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2016年度BEST

Alcest 『Kodama』

Artist Alcest
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Album 『Kodama』
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Traclist

01. Kodama
02. Eclosion
03. Je Suis D'ailleurs
04. Untouched
05. Oiseaux De Proie
06. Onyx

先日、長編アニメーション作品への現役復帰宣言をした宮﨑駿の何が凄いって、国内外のアニメーター/クリエイターへの影響は元より、その「アニメ」という枠組み、垣根を超えて今や多岐の分野にわたって根強く影響を与え続けている所で、最近ではブリット・マーリング主演のNetflixオリジナルドラマ『The OA』の役作りにも『もののけ姫』の影響があったり、そして何そ隠そう、某NPBの加藤◯三氏のご厚意により、「Alcest」の正式名称が「アルセ」あらため「アルセスト」あらため「アルセ」あらため「ンアルセストゥ」に統一された、そのンアルセストゥの首謀者でありフランスの貴公子ンネージュゥも、宮﨑駿の最高傑作である『もののけ姫』をはじめ、80年代や90年代の日本のTVアニメシリーズやビデオゲームなどの日本のサブカルチャーからインスピレーションを受けたと語るほど日本贔屓な人で知られている。それらを含めて宮﨑駿作品の「影響力」というのは、歴代ジブリ作品の売上をブチ抜いた君の名は。新海誠監督にはない言わば「オリジナリティ」であり、そこがパヤオと誠の大きな差であり違いでもあった。

この「アルセ」あらため「アルセスト」あらため「アルセ」あらため「ンアルセストゥ」といえば、今から約10年前にリリースされた1stフルアルバム『Souvenirs d'un autre monde』で衝撃的なデビューを飾り、2010年にはその歴史的名盤と対になる2ndアルバムÉcailles de Luneを発表し、いわゆる【Post-Black/Blackgaze】の先駆者および元祖としてその名を世界中に轟かせる。しかし、その二年後に3rdアルバムの『Les voyages de l'âme』をドロップしたンネージュゥは、ポストブラック・メタルの『可能性』とその『未来』に対して一抹の不安と迷いを感じ始める。転機となったのは、他ならぬ新世代のポストブラック・メタルシーンを担うDEAFHEAVENの台頭で、彼らはピッチフォークをはじめインディ系の音楽メディアから祭り上げられる事となる2ndアルバムのサンベイザーを世に放ち、ンアルセストゥンネージュゥが見失いかけていたポストブラック・メタルの全く新しい形、すなわちポストブラック・メタルの『未来』をシーンに提示し、ンネージュゥが独りでに長年思いを馳せていたピッチフォーク・メディアへの強い『憧憬』『夢』、その想いをンアルセストゥの正統後継者であるデフヘヴンが受け継ぐ展開、それこそまさに世代交代の瞬間じゃあないが、ポストブラック・メタルの元祖および教祖のンネージュゥが叶えられなかった『夢』『ユメ』を次世代のデフヘヴンへと委ねていく、この一連の流れは、いま思い出すだけでも胸が熱くなるような出来事として記憶に残っている。

あの歴史を動かしたサンベイザーに触発されたのか、ンネージュゥの心の奥底(インサイド)に隠された秘密の扉が徐々に外側(アウトサイド)へと開かれていき、もはやポストブラック・メタルの先駆者および元祖としての立場から解放されたンネージュゥは、長年の自らの『夢』を叶えんと、2014年に4thアルバムとなるシェルターを発表する。まず一つめの『夢』は、アイスランドのレジェンドことシガーロスへの強い憧憬で、ビョークやシガロ作品でお馴染みのエンジニアBirgir Jón Birgisson「ヨンシー親衛隊」ことストリングスカルテットのAmiinaを迎えて、アイスランドのSundlaugin Studioで録音、そしてマスタリングには世界的な売れっ子エンジニアテッド・ジェンセンが所属するSterling Soundにて行われ、まるでフランスの片田舎出身の陰キャの陽キャの都会人に対するコンプレックスが暴発したかのような、これ以上ない万全の録音体制で挑まれている。そして2つめの『夢』は、他ならぬシューゲイザー界のレジェンドSlowdiveへの憧憬で、デフヘヴン『サンベイザー』に「ポストブラック界のレジェンド」として迎え入れられたンネージュゥは、今度は自身の作品に「シューゲイザー界のレジェンド」としてSlowdiveニール・ハルステッドを迎えてみせた。だけあって、その音世界もアイスランドの大自然と純白の雪景色を太陽のように眩い光が照らし出すかの如し、それこそ2013年にツアーを共にしたUKのANATHEMAが組織する黄金界隈」の仲間入りを果たすべく、その言うなれば黄金期のジャンプ漫画」ばりに前向きな「勇気」と「希望」に溢れた神々しい世界観を繰り広げ、まさに「日本人向け」と釘打てるほどの音楽だった。 

