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墓っ地・ざ・ろっく!

スティーヴン・ウィルソン

Mastodon - Hushed and Grim

Artist Mastodon
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Album 『Hushed and Grim』
Mastodon-Hushed-And-Grim

Tracklist
Disc I
01. Pain With An Anchor
02. The Crux
03. Sickle And Peace
04. More Than I Could Chew
05. The Beast
06. Skeleton Of Splendor

Disc II
01. Peace And Tranquility
02. Dagger
03. Had It All
04. Savage Lands
05. Gobblers Of Dregs
06. Eyes Of Serpents
07. Gigantium

USヘヴィミュージック界の“ドンファン”ことMastodonの約4年ぶり通算8作目となる『Hushed and Grim』。事前に先行シングルとなる“Pushing The Tides”を聴く限りでは、それこそ初期の獣性むき出しのカオティックなコアさとポストハードコア路線の5thアルバム『The Hunter』のキャッチーなリズムをミックスしたような、しかし『The Hunter』よりもっと初期型のリフで畳みかけるスタイルみたいな。実のところ、本作において露骨に歴代マストドンの面影を感じさせる曲って実質そのシングルだけで、バンド史上最長となる二枚組約86分に及ぶ本作の全貌は、たった数曲のシングルだけで説明できるようなそんなスケールの狭い作品では到底なかった。

本作のプロデュースには、キング・クリムゾンやラッシュの関連作品をはじめ、ピーター・ガブリエルやデヴィッド・シルヴィアン、TOOLやMuseなどのオルタナ/プログレ界を代表するバンドの作品に携わっているDavid Bottrillを迎えているだけあって、ディスク1の幕開けを飾る#1“Pain With An Anchor”からして、オールドスタイルのヘヴィメタルならではのクサメロを経由した叙情的なメロディ、不協和音を奏でるアトモスフェリックかつサイケデリックなリフレイン、ソリッドな“キザミ”を駆使した破天荒なヘヴィネス、プログレ然としたソロワークやダイナミックな楽曲構成まで、まさに本作の鍵を握る要素を一つに凝縮したような曲となっている。

まずは“キザミ”について。ディスク1では冒頭を飾る#1の低域をタイトに刻み込むソリッドなキザミを皮切りに、#2“The Crux”のプログレッシブ・ロックの専売特許であるテクニカルなインストパートにおける質量の低いスタイリッシュなキザミ、ソフトなプログレパートとポストメタル級の重厚感溢れる質量を蓄積したタイトなキザミ主体のヘヴィネスの対比を効かせた#3“Sickle And Peace”、引き続きイントロから質量豊富のポストメタリックなキザミを擁する#4“More Than I Could Chew”など、このディスク1では(それこそ“スラッシュメタル”という言葉を生み出したマルコム・ドームに捧げるかのような)往年のスラッシュメタルを希釈したポスト・スラッシュメタルならではの“キザミ”を軸とした、俄然ポストメタリックなスタイルを展開している。それこそ、彼らが歴史的名盤と謳われる4thアルバム『Crack The Skye』を境に“キザミの世界”に入門した結果、俗に言う黄金のキザミ”を会得したバンドが為せるファストからミドルに、質量/BPMを変幻自在に操ってキザミにキザミ尽くしている。もはやキザミ界の王であるTOOLFear Inoculumへの回答であるかの如し、そのキザミ意識の高さは過去イチと言っても過言じゃあない。

ここでTOOLFear Inoculumに関連する話を述べると、その“キザミ”のみならず、主にギターの音色やトーンを耳にすればわかるように、本作はサウンドプロダクションを含めた音作りという音楽制作における根本的な面でも従来のマストドンと一線を画してきている。それこそ、ヘヴィロック界のキングであるDeftonesが2020年に発表したOhmsにおいて“10年代のヘヴィネス”から“20年代のヘヴィネス”に更新してみせた、その現代ポストメタルの新しい形として披露された次世代のヘヴィネスと共鳴するかのような、それ即ち“20年代のヘヴィネス”に対するマストドンなりの回答であり、従来のクラシックな傾向から一転してモダンな音像に振り切って現代ポストメタル然としたヘヴィネスを轟かせている本作品は、お馴染みのPaul Romano氏が手がけたアートワークとシンクロするような発色のないモノクロームの世界観を描くように、名盤『Crack The Skye』経由のブルージーかつサイケデリックな側面を強調しながらも、過去一でテクニカル/プログレメタル然とした大胆不敵な楽曲構成力の高さと、その強度の高さが全盛期に肉薄する勢いすら感じさせる1枚となっている。

ディスク1の鍵を握る“キザミ”の他に、もう一つ別の鍵となる要素を挙げるとするなら、それは“プログレ”に他ならない。そもそもの話として、今ではマストドン=プログレのイメージを持っている人も少なくないだろうし、それは全くもって間違いではない。しかし、このディスク1における“プログレ”の概念は、例えばドンの代表作である『Crack The Skye』から連想される“プログレ”のソレとはまるで違っている。その本作におけるプログレを象徴する#5“The Beast”では、それこそ西海岸系インストみたいなイントロを皮切りに、曲中は『Crack The Skye』の系譜にあるサイケデリックでブルージーな雰囲気を漂わせるも、筆頭すべきギターのソロパートではスティーヴン・ウィルソンの4thアルバム『Hand. Cannot. Erase.』や5thアルバム『To The Bone』を連想させる明瞭なギターソロを披露している。続く“Skeleton Of Splendor”でも、冒頭のアルペジオギターが醸し出す湿り気のある仄暗い雰囲気からしてSWソロを彷彿とさせつつ、そして専属の鍵盤奏者が在籍するコテコテのプログレバンドみたいなキーボードのソロパートが導入されている。そのプログレらしいキーボードソロは、もはや頭から“メロディアス”な領域に突っ込んでるクラシックなハードロックチューンでシングルの#7“Teardrinker”にも容易く取り入れられている。

本作におけるアルペジオギターを積極的に多用したメロディアスでサイケデリックな世界観形成も、展開の豊富さも、ブルース/ハードロック的なソロワークも、現代プログレの代名詞であるドリムシの影響というよりは、先日復活を宣言したPorcupine Treeの頭脳であるスティーヴン・ウィルソンのソロ作品からインスパイアされたフレキシブルなオルタナ/プログレといった印象。そういった意味では、現代プログレの名盤『Crack The Skye』のプロデューサーであるブレンダン・オブライエンを再起用した前作の7thアルバム『Emperor Of Sand』みたいな、ガワだけを取り繕った形だけの『Crack The Skye』リバイバルではなく、いわゆるプログレという概念を新たに刷新した本作こそ『Crack The Skye』が正統進化した作品と言えるのかもしれない。

ここまで外に開かれたマストドンは未だかつて見た事がなかった。それこそ歴代最長のトータルタイムを誇る二枚組の超大作志向は、長年のライバルであり盟友Baronessを意識しての事だろうと容易に推測できるし、また本作における著しいオルタナ/プログレ志向についても、Baronessが一足先にオルタナ化した2019年作の傑作Gold & Greyという現代ポストメタルの最先端を誇示する、その名の通り金字塔であり革新的な内容に対する危機感というものが、これまで保守的な姿勢を貫いてきたドンの思想をリベラル側に突き動かしたのかもしれない。

ディスク1を司るオルタナ/プログレなアプローチを引き継いで、ディスク2の幕開けを飾る“Peace And Tranquility”では、冒頭からプログレはプログレでもバンドのテクニカルな側面を押し出した盟友Baronessリスペクトなストーナーメタルを繰り広げる。インド周辺の民族楽器であるサーランギーやパーカッションが織りなす、オリエンタルでサイケデリックな世界観を強調した“Dagger”、往年のDTを彷彿とさせる哀愁むき出しのアルペジオギターを軸にThou顔負けのスローなヘヴィロックを展開する“Had It All”、ディスク1のアグレッシブでメタリックな側面を踏襲した“Savage Lands”、それこそ現代ポストメタル/ドゥームメタル界を牽引するPallbearerと共振するドゥーミーな序盤から、一転してオルタナティブな側面を強調しながらダイナミックに展開する“Gobblers Of Dregs”、ドンの音楽史においてこんな洗練されたメロディ聴いたことないってくらい、それこそSWソロと錯覚するレベルのイントロのキーボードから始まる“Eyes Of Serpents”、そしてディスク2のラストを飾る“Gigantium”は、DeftonesOhmsとともに“20年代のヘヴィネス”をアップデイトしたHumInletリスペクトなヘヴィ・シューゲイズ然としたギターワークを耳にしたら、なんだか急に微笑ましくなってクソ気持ち悪い顔で(ニチャア)ってなった。何故なら、ここで、最後の最後で全部繋がるカタルシスったらないというか、この曲のシューゲイザー然としたギターに本作の全てが詰まってるからね。

そんな風に現代ポストメタルを象徴するPallbearerからのHumというヘヴィミュージックシーンのトレンドをかっ喰らい、いかに本作がオルタナや現代ポストメタルを新規の軸に制作されたのかを証明すると同時に、本作の裏コンセプトとしてある「オルタナ化したバロネス」に対する「オルタナ化したマストドン」なりの答えが起承転結を迎える。とにかく特定のどこがとか、特定の何かが凄いとか、そういう次元の話じゃなくて、芸歴20年を超えるベテランの経験からくるプレイヤーとしてのパフォーマンス/スキル、それらを踏まえた総合力の高さとメタルとしての強度が尋常じゃなく高い。なんだろう、コロナ禍において内に抱えた暗黒エネルギーみたいなのを全て外側に開放して、やれること全部やってみた結果が本作というか、例えばジャンルは違うけどオルタナ化したAlcestでお馴染みのアルバム『Kodama』を聴いてるような感覚に近い。

確かに、確かにデビュー当時から一貫してヘヴィミュージック界のオリジネイターとしてシーンの一線を張ってきた彼らが、悪く言えばその辺のテクニカル/プログレ・メタルバンド勢がやってそうなアルペジオギターを多用した過去イチでメロディアスなインストゥルメンタルを筆頭に、プログロック的な小技を効かせたリフメイクや雰囲気シンセというより明瞭な姿形をしたシンセのメロディ、そして近年のメタル界におけるトレンドに迎合するかのような、過去イチで“ドンらしからぬ”姿勢に違和感を覚える人も少なくないと思う。しかし、それは決してオリジナリティが欠如しているのではなく、逆にオリジナリティを確立したバンドだからこそ可能にした作品だと思う。それを肯定的に言うなら、過去作のどれとも干渉しない対外的な外的要因を軸とした本作の中だけで完結する高いオリジナリティを内包している。何故なら人間、歳を重ねれば重ねるほど「変化」を嫌う傾向にあるのが定説なのにも関わらず、この歳になっても新しい試みに挑戦する獣性むき出しの若々しくストイックな姿勢に、そしてコレをドンがやるという新鮮なギャップとフレキシブルな感性に只々驚かされたし、改めてやっぱこいつら天才だと唸った一枚。これは何度も言ってるけど、おいら、今回のようなシーンを代表するオリジネイターがトレンドに迎合した作品を生み出す瞬間に猛烈な“エモさ”を見い出す変態という名の紳士なんで、この『Hushed and Grim』はまさにその“エモさ”を体感できる作品なんですね。

結論からすると、やはり2019年のBaronessの名盤Gold & Greyをはじめ、2020年にDeftonesOhmsHumInletが提唱した“20年代のヘヴィネス”が早くもシーンに行き届いていた事を、これ以上ない圧倒的な説得力をもって回答してみせたのが、他ならぬヘヴィミュージック界の異端児であるドンだった。もはや、こいつらWelcome To My ”俺の感性” の読者なんじゃねぇか説が芽生えるほど、過去に自分が書いた“20年代のヘヴィネス”に関する話の流れをスムースにアップデイトしている気がしてならなかった。つまり「僕が考えた最強のドン」をそのままやってきてるような作品で、恐らく日本で俺しか解けない本作という名の問題は流石に解読しがいがあったわ。しっかし、こいつら日本のラジオネーム【スティーヴン・ウィルソン】をナメ過ぎだろ・・・むしろ俺レベルになると、聴く前からDeftonesOhmsをブログのヘッダー/トップ絵にする事で既にほぼ解読してるっつーの。そして、このタイミングでPorcupine Treeの復活だろ?こんなん“引力”エグ過ぎるし、興奮しすぎて自律神経バグるってw

スティーブン・ウィルソン 『ザー・フューチャー・バイツ』

Artist Steven Wilson
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Album 『The Future Bites』
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Tracklist
01. UNSELF
02. SELF
03. KING GHOST
04. 12 THINGS I FORGOT
05. EMINENT SLEAZE
06. PERSONAL SHOPPER
07. MAN OF THE PEOPLE
08. FOLLOWER
09. COUNT OF UNEASE

一度自分の世界の辻褄を合わせると、僕らは他のみんなの世界をぶち壊しに行きたくなる、彼らの『真実』が自分の『真実』とかみ合わないから・・・

インターネットって1969年にその前身が誕生して以来、人々の生活や文化を豊かなものにした進歩的かつ革新的な存在であり、人類の生活をより便利に発展させたポジティブな影響が大多数を占める。しかしその反面、現代のインターネット社会の進歩と反比例するようにして、人類の心や頭脳(知性)というものは貧しくなっていったのかもしれない。その人類の著しい反知性主義化を象徴する出来事が先日の米大統領選だった。

今から4年前、2017年1月20日の米大統領選で共和党のドナルド・トランプが新大統領として爆誕するまでにネット上で繰り広げられたフェイクニュースや陰謀論などの情報合戦を起因とする、いわゆる「ポスト・トゥルース(Post-Truth)時代」をコンセプトとして掲げたのが、SWことスティーヴン・ウィルソンが奇しくもトランプ新大統領が誕生する事となる同年の8月に発表した5thアルバムの『To the Bone』だった。まず「ポスト・トゥルース時代」とは一体なんぞや?という人にザックリと端的に説明すると、情報過多時代と囁かれる現代における『真実(Truth)』は人の数だけ存在する時代、逆にいえば自分が信じたい情報を『真実(Truth)』として語る時代。本来であれば、某子供探偵が口癖のように言っている真実はいつも一つでなければならない。しかし、現世界のポスト・トゥルース時代を生きるパラレルワールドの某子供探偵に言わせると真実はいつも78億485万4469つ(2021年2月23日現在)になってしまうのがポスト・トゥルース時代なんですね。要するに、それをテーマに描いたのがSW『To the Bone』だったんですね。

