるミニマルな曲で、幽玄でノイジーなアトモスフィアを形成するギターとストリングスが闇夜に交錯する#4“Hour Of The Wolf”、そして前作は元より狼史上最もポップな#5“Apocalypse 1993”は、その名の通り1993年にテキサス州ウェーコで起きた宗教団体ブランチ・ダビディアン=新約聖書のヨハネの黙示録に記された「世界の終わり」を暗示する終末思想を思想体系とするセクトで81人の死者を出した陰惨な出来事を題材にした曲で、そんな元ネタのカルト宗教団体の終末思想と2020年というリアルタイムで大衆文化や歴史が奪われている現代社会をメタ的に共振させている。ちなみに、この曲の間奏には教祖であるデビッド・コレシュの肉声が記録されている。ちなみに、“デビッド”はイスラエル王国のダビデ王から、“コレシュ”はバビロン捕囚ユダヤ人を解放したキュロス二世から名を拝借している。もっとも皮肉なのは、こんな悲劇的な出来事を謳った曲なのに、その曲調はキラキラシンセ全開のキャッチーなポップスである点。しかし、改めてブランチ・ダビディアン事件をネタにするようなバンドである事を再認識させ、彼らUlverの楽曲に込められたシニカルなメッセージ性は計り知れない重さと確かな説得力がある。

初めて聴いた時は「へぇ〜、Ulverさんそんなオシャンティなメロディ鳴らしちゃうんだ」って良い意味で驚いた3rdシングルの#7“Nostalgia(ノスタルジア)”は、ファンキーなカッティング系のギターリフとジャズというか古き良き時代のソウル/シャッフルを彷彿とさせる、スローワルツというか社交ダンスのイメージがしっくりくる曲。ナチス・ファシスト政権下のイタリアを舞台にしたカルト映画『ソドムの市』から歌詞を引用した#8“A Thousand Cuts”は、ダンテの『神曲』を構成する「地獄の門」「変態地獄」「糞尿地獄」「血の地獄」という4つの章からなる悪魔崇拝的な狂気に満ち溢れた、セックス&バイオレンスなエログロ/スカトロなんでもござれな伝説的な映画の内容とは裏腹に、UKニューロマンティック界のレジェンドことキュアーTalk Talkばりに官能的でセクシャルなシンセの旋律をフィーチャーした、徹底したムード志向、徹底したアート志向を極め尽くしている。この第二次世界大戦末期の【イタリア】を舞台にした映画を元ネタにすることで、これにてキノコ雲という名の『惡の華』が咲いた【日本】とホロコーストの発信地である【ドイツ】、いわゆる枢軸国とされる【日独伊三国同盟】が成立する。実は、映画『ソドムの市』こそ『惡の華』という言葉が最も似合うアート作品なのかもしれない(僕は十数年前に観たけど途中で挫折した)。この血生臭い「生と死」を扱った退廃的で官能的な世界観は、Ulverの音楽その根幹部へと繋がっているのもまた事実。また、本作のキーワードの一つである「髪を切られる」という行為は、まさにこの映画の内容とも共振してくる。しかしながら、原爆やホロコーストという人類の悲劇をここまで大々的かつ直接的に描いているのに、そこから奏でられる音はUlver史上最も美しく、ポピュリストばりに一般大衆に媚びたポップスという皮肉。しかもアウトロの(まるで人類の大罪を聖水で洗い流すような)浜辺に寄せては返す美しい波=“浜辺美波”のSEで幕を閉じるのも、それこそ“10年代最高のメタル”と言っていいTOOL『Fear Inoculum』岡田拓郎『The Beach EP』と超自然的に繋がってくる話で、人類が贖罪と救済を得て夜明けを迎えた先にたどり着いた美しき「楽園」こそファシズムという皮肉。もはや浜辺のSE入ってるアルバム全部名盤説あるわw

は、更なる深淵へと導かれ、Trap=現代音楽と80年代の歴史と文化的なロマンス、そして人類の「記憶」を繋ぎ合わせる事に成功している。確かに、前作のようにドゥンドゥンと低域を響かせるダンサブルでダイナミックな派手さは控えめで、あくまでもシンプルでレトロなシンセの旋律とジャジーなムーディさを徹底している。とにかく、今作はシンセの鳴らし方が前作とはダンチで、より懐古主義的=レトロで、よりニューロマンティックで、より官能的な毒を持つ花のように妖しく、そして極上に美しい。前作ではオルタナ然としていたカリカリ系ギターは、(クリスチャン・フェネスに影響されてか)ノイズのように歪ませた残響音だったり、リバーブやエフェクトを効かせた音響効果に対する意識を持った俄然裏方的なムード形成の役割を果たしている。そういった面でも量子学論で例えるなら、前作の『ユリウス・カエサルの暗殺』がマクロ次元の音楽、今作の『惡の華』はミクロ次元の音楽。それこそ岡田くん『ノスタルジア』→『New Mourning』に近いイメージ。