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このドラゴンボール顔負けの「元気玉」のような「太陽」すなわち「サン」が次作への伏線だったのかなんて知る由もないが、前作のシェルターから約二年ぶりとなる5thアルバム『Kodama』は、日本人イラストレーターの山本タカト氏の作品にインスパイヤされた、日本のエログロ大好きなフランスの二人組グラフィックデザイナーFørtifemが手がけた、『もののけ姫』のヒロインサンをモデルにしたアートワーク、そして「Spirit of the Tree」を意味する「コダマ(木霊)」を冠したそのタイトルが示すとおり、二度(三度目)の来日公演と圓能寺でのスペシャルなアコースティックライブを経験し、科学的技術が発達した日本社会ならびにクレイジーなオタク文化を目にして「日本人は時代の先を行ってるよ」と海外の反応シリーズばりに衝撃を受け、しかし文明が発達した現代社会の中にも日本人の「伝統」や「自然」、そして日本人の「美徳(おもてなしの心)」と「精神性」が共存している、それこそ『もののけ姫』の主題の一つである「神秘主義と合理主義の対立」すなわち「テクノロジーが発達した現代社会」と「そこに住む原始的かつ土着的な人々」と対比(コントラスト)に感銘を受けたと語る、そんなンネージュゥの創作イマジネーションが爆発した、過去最高にスピリチュアルな「ギミック」とコンセプティブな「ワード」が込められた、言い換えればこれはもう「キングオブ・ビッグ・イン・ジャパン」アルバムだ。

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『Kodama』の音楽的な方向性とサウンドプロダクションならびにアイデンティを象徴するキートラックとなる表題曲の”Kodama”は、まず何が驚いたって、兄弟分のLes Discretsを彷彿とさせる慟哭不可避なイントロに次いで、ボーカルの裏でなるバッキングのガリガリしたダーティなギターリフを耳にした時に、UKの女性デュオ2:54”Revolving”が脳裏に過ぎり、そこから更に遡ってThe Cureをはじめとした80年代のポストパンク/ニューウェーブ、そして90年代のオルタナ/グランジからの影響を伺わせるサウンド・アプローチを聞いて僕は→「なるどほ・・・そう来たか!」と、「アイスランドから離れて今度はUKに来ちゃったか!」と呟いた。その90年代のオルタナ然とした渇いたギターと過去最高に強靭なリズムを刻むドラム、そして北風小僧の寒太郎ばりに素朴な『和』を表現した、それこそ『もののけ姫』の豊かな森林に住む精霊コダマの合唱が大森林に反響するかのような神秘的なメロディや、まるで「シシ神様」の如しKathrine Shepardの聖なるコーラスをフィーチャーしながら、それらの80年代~90年代の音楽をルーツとする幅広い音楽的素養と「ええいああ 君からもらい泣き」と俄然民謡的なメロディを奏でるンネージュゥの歌とお馴染みのシューゲイズ要素をダイナミックかつプログレスに交錯させていく、それこそ『もののけ姫』のサントラとして聴けちゃう崇高かつ壮大な世界観と極上のサウンドスケープを展開していく。これまでのどのアルバムとも違う全く新しいンアルセストゥ、それこそシン・ンアルセストゥの幕開けを宣言するかのような一曲であり、この曲のアウトロまで徹底して「オルタナ」の意識を貫き通しているのは、今作のサウンド面のキーワードが「オルタナティブ」であることを暗に示唆しているからだ。

いわゆる「静と動」のコントラストを活かした、要するに往年のンアルセストゥ-スタイルへと回帰した”Kodama”に次ぐ2曲目の”Eclosion”は、「UKの相対性理論」ことEsben and the Witchを彷彿とさせる幻想的なメロディをフィーチャーしながら、徐々にギアチェンしていきブラストで粗暴に疾走するエモーショナルな展開を見せてからの、そしてもう何年も聴くことがなかったンネージュゥ「世界一エモーショナルな金切り声」が聞こえてきて、僕は泣きながら・・・

「ン゛ア゛ル゛セ゛ス゛ト゛ゥ゛ウ゛ウ゛ッ゛ッ゛!!」 

ン゛
イ゛ズッ゛ッ゛ッ゛」 

「ヴァ゛ア゛ア゛ア゛ッ゛ッ゛ッ゛ク゛ク゛ッ
!!」 

・・・と、ンネージュゥに負けじと絶叫した。

そんなンネージュゥ自身も「トラディショナル・ソング」と語る3曲目の”Je Suis D'ailleurs”は、1stアルバム『Souvenirs d'un autre monde』や2ndアルバム『Écailles de Lune』を連想させる刹那的に歪んだリフとンネージュゥのスクリームでシンプルに展開し、特に終盤の目玉となる間奏のラブリーなメロディは、ンネージュゥの「メロディスト」としての才能が垣間見れる。「短めの曲尺的にもポップな雰囲気的にも前作のイメージがまだ残っている曲」とンネージュゥは語る4曲目の”Untouched”、実質的に最後の曲となる5曲目の”Oiseaux de Proie”は、再び90年代のオルタナを彷彿とさせるリフと1stアルバム的なシューゲ・サウンド、より神秘主義的で民族的なアプローチを効かせた曲で、そしてここでもドラムのブラストとンネージュゥのスクリームで「痛み」を撒き散らしながら、俄然ブラック・メタル然とした粗暴な展開を見せる。色んな意味で表題曲の”Kodama”と対になる曲と言える。その流れのまま、物語のエンディングを迎える6曲目の”Onyx”へと繋がる。