4年前のあの日、米大統領選に勝利したドナルド・トランプがアメリカ新大統領に就任した。誰もが民主党の勝利を疑わなかった当時、その当時にトランプ陣営および共和党の選挙運動組織の一部として裏で暗躍したものこそ、いわゆるインターネットやSNSのフォーマットを利用した“フェイクニュース”と呼ばれる、4年前の米大統領選前から昨今のネット社会で急速に増幅したと言っていい嘘情報の存在だった。

一つわかりやすい例を挙げると、トランプ陣営を支持する「Qアノン」と呼ばれる謎の組織が存在する。アメリカのネット掲示板を発端とするそのQアノンによると、どうやらトランプ大統領は「DS=ディープ・ステート」と呼ばれる“悪の組織”と戦う正義のヒーローであるという類い、それは一種の陰謀論的な思想だった。現代のポスト・トゥルース時代において、フェイクニュースと並ぶ嘘情報あるいは偽情報の一つとしてネット上に蔓延していたのが、そのドナルド・トランプを絶対正義とするQアノンが主張する「ディープステート vs. トランプ大統領」の対立構図を謳った陰毛論で、先の大統領選でもトランプ陣営の敗北が決定的となり窮地に追い込まれたQアノンとそれを盲信するQ信者は、今度は「不正選挙」という陰毛論をSNSを中心に世界中に拡散し始めた。

もちろん、それらの陰毛論は主に米大統領選に関する話なので、Qアノンとその信者の存在はアメリカ国内限定の、少なくともアメリカから遠く離れたこの日本では全く関係のない存在と思われた。面白いのは、実はこの日本にもQアノンが流す情報を真に受けた「Q」ならぬ「J」アノンと呼ばれる、盲信的なトランプ支持者が米大統領選の不正選挙を訴えるデモ・抗議運動を起こしていたこと。これらの存在は、日本のネット界隈に古くから蔓延るネトウヨをはじめ、昨今のやりすぎ都市伝説界隈出身のMr.関を中心とする陰謀論系ユーチューバー達による信じるか信じないかはあなた次第という方便を盾にした真偽不明の陰毛論という名のフェイクニュース、それらの陰毛論者たちが無差別無責任に発信する「ネットde真実」を真に受けてしまった世間の情報弱者、それはまさに「反知性主義者」そのものだった。そもそもユーチューバーなんてのは再生数を稼いでメシが食えれば何でもいいわけで、発信する情報が「真実」かどうかなんてのは二の次三の次なんですね。

80年代後半から90年代にかけて世間を騒がせた、日本の某カルト宗教団体の教祖の言葉に「嘘も100回つけば本当になる」というのがある。その“言葉”という一種のカルト的な思想が顔の見えないインターネットを介して世界中に蔓延している状態が今の時代なんですね。その究極的な話として、ツイッターなどのSNSでトレンド入りしたハッシュタグの言葉が「事実(Fact)」であると錯覚するのが現代人である。例えば、Jアノン案件では「#不正選挙」をはじめ「#〇〇逮捕」だったり「#世界緊急放送」だったり、一方で日本の一般社会?に関するトレンドでは「#給付金よこせ」だのまるで乞食のようなハッシュタグがトレンド入りしている始末。何が怖いって、それらのトレンド入りした言葉があたかも「過去に起きた事実」として、あるいは「これから絶対に起こる事実」のように振る舞っている事で、まるで反知性主義が蔓延するネット社会の地獄の底を覗き見たような気にさせる。逆に、テメーの頭ん中で本当の真実ではないと薄々勘づいているからこそ、自らが望む言葉をトレンド入りさせる事で、テメーの頭ん中にある“偽りの世界”を新しく得た「自分が信じたい情報」という名のフェイクニュースで上書きして「たった一つの真実」に改竄する事でテメーの頭ん中を正当化する(←テメーの頭ん中では既に50万くらい給付されてそうだなw)(JRA厩務員並みの不正受給者かよw)。つまり、ハッシュタグで声を上げた気になっている(錯覚)、あるいはトレンド入りしたことでデモを起こした気になっている(錯覚)、もはや現代人にとって“トレンド入り”させる行為ってドラッグと同じ一種の依存症であり現代病なんですね。何故なら、ハッシュタグがトレンド入りしたところで現実世界では何も起こっちゃいないし、何一つ世界は変わっちゃいないから。要するに、Qアノンにとってはトランプの発言が正義であり真実、この理論は日本のJアノン=ネトウヨも全く同じで、日本のドクサレ現政権のトップだったフェイク王が正義であり真実、そしてトレンド入りした言葉が現実化すると錯覚を起こしているカルト脳のフェイク・ヒューマンは同じ穴のムジナで、とにかくトレンドワードこそが「真実」の世界であるという思考、その思想こそ“カルト”の思想そのものであり、間違った邪悪な考えなんですね。

飼い犬であったはずのQアノンの邪悪な分断思想に飲み込まれた飼い主のトランプ大統領は、「種」と「種」の「分断」を象徴するブラック・ライブズ・マター運動を引き起こすと、新型コロナウイルスの対応ミスが引き起こしたパンデミックにより今度は「人」と「人」の繋がりを「分断」させ、そして最終的にアメリカ合衆国そのものを「分断」させる事に成功した。4年前から今まで続くポスト・トゥルース時代の総決算=ピークに達したのが先の大統領選であり、その結果だった。では「Qアノンとは一体なんだったのか?」って。Qanonって要するにトランプ陣営が用意した選挙運動の一部で、ロリコン島とズブズブの関係にあるという類の嘘情報を拡散し、民主党を「悪の秘密結社」に仕立て上げることで、バカでも『仮面ライダー』や『名探偵コナン』が大好きな子供でもわかる【共和党側=善】【民主党側=悪】の構図を描き、ネトウヨなどの反知性主義者を陽動するわりと単純な選挙戦略だったんですね。

しかし現実は非情で、先の大統領選ではQアノンやJアノンがトレンドで訴えていた「不正選挙」も「〇〇逮捕」も「緊急放送」が起きるはずも、ましてやトランプ大逆転再選もなく、無事に民主党候補のジョー・バイデンがアメリカ新大統領に就任すると「分断ではなく結束を目指す大統領になる」と国民に誓い、職務に就くや否や早速トランプの政策を否定するリベラルな政策を打ち出した。しかし、アメリカ史上最も醜い米大統領選がツイッターやfacebookなどのSNSからのトランプ排除という形で、それすなわち既存SNSが支配するSNS時代の終焉を迎えたのは何とも皮肉な話。

インターネットは人々に「知恵」を授け、様々な問題に直面し続ける現代人類がこの先も生存していく未来と平和な暮らしを築くために必要不可欠な、映画『2001年宇宙の旅』の冒頭で言うところの“モノリス”に匹敵する革新的な存在、そのはずだった。しかし現実は無情で、人々は嘘(FAKE)と真実(TRUTH)が複雑に入り乱れる情報過多の激流に飲み込まれ、ある人は陰謀論者の発信する嘘(FAKE)を真実(TRUTH)と信じ込み、ある人は知識人の発信する真実(TRUTH)を嘘(FAKE)として語るようになった。ヒト自身が現代のポスト・トゥルース時代を作り上げたのは何とも皮肉な話。しかし、これが、これこそが「ポスト・トゥルース時代」の絶頂期=ピークであると・・・「This is Post-Truth!!」。ここで思い出されるのは、インターネット黎明期に嘘は嘘であると見抜けない人でないと(掲示板を使うのは)難しいという名言を残した某巨大掲示板の元管理人のひろゆき、彼だけにはこの世界が見えていた、ある種の預言者だったのかもしれない。

本来であれば、2020年の6月にリリースされる予定だった本作の『The Future Bites』。ご覧の通り、それから一年も経たずして世界は一変した。昨年の6月と言えば、11月に行われる米大統領選前なので、当時はまだドナルド・トランプが現職の大統領として在籍していたし、この日本でもフェイク王がまだ首相を務めていた時期だ。しかし、その数ヶ月後には日本のフェイク王がコロナ対策を放棄して仮病を理由に敵前逃亡すると、先の米大統領選ではトランプが敗北する結末を迎えた。そう考えてみたら、本来の2020年の6月に本作をリリースするのと、日米のダブルフェイク王が敗北した2021年の今の今にリリースするのとでは、このレビューで書けるネタが大きく変わってしまう。つまり、コロナパンデミックが起きず無事に東京五輪が開催され、SWの新作も何事もなく予定通りに2020年の6月にリリースされた世界線にある『The Future Bites』のレビューと、利権だらけの東京五輪の中止が決まった2021年の現在にリリースされた世界線にある『The Future Bites』のレビュー、つまりポスト・トゥルース時代の黎明期に書くレビューと、ポスト・トゥルース時代のピーク中のピークの今にレビューを書くのとでは、その内容は全くの別物になっていたに違いないと。逆に言えば、前作『To the Bone』で書いたレビューの伏線回収じゃないけど、今となってはリリース延期も全て「計画通り」だったのかもしれない。文字通り世界が一変した今となっては、日本のネット上に蔓延るネトウヨが日本版Qアノン=Jアノンとして、このポスト・トゥルース時代のピークを迎えるにあたって大事な「駒」として行動を起こしてくれた事に皮肉にも感謝すべきだし、そして何よりも僕が書いた『To the Bone』のレビューを真正面から肯定するために「駒」として動いてくれた日米のフェイク王にも今は「怒り」ではなく「感謝」すべきなのかもしれない。なんだろう、人って「怒り」を超越すると阿修羅の状態から一周回って観音菩薩並に心穏やかな「感謝」の気持ちに変わるんだなって。

『To the Bone』のレビューに書いたネタといえば・・・日本の「報道の自由度ランキング」に関すること。まず僕はそのレビューでテレ東の名作ドラマ『デッドストック』の最終話を例に出し、日本メディアの立ち位置を示した。ポスト・トゥルース時代を構築するのは、何もインターネットの世界におけるフェイクニュースや「ただの嘘」を撒き散らすYouTubeの陰毛論者のみならず、いわゆる既存のメディアとされる各新聞社やTVニュース/メディアが発信する情報も同様に、特定の組織(委員会)や特定の(ドクサレ)政権、そして(広告料を支払ってもらっている)特定の企業に忖度した情報のみを垂れ流し、国民に対して本当に正しい情報は一切伝わってこないのが現状だ。今も現在進行形で広告塔の電通が糸を引く利権だらけの東京五輪に対する忖度ニュースをはじめ、そしてCOVID-19やワクチンに関するマスメディアの報道も何かしらのバイアスがかかってないとは決して言い切れない。4年前、いやそれ以前から懸念されていた「報道の自由度ランキング」の問題からまるで成長していない、何も変わっていないのが現状。確かに、人類はその原型となる霊長類が誕生してから約6500万年前から今まで進化し続けてきたが、そのウン千年のうちのたった四年余りでは人類は成長するわけでも、変わるわけでもなかった。しかし「計画通り」に巨悪の根源である森元も、2度と開催されることのない2014年の「桜を見る会」に漫画家の荒木飛呂彦を招待して五輪利権を与えたフェイク王も、ジャンヌを終わらせたべクソも、「悪の組織」である電通も某芸能事務所も本社ビル売却まで持っていけたのは本当に感謝しかない・・・。何故なら、今や「日本一ダサい漫画家」となった荒木飛呂彦の名誉をトリモロスには東京五輪の中止しか他に選択がなかったから。僕は「DNAレベルで日本一のジョジョオタ」=飛呂彦の子供として、それだけは絶対に避けなければならなかった。だから中止が決まった今では心がお祭り気分だ。そのまま日本のドクサレ政治家と一緒に悪の組織である電通も「GO TO HELL」してもらっていいですか?(これはリアルデビルマン=八咫烏の正当後継者のDNAを持つ僕との約束だよ?)。でもちょっと待って、数年後の大阪万博にも飛呂彦が絡んでるんだっけ・・・?あ・・・だとしたらダメだこれ、東京五輪のみならず完全に電通〜集英社ラインで飛呂彦に仕事入ってるわ。ダメだダメだダメだ、もうこいつ「日本一ダサい漫画家」が「確定」したわw

本作『ザー・フューチャー・バイツ』と過去作の違いは大きく分けて二つある。まず一つ目は、これまで一貫してセルフプロデュースを貫いてきたSWは、今作ではEverything Everythingを手がけたデヴィッド・コステンとの共同プロデュースであるという点。そして二つ目は、本作のタイトルにもある『TFB™️』という“架空の企業”とコラボした“コンセプト・アルバム”という点。確かに、普通に音源をリリースするだけなら延期する必要ないと感じるかもしれないけど、しかしこのスティーヴン・ウィルソンにとってアルバムをリリースする=レコードショップやライブツアーの演出をはじめ、その他諸々のギミックが連動して初めて『TFB™️』というコンセプト・アルバムのプロモーション/コラボ商品展開という、ある種の企画モノでありメディアミックスが成立するんですね(例えるなら、映画『シン・エヴァンゲリオン』とその主題歌を担当する宇多田ヒカルの密接な関係性)。しかし、延期する前よりも今の世界は、中でもイギリスは変異株によりロックダウンが延長となってしまったので、本来意図したプロモーションが実現しなかったのは大変残念ではある。けど、これはもう仕方がないし、今は無事にリリースに至ったことを素直に喜びたい。