しかし2020年のメタルシーンの何がヤバイって、隣国フィンランドのOranssi PazuzuがUSのラッパーGHOSTEMANEを中心とするトラップ・メタルを取り込んだ新時代のブラックメタル、それこそUlverのオルタナティブな音楽的思想を正統に受け継いだ歴史的名盤を発表したかと思えば、その回答として本家のUlverがトラップを革新的な方法で取り入れたのは言わば必然、いや運命だったのかもしれない。彼ら凄さはそれだけじゃなくて、こうやって出自であるブラックメタルの新世代をフォローしつつも、それと同時に過去にUlverも所属したことのあるKscopeを主宰するSWことスティーヴン・ウィルソン「ポップスの再定義」を図った2017年作の『To the Bone』に対する回答を示している。何を隠そう、Ulverはそこから更にトラップという、遡ると2018年末にトラップ・メタル界の長であるデンゼル・カリー〜BTSのトラップ=伏線を回収しつつ、そして2019年のメタルを象徴するBMTH『amo』から新時代の幕開けを飾る2020年のOranssi Pazuzu“80年代リバイバル”ザ・ウィークエンドまで直通する、つまりSW「ポップスの再定義」に始まり「メインストリームのトラップ=伏線」から「アンダーグランドのトラップメタル」、そして「80年代リバイバル」まで全ての伏線を器用に回収しつつ、更にそれ=音楽の世界にとどまらずNetflixという新時代の映像メディアとの確信的な繋がりをもって、怒涛の勢いで過去のメタル/ポップス/プログレを20年代仕様にアップデイトした、もはや「完全究極体伏線回収アルバム」と言っても過言じゃあない歴史的名盤です。完全に20年代仕様のUlver、完全に20年代仕様のロック、完全に20年代仕様のプログレですこれ。まさか界隈でも高く評価された前作を、こういう形で超えてくるなんて想像もしてなかったし、表面上は前作同様に80年代リバイバルと見せかけて、実は全てが20年代仕様=最先端にある次元の音楽やってるんですね。とにかく、「2020年の僕が一番求めていた音楽」そのもの過ぎて泣いた。ダメだこれ、ありえん天才だって。やはり、やはり“彼ら”は我々が想像する以上の遥か先にいた。なんだろう、いつ何時もレジェンドから全てが始まるんやなって。

もう2020年で一番ヤベー音源聴いてる気しかしなくて、今年よっぽどのことがない限りは年間BESTの一位は確定です。それぐらい、新時代の幕開けを飾るに相応しいアルバムで、もはやメインストリームのポップスからアンダーグランドのプログレまで、その全てを審美する上での新しい基準がこの『惡の華』です。もはや「引力」という概念を超えた何か別の力が働いているんじゃねえかレベルの、少なくとも“俺の感性”をNEXTステージへと向かわせる“特異点”となる作品である事は確かです。2017年にSW『To the Bone』を介して僕にポスト・トゥルース時代の幕開けを書かせたのが必然だとするなら、『惡の華』を介してこの2020年という名のポストアポカリプス時代における人類の尊厳と選別を、八咫烏の民=ユダヤ系日本人である僕に書かせたのも必然であり、全ては運命決定論のシナリオ通りなのかもしれない。そうオカルトあるいはアポフェニアの話に繋げたくなっちゃうほど、当ブログWelcome To My ”俺の感性”が書き記してきたサイン=伏線を漏れなく全て回収してきている。もうDNAレベルでユダヤ系日本人の俺しか書けへん案件やんと(ハッ!?まさかは僕がユダヤ系日本人であることを知ってて「完全究極体伏線回収アルバム」という『メッセージ』として私信してきたのか!?)。こうなってくると、つまりSW『To the Bone』後に単独来日公演を決めたとなると、Ulverは流石に来日公演とまではいかないが、フェネス繋がりで本家の坂本龍一とのコラボが実現したら、あるいはアニメ『惡の華』の2期が発表されたりなんかしたら最高に嬉しいな〜なんて。
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