作品を重ねる毎に初期のブラック・メタル的な要素が徐々に削がれていき、遂には前作の『シェルター』では正式に「ポストブラックやめる宣言」がアナウンスされた。と思いきや、この『Kodama』で初期のポストブラックメタルへの原点回帰、つまり「ンアルセストゥ is Back」を高らかに宣言する。確かに、いわゆる「二次元」的なアニメっぽい世界観から、いわゆる「静と動」のコントラストを効かせたメリハリのある往年のスタイル、Blackgaze然としたノイジーでダークなギターリフとンネージュゥの金切り声、長尺主体の全6曲(実質5曲)トータル約40分弱など、そういったギミック面の部分では、イメージ的に一番近いのは2ndアルバムの『Écailles de Lune』と言えるかもしれない。確かに、その表面的なガワだけを見れば往年のAlcestに回帰したような印象を受けるが、しかし中身の部分その細部では著しい「変化」が巻き起こっていた。

彼らは、より「スペシャル」で「エクスペリメンタル」なアルバムを生み出すために、これまでのAlcestにはない実験的なアプローチをもって今作に挑んでいる。まずギタボのンネージュゥは、これまでの作品ではギター主導で作曲していたが、今回はこれまでとは全く違うやり方で、ボーカルのリズミカルな面を押し出した歌主導で曲作りすることを決めた。それに対して、ドラマーのWinterhalterは、一種の民族的なあるいはポストパンク的なドラムパターンを多く取り入れたと語る。その言葉どおり、これまでの作品と比べて最も大きな「変化」を感じるのは、他ならぬWinterhalterのドラムパートと言っても過言じゃあなくて、とにかくドラムの音がオーガニックな響き方で、シューゲイザーやら何やらの音楽ジャンルの固定概念に囚われない、一人のドラマーとしてそのポテンシャルを遺憾なく発揮し、一つの「ロックバンド」としてのグルーヴ感が『Kodama』のサウンド、その生命の樹を司る根幹部として絶対的な存在感を示している。特に、#2”Eclosion”や#3”Je Suis D'ailleurs”は、完全に彼の跳躍感溢れるグルーヴィなドラミングありきの曲と言っていいくらい。正直、こんなにロックなドラムドラムした彼は今まで見たことがなかったから単に新鮮だし、Alcestって「ンネージュゥのバンド」だけじゃなくて「Winterhalterのバンド」でもあるんだなって、今更そんな当たり前のことを気付かされた。

ギターについては、より多くのリフを演奏する「Alcestらしさ」と「静と動」のコントラストを意識的に取り入れ、そして更なるギターの可能性を模索した。今作でンネージュゥが使用したギターは、『Kodama』のインフルエンサーとして名が挙げられたマイブラをはじめ、Dinosaur Jr.Sonic Youthなどの90年代のオルタナ系バンドのギタリストが愛用しているフェンダー・ジャズマスターのシングル・コイルで、そのクリーンなギターサウンドとノイジーな極上の歪み得る代わりに時々トリッキーな過剰反応を見せる、そんな可愛らしいジャズマスの特性を最大限に活かすことで、ギタープレイの幅を無限に広げることに成功し、今作では「シューゲイザー・ギタリスト」としてのンネージュゥは元より、「オルタナティブ・ギタリスト」としてのンネージュゥの才能が開花している。その80年代のポストパンク/ニューウェーブ愛や90年代のオルタナ愛に溢れた、ンネージュゥのギタリストとしてのパフォーマンス力は、この『Kodama』のサウンドを著しく高める大きな要因として存在している。彼は、今作におけるギターのプロダクション/音作りまで徹底した「オルタナ」の再現を果たすと同時に、持ち前の「メロディスト」としての側面や作品の世界観およびコンセプトの面まで、そしてプレイヤーとしてのパフォーマンス面にも細部にまで「こだわり」が行き渡った職人気質に脱帽する。

ンネージュゥ
のボーカルについては、往年の金切り声から森のせせらぎのような環境ボイス、そして山霧のように曇りがかったATMS系ボイスまで、前作のように自分を制御することなく、一人の「ボーカリスト」としての可能性を見極めている。ンネージュゥは、ボーカリストとしてもギタリストとしても自らのリミッターを解除して、自らが持つポテンシャルを超える勢いで覚醒している。正直、リズム&グルーヴ重視のAlcestがここまでカッコよくハマるなんて素直に驚いたし、それくらい今作は二人のプレイヤーに視点をフォーカスした、過去最高にAlcestの生々しいオーガニックな「バンド・サウンド」が著しく表面化したアルバムと言える。