インターネット社会が中心となった人々の人生は、もはや政治家の政策による私生活への影響よりも、昨今のトレンドが生まれる最先端の場所である「TikTokでバズったもん勝ち」の世界に変わった。TikTokはティーンエイジャーの若者を中心に人気のSNSで、あのトランプ前大統領とも一悶着あったことでも知られる。何を隠そう、このたびスティーヴン・ウィルソンは自身のTikTokアカウントを取得し、本作のプロモーションの一部としてTikTokを活用する通称“TikTokおじさん”と化したのである。確かに、今の時代の若いミュージシャンにとっては、TikTokをプロモーションツールとして活用することは別に当たり前の事だけど、SWのように50歳を超えたプログレおじさんがTikTokアカウントを取得してはしゃぐ姿とか見た事がないし、もちろん従来のファンは困惑するだろう。実際、SWがTikTokのアカウントを取得した時のリプライには「ごめんSW...俺14才じゃないから」みたいな皮肉の効いたリプがあって笑った。冷静に考えて、50代のプログレおじさんが10代20代で溢れかえったTikTokに我が物顔で入り込んでくる姿を想像しただけで笑える。


それでは、故意に従来のファンを切り捨てに、新規ファンの開拓にTikTokのティーンエイジャーにアプローチしにきたかと言えば決してそうではなくて、そう思う人はそもそもSWという人物を知らなすぎる。彼は、いわゆる60年代〜70年代に流行ったプログレッシブ・ロックの古典的なイメージ、その固定概念をブチ壊すプログレ界の革命児であり、それこそPorcupine Tree時代からインターネットの存在をいち早く認知し、ネット黎明期に流行ったブログや現代のストリーミング時代、そして流行りのポッドキャストにも適応し、最先端の技術とネット社会のトレンドを自らの作品に取り入れてきた先見的なアーティストである。だから「バズったもん勝ち」のTikTokで新作のMVを配信するなどのメインストリームのポップスターさながらのイメージ戦略、古くはドナルド・グローバー“This is America”を皮切りに、今年のスーパーボウルのハーフタイムショーを担当したザ・ウィークエンドの顔面負傷オマージュや“イェンス・ボグレンのマブダチ”こと歌姫テイラー・スウィフトの名曲でもお馴染みの、トランプ前大統領のMake America Great Again発言からの覇権国家アメリカの終焉を示唆する“there goes the last great american dynasty”のカバーからも(この選曲は示唆的)、本作におけるSWって「一体どこぞのメジャーアーティスト様ですか?」みたいに映えるのも事実。事実、前作の『To the Bone』をリリースした際に、ラッパーのデンゼル・カリーも在籍するユニバーサル・ミュージック傘下のCaroline Internationalから“メジャーデビュー”した意味しかないのが本作の『ザー・フューチャー・バイツ』で、確かに従来のファンからは「セレブ気取ってんじゃねぇ!」と総スカン喰らいそうではあるし、このように昨年アメリカで最も売れた世界的なポップスターに迎合する行為については賛否両論の「否」の方が圧倒的に多い事は容易に想像できる。

『TFB™️』のオープニングを飾る#1“UNSELF”は、All hail to love and love is hell the self can only love itselfという歌詞を、うっすらLo-Fi味のあるアコギとピアノで語り弾くシンプルなフォークソングで、SW曰く「本来なら#2“SELF”の中盤にあったパート」をカットしたもので、またテイラー・スウィフトの因縁の相手であるラッパーのカニエ・ウェスト“On Sight”の全く違う音楽ジャンル(唐突に子供達の歌声が入ってくるアレ)が同居する中間部分にインスパイアされたとも語っている。ところでカニエ・ウェスト“On Sight”といえば、思えばSWのSpotifyのプレイリストに入ってた時点で今回のネタ元やヒントを出してくれていたわけなんだけど、そんなラップ界のレジェンドといえば宗教団体の設立を企てたり、先の大統領選では一候補として約6万票を獲得した破天荒なラッパーとしても知られる。つい最近も「ラップは悪魔の音楽だから、今後はゴスペルしか作らない」という問題発言に象徴されるゴスペルアルバム『Jesus is King』を発表した事も記憶に新しい。そのカニエの思想に影響されたのかは知る由もないが、ゴスペル風アレンジの女性コーラスを駆使した#2“SELF”は、「テケテケテケテケ」みたいなミッドテンポのイントロからして、前作の“To the Bone”をフラッシュバックさせる事で、4年前の大統領選とその4年後の大統領選の結果と本作がダイレクトに繋がっている事を暗に示唆する。推測するに総勢12人の子供達によるI Am The Universe!の合唱以降に“UNSELF”のパートが入る予定だったっぽい。どうでもいいけど、その合唱以降の宇宙のワームホールに突っ込んだグリッチノイズみたいなパートは、やくしまるえつこソロの“X次元へようこそ”の中間パートをフラッシュバックさせた。


この曲のMVが色々な意味で面白くて、基本はSWの姿が映し出されるだけのシンプルな内容なのだけど、次第にSWの顔が前アメリカ大統領のドナルド・トランプを皮切りに(その歌詞も4年間ピエロとして演じ切ったポピュリズムの象徴であるトランプを示唆する内容)、米下院の公聴会で聴取されたFacebookのCEOマーク・ザッカーバーグ、新アメリカ大統領のジョー・バイデン、ヒラリー・クリントン、ハリウッド俳優のブラッド・ピッド、スカーレット・ヨハンソン(ブラック・ウィドウ)、ロバート・ダウニー・Jr.(アイアンマン)、ジェイク・ギレンホール(ヴィラン)、クリス・ヘムズワース(マイティ・ソー)、ダニエル・ラドクリフ(ハリーポッター)、アーノルド・シュワルツネッガー(ターミネーター)、トム・クルーズ、ハリソン・フォード、ポール・マッカートニー、デヴィッド・ボウイなど、先の米大統領選で世間を賑わせた新旧アメリカ大統領の他、ハリウッド映画好きなら知らない人はいない豪華俳優陣のメンツに顔を変化させる。つまり、現代は情報のみならず映像までもディープフェイクになるというMVで、もはや軽いホラーというか狂気を漂わせている。しかし、俳優のチョイスが映画『アベンジャーズ』の面々ばかりなのは意味深っちゃ意味深というか、あえてディストピアSF小説的に考察するなら、COVID-19による「6度目の大量絶滅」で人口半減=サノスの指パッチンを示唆している可能性・・・?


もっとも面白いのは、「TFB™️ワールドドミネーションキャンペーン」と題して、ニューヨークのど真ん中にあるタイムズ・スクエアの電光掲示板に、このMVの広告を流すという荒技をやってのけたこと。つまり、ツイッターをはじめとする主要SNSから垢BANされ、アメリカ国民の記憶から完全に抹消されたドナルド・トランプというアメリカ史最大の汚点を、米大統領選の勝敗が喫したこのタイミングで、しかもリベラル民主党地盤のニューヨークのど真ん中に位置するモニターの中でホログラムとして再臨させ、NY市民は元より全米のトラウマを蘇らせるドSなプロモーションを展開している。改めて、このホログラム・トランプ復活のプロモを見ても、もはやリリース延期も全て事前に織り込み済みだったとしか思えないほど、2020年じゃなくて2021年に延期したことでプラスに働いている点があまりにも多すぎる。しかし、ディープフェイクながらあの電光掲示板にトランプの顔面を映し出したのは、恐らく世界でもSWただ一人だし、何より電通がやりそうな俗っぽいプロモーションをSWがやってのけているのが最高の皮肉(皮肉大好き芸人だから梓ヒカリのAV並みに過去最高にビンビンなったわ)。なんだろう、NYにとどまらず未だ世界中で猛威を奮っているコロナ禍を舞台+この映像は完全に『1984』のビッグ・ブラザーが「Watching You!」しているようにしか見えなくて、もはや「これもうゴダールの『アルファヴィル』=スーパー(ゴールデン)シティだろw」とツッコミ不可避のディストピアがリアル世界で成立しちゃってるんですね。ハッ・・・!ま、まさか、これが「世界緊急放送」だった・・・?

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改めて、「インターネット社会の中で進化を遂げる人間の頭脳」をテーマとしている本作。初めにそのテーマを聞いて、最近それに近い音源を聴いた気がした。それこそ、Bring Me the Horizonの最新EPポスト・ヒューマン:サバイバル・ホラーってあったけど、その「ポストヒューマン(人類進化)」って言い換えれば某やりすぎ都市伝説でも、日本が誇るSF作品『攻殻機動隊』でもお馴染みの“トランスヒューマニズム”、すなわちMr.都市伝説のように体内にチップや機械を埋め込んだ人体改造を主とする「人間を超えた存在」を志向する考えである。2020年末に発売された最新ゲーム『サイバーパンク2077』では、登場キャラが脳にチップを埋め込んだり、身体の一部をメカで人体改造するのが当たり前となった架空の近未来都市を舞台としていた。無論、今は2021年なのでそんな改造人間は恐らくどこにも存在していない。しかし、インターネットの存在はトランスヒューマニズム界のブレイクスルーという点において必要不可欠であり、更なる高速通信機能を可能とする5Gの登場を皮切りに、コロナ禍におけるキャッシュレス化の推進、AI技術の進歩、リモートワークの推進、GAFAによるネット支配、デジタル通貨の発展(テスラCEO=イーロン・マスクが某仮想通貨を15億ドル購入)、それらのアナログから完全デジタルへの移行は“新生活様式”という名のトランスヒューマニズムおよびスーパー(ゴールデン)シティを実現させる上において必須事項なんですね。そして、今まさに「デジタルヒューマン」なる存在が誕生しようとしている現代、そのポストヒューマン(人類進化)を半ば強制的に促しているのがCOVID-19なる未知のウイルスという皮肉で、結局それこそが「ウイルス進化論」の本質へと繋がっていく話なのかもしれない。事実、過去の歴史を見ても、5度の大量絶滅を経て現在まで命を繋いできた地球上の生命体、そして我々人類が今まさに直面しているのが「6度目の大量絶滅」の危機である。しかし、人類は幾度となく「種」の絶滅を乗り越えては進化し続け、今なお地球温暖化や食糧危機などの様々な環境問題に適応してきた不屈の生命力がある。

先の米大統領選を象徴する「アメリカの分断」をトリガーとして引き起こされたのが「世界の二極化」だった。コロナ禍において、人々の暮らし、生活も、経済活動も、働き方も、社会面においても、スピリチュアル界においても、あらゆる分野において「二極化」が進む時代と囁かれる昨今、例えば経済面ではコロナ対策が成功した国ではバブルが起こるし(会社単位でも航空会社は合併不可避=『ANAL』だが一方でソニーや任天堂などのゲーム業界は過去最高利益)、逆に日本のようにコロナ対策に失敗した国はバブル並みの株価と賃金低下が叫ばれる実体経済との乖離、それは目に見えた超格差社会と資本主義社会の終焉を目の当たりにしている事に変わりなかった。もちろん、SWも「最近の人々は政治でも、音楽でも、映画でも、白黒ハッキリさせたい病にかかっている」と「世界の二極化」に警鐘を鳴らす人物の一人だ。これはどちらか一方が絶対正義で、どちらか一方が絶対悪であるという先の大統領選にも繋がってくる話で、例えば人々がありもしない陰謀論にのめり込んでしまうパターンの一つとしてあるのが、youtubeで陰毛論関連の動画を一度でも見てしまうと、著しく進歩したAIのアルゴリズムによってその嗜好を分析し、その今後も似たような陰毛動画がおすすめ動画としてトップページに表示され続け、その偏った情報を「自分にとって都合のいい真実」として薬物依存症のように摂取し、そして最終的に不正選挙を訴えていた自身が不正投票してしまう悲惨な陰毛論者が出来上がるという図式だ。本作の『TFB™️』は、そのようにインターネットが二極化した新しい世代を生み出している考えから着想を得たとSWは語っている。皮肉もCOVID-19の存在は、世界の虚構と人類の『悪』を炙り出してしまったのだ。

「ポストヒューマン(人類進化)」というコンセプトのみならず、実は音楽的な面でもBMTHの最新EPポストヒューマンSW『TFB™️』には大きな共通点がある。これまでBMTHはフロントマンのオリヴァー・サイクスとジョーダン・フィッシュが主なサウンドを作ってきたが、そのEPではオリィ曰くベセスダゲー『DOOM Eternal』のサントラを手がけているミック・ゴードンをサウンドプロデューサーとして迎えることで、サイバー・インダストリアルでフューチャリスティックなプロダクションを実現させたと語っており、事実メタルにはないエレクトロ・ミュージックならではのリズムが際立った、まさにサイバーパンクな近未来サウンドを展開していた。俄然面白いのは、そのEPで日本のベビメタとコラボした“キングスレイヤー”の一つ前の曲に“Itch for the Cure (When Will We Be Free?)”という、過去にSWPendulumとコラボした曲のオマージュにしか聴こえない曲もあるし、何かを発言するたびに炎上するBMTHのオリヴァー・サイクスと、つい最近亡くなったエディ・ヴァン・ヘイレンについて「僕はヴァン・ヘイレンには影響されなかった」という類の発言が大手HR/HMメディアや息子のウルフギャング・ヴァン・ヘイレンに取り上げられるも、メタラーからWho Are You?(誰お前?)と軽くあしらわれて炎上すらしなかったSWは、紙媒体ではなくインターネット上の発言から拡散される現代のエア炎上芸人としても大きな共通点がある(後日、誤解を与える発言の詫びを入れた模様)。そんな冗談はさておき、少なからずメインストリームのポップスやラップからの著しい影響という点では近しいものがあるのは確か。