この『Kodama』は、映画『もののけ姫』のヒロインサンという『人間』として生まれながらも、犬神である『モロの君』に娘として育てられ、そして自然豊かな森林が我が家である、そんなある種の「自然界と人間界の間の子」的なサンのルーツを探る音旅でもあるかのような、それすなわちAlcestというバンド自らの音楽的ルーツを巡る音旅でもあったのだ。サンのように自然や大地、野生動物と共存し、ありのままの姿で、つまり文明の利器=テクノロジーが発達した現代社会にはない原始的かつ土着的な、より人間的な尊厳と郷土愛、自然愛、オルタナ愛、伝統愛、日本愛、様々な『愛』すなわち『LOVE』に溢れた作品で、その『もののけ姫』の最大のテーマである「人間と自然」の関わりと「神秘主義と合理主義の対立」 、そして今現在なお絶えることのない、ウイルスのように増殖し続ける「人と人の争い」、から起こる「人間の憎悪の増幅作用」による「憎しみの連鎖」と「報復の連鎖」、つまり今作の「静と動」の対比(コントラスト)は、Alcestらしさへの回帰を意味するだけのものではなく、『もののけ姫』のテーマである自然界の安らぎと人間界の醜い争いの対比など、その他様々な対立構造を表現しているようにしか思えなかった。このアルバムには、そんなヒトと動物と自然が争うことのない優しい世界への強い憧憬が込められている。

昨年公開された新海誠監督の『君の名は。』「今だからこそ売れた作品」だが、だからといって必ずしも「今観なきゃいけない映画」というわけではなかった。しかし、今から約20年前に公開された宮﨑駿『もののけ姫』「今だからこそ観なきゃいけない映画」だって、そう気付かされたような作品だった。最近は、外国人から日本の良さを聞くみたいな、その手のTV番組が増えているとよく耳にするが、この『Kodama』は、まさしく『YOUは何しに日本へ?』の取材クルーから真っ先にインタビューされるレベルの、それこそ「外国から見た日本」を知ることが出来る、それこそ教育勅語に記すべき、国歌よりも子供の頃から聴かせるべき、超絶怒涛の日本愛に溢れた極上のビッグ・イン・ジャパン作品だ。 

話を戻すと、その国独自の文化やサブカルチャーというのは一方的にゴリ押したり、ましてや自分からドヤ顔で「クールジャパン!」などと言っていいものでは決してなくて、それこそンネージュゥのように子供の頃から日本のTVアニメを見て、生活の一部として根付いている環境や大人になって実際に来日して感じた実体験から、その国の人や文化に実際に触れてみて、その邂逅と結果が今回の『Kodama』に純粋な形となって音として具現化することが真の「影響力」と言えるのではないか。僕自身このアルバムを通して、昨今国が推し進めている「クールジャパン」のゴリ押しに対する懐疑心が確信へと変わり、そしてその日本人自身の日本文化に対する勘違いに気付かされた一人だ。
 
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Kero Kero Bonito 『Bonito Generation』

Artist Kero Kero Bonito
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Album 『Bonito Generation』
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Tracklist
01. Waking Up
02. Heard A Song
03. Graduation
04. Fish Bowl
05. Big City
06. Break
08. Try Me
09. Paintbrush
11. Picture This
12. Hey Parents

この一際目を引くジャケを初めて目にした時に→「妙に日本人っぽい雰囲気あるけど、なんだこれ」みたいな好奇心から始まり、そしてたどり着いたのは、日英ミックスのサラ・ミドリ・ペリーとロンドン郊外出身のジェイミーとガスによる三人トリオ、その名もKero Kero Bonito(ケロケロボニト)の1stアルバム『Bonito Generation』だった。つうか、ケロケロボニトゴーゴーペンギンで韻踏める。

さっそくアルバムを再生してみたら、そこにはどこかで聴いたことあるような、しかし全てが新しくもあるような新感覚なサブカルミュージックを展開していた。相対性理論以降の新世代ラッパーDAOKO水曜日のカンパネラをはじめとした渋谷系のシティ・ポップ、そしてきゃりーぱみゅぱみゅPerfume中田ヤスタカ界隈にも精通する、イマドキのサブカルクソ女界への刺客としてイギリスから送り込まれたのが...いや、これはむしろ日本のサブカルチャーが海外に与えた影響が形となって生まれた音楽、その答え=Answerがこのケロケロボニトだ。

ケロケロボニトの大きな魅力でありウリの一つに、日本語と英語を織り交ぜた歌詞という独自のスタイルがあって、さすがにボーカルのサラが日英ミックスだけあって、ハリウッド映画に出てくるようなカタコトの日本語ではなくほぼネイティブの発音だから違和感はないし、その日本語と英語の組み合わせや日英ミックスならではの会話風のセンスがグンバツで、とにかく言葉遊びのリズムと繋ぎを自然に聴かせる。日本語パートだけを聴くと本当にイマドキ流行りの日本のサブカルクソ女そのものだし、それが英語パートに切り替わると普通のティーン・エイジャー向けの青春ポップスに様変わりするギャップがまず面白いし、とにかく一度聴いてしまえば、まるで名作リズムダンスゲーム『パラッパラッパー』ばりにコミカルでファニーな世界観と、その摩訶不思議でkawaiiケロケロワールドの虜になってしまうこと請け合いだ。
 

JKの朝は早い。目覚まし代わりのアブストラクトなトラックを合図に、「ふあ~クソネミ」と愚痴りながら体を「Wake Up!!」させて鏡を見たらJKと体が入れ替わってて、考える暇もないのでとりあえず”Waking Up”し始める幕開けから、「パワーアップして戻ってきたぜ 無敵のヒーロー、それがボニト」という感じで自己紹介がてら摩訶不思議なケロケロワールドへと聴き手を誘う。『パラッパラッパー』風のコミカルなSEやJKラップを織り交ぜながら、初期相対性理論を彷彿とさせるサブカルな脱力感がクセになる超絶ポップでキュートなエレクトロ/シンセ・ポップの”Heard A Song”、続く”Graduation”の「先生、みんな、さようなら先生、みんな、さようなら先生、みんな、さようなら、耳の中で卒業」という現実逃避サイコーな日本語パートとか「おいおい3776かよ」ってなるくらいロリ系アイドルにも精通する振り幅を垣間見せたり、でもって”Fish Bowl”のメインコーラスなんかマイラバのakkoかよってくらい謎の癒し効果を発揮するし、そしてPerfume”Magic of Love”が始まったかと勘違いするくらいシティ・ポップ然としたノスタルジックなイントロから日本語歌詞まで超絶ポップでキャッチーに展開する”Big City”まで進むと、「ハッ!?まさか「ケロケロボニト」の「ケロケロ」は広島出身のPerfumeをリスペクトして名付けられた・・・?」という衝撃の事実に辿り着く。
 

日本語ラップメインの”Break”、悪夢にうなされているかのような初っ端の「やめろぉ(棒)」から出オチで笑える”Lipslap”水曜日のカンパネラリスペクトなバキバキでウィンウィンなビートを刻むトラックが聴きどころで、”Try Me”の日本語パートも3776を彷彿とさせるし、オール日本語で展開する”Paintbrush”、再びPerfumeリスペクトな超絶ポップチューンの”Trampoline”の「信じればいい↑↑んだよ~」には「グリーンだよ~!!」返ししたくなるし、「放課後のプリクラ しゃめとってじどりして おくってかえしてとこして」というSNS時代のJKワードを駆使して最後のJK生活を満喫する”Picture This”、そして「ずっと子供でいたいのに」というJKの切実な願いが篭った”Hey Parents”を最後に、無事に卒業証書が授与される。

再び「Wake Up!!」してDayDreamから朝、目覚めるとなぜか涙を流していた。恐る恐る鏡の前に立つと、冴えない中年おっさんの姿に逆戻りしていた。そう、さっきまでのDreamは、JKボニトと体が入れ替わってJK気分で華やかな学園生活を疑似体験する変態おじさん妄想だったのだ。人生の悩みとは無縁の、クソポジティブな「JK」とかいう無敵人間の超絶ハッピーな学園生活、そして卒業までの前向きなメッセージとJKワードを盛り込んだ歌詞をゆるかわなJKラップでチェケラ!!と刻む、それこそパリピならぬパリポ(パーリー・ポップス)あるいは「JKポップ」としか他に例えようがないケロケロワールド炸裂ッ!

一見、サラのぐうかわラップやボーカル面や歌い回しに耳が行きがちだが、実はジェイミーとガスの二人のトラックメーカーによるサウンドもなかなか面白い。一応ジャンルとしては、それこそChvrchesみたいなエレクトロポップ/シンセ・ポップ主体の、良くも悪くもティーン・エイジャー向けに振り切ったポップでキャッチーな青春パリポ(パーリー・ポップス)だが、JKボニトの学園生活を色鮮やかに彩るゆるカワ系のトラックは、一部ではバブルガム・ポップとも呼ばれているが、プレティーンやティーン・エイジャー向けだからといって決して侮るなかれ、そのトラックは実に個性的かつユニークだし、聴いていて素直に楽しい気分にさせてくれる。

この手の音楽って日本独自の音楽というか、あっても日本がブッチギリで強いと思ってたけど、まさかPerfumeのフォロワーが海外から出てくるなて夢にも思わなかったというか、もしこのケロケロボニトが海外で受けたら日本のサブカルクソ女が海外進出するにあたっての間口がグッと広がる可能性だって大いにあるし、つまりボニトが海外でどれだけ受け入れられるかによって、果たして日本のサブカルチャーはどれだけ海外で受け入れられてるのか?その一種の指標にもなると思うし、それこそきゃりーぱみゅぱみゅやパフュームの「海外人気」とやらにも俄然『説得力』が増すってもんです。むしろ逆に、逆にケロケロボニトの登場が日本サブカルクソ女界隈にどのような影響を及ぼすのか?今から楽しみでしょうがない。