SW『TFB™️』でやろうとしている事も、ある意味では一緒と言える。もはやロックですらないし、前作のようなポップスとして解釈するにも難解だし、(ましてやプログレ要素なんて皆無の)強いて言うならエレクトロニカ〜エンダストリアルの一種で、それこそインターネット中心のデジタル社会の進化そのコンセプトと共振するように、それを意図して共同プロデュースに迎られたデヴィッド・コステンのサウンドワークが際立っている(BMTHにとってのミック・ゴードンSWにとってのデヴィッド・コステンというわけ)。事実、過去作を比較対象に名前を挙げようにも正直どれもシックリこない。強いて言うならメジャーデビューした前作の『To the Bone』だけど、それでも『TFB™️』PT時代を含めた過去の作品とは一線を画した、根本的な部分で大きな違いがある。何故なら、SWなりのメインストリームのポップスだった前作ですら70年代〜80年代のハードロックやプログレッシブ・ポップのオマージュをはじめ、ポップスと言えどあくまでプログレ〜ロック畑のミュージシャンによる音楽のそれで、それらのオマージュ含めてドラマティックな曲構成やSWらしいメロディは元よりギターソロ・アレンジまで、従来の既存ファンにも十分理解できる範囲内のキャッチーと呼べる作風だった(もはやポップスでありメタルみたいな)。しかし、今作はロックやポップスの概念を抜本的に見直したような、未来志向の音楽とでも形容すべきか、本当の意味で音楽のジャンルを超越した=ダイバーシティ化したSWサウンドを展開している。


そのジャンルレスでジェンダーレスな全く新しいSWサウンドを象徴するのが、ファンが制作したNine Inch Nailsとのマッシュアップが話題を呼んだリードシングルの“PERSONAL SHOPPER”だ。このタイトルはSWも年間BESTに挙げていたクリステン・スチュワート主演のホラー映画『パーソナル・ショッパー』から拝借したもので(主人公の職業がセレブの買い物代行という前衛的ホラー映画)、SW曰く歌詞には現代の消費主義への皮肉と自身の買い物大好き愛が込められている。約10分近い曲で、本来(プログレ)の彼が持つイメージならばSWの長尺=ゴリゴリのプログレと断定できるけど、この曲ではプログレとは無縁の70年代から80年代にかけて流行ったディスコミュージック的なダンサブルなサウンドと共に電子的なエレクトロビーツを刻んでいく。この“PERSONAL SHOPPER”からも分かるように、実は『TFB™️』ってPorcupine TreeSWソロの過去作品よりもサイドプロジェクトの一つであるNo-Manを彷彿とさせる場面が多々あって、それこそタイトルの『The Future Bites』と聞いて真っ先に思い出されるのは、2019年にNo-Manが発表した『Love You To Bites』だろう。何を隠そう、そのアルバムの中でSWとポッドキャスト仲間のティム・ボウネスがやってた音楽こそ、この『TFB™️』にも通じるディスコ味溢れるエレクトロミュージックに他ならなかった(ミラーボールのアートワークも)。少なからずこの『TFB™️』は、その『Love You To Bites』に内在する“ディスコ・ミュージック”の流れを汲んだ作品であることは確かだ。しかし、これは全てSWが子供の頃に母親が聴いていた“ディスコの女王”ことドナ・サマーが起源であるとする説が有力。しかしながら、このタイミングでインターネットの普及とともに人々の買い物文化を一変させた、文字通りの“買い物王”ことアマゾンCEOのジェフ・ベゾスが退任を発表したのは何とも示唆的。

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ちなみに、この曲ではSWがリスペクトするエルトン・ジョン、そしてSWの妻であるローテム・ウィルソンがボイスとして参加しており(MVは『ジョジョリオン』の等価交換っぽい)、「(エルトン型の)サングラス」「ホワイトニング」「デラックスエディションボックスセット」「火山石鹸」「アンチエイジングクリーム」「マルチビタミンサプリメント」「ノイズキャンセリングヘッドホン」「デザイナーシューズ」「ダイアモンド」「デトックスドリンク」「スマートウォッチ」「有機ELテレビ」「フィットネスクラブメンバーシップ」「つけまつ毛」など、一部では実際に『TFB™️』が商品展開している商品名を読み上げ、もはや実際に売り出されているイギリス人ジョーク全開のウイルス対策マスクやサプリメントの他に、今にも『TFB™️』製のワクチンでも売り出すんじゃねぇかぐらいの勢いを前にした僕は、こうツッコまざるを得なかった→→→

「オメーは音楽界のビル・ゲイツかよ!w」

そのディスコミュージックやカニエ・ウェストからの影響をはじめ、要するに本作は「SWなりのゴスペル・アルバム」なんですね。それを象徴する5曲目の“EMINENT SLEAZE”は、Me, I’m a bona ride reptileという冒頭の歌詞を都市伝説的に解釈するとSW自身が爬虫類人=レプティリアンである事を暗に示唆する曲で(w)、野太くダーティに主張するベースをはじめ、ゴスペルならではのクラップやコーラス、プログレ的なソロワークや扇情的なストリングス、そして鍵盤奏者のアダム・ホルツマンや変態チャップマンスティックのニック・ベッグスらのいつメン=SWバンド中心のファンキーでグルーヴィなサウンドを展開する。


このMVに至っては、何かの物資を片手に、まるで「運び屋(サム)」に扮するSWと無機質なシェルター的な施設やフューチャリスティックな世界観が、(東京五輪の中止を予言した(カニエ・ウェストも大好きな)『AKIRA』のように)コロナ禍の世界を予言したとされる小島秀夫監督の最新ゲーム『デス・ストランディング』そのものであるということ。実は『デススト』もアメリカの分断を描いた近未来的なディストピア作品、その世界の「分断」の発端とも呼べるイギリスのEU離脱=ブレグジットの当事者であるSWは自然と共振する部分が生まれる(もちろん、SWトム・ヨークと同じようにブレグジットに対する反対声明を出している)。また『デススト』を構築するギミックの一つであるインターネット(カイラル通信)を駆使したリモートワーク/ホログラム通信、それはインターネットがコロナ禍にもたらした人と人の「つながり」を予見していた。SWSWで90年代に人気が落ちた時期に、ネット上の口コミやファンのサポートがなければ21世紀にプロのミュージシャンとして成功していなかったと言わしめるほど、以後インターネットの存在は彼の人生において切っても切れない関係となっていた。昔はアンダーグラウンドの存在だった小島監督は(SNSを介して)世界の命運を握るサノスもといイーロン・マスクと繋がったり、方やSWは新作を発表するたびに本国のみならず欧州各国のチャートを賑わせる今やセレブ気取りのポップスターとして(イェンスのマブダチは実質俺のマブダチみたいなw)、かつてテレビやラジオでも見たことも聞いたこともなかった二人が、今や世界的なファンベースを獲得するメインストリームの存在となっている面白さ。そんなインディーズとメインストリーム(メジャー)の狭間をフレキシブルに揺れ動く奇妙な立ち位置的な意味でも、その革新的な発想はゲーム業界と音楽業界で活躍する場は違えどそれは同じだ。もちろん、小島監督の『DS』SW『TFB™️』もパンデミック以前に制作されたもので、しかし互いにコロナ禍において人々が規則化された新しい生活様式を予見したような作品となったのは果たして偶然だろうか?奇しくも『DS』とコラボしたBMTH(オリヴァー・サイクス)のEPポストヒューマンSW『TFB™️』、そして小島監督が“デジタルヒューマン”としてカメオ出演した『サイバーパンク2077』、それらの作品のコンセプトが「トランスヒューマニズム」ないしは近未来を予見する内容となったのは果たして本当に偶然だろうか?流石にここまでくると「偶然」ではなく「必然」ですね(ちなみに、『サイバーパンク2077』のサントラにはTomb MoldConvergeが参加している)。あと細かい共通点を挙げるとするなら、PC版『DS』のパブリッシャーはSWがサントラを手がけたインディーゲーム『The Last Day of June』と同じ「505 Games」である点、またSWがコロナ禍で始めたポッドキャストもコナミ時代に小島監督がやってたポッドキャストの『ヒデラジ』とダブる。それらの【アメリカ】【大統領選】【イギリス】【分断】【ブレグジット】【二極化】【インターネット】【デジタル社会の先見性】【BMTH】【トランスヒューマニズム】【ビッグ・ブラザー】【ポッドキャスト】【メガネ】【HELL】などの共通点からも分かるように、もはや今作に関するSWのインタビューの内容は『デススト』における小島秀夫なんじゃねーかみたいな感じのことを語ってて俄然同一人物説が濃厚になった。なんだろう、やっぱり天才同士で通じる部分があるんだなって。もう色々な意味で完全究極体伏線回収をやってのけてて、昔っからSW=小島秀夫と言い続けている自分としては、本人たちがそれを証明してくれた事に今はもう何も言えねぇし感無量。ガチでそろそろコラボあるぞこれ・・・って、もう既にコラボしてるようなもんかw

SW曰く現代はソーシャルメディアが自分自身を映す鏡であると、つまりスマホの中に実在するもう一人の自分=SELF、スマホの中に実在する偽りの自分=UNSELFであると語る。古代に星を見上げていた人類は、今やスマホの中でどれだけ「いいね!」やコメントを稼げるかに人生の大半を費やしている事に、(先ほどの“PERSONAL SHOPPER”の世界観にも通じる)生活に必要なものではなく、自らの地位やその物を所有しているステータスのために、それこそインスタ映えするものをネットで買う現代の承認欲求型消費社会に対する、TikTokデビューしたばかりの“TikTokおじさん”なりの皮肉が込められた#8“FOLLOWER”は、「ちんこちんこ」に空耳する冒頭のSEを皮切りに(ちんこだけに)、本作の中では最もロックらしいギターのエッジとビートを刻みながら、まるで気分は“新世代のナルシスト”もといインフルエンサーとばかりにFollow Me!! Follow Me!!(フォローしてよ!フォローしてよ!)と歌う。またSWは「種」として、その結果は果たして正しい事なのかと疑問を呈している。


アニメ仕様のMVが俄然『DS』をフラッシュバックさせる#3“KING GHOST”は、前作でいうところの“Song of I”を彷彿とさせる打ち込みと古き良きNo-Man風のミニマルなシンセを効かせたアンビエント・ポップで、この曲におけるSWトムヨークのモノマネボイスや女性的なファルセットボイスを披露している(この曲にはThe Cureのドラマーであるジェイソン・クーパーがパーカッションで参加)。一転して、Mystery Jetsがコーラスとして参加している#4“12 THINGS I FORGOT”では、サイドプロジェクトであるBlackfield風の夏ソング的なアコースティックなポップロックを展開。まさに古代人のように夜の星空を見上げたくなる幻想的なイメージを映し出す#6“MAN OF THE PEOPLE”は、SW曰く女性視点で書いた曲で、女性歌手とデュエットすることをイメージした曲とのことで(ちなみに、SWラナ・デル・レイとデュエットしたいらしい)、(Ulver『惡の華』じゃないけど)大袈裟に言って「SWなりのトラップ」的なハイハットのビートとギターのミニマルなリフレイン、倦怠感のあるドリーミーな世界観がほんのりPhantogramを彷彿とさせる。そしてアルバムのラストを飾る#9“COUNT OF UNEASE”は、SW曰くパンデミックの影響がなければアルバムに含まれていなかった曲で、前作でいうところの“Song Of Unborn”を彷彿とさせる、最近のSW作品らしいアンビエント的なバラードナンバーで、クリスマスソングみたいなジングルベル風の効果音を駆使した祝祭風のアレンジで終始センチメンタルな雰囲気が続く。

確かに、これまで以上にファンを突き放しにきてる内容だけど、それはいつものSWなんで特に驚くことでもないし(自分でも聴衆に迎合するミュージシャンではないと言っている)、なんだかんだでレディヘ〜トム・ヨークやピンク・フロイドへのリスペクトを軸としながら、各パートの歌メロやギターのソロ〜フレーズやコーラスをはじめ、要所要所ではSWらしい音使いも感じさせなくはない。しかしそれ以上に特定のジャンルに縛られない、オーガニックな生音というよりは第一に『TFB™️』という近未来的なコンセプトありきの電脳的なアレンジが中心の作品なのは確か。だから本作をコンセプトを加味した上で評価するなら100点だけど、純粋に音楽だけを切り取って評価する場合は50点にも満たないかもしれない。何度も言うけど本当にコンセプトありきなコンセプト・アルバムだから、音楽的な部分よりも歌姫テイラー・スウィフトのカバーやテイラーの宿敵カニエ・ウェスト=「ラップ」からのインスパイヤをはじめとするポップスターネタ、『『『『『アベンジャーズ』』』』』、そして今世紀最大の皮肉となったタイムズ・スクエアの電光掲示板に“ホログラム・トランプ”という名の“ビッグ・ブラザー”を再臨させる『TFB™️』ありきのプロモーションや陰毛論などの“ガワ”の部分の方が面白いのも事実。事実、エルトン・ジョンをはじめ本作に(間接的にでも)登場(あるいは示唆)するメンツがことごとく意味深過ぎて笑ってしまう(最終的にはレプティリアンも出てきちゃうしw)(←ただの陰毛論者)。

以前SNSで流行った性転換アプリじゃないけど、性別も年齢すらもわからない、もはや実在する人物なのかすらわからないディープフェイクあるいはデジタルヒューマン、益々『真実』という言葉の曖昧さが加速する第二次ポスト・トゥルース時代をメタするかのような(シングルを含めた)アートワークに至るところまで、まるで森元のジェンダー差別発言の真逆を皮肉るような真の多様性、真のダイバーシティ時代の幕開けを宣言するかのような、そしてイギリス人であるスティーブン・ウィルソンらしい皮肉に満ち溢れた作品がこの『TFB™️』である。あえて考察するなら、本作がPTやソロ作よりもNo-Manの系譜にある理由として、(本来の意味じゃないと思うけど)MAN(男)をNO(否定)する、つまりNo-Manという「男性性の否定」とSWの母親が好きだったドナ・サマーのディスコ・ミュージック=女性的な音楽からの影響という点でも、本作の『TFB™️』SWの中にある「女性性=フェミニズム」が浮き彫りとなった、言うなればゴリゴリの“left-field music”である。それこそUlver『惡の華』やトランスジェンダーのハンター・ヘンドリックス率いるLiturgyの最新作を筆頭に、全ての音楽ジャンルの中でも特に保守的なイメージを持つメタルシーンこそ今最もダイバーシティ(多様性)が進んでいる音楽ジャンルなんじゃねぇか説あって、そのジェンダーフリーの流れを総括したのが『TFB™️』におけるSWというオチ。もはや森友発言すらも「計画の一部」だったと言われても納得しちゃうほど、全ての出来事がこのアルバム・コンセプトを真正面から肯定するための「駒」として動いているとしか思えなかった。

そして、色々な意味で『To the Bone』のレビューに書いた伏線回収がものの見事に回収された事に、改めてミュージシャンやクリエイター側が伏線回収に行動してくれた事に、今はただ感謝の気持ちで一杯です。昨年から(厳密に言えばもっと前から)続く小島秀夫監督の『デス・ストランディング』からBMTHポストヒューマン、そしてSW『TFB™️』から東京五輪〜大阪万博における荒木飛呂彦までの繋がりと伏線回収(言わずもがなジョジョとスネークのルーツはイギリス)、これもう【日本の俺ィ】兼【ラジオネーム:スティーヴン・ウィルソン】であり小島秀夫と荒木飛呂彦の間に生まれた子供である俺ィに対する匂わせを超えた私信としか思えない・・・これもう実質「シン・薩英同盟」だろw この勢いのままチンカス長州勢に乗っ取られた日本のドクサレ政権をぶっ潰そう!w

しっかし、前作の国内盤リリース元だった某レーベルが夜逃げして本作の国内盤リリース未定なのを知ってか知らずか、(謎の日本語デザインを売りとする)ヴァイナル専門のAssai Recordsとコラボして実質日本(語)盤を用意してくれるとか、どんだけいい奴なんだSW・・・よ〜し!こうなったら「シン・薩英同盟」の締結を祝して、666代目薩摩藩主の僕が日本国民に対する『TFB™️』製のワクチン接種を許可する!(中身はアストラゼネカw)

Bring Me The Horizon 『アモ』

Artist Bring Me The Horizon
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Album 『amo』
BMTH-amo

Tracklist
01. I Apologise If You Feel Something
02. Mantra
03. Nihilist Blues (featuring Grimes)
04. In the Dark
05. Wonderful Life (featuring Dani Filth)
06. Ouch
08. Sugar Honey Ice & Tea
09. Why You Gotta Kick Me When I'm Down?
10. Fresh Bruises
12. Heavy Metal (featuring Rahzel)
13. I Don't Know What To Say

???「だから言ったっしょ?」

「メタルとヒップホップとK-POP、全ては“繋”がってるんだよね」
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・・・という、トンデモねぇ陰毛論ネタを駆使した出オチっぷりがハンパない始まり方が全てで、一体全体それは何故かっつーことを、今からちょっくら書いてくわ。っとその前に・・・BMTHのアー写見るたびに毎回ギターのデブがJanne Da Arckiyoちゃんに見えてしょうがないのと、今回のアー写もメタリカTの人殺めてそうなサイコパスヤク中デブみたいな感じホントすき。あとちびまる子ちゃんのブー太郎にも似てんなって。

  • 『デンゼル・カリーは“メタル”』
まず、昨年末の最後に書いたBTSの記事の中で書いたのは、近頃のロック・ミュージシャンが口々に言うのはいま世界で一番ロックしてるのはラップ/ヒップ・ホップであるというようなニュアンスで、実のところ僕がその例として挙げた言葉を引用させてもらった人物こそ、他ならぬBMTHのフロントマンオリヴァー・サイクスだった。昨年、そのオリィの問題?発言を収めたインタビューがWEBに公開されるやいなや、案の定ガチメタラーを中心に大量のBMTHアンチからボコボコに叩かれて大炎上したことが記憶に新しいよね。そのインタビューの中でオリィは、要約すると最近のロック/メタルはクソであると、同時に今の時代「“いい音楽”“メインストリーム”=“ポップス”“ヒップ・ホップ”にある」と語っているんだよね。つまり、ラップこそ新しいロックでありパンクだと。

普通なら、自分も他のガチメタラーに同調してオリィの問題発言を叩くべきなのかもしれない。しかし、今の自分にはオリィの発言が正論にしか思えなかった。何故なら、僕もオリィと全く同じ意見を持ち始めていたからだ。それもつい最近。もっと言えば、昨年末のBTSからのデンゼル・カリー、そしてSadistikのトラップ三連発は、まさにこの“伏線”だったとしか思えなかった。つまり、オリィの言う“いい音楽”がある“メインストリーム=ポップス”のド真ん中をブチ抜いている「BTSはメタル」であると、そして自称“ブラック・メタル・テロリスト”デンゼル・カリー“メタル”なんだよね。



まさかそのデンゼル・カリーがヒップ・ホップ側の人間を代表して、まるでオリィの“ヒップ・ホップはメタル”発言に対する直接的な回答、その伏線回収をRATMのカバーという形で提示してくれたのは感謝しかなくて、これこそ本当の意味で“メタルとヒップ・ホップ”の邂逅なんだよね。とにかく、もう数十年前からロックは死んだ”状態のままの時代に、オリィは「ロックに興味がない人にロックを好きになるキッカケとなるバンドになりたい」と語っていて(なお、この発言も炎上)、それこそ今の時代に“ヒップ・ホップが一番メタル”だと“知っている人”ならではの発想、考え方であり、まさにそのオリィが感じている今のクソみたいなロック/メタルシーンに対する怒りと反骨心(パンク精神)によって生まれたアルバムが今作の『アダモちゃん』もとい『アモ』だ。ちなみに、この『アモ(amo)』とはポルトガル語で『愛(LOVE)』を意味しているんだよね。

  • 『グライムスという“ポップ・アイコン”』
オリィは、ヒップ・ホップが最先端のロック・ミュージックであると説くと同時に、今の世の中の“いい曲”はメインストリーム・チャートにあると断言している。今やテスラCEOことイーロン・マスクのパートナーであり、現代のポップスのアイコンであるグライムスとのコラボが何よりの証拠だ。そんなグライムスは、つい最近新曲の“We Apperciate Power”という同郷のThe Birthday Massacreや自身も影響を公言しているNine Inch Nails風のサイバーパンク/インダストリアル・ロックを発表していて、今回BMTHグライムスとコラボしたセカオワの“YOKOHAMA blues”ならぬ“Nihilist Blues”は、そのインダストリーかつ無機的な雰囲気を踏襲した、もはやグライムスそっちのけでダフト・パンクチャーチズana_themaが宇宙の果てでスティーヴン・ホーキング博士と出会ってヨロピクしちゃったような、ユーロビート感マシマシのパリピなアゲポヨ・ダンス・チューンとなっている。


その“Hip-Hop”“EDM”は、今やR &Bと並んでストリーミングを中心に世界の音楽市場を牛耳っている二大音楽ジャンルで、その世界的に音楽の二大トレンドであるヒップ・ホップとEDMを積極的に取り入れ、そしてビルボードをはじめとしたメインストリーム・チャートにランクインするような“最先端のポップス”へとブチ上げることに成功したのが“K-POP”だ。ご存知、グライムスといえば先ほどの新曲をリリースする一方で、2017年にK-POPアイドルの今月の少女ことLOONAともコラボ作品を発表している。何を隠そう、そのLOONAの新曲“Butterfly”こそBMTH『アモ』を紐解く重要なカギを握っているんじゃねえか説だ。この“Butterfly”は、まさに姉貴分であるグライムス譲りのエレクトロ・ポップから“世界”=“メインストリーム”を予感させる最先端のEDMまでも巧みに昇華した、それこそチャーチズともコラボしている世界的なDJマシュメロもビックリの2019年最高峰のポップスだったよね。この『アモ』は、そんなグライムスが内包するエレクトロなポップネスだったり、あるいはK-POPが内包するEDMなどのメインストリームの世界で通用する要素を大胆に取り入れた、言うなれば初期の頃から唯一無二の前衛性を伴いながら進化し続けてきた彼らの“終着点”とも呼べる、BMTH史上最も“実験性”に富んだ作品なんだよね。

  • 『メシュガーはポップス』
BMTHオリィと同じように、“今のメタルは古臭い・・・w”と発言してガチメタラーは元より今をときめく気鋭のメタルレーベルことHoly Roarの社長に手紙でガチ説教されるという前代未聞の大炎上芸をカマしたのが、他ならぬBMTHの元レーベルメイトでもあるBFMVの筋肉ダルビッシュもとい筋肉ダルマットで、その社長の手紙の中にはBMTHを引き合いに出してBFMVをディスっていたのがまた笑いに拍車をかけていたのも事実。とまあ、そんな炎上話はさて置き・・・その筋肉ダルマとオリィが口を揃えて“今のメタルはクソだ”と言うのは果たして本当なのか?確かに、某国某B!のメタルメディアから一方的に“メタル暗黒時代”の烙印を押されながらも、その実情は長きにわたるメタル史の中でも屈指の面白さを誇っていた“90年代”はまだしも、00年代からこの10年代にかけてのメタルシーンで生まれた“新しい音”を挙げるとなると、しいて言えば“メシュガーの音”ただそれだけなのかもしれない。この“メシュガーの音”というのは、その名の通りスウェーデン出身のメシュガーがその音をメタルシーンの中で確立し時代の“トレンド”となるやいなや、それは後にDjentなるメタルのサブジャンルを産み落とし、10年代のシーンを微力ながら活気づけ、最近ではUSのデブ豚ことDeftonesガニキの音をオルタナティブ・ヘヴィの解釈で自らの音に持ち込んだ『Diamond Eyes』『恋の予感』、それと同じくして同郷のKATATONIA『Night Is the New Day』という傑作を生み出したのは今でも記憶に新しいよね。


シンフォブラ界の“アイコン”であるダニ・フィルスをここまで“おもちゃ”にしても許されるバンドって、間違いなく世界でもコイツらしかいないです。昨年このMVが公開された時は「ま〜た炎上するのか・・・」って思ったんだけど、それはもとより重要なのはファニーなMVじゃなくてこの楽曲の方だ。それこそ00年代以降のメタルの“トレンド”となったガニキのサウンド・スタイルを、10年代も終わりを告げようとしている暦の締めくくりに、ガニキ特有のヘヴィネスとガニキ特有のリズムをメインストリームの“ポップス”に落とし込む大馬鹿野郎が現れるなんて一体誰が想像した?要するに、BMTHは“メインストリーム”の対極に位置する“メタル”という“アンダーグランド”のヘヴィネスを“ポップス”にブチ上げちゃってるんですね。恐らく、ガニキの音をアンダーグランドからメジャーにブチ上げた最初で最後のバンドになるんじゃあないか(某メイドも?w)。それくらい“やることやってる感”がハンパないというか、“今のロックはクソだ”というオリィ言葉に裏打ちされた炎上上等の説得力ったらない。あのレジェンドガニキの音すらいとも容易く“ポップス”に変えてしまうあたり、ソニー・ミュージック(RCA)に切り捨てられたBFMVとは対照的に、冷静に考えてコイツらガチの天才です。もはや天才を超えた別のナニカです。むしろ才能しかない。

  • 『ヘヴィ・メタル=ヒップ・ホップ』
そのポップスと並んで・・・いや、今やそのポップス以上に世界のメインストリーム・チャートを圧巻しているのがヒップ・ホップだよね。俺が昨年末に書いたBTS→デンゼル・カリ→Sadistikまでのいわゆる“トラップ祭り”は、その“時代”の流れ=“引力”的なものに釣られて“書かされた”ものであると同時に、このBMTH『アモ』に対する“伏線”となっていたことを、あの日の僕たちはまだ知らないんだよね。そんな中、オリィの執拗なまでのヒップ・ホップに対する“愛”という名の“コンプレックス”の裏返しは、9曲目のWhy You Gotta Kick Me When I'm Down?という曲で遂に爆発してしまう。

それこそ昨年末のBTS→デンゼル・カリ→Sadistikまでのトラップ祭りという伏線の答えがこの曲で、この曲ではオリィのダーティなラップを皮切りに、トラックまでもいわゆる“トラップ・ラップ”をルーツとするヒップ・ホップを披露している。何が凄いって、初っ端のオリィのラップのメロからしてSadistikコディにしか聴こえなくて軽く泣いたのと、まるで“ブラックメタル・テロリスト”が乗り移ったかのような、しかし初期のようにハードコアに咆哮するのではなく、ハードコアはハードコアでも初期の叫び声から本場の黒人ラッパー顔負けに激しく吐き散らすタイプのハードコア・ラップに“変化”しており、この“叫び方”の違いは彼らが歩んできた音楽遍歴の進化を象徴するかのようであると同時に、それは今作の真髄的な部分にも直接的に“繋”がっている。言ったら、これもう『タブー』だよね。こいつらメタル界が唯一の“禁忌”としているはずの『タブー』を犯しちゃってるんだよね。そう、彼らはもう既にパンドラの箱を開いてしまっているんだよね。しかも挙げ句の果てには、Heavy Metal”という名前を冠する曲でヒューマンビートボックス界の神で知られるラゼールとコラボするという二度目,三度目の禁忌=タブーを犯しているんだよね。またもや初期厨とガチメタラーがブチギレ炎上不可避の案件で、もはや一周回って笑ったというか、でもこれがオリィの考える“ヘヴィ・メタル=ヒップ・ホップ”に対する“答え”なんだなって。オリィにとって、これが“メタルの未来”であり真のメタルの精神なんだなって。だからこの『アモ』は、メタルやロックを聴いている時の感覚よりもヒップ・ホップを聴いている時の感覚に近いんだよね。例えば、4曲目のアレンジもSadistik『Flowers for My Father』を彷彿とさせるくらいには“ヒップ・ホップ側”にルーツがあるよね。オリィもインタビューで「ディスられなきゃ“いい曲”は作れない」と発言しているけど、まさにそのとおりで、実際にそれを有言実行するオリィマジかっけえ(なお炎上)。