これプロデュースやマーケティング次第では日本のキッズやティーンにもバカウケすると思うし、上手くいけばMステ出演もワンチャンあると思うよ。で、「いいこと思いついた、おいコムアイ、ボニト日本に連れてこいよ」と思ったら、既にコムアイとボニトは2015年のSWSWで共演してて、しかもツーショットチェキも撮ってて笑った。しかもそのツイートにさり気なくShiggy Jr.池田智子が絡んでるのがクソウケる。確かに、考えてみるとShiggy Jr.も一種のバブルガム・ポップの日本代表だなって。とにかく、待望の1stフルアルバムがリリースされたことで、きっと日本のサブカルクソ女界隈との絡みも増えてくるだろうし、個人的な期待というか要望としては中田ヤスタカから楽曲提供プリーズみたいな、それかチャーチズのサポートで来日プリーズみたいな。とにかく、このケロケロワールドが織りなす摩訶不思議なVR感覚を沢山の人に体感してほしいし、これはもはや僕たちが待ち望んでいた、JK生活を疑似体験できる一種のVRミュージックだ。
 
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新海誠監督の映画『君の名は。』を観た。

『新海誠はオタクを見捨てたのか?』

2013年の夏に劇場公開された前作の『言の葉の庭』を、先着順で配られたポストカードを手に入れたくらい公開して直ぐに映画館へ足を運んだレベルの新海誠作品フアンの僕が、なぜ約三年ぶりとなる新作『君の名は。』を公開終了間近になってから観に行く事になったのか・・・?というより、新海誠監督の新作が久々に公開されると知った僕は、前作との時と同じノリでロングランにはならないことを決めつけて公開一,二週間以内に観に行こうと決めていた。しかし、前作の『言の葉の庭』から約三年、新海誠監督を取り巻く状況は一変していたんだ。公開から一週間、二週間、そして公開から一月を超えて聞こえてきたのは「興行収入50億突破!100億突破!150億突破!200億突破!」、そんなあたかも信じられないニュースが各報道やメディア間で持ちきりで、僕は「いやいやいやいやいや、お前は一体何を言ってるんだ?」と、初めは何かの間違いなんじゃあないか?と耳を疑った。そしてこの時点で、僕は「新海誠は俺たちオタクを見捨てたのか?」という疑念が脳裏によぎった。

そもそも自分が知ってる新海誠監督のイメージっつーと→スタジオジブリのパヤオが引退するする詐欺と言う名の引退宣言してからというもの、いわゆる「ポスト宮﨑駿」として挙げられる『エヴァンゲリオン』の庵野監督をはじめ、『時をかける少女』や『サマーウォーズ』の細田守監督や今はなき今敏監督と並んで、この新海誠監督も一応はその「ポストパヤオ」というレッテルを貼られる人物の一人で、しかし庵野監督や細田監督に作品の知名度や売上的な意味でも圧倒的な差をつけられているのが現状だ。要するに、細野守監督がいわゆる一般人ピーポー向けの「メインストリーム」すなわち「大衆アニメーション」の代表格とすると、この新海監督の作品はいわゆる俺たち「オタク」向けの「アンダーグラウンド」なインディペンデントで活躍するアニメ映画監督、少なくとも今まではそういった「棲み分け」されていたハズだった。しかし、今回の『君の名は。』は、既に細野監督の全作品の売上を筆頭に、そして三年前の当時は『言の葉の庭』が「前座」扱いだった宮﨑駿の長編引退作となる『風立ちぬ』をはじめ、歴代ジブリ作品の売上すらブチ抜いてしまったのだ。

それでは、なぜ『君の名は。』はここまで「売れた」のか?その大きな要因の一つとなったのが、他ならぬ本作のほぼ全ての音楽を担当したRADWIMPSの存在だ。まず『君の名は。』の批判的な意見の一つに「RADWIMPSの壮大なPV映画」みたいな批判が少なからずあるのも事実で、その批評は決して間違いとは言い難いが、しかしこの『君の名は。』をここまで大衆的かつメインストリームの作品にブチ上げた最もたる要因その功績として存在するのも事実だ。自分の中で、いわゆる邦ロックってバンド名はよく耳にするけど肝心の『音』がまるで聞こえてこない、全く届いてこないネガティブなイメージがあって、このRADWIMPSはその最もたるバンドの一つで、実際に本作で初めてRADWIMPSの音楽を聴いても、如何せん「ただのバンプ」というか「バンプを聴いて育った世代の音楽」←それ以上でもそれ以下でもない以外の感想しか出てこなかった。とは言え、そのRADの主なファン層であるティーンや女性層を『音楽』で惹きつけることに成功したのも事実だ。

映画が始まってまず驚いたのは、俺たちの神木きゅんこと神木隆之介演じる主人公の立花瀧と上白石萌音演じるヒロインの三葉による、新海作品の専売特許とも言えるポエムの語り部から幕を開ける。そのポエムの後に「君の名は。」というタイトルテロップがスクリーンにデカデカと映し出され、そしてRADWIMPSによる主題歌の「夢灯籠」をバックに、いわゆる「普通のアニメ」にありがちなオープニングで始まる。正直、映画の冒頭からここまで「音楽」を全面に押し出した演出は、新海作品では初の試みだったからとにかく驚いた。このオープニングから読み解けるキーワードは「普通のTVアニメ」すなわち「大衆アニメ」だ。