  • 『ロリペドクソ野郎の後継者』
ここまでオリィの考える“ロックという名のヒップホップ”あるいは“ヒップホップという名のロック”をこれでもかと、クソッタレのロックシーンに『Am(m)o』という名の弾丸を撃ち込むッ!かのごとく、アルバム後半の流れはほぼほぼヒップ・ホップかと思いきや、ところがどっこい今作のハイライトを飾る“Mother Tongue”という曲で、いわゆる“ロリペドクソ野郎”が起こした某事件のせいでロックシーンの天下を取り損ねたロストプロフェッツの後継者を襲名し、今度はkiyo似のデブがやらかすフラグをビンビンにおっ立てる(おい)。正直ここで泣いたもんマジで。今現在も刑務所で( ˘ω˘ ) スヤァ...状態のロリペドクソ野郎への鎮魂歌(レクイエム)をここで、このロックの歴史を変える金字塔となりうる『アモ』でそれをやってのけるオリィの漢気に泣いたもんホント。もはやサビのamoエーーーモーーーー!に空耳するぐらいエモいし、もう自分にはロリペドクソ野郎がステージ上でいつしか夢見ていたであろうロックの未来、そして現在のロックの希望を背負ったオリィが一緒になってシンガロングしているようにしか聴こえなかった。そしてロストプロフェッツ亡き今、ロック界の“アイコン”が不在の状態で、一体誰が今後のロックシーンを引っ張っていくのか?そのロックの未来を背負っていくというBMTHの力強い意思と炎上覚悟のガチメタラー煽りに僕は涙した(はい炎上)。



その曲のストリングスやキラキラしたシンセの鳴らし方が星野源宇多田ヒカルばりのJ-POPという話はさて置き、同じくリード曲の“Mantra”“Medicine”のようなロック系の曲にも似たようなことが言えるのだけど、中でも筆頭すべきは“Medicine”で、それこそ“ロックが死んだ時代”における“ギターの居場所”を提供しつつ、そしてチャーチズ的なエレクトロやBメロのTrap的なリズム、そのチャーチズとコラボしたマシュメロ宇多田ヒカルとコラボしたスクリレックスIZ*ONEとコラボしたジョナス・ブルーをはじめとしたトラップ使いのDJを連想させる、まさにメインストリーム・チャートのド真ん中をブチ抜くヤ〜ウェイ宇宙人の親戚的なアレンジ・・・まず、これを聴いて何を思い出したかって、他ならぬBTS“FAKE LOVE”だったんだよね。なんだろう、ロック系の曲に限ってことごとくDJをはじめそれらの“メインストリーム”を経由した“ポップス”を象徴するアレンジが、ほぼほぼK-POPを聴いてるような錯覚を憶えるというか、アルバム聴いてても途中で「あれ?俺って今Kポ聴いてたっけ?」みたいな気分になるんだよね。これもう“BTSはメタル”というメタル側からの実質的な回答ですね。つまり、“いい曲”のある“メインストリーム”=“ポップス”のアレンジを積極的に取り込んでいるK-POPと全く同じ要領で、それこそ初めにLOONA“Butterfly”が今作のカギを握っていると言った理由は全てこれらの“伏線”だったんだよね。もちろん、その“Butterfly”にトラップ的なアプローチがないわけではないよね。だから言ったっしょ?“メタル”“ヒップ・ホップ”“K-POP”、全部全部全部ぜーーーーーーーーーんぶ、“繋”がってるんだよね。そして、オリィはやっぱり今の時代“ポップスが1番面白い”ってことを“知ってる人”なんだということ。

  • 『Post-Progressiveの未来』
EDMからヒップ・ホップからポップスまで、あらゆる“メインストリーム”のジャンルを“自分たちのサッカー”ならぬ“自分たちのロック”に落とし込むという、ある種の衝動にも近い実験的な前衛性、しかしその“実験的”なアプローチは一体どこからやってきたものなのか?そこで、僕が注目したのはPost-系という隠し味の存在だった。

今作は1曲目からティキティキニカニカなエレクトロとストリングスというまさにPost-系の常套手段を応用し、グライムスを迎えた3曲目のダンサブルなアプローチはもとより、4曲目のIn the Darkはもはやヒップ・ホップとアート・ロックの邂逅と呼べる曲だし、6曲目のOuchに至ってはUKの65daysofstaticスティーヴン・ウィルソンとのコラボでも知られるPendulumを連想させる。中でも筆頭すべきは、10曲目のFresh Bruises”というブレイクビート的な打ち込みナンバーで、このRadioheadの影響下にあるアンビエント的な音響効果を伴うATMSフィールドは、それこそ“ana_themaEDMを取り入れた“Distant Satellites”の実験性を更にワンランク上へとアップデイトさせた”と表現した方がシックリくる。つまり、今作には隠し味としてPost-Progressive”というUK発祥のアンダーグラウンド・ミュージックの“実験性”を隠し味として持ち込んでいて、そういった面でも俄然今作は2000年以降のアンダーグラウンドからメインストリームまでのUKロックを総括するという重要な役割を果たしている。また、今作は『amo』=“愛”をテーマとしている点でも、いわゆる“Love & Peace”を信条に掲げる秘密結社Kscopeと俄然韻を踏める要素で(同じソニー系列という点でも)、要するにこれもう“新世代のPost-Progressive”、すなわち“Post-Progressiveの未来”なんだよね。

アルバムのラストを飾るDon't Know What To Say”も意味深な存在としてあって、まるでニーチェが提唱する“ニヒリズム”の立場を踏襲したオリィの苦しみや叫び、口を開けば炎上炎上雨炎上の炎上芸人である彼の心情そのものがこのタイトルに表れていて、ある意味で「なんかもうわかんねぇ音楽」みたいな今のBMTHが置かれた状況を歌ったかのような、まさしくこれがホントの“ニヒリスト・ブルース”ってオチ(しかしニヒリストもテロリストも同居するこのアルバムスゲーなマジで)。その曲としてもやはり意味深で、まず神妙な面持ちにさせるストリングスとアコギによるPost-系の王道となる組み合わせからニヤリとさせ、まるでニーチェが乗り移ったかのようなオリィが話の語り部として“なんかもうわかんねえ”と悟りを開きながら抒情的に進行し、するとデイヴィッド・ギルモアがアレンジしてそうな壮麗優美なストリングスから時空をこじ開けるかの如しギターの轟音とともにバンド・サウンドが合流、再びPost-系ならではのインテリジェンスを垣間見せながらクライマックスへ向けて“タメ”を作り、そしてオリィDon't Know What To Sayと自らに問いかけるような“叫び”というより訴えにも近い歌声から、過去の自分たちに降りかかった“呪い”=“ANATHEMA”をブラックホールん中に葬り去るかのような、バンド史上最も超絶epicッ!!なGソロを轟かせて大団円からのカタルシス...。Don't Know What To Say”・・・それは、ロックが死んだ時代のロックシーンに生きるオリィが成せる唯一の抵抗、そして叫びだった。

このKscopeが提唱するアートロックイズムを継承した音使いから曲構成、そしてその存在意義まで、それこそana_thema“ANATHEMA”の構成とほぼほぼ全く同じで、その曲が収録されたana_themaの『Distant Satellites』にはスティーヴン・ウィルソンをゲストに迎えたペンデュラムリスペクトな曲もあって、この『アモ』は聴けば聴くほど後期ana_themaと重なる部分が多すぎる。ちょっと面白いのは、そのDistant Satellitesの赤いオーロラの如しアートワークは韓国のメディア・クリエイターが手がけたものなんだよね。もう怖いくらい“繋”がってるんだよね。そういった細部の面も含めて、『アモ』の隠し味はDistant Satellites〜『The Optimist』の中でana_themaがテーマとして掲げた“実験性”に驚くほど瓜二つで、初期から現在までの音楽性の変化という点でもana_themaBMTHの先輩に当たる(もはやモデルケース)。もう恐ろしいくらい綺麗に全部が“繋”がってるんだよね。もちろん、BMTHは初期の頃から前衛的な素質を垣間見せてきたけど、その内に秘めた前衛性を開花させた大きなターニングポイントとなったのが、他ならぬ2012年に加入したキーボードのジョーダン・フィッシュの存在だった。当然、他者に口出しされずここまで好き勝手やるため、今作はオリィジョーダンのセルフプロデュースによるもの。

  • オリィなりのポップスの再定義』
気づいた。これもうBMTHなりの“ポップスの再定義”なんじゃねえかって。“ポップスの再定義”と聞いてまず思い出すのは、ご存知スティーヴン・ウィルソン『To the Bone』だよね。ここで改めて、BMTHオリィエレクトロ〜EDM〜ヒップ・ホップというメインストリームの“ポップス”を自分たちのロックという名のポップスにパッケージングした人間、つまり“ポップスが1番面白い時代”だと“知ってる人”なんだよね。それと同じくして、SWはホームである70年代のプログレだけでなく、コクトー・ツインズやディス・モータル・コイルをはじめとした80年代の4AD勢にも精通することを示すと同時に、一方でバンクシーもといマッシブアタックは元よりエイフェックス・ツインやスクエア・プッシャーに代表されるいわゆる“コーンウォール一派”の影響下にある打ち込み/エレクトロの要素を、大手ユニバーサル・ミュージック傘下のレーベルを介してメインストリームのロック(ポップス)にブチ上げたのが新作の『To the Bone』だった。つまり、SW“ポップスが1番面白い時代”だと“知ってる人”なんだよね。その大手レーベル所属の“VEVO友”同士で“繋”がってる2人が、方やソニーから発表した『アモ』と、方やユニバーサルから発表した『To the Bone』の中でやってることって全く同じ“ポップスの再定義”なんだよね。オリィが“ヘヴィメタル”というアンダーグラウンドで培った経験と技術を“メインストリーム”というメジャーシーンにブチ上げた手法は、SWが“プログレ”というアンダーグラウンドで培った経験と技術を“メインストリーム”というメジャーシーンにブチ上げた『To the Bone』の手法と全く同じ、要するにこれは“メジャーマイナー論”なんですね。方や“メタル側からのポップスの再定義”、方や“プログレ側からのポップスの再定義”なんだよね。

本当に面白いと思ったのは、SWがコクトー・ツインズやデッド・カン・ダンスをはじめとした80年代の4AD勢からの影響を公言している『To the Bone』に対して、BMTHは現在の4ADの看板娘であるイーロン・マスクもといグライムスとコラボした所も綿密に“繋”がっている。あと『To the Bone』の最後の曲の歌詞に“Don't be afraid”ってあるのだけど、BMTHは逆に1曲目のI Apologise If You Feel Something”という曲の歌詞にDon't be afraid”を持ってきているのは偶然にしては面白くて、SWオリィそれぞれの新作に共通するこの言葉の意味を解釈するならば、恐らくそれは“変化を恐れるな”という意味なんだと思う。それは勿論、音楽性の面は元より、環境の面や精神的な面に対する意味も含まれている。(他の隠し要素としてSWがプリンスとデヴィッド・ボウイへのレクイエム、オリィがロリペドクソ野郎へのレクイエムだし、アー写の❤️マークはSWがいつも愛用しているコムデギャルソンのTシャツリスペクトだし...えっ)

また、オリィは「なぜ“ヘヴィメタル”はラップのようにストリーミング・チャートを圧巻する存在になれないのか」と嘆いている(2秒で炎上)。ご存知、SW『To the Bone』って実はSpotifyをはじめとしたストリーミングで音楽を聴くイマドキの環境にも対応する工夫がなされていて、それもあってシングルが地元イギリスのBuzzチャートにランクインしたのは記憶に新しいよね。その“知ってる人”同士で“繋”がってる、年は親と子ほど離れた2人の“ストリーミング市場”に対する共通認識もラップのように韻を踏んでいて、もはやSWオリィと見ていいです。とにかく、それくらいBMTH『アモ』SW『To the Bone』は作品の温度や構図、その“真実(truth)”“愛(Love)”という精神性までも同じなんですね。同時に、様々なジャンル別の曲をギャップレスに“繋”いでいく、聴き手に考える余地を与えない“したたか”なギミックも『To the Bone』的なんだよね。そう言った意味では、今作はオリィのソロアルバム”と解釈すべき作品なのかもしれない。ともあれSWの正統後継者がBMTHオリィというオチは流石に想定外すぎて笑ったし、あと“やっぱ音楽おもしれえ”って。余裕でことしの年間BEST一位確定だし、年明け早々からBMTHLOONAのワンツーフィニッシュで年間BESTが決まっちゃうとか・・・2019年幸先良すぎw

  • オリィ=俺ィ説
気づいた。これもうオリィ=俺なんじゃねえかって。だってこのアルバム、どう聴いても“ぼくがかんがえたさいきょうのぽっぷす”なんだもん。先ほどの“ポップスの再定義”といい、ana_themaといい、K-POPとの共振といい、だって4曲目の女性的なウィスパーボイスとかSadistik聴いてなきゃ絶対に書けないし、これもう確信犯でしょ。完全に昨年末の“トラップ祭り”の流れで韻踏めちゃうヤツなんだよね。なんだろう、これもう10年代後半のWelcome to My “俺の感性”を総括したアルバムでしょ。その“全ての始まり”こそ、2016年の相対性理論『天声ジングル』なんだよね(やっぱえつこってスゲーわ)。もはや“俺の感性”ならぬオリィの感性”でしょ。もしやオリィってのブログの読者なんじゃねえか説あるわ。もう今日からWelcome to My オリィの感性”に改名するわ。そんな冗談言いたくなるくらいには、もう完全にイギリスのオリィが日本のに書かせにきてる案件で、でもこうやってアーティスト側が“回答”を出してくれる有り難さったらなくて、マジこれ聴きながらドヤ顔で拍手したもんね。こんなに笑って泣けるアルバムとか本当に久々だった。

結局、普段からヒップ・ホップを聴いてる音楽ライターはデンゼル・カリーRATMカバーには一切の関心を示さないし(予想通り)、方や普段から“俺たちはB!とは違う!”と豪語しているニワカメタラー御用達雑誌こと『ヘドバン』の奴らも案の定無反応だし、これってつまりヒップ・ホップとメタルを両方聴いてるオリィだけが反応できる案件なんですね。同じようにK-POPもそうだよね。Kポやデンゼルを聴いてない奴がこの『amo』を語っても説得力のカケラもないし、あらためて今の時代ヒップ・ホップ聴いてない奴は信用できないし、逆に今の時代メタル聴いてない奴も信用できない。つまり、今ってメタルとヒップ・ホップ、そしてKポ聴いてる奴が1番信用できる時代なんですね。ちょっとまって・・・それってやっぱりのことじゃん!って、だから『ヘドバン』とかいうニワカ雑誌は信用しなくていいです。逆にWelcome to My “俺の感性”だけは信用してくれていいです。もはやの感性”からすればB!も『ヘドバン』も老害メタラー以外のナニモノでもない、同じanaのムジナです。何度も言ってるけど、ガチメタラーはオリィじゃなくて真のニワカ雑誌である『ヘドバン』を叩くべきだ(ガチメタラーが叩いてた人物が実は1番メタルの未来を考えていたという皮肉)。アークライトの生き残り”として、現日本の“メタルメディア界のキング”として(えっ)、ニワカメタラー御用達の『ヘドバン』を野放しにするわけにはいかないッ!

ロラパルーザ

そのオリィが目指したBMTHの“メインストリーム進出計画”の成果として、早くも2019年のロラパルーザ出演決定、それすなわちデンゼル・カリーとの共演という“引力”という名の“繋”がりを爆発させている(だから言ったっしょ?)。完全アウェーのなか“メタル”を代表してロラパに単騎で殴り込みかける格好良さハンパないんですけど、それじゃあ日本で開催される今年のサマソニはどうだろう?当然、の頭の中にはサマソニでデンゼルBMTHがコラボしてRATMのカバーやったら間違いなく“伝説のサマソニ”になるという思惑はあったけど、いざ蓋を開けてみればデンゼル“デ”の字もなく、どこの馬の骨かもわからない邦ロックがラインナップされるというちょっとした地獄を見せられてて、つまり業界を代表するクリマン清水ですら“その程度”という地獄。まあ、“その程度”なのが日本のフェスで、サマソニの限界なんですね。

そんなクソみたいなサマソニじゃなくて単独で来日しろやオリィオリィはさっさと日本のに会いに来いや・・・って、ちょっとまって、オリィってより年上だったのかよ・・・マジか。オリィお前おっさんやん・・・。確かに、2ndアルバム『スイサイド・シーズン』の頃はまだお互い若かったな。それから約11年の年月を重ね、お互い三十路のオッサンになってから再び邂逅するなんて夢にも見なかった(あっ、年上だからオリィくん”だね///)。でも“男は30から”ってのもあながち嘘じゃないかもなって。そんなオリィきゅん、1人目の嫁に浮気されて離婚してブラジル人女性と再婚して真の愛に目覚めた結果が、このポルトガル語で“愛”を意味する『アモ』だと考えたらクソエモいし、愛(LOVE)は愛(LOVE)でも片方の愛は『Love is Dead』感あるのが本当に面白い。もはや全世界何十億分の1あるいは2、つまり嫁との2人だけに作ってくれたアルバムなんじゃねーか説。そう妄想したら、なんかもう『ammo』という愛の弾丸(ラブバレット)に撃ち抜かれて妊娠したわ。男なのに孕んだわ・・・(ええ!?シュワちゃんが妊娠!?) 

冗談はさて置き、それこそ2018年の奇跡だったSW来日からのデンゼル・カリー来日の韻を踏む流れを汲んで、もし本当にBMTHの単独来日公演があったとして(サマソニの熱が冷めやらぬうちが理想)、前座で日本のCrystal LakeSadistikが来たらヤバイなって(ゼッテーねーw)。そんで客の半数がリンキンロストプロフェッツの元ファンで埋まってたら胸アツだよな。でも今のコイツらなら、その様々な理由でメジャーなロックシーンから突如として姿を消した二大ロックバンドの元ファン全員かっさらえますね(ロックに飽きた奴らを含め)。そんでBMTHファンでも知られるLiSAAimerと一緒に「エーーーモーーーー!!」の所でシンガロングしてムショのロリペドクソ野郎と“繋”がりたい!(おい)

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スティーヴン・ウィルソン LIVE IN TOKYO 2018@EX THEATER ROPPONGI

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2015年の夏、ANATHEMAの奇跡の初来日公演が実現したあの日、間違いなく僕の人生はピークを迎えた。その三年後、まさかその”人生のピーク”を更新することになるなんて、あの日の僕たちはまだ知らない。

本当に、本当に面白いと思ったのは、このスティーヴン・ウィルソンの来日公演の数日前にビートルズのポール・マッカトニーがジャパンツアーのために来日してて(ポールといえばご存知、昨年リリースされたSWの新作To the Boneにも間接的に繋がりのある人物であり、言わずもがなSWの音楽人生に最も影響を与えた偉大なミュージシャンの一人だ)、もはやただのポールの熱狂的な追っかけファンとしてポールと一緒のフライトで日本に前乗りしたんじゃねーか説あって、もはや久々の来日ということもあって予習がてら東京ドームでポールのライブ見てるんじゃねーか説あって、もはやポールの日本ツアーを見に来るついでに来日公演する説あって、もっと言えば珍しいレコード目当てでユニオン通いのついでに来日した説あって、しかも5日はポールは両国国技館という同じ東京でライブの予定があって、つまり来日の日程までポールに合わせて決めた説あって、しかもそのポールがX JAPANのヨシキと久々に会ってたりしてて、実はSW『Hand. Cannot. Erase.』X JAPANを共振させている僕としてはニチャアとしかならない案件だったりして、この「真実(truth)」に気づいてしまった僕は、「おうおうおうおう、ちょっと待てSW、マジかお前、まさか”それ”がやりたかったがために11月のこの時期に来日したのかよ、、、完敗だわ・・・」ってなると同時に、なんだろう、やっぱり全ては”繋がってる”んだなって。しかも公演二日目となる6日に至っては、SWもプレイリストに入れるくらいオキニのCigarettes After Sexがリキッドルームで来日公演を予定してて、もはや「なんだこのTo the Bone週間・・・」ってなった。


そんなSWも敬愛しているビートルズのポールに自らを重ね合わせるように、ポールと同じソロアーティストとして初となる来日公演を実現させたSW。正直、直前までウドーフェスのトラウマが蘇ってドタキャンになったりしたらどうしようと心配してたんだけど、前日のインスタに「日本に向かう途中でバンドメンバーと共に誕生日を迎えたよ。」って書いてあって安心したのと、こんな大事な記念日に日本ツアーを組んでくれたとか、改めてどんだけいいヤツなんだSW・・・(ちなみに、このポニテは義理の娘にやられたらしいw)。しかも日本人イラストレーターのmaro氏が手がけたアニメデザインのTシャツも作ってくれたりして、(ウドーフェスをはじめ決して日本に良いイメージを持ってなさそうなのに)もはやミュージシャンとして以前に人として素晴らしい人物なんだなって。

僕がホテル入りしたライブ当日となる5日、ちょうどその日の夕方のニュースで報道されていたのが、他でもないアメリカ中間選挙だった。

会場はギロッポンにあるEX THEATER ROPPONGI、いざ入場してB2前方中央の自分の座席に腰を下ろすと評判通りの見やすさに驚いたと同時に気づいた→「ちょっと待って、この位置、SWが目の前じゃん!!」って。そんな感じで開演までのんびりしてたんだけど、勘違いかもだけど某メタル雑誌の編集長いたな?

7時開演。ステージが暗転すると、SとWが組み合わさった例のロゴマークがスクリーンに現れ、すると男性ナレーションが「皆さんこんばんわ。ライブをスタートする前にあるショートフィルムをご覧いただきます。今夜のパフォーマンスを象徴する内容なので、リラックスしながら映像に浸ってください。」と前書きし、そして一番始めに黒いスクリーンを背に「truth」の文字が浮かび上がり、続いて「family」「science」「fact」「news」「compassion」「fake」「love」「information」「father」「security」「life」「enemy」「religion」「death」「ego」「hate」などの小文字英単語と、その単語に関連するイメージ画像が紙芝居のように映し出され、それが一周して再び「truth」に戻ると、今度は逆に英単語とイメージ画像が不揃いの組み合わせが延々と続き、それこそ偽の情報(fake)が執拗に繰り返される。まるで名作映画『時計じかけのオレンジ』の人体実験を疑似体験させられているかのような奇妙な感覚、この現代人として身近な英単語とイメージ画像を使った適性テストみたいなオープニング演出は、果たして何を意味するのか?

そう、これは決して疑似体験などではない。これは現代のメディアやSNSをはじめとした情報社会、それらが伝えるフェイクニュースを象徴するポスト・トゥルース時代、今まさに現実で行われているリアルであることを、僕たちが今のポスト・トゥルース時代を生きる当事者であることを突きつけるような、それこそSWTo the Boneのなかで描き出したコンセプトの根幹であり、僕が書いたTo the Boneの記事を真っ向から肯定するかのような幕開けに、僕は瞬き一つせずにただただ目の前のスクリーンを見つめる事しかできなかった。

いわゆる”ポスト・トゥルース”という言葉が世界中に拡散される大きなキッカケとなった2年前のアメリカ大統領戦、そしてこのタイミングでアメリカ中間選挙があったのは、果たして偶然だろうか・・・?そして今、この時代、”メディア”という存在が全く機能していないこの日本という国にスティーヴン・ウィルソンがやってきてライブをすることの意味、そしてこの国のトップが「fake」の権化であること、その「fake」が居座る東京でライブをするというこれ以上ない皮肉、同時に反トランプを表明しているポール・マッカトニーSWが同日にこの国でライブすることの必然性、まさにこのご時世だからこそ価値のある来日だと言えるし、これがTo the Bone「truth(真実)」なんだって。たった一つの真実がないポスト・トゥルース時代、つまり最高でも99%の真実しか存在しないこの時代に、最後の1%としての役割がSWTo the Boneだったんだ。僕が書いた99%の未完成レビューを100%の真実のレビューにしてくれたのは、やはりSW本人しかいなかった、これで全てが繋がった。まず、まずそこに「ありがとう」と言いたい。

その「truth(真実)」を知らせるオープニング以降の約3時間、翌日も合わせた約6時間は紛れもなく人生最高の6時間だったし、まさに”人生のピーク”だった。まるで気分はMGS3のザ・ボスの「ジャック、人生最高の10分間(6時間)にしよう」だ。

オープニングが終わると同時に、スポットライトがステージ中央のSWを映し出すと、例のコム・デ・ギャルソンのTシャツに裸足にフェンダーという”いつものSW”を目の当たりにした観客は一気に沸き立ち、アルバムTo the Boneから”Nowhere Now”を軽快に披露し終わると「アリガトウ!」という日本語の挨拶から、立て続けに同アルバムからニネットとのデュエット曲”Pariah”を聴かせる。もちろん、この日はニネットは不在だけどバックのスクリーンにMVの顔がデカデカと映し出された。曲のクライマックスにフェンダーをかき鳴らすSWはめちゃカッコよかった。

今度はギターをPRSに変えて4thアルバム『Hand. Cannot. Erase.』から”Home Invasion”、そして”Regret #9”の重ね技を披露する。この2つのインスト曲で活躍するのは、他ならぬ『To the Bone以降に刷新されたSWバンドを担うベーシストの変態三つ編みおじさんことくうちゃんもといニック・ベッグス、ドラムのクレイグ・ブランデル、キーボードのアダム・ホルツマン、ギターのアレックス・ハッチングスだ。今回の来日公演でもこのシン・SWバンドだ。このポップな表面から一気にテクニカルな側面に反転するのは、このSWバンドならではの大きな魅力だ。そして、そのアクティブな流れでPorcupine Tree時代の傑作『In Absentia』から鬼気迫るような”The Creator Has A Mastertape”が始まるとPTヲタの全俺が泣いた。

再び会場が静まり返ると、今度はアダムのピアノソロから始まって、ソロ後半にあの主旋律が聴こえてきた瞬間”Refuge”とわかって脳汁ブッパした。座椅子に腰掛けて、物語の語り手のように歌うSWと徐々に力強く盛り上がりを見せていくバンド、そしてクライマックスのハーモニカパートはSWがエモーショナルなギターソロ・アレンジを聴かせ、そこからアレックスによる涙腺崩壊不可避な泣きのソロを経由してアダムのキーボードへと向かう展開は、生で観ていることもあってマジでちょっとした宇宙だった。再びSWのテレキャスが唸りを上げる”People Who Eat Darkness”では、アニメ仕様のMVも相まってとてもライブ感に溢れていた。

事前にアナウンスされたように、この来日公演では前半と後半の二部構成となっていて、5日の前半ラストを飾ったのが『Hand. Cannot. Erase.』が誇る大作の”Ancestral”だった。改めて、SWバンドのテクニシャンっぷりに終始唖然とするばかりで、その変態的なポテンシャルが最大限に発揮されたこの曲は、ライブで見ると恐ろしいまでの迫力を前に何もかもが凄すぎて苦笑いしかできなかった。特に、クライマックスでのデレッデレデレッデレデレッデレの畳みかけとか鬼カッコ良すぎて泣いたし、途中で緩くなるパートでメンバーがステージに寝転がるのワロタ。あとドラムの人スゲーと思ったら元Frost*の人と知って更にびっくり。

約15分の休憩を挟んで、今度はニックとクレイグとSWによるシャイカー合戦が始まったかと思えば、PT時代の名作『Deadwing』”Arriving Somewhere but Not Here”のイントロが流れてきてまた全俺が泣く。この瞬間だけは完全にPTのライブだった。この日の会場は座席指定かつ25歳以下が2人しかいない(MCでもネタにしてた)、この国の少子高齢化の波を感じさせる客層だったから、ここまで9割の人が座ってライブを鑑賞してたけど、ここでSW「俺のライブって言うほどクリムゾンっぽいか?」みたいなジョークを絡めたMCから「Stand Up!!」と呼びかけて観客を総立ちさせる。

新作のTo the Boneは、いわゆる”ポップス”化したことで従来のSWファンからも否定的な意見が多くて、それはもう殺害予告されるくらいには失望したファンがいたのも事実。しかし、SWはMCで「ポップス=ジャスティン・ビーバーやアリアナ・グランデではない。ポップスはポップスでもビートルズやアバ、クイーンは僕にとって最高のポップスなんだ」と力説し始めて、その時の僕は心の中で「おめーポールが来日してんの知ってて言ってるだろwバレバレやぞw」とツッコんだ。