しかしどうだろう、これまでの新海誠監督および新海作品といえば、例えば前作の『言の葉の庭』で言えばシスコンや足フェチが大喜びしそうな、現に足フェチの僕は公開後にブルーレイで買ったくらい 、つまり「普通のアニメ」とは一線を画した「オタクアニメ」として我が道を行く、それこそ「本物のオタク」と呼ぶに相応しい変態監督だった。そんな「普通じゃないアニメ」が、映画の冒頭から「普通のアニメ」みたいな演出を見せられて妙な違和感を憶えたファンも少なくないだろう。

その大衆アニメ的なオープニングが終わると、パジャマ姿で眠っているヒロイン宮水三葉の姿を足の指先から上半身へと舐め回すようなカメラワーク、そのファーストカットから前作の「言の葉の庭」を踏襲した新海誠らしい変態性を垣間見せると同時に、僕はこのファーストカットを見てある映画を思い出した。それこそ、是枝裕和監督の『海街diary』という映画のファーストカットで、この映画も布団で眠る長澤まさみの足の指先から上半身へと舐めるように映し出すカメラワークから始まるのだ。当然、足フェチの僕はこの長澤まさみの足が映し出された瞬間に「はいフェチ映画」と呟くと同時に、是枝監督は新海誠監督と同じ変態性もといフェチズムの持ち主なのではないかと推測した。まさしくそれは「言の葉の庭」でヒロインの雪野先生の生足を見た時に感じたものと全く同じモノ、すなわちデジャブだった。このファーストカットから「新海誠は俺たちオタクを試してきてる」と。そして何が驚いたって、瀧くんのバイト先の先輩である奥寺ミキを声で演じる人物こそ、他ならぬ長澤まさみだった。僕はこの冒頭のシーンからの長澤まさみの声優起用に猛烈な「縁」を感じざるを得なかった。もっと言えば、この冒頭のシーンに特別な意味を感じ取れなきゃ『君の名は。』を理解することは不可能なんじゃないか。

『君の名は。』のストーリーというか設定を軽く述べると、主人公の立花瀧は東京の都心に住む普通の男子高校生で、ヒロインの宮水三葉は岐阜県飛騨の山奥に住む女子高校生で、華やかな東京の暮らしに憧れながら、妹の四葉と一緒に宮水神社の巫女を務めている。話のキモはこの二人が奇妙な夢を見ることで身体が入れ替わる現象と、1200年ぶりに地球に接近するという架空の彗星「ティアマト彗星」の存在が二人の運命を引き裂いていく。「入れ替わり」の現象によって二人の距離が徐々に縮まっていき、お互いを「恋人」として意識し始める一種の焦燥感を現すシーンでは、メインテーマ曲となる例の「前前前世」の曲とともに物語が急速に加速していく演出、観客を一気にその世界観へと引き込む演出効果は、紛れもなく「音楽の力」によるものだ。

しかし、ある日から二人の「入れ替わり」は起きなくなる。その時、巫女である三葉は祖母の一葉と妹の四葉と一緒に山奥にある御神体へと向かう。その御神体へと向かうシーンは『星を追う子ども』的な冒険ファンタジーをフラッシュバックさせ、そして御神体に辿り着くと祖母の一葉は御神体を取り囲む「川」を超えたら先は「あの世」と言う。この「(三途の)川」を超えたら「あの世」というギミックも、宮﨑駿の『千と千尋の神隠し』や『崖の上のポニョ』で言うところの「トンネル」抜ければ「異世界」と同じメタ的な意図を含んだギミックを用意している。まさか、ここでジブリのモノマネして失敗した駄作と言われる『星を追う子ども』の冒険ファンタジーっぷりを再見するなんて夢にも思わなかった。

『瀧=マシュー・マコノヒー』

主人公の瀧くんは三葉に会いに行こうと東京から岐阜へと向かう。物語はサスペンス風に変わり、瀧は衝撃的な真実に辿り着く。それは三葉の住む糸守町は、三年前にティアマト彗星が直撃して町ごと消滅していたことを知る。瀧くんは御神体へと向かい、三葉が奉納した口噛み酒を飲み干す。すると糸のように三葉の過去を知る旅というか、これはもう新海誠なりのワームホール的な五次元世界だと、つまり瀧くん=『インターステラー』のマシュー・マコノヒーだと僕は解釈した。それ以降は、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるSFにありがちな「未来を変えて命を救う」みたいな展開で、ティアマト彗星から住人を避難させるために三葉は仲間と奔走する。ここでは坂道で走ってズッコケてズザザザみたいな細田監督の『時をかける少女』のオマージュをふんだんに盛り込み、最後はティアマト彗星の隕石が糸守町へと衝突する瞬間、その災害シーンを思い切って新海誠は描いている。この災害シーンで感慨深いと思ったのは、「言の葉の庭」が前座扱いだった「風立ちぬ」で震災シーンを描いたパヤオを三年の時を経てリスペクトしたというか、2011年以降の日本に降り掛かった数多くの災害をエンターテイメントの世界に盛り込んでもエエやん的なノリを踏襲した象徴的なシーンだった。逃げずにしっかりと描ききった誠を見直した自分がいた。