その流れでSW史上最高のポップスである”Permanating”を披露。まるで気分はインド映画のボリウッドダンサーだ。そのインド人ばりに陽キャな”Permanating”から一転して陰キャの”Song Of I”を謎エクササイズ映像と合わせて聴かせるギャップのある流れは、まるでSWの豊かな音楽人生を象徴しているようだった。そこからPT時代の”Lazarus”で涙腺崩壊。後半ラストを飾る”Detonation”では、キモい人間が繰り返し行進する不気味な映像とともに、もはや「フェイク(fake)」「真実(truth)」か分からない極上のトリップ・ワールドに観客を誘う。

5日のセットリスト


アンコールは『4½』から”Vermillioncore”PT時代の『Fear of a Blank Planet』から本公演で最もっヘヴィな”Sleep Together””Sound Of Muzak”、そして”The Raven That Refused To Sing”まで、アンコール中はもはや涙で明日が見えなかった。オープニング除くと全17曲、休憩除くと約2時間半、未だに夢のような、あまりにも濃すぎる初来日公演だった。見やすいと評判のEXシアターはライブが始まっても評判通りの見やすさで、証明や映像の演出が必須のライブだったから本当にこの箱で良かった。

確かに、5日の公演はSWが時差ボケなのか何回かミスって仕切り直ししたけど、それもレアな光景だと思えば見れてラッキーだった。時おりファッキンを交えたユニークなMCも面白くて、年季の入ったフェンダーを自慢したりとか、メンバー紹介の時に手を振ったりとか、確かに”Sound Of Muzak”では海外だと合唱するパートを合唱できなくてSWが恥をかく場面もなくはなかったけど、6日の公演はミスなく終われたし、”Sound Of Muzak”の時でもSW「昨日は歌ってくれなかったから僕が笑い者だったじゃないか!ネイティブじゃないからって全然問題ないから皆んなで歌ってね」とお願いしたら、海外勢ほどではないけど昨日よりは皆んな歌ってて、そんで曲が終わった後にSWが「マッチベターw」の一言。しかしSWも日本人のクワイエットさには心底驚いただろうね。

6日の公演は、事前の予告どおりセトリが『Hand. Cannot. Erase.』仕様になってて、前半では前日にも披露した”Home Invasion/Regret #9””Ancestral”をはじめ、表題曲の”Hand Cannot Erase”やデプレッシブな”Routine”、からの最後に”Happy Returns/Ascendant Here On...”という神がかり的な流れを見せつけられてガチで涙腺崩壊した。そもそも”Routine”単体でも泣けるのに、それからのアレは反則だって。あんなん泣くって。。。後半には、前日やらなかった”The Same Asylum As Before”をはじめ、アンコールでは90年代のPTを象徴する『Stupid Dream』から”Even Less”をギターロックばりに年代物のテレキャスをかき鳴らすSWがカッコ良すぎた。結論として、このジャパンツアー、僕みたいに2日とも観たやつが優勝です。

アンコールの最後に披露した”Song Of Unborn”では、ジェス・コープ氏が手がけたアニメーション仕様のMVがスクリーンに映し出され、大量の精子が子宮の卵子に突撃する受精シーンから始まった瞬間「ザ・シンプソンズかな?」ってなる子供心の僕。冗談はさて置き、この曲を日本公演の最後の曲として披露する意味の大きさったらなくて、これこそTo the Boneが象徴する”生命”の誕生(To the Born)であり、それこそSWが愛用しているコム・デ・ギャルソンのTシャツに描かれたLOVEの象徴でもあった。やっぱり全てが繋がっているんだって。この世界は繋がっているんだって。国境人種肌の色は関係ないんだって。人はいつだって人と繋がることができるんだって。これがSWTo the Boneで示した愛(love)の形なんだって。なぜSWがこの時期にこのタイミングで東アジアの一つである日本へ来たのか?僕はこのライブを観たことで全てを理解した。このタイミングだからこそ、なんだねSW

6日はあいにくの雨だった、というよりはイギリスの気候と重ね合わせたような演出と言っていい(ana_themaもSWもリアルの天候を演出に盛り込みすぎw)。登場時はジャケット姿だったSW、6日はなんだか声の調子が悪そうで少し心配になった。もちろん集客が一番の不安要素だったけど、なんだかんだ二階にも人が入ってたくらいには埋まってたから安心した。つうか、会場がギロッポンだけあって観客の三分の一は外国人だったんじゃねーか説。確かに、ana_themaと同じくSWも最初で最後の来日公演かもしれない。しかし、諦めずにこれを次に繋げること、継続していくことが大事だと。昨今、外タレの来日が実現しづらくなっていると囁かれる中、夢にも思わなかったSWの来日が実現したことに有り難みを感じながら、しかしこれで終わりにするのではなく、この流れを継続していくことが大事だと(大事なので2回言った)。

”人生のピーク”がおよそ9Kで買えるなら安すぎってレベルじゃないんだけど、まぁでも30という節目の年に”人生のピーク”を迎えられて良かった気もする。しかし最近の俺の人生、「幸福」に満ち溢れすぎだろと。これを黄金体験」と呼ばずして何という。でもガチで人生最大の「夢」が叶ってしまった、つまり”人生のピーク”が過ぎた男がこれから何を目標に、何に希望を見出して生きていけばいいのだろう。自殺か?それもいい。いや、違う。僕がやるべきこと・・・それは僕の妹ちゃんたちであるドリキャとアイズワン(カンちゃん)を日本でブレイクさせる使命と義務がある。そして僕の”人生のピーク”が終わる・・・



「ドルヲタが目覚める


岡田拓郎 『The Beach EP』

Artist 岡田拓郎
no title

EP 『The Beach EP』
cover

Tracklist
01. Shore
02. By The Pool (feat. James Blackshaw)
03. After The Rain
04. Mizu No Yukue

結局、今の時代って一周回って「ポップス」が一番面白いんじゃねぇか説あって、昨年まさにそれを体現していたのがスティーヴン・ウィルソンTo the Boneだった。今年の11月に奇跡の来日公演を控えているSWが、その最新作『To the Bone』の中でやってのけたのは「ポップスの再定義」。時を同じくして、この日本でも「日本語ポップスの再定義」を志した若者がいた。その若者の名前は、岡田拓郎

何を隠そう、僕は岡田くんのデビュー作ノスタルジアについて、SW『To the Bone』で示し出した「ポップスの再定義」の話と共振させると同時に、岡田くんはSWと同じく”AORスキー”な人物であると説いた。この配信限定EP『The Beach』は、まさに岡田拓郎がどれだけAORマニアなのかを証明するかのような一枚で、ある意味で僕が『ノスタルジア』に書いたことへの”回答”として生まれた作品でもある。というのは冗談で、今年に入ってから岡田くんは(ツイッターで)AORの曲を集めたリミックスをクラウドにアップしてて、いま思えばそのツイートが全ての伏線というか”始まり”だったんだ。

その『The Beach EP』というド直球過ぎるタイトルと、イギリスの写真家で音楽家のスティーヴ・ハイエットの作品を冠するアートワークが示唆するように、まるで青い空!澄んだ海!白い砂浜!を舞台にサンバイザー姿のピッチピチのギャルがノキャッキャする光景が浮かんでくるような、このクソ暑い夏にピッタリの「岡田拓郎なりの夏ソング2018」が堪能できる。

森元もとい元森ことex-森は生きているのドラマー増村くんが作詞を手がけた、幕開けを飾る1曲目の”Shore”から、アンニュイにたゆたう岡田くんのジェンダーレスなボーカルとともに、80年代のAOR全盛をフラッシュバックさせるシンセ/キーボードをはじめ、『ノスタルジア』でも垣間見せた”マルチプレイヤー岡田拓郎”の類まれな才能が、この厳しい夏の夜に幾重にも重なり合う夏色の音が”打ち水”となって涼しげに眠り手に寄り添う。デビュー作の『ノスタルジア』では、それこそThe War On Drugsを彷彿させるインディ・ロック系のAOR的なアプローチを見せていたが、この曲ではTWODのベーシストデイヴィッド・ハートリーのソロ・プロジェクトNightlandsを彷彿させる、より「ポップス」に重心を傾けたドリーミーなサウンドを展開している印象(まるで音のクールビズや~)。

この”Shore”は、前作で打ち立てた「日本語ポップスの再定義」の続き、あるいは延長線上にありながらも、しかし中盤以降の蒸し暑い闇夜の中を幽幻に彷徨う増村くんによるパーカッションの鳴らし方は、それこそSW『To the Bone』、その表題曲や”Detonation”への回答のような、その元ネタとなるペット・ショップ・ボーイズをはじめとした往年のAORへのリスペクトを込めた鳴らし方でもあって、もはや前作『ノスタルジア』の延長線上にあるというよりは、それと対になる『To the Bone』の延長線上として捉えるべき案件なのかもしれない。この時点で、あの現代インディ・ロックの名盤と名高い『ノスタルジア』を経て、あらゆる面で着実にアップデイトしてきた彼の今を知ることができる。

奇しくも波打ち際のSEから始まり、そのままDeafheaven”You Without End”が始まりそうな、真夜中のサンビーチを佇むような2曲目の”By The Pool”は、今作のアートワークでもお馴染みのスティーヴ・ハイエットの唯一のアルバム『渚にて』からのカバー曲で、ボーカルには岡田くんの盟友でありイギリスのSSWであるジェームス・ブラックショウが参加している。この曲のサウンド・アプローチこそ、まさに今作の夏色を象徴する70年代後半から80年代中盤までのAORが奏でた本場の”夏の匂い”を、この2018年の夏に向けて届けてくれる。

ご存知、近頃のSWエイフェックス・ツインをはじめとした「コーンウォール一派」やモダンなエレクトロニカに傾倒していて、例に漏れず「日本のSW」こと岡田くんもその手の音楽に精通していないわけがなかった。3曲目の”After The Rain”は、それこそSWのプレイリストにチョイスされているエレクトロニカ系の曲の系譜にある、真夏の夜に突如雨音が降り注ぐようなニカチューンで、それこそ”80年代”を舞台にしたNetflix『ストレンジャー・シングス』のサントラ風のミステリアスな世界観もあり、それこそスウェーデンのCarbon Based Lifeforms系の深海大好きなアトモスフェリックなサイビエントっぽくもある。その現代的なエレクトロと増村くんが奏でるパーカッションの原始的な音色が時を越えてクロスオーバーする姿は、いかにも岡田くんらしいというか、まさに岡田拓郎という一人のミュージシャンの嗜好性を表していて、つまり(これは『ノスタルジア』でも言及したけど)決して懐古主義的な存在では終わらない、むしろ全く新しい”新時代”の音楽としてイマにアップデイトし続けていく、その貪欲的かつ挑戦的な姿勢は、もはやデビュー作の『ノスタルジア』を凌駕する底知れなさがあって、またしても彼の底抜けの才能を見せつけられた気がした。とにかく、この辺のモダンなサウンド・アプローチも、彼がただの懐古主義論者ではなくイマドキの若者であることを意味していて、ここでも俄然「日本のSW」と呼ぶに相応しい側面を垣間見せてくれる。

岡田くんは森は生きているでも常に一貫して「実験的」な音楽を探求し続けていた。開口一番、デイヴィッド・シルヴィアンエイフェックス・ツインが五次元空間で間違って邂逅してしまったようなアコギと(SW”Detonation”でも見受けられた)電子音を靡かせる4曲目の”Mizu No Yukue”は、このEPで最も「実験的」な側面を持ち、そして彼が過去の音楽雑誌に残したポップスにおける普遍性=アヴァンギャルドであるという言葉を体現したような、天才いや奇才岡田拓郎の真髄と呼べる真珠の一曲だ。それはまるで森は生きているの2ndアルバム『グッド・ナイト』”磨硝子”を彷彿させる、アヴァンギャルドかつエクスペリメンタルな方向性や実験性を極限まで極め尽くした先にある世界というか、パーカッションとアコギ、変態チックなな電子音やニューエイジをルーツとする環境音が予想だにしない交わりを見せながら、またしても「日本のSW」であると再認識させる、しかしそれ以前にエイフェックス・ツインに匹敵する変態っぷりにド肝抜かれたというか、なんかもうツイッターで「#日本のエイフェックス・ツインなの僕だ」みたいなツイート連投してそうだし、そのツイートに対して相対性理論やくしまるえつこが嫉妬してブチギレそうな展開で笑ったわ。とにかく、インストなのにインストに聴こえない。もはや音が、自然が歌っているかのよう。

あらためて、日本語インディ・ロックの金字塔となった『ノスタルジア』と比べると、よりモダンで、より実験的なアプローチを持つ、そういった意味ではEPらしいっちゃEPらしいというか、わりと好き勝手なことしても多少は許されるEPならではの作品と言える。懐かしい往年のAORリバイバルを主としたボーカル入りの2曲と、一転して現代的な嗜好が主なインストの2曲、前半と後半、陽と陰のイメージで構成されたバランスの良さも実に器用。フルアルバムの半分にも満たないたった4曲にもかかわらず、これだけ新旧様々な音を自在にコントロールして一つの曲を組み立てていく、その「こだわり」とフレキシブルな音楽センスに尚さら脱帽するし、ここまで濃厚で深みのあるEPは未だかつて聴いたことがない。聴けば聴くほど、噛めば噛むほど味が出るEPだ。相変わらずSW作品とともにハイレゾで聴く価値のある、極上なプロダクションの気持ちよさは健在で、結論から言って彼は「日本のSW」

そのSWとの”繋がり”という意味では、主に”現代アーティスト”としてSWに繋がる部分が前作以上に沢山あって、なんかもうホステスはチャーチズに水カン勧めてる暇があったら、さっさと岡田くんをSWに紹介すべきだろうと。それでSW来日公演のOPアクトに岡田くん呼んでくんねぇかな。とにかく、これ以上この天才という名の変態を日陰にほっておくのは日本音楽界の損失にしかならない。

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