物語は再び東京のシーンへと戻る。そこは糸守町の住人は奇跡的に避難している世界線だった。あれから8年後、瀧と三葉は「誰かを探している」思いを胸に秘めながら、それぞれ東京での生活を勤しんでいた。この東京のラストシーンはちょっと本当に凄くて、ある雪の日に「すれ違う」シーンは『秒速5センチメートル』の主人公の遠野貴樹とヒロインの篠原明里が最後に「すれ違う」シーンのセルフオマージュだし、というより、この『君の名は。』をSF映画として解釈すれば、これはもう御神体のワームホール(五次元世界)に突入した瀧くんが別の世界線から遠野の想いを繋いできたという解釈もできるし、逆にワームホール(五次元世界)に突っ込んだ瀧くんが辿り着いた世界線が「糸守町の住人が救われる世界線」だとするなら、その世界線こそが『秒速5センチメートル』の遠野が「ヒロインの篠原明里と結ばれる世界線」と解釈できるし、それこそ『君の名は。』の最大のテーマである「人と人、あの世とこの世を繋ぐ糸」は、新海誠作品の『過去』と『今』を繋ぐ糸でもある、そのトンデモなく超絶的なスケールに、そして『君の名は。』は「新海誠レガシー」の賜であるという答えに辿り着いた瞬間、最後の最後で瀧(遠野)と三葉(篠原)が時空と次元を超越して出会った瞬間、僕は大粒の涙を流していた。つまり、ラストの東京のシーンは『君の名は。』の世界というより、新海誠作品のパラレルワールドの一つとして認識すべきかもしれない。

『否定と肯定』

これは「救い」すなわち「救済」の物語だ。これは俺たち童貞の星だった新海誠によるオタクの救済なんだって。鬱映画だなんだと評される『秒速5センチメートル』の主人公をはじめ、新海誠監督はこれまで一貫して「否定」の世界の人間を描いてきた。しかし、この『君の名は。』では一転して「肯定」の世界を繰り広げている。まず『秒速5センチメートル』の遠野とヒロインを「肯定」することで、俺たち秒速フアンの鬱な思い出すら「肯定」、すなわち救いの手を差し伸べてくれているし、あの『星を追う子ども』の失敗すら『君の名は。』という名の『新海誠レガシー』の一部として徹底して「肯定」している。それすなわち、全ての新海誠作品の「肯定」でもある。瀧くんはワームホールという五次元空間を介して、俺たち童貞や雪野先生を含む過去の「否定の世界」の住人を『君の名は。』という「肯定の世界」へと救済しているんだ。つまり、これまで一貫して誠が描いてきた「否定の世界」に対する理解がないと、一体何のために『君の名は。』で「肯定の世界」をやったのかが分からなくなる。

『コンプレックス』

確かに、確かにこれまでの新海誠は「否定の世界」の住人だったし、そもそも「クリエイティブ」および創造の原動力って、それこそオタク特有の内省的なコンプレックスであって、俺たちオタクは誠の「コンプレックス」に共感し、その「コンプレックス」を「クリエイティブ」に昇華した作品を支持してきたハズだ。しかし、皮肉にもこの『君の名は。』では誠のキョロ充的なコンプレックスが解消されただけで、本来のオタクとしてのコンプレックスを昇華するクリエイティビティはまるで発揮されていないし、まるで応用されていない。これって音楽業界に例えると、インディーズバンドがメジャーという商業主義に魂を売って従来のフアンに叩かれる構図そのもので、つまり女子供という周りの目が気になってしょうがないキョロ充層がメインの客層であって、それが『君の名は。』がここまで売れた大きな理由でもある。『秒速5センチメートル』の主人公遠野は「否定の世界」の住人らしい葛藤を持つ内省的なキャラクターだったが、今作の主人公の瀧くんとは葛藤なんてない、「セックス!セックス!セックス!セックスがしたい!」という感情、ヒロインの三葉にいたっては西野カナばりの「会いたい会いたい会いたいな」みたいな、それこそ本作のメイン層であるティーン・エイジャーの煩悩に訴えかける「セックス・エネルギー」によって、次元と時空を超えて出会ったんだ。

『売れた要因』 
 
ではなぜ『君の名は。』はここまで売れたのか?おいら、ヒロイン三葉の同級生の勅使河原克彦のキャラデザを見た時、またしてもデジャブを感じたのだけど、それはずっと前に『心が叫びたがってるんだ。』とかいうアニメ映画を見たのだけど、それに出てくる坊主頭のキャラとデザインがクリソツで、まさかと思って調べてみたら案の定「ここさけ」の田中将賀氏が『君の名は。』のキャラデザを手がけていて、更に作画監督としてジブリ界隈の安藤 雅司氏を起用しており、それによりこれまでのB級的なキャラデザから一転してイマドキっぽい洗練されたA級のキャラクターデザインへと大きな変化をもたらしている。その現代アニメーションを代表する「ここさけ」と日本の伝統的なアニメーションである「ジブリ」を両脇に固めた時点で勝ちは決まったようなもんで、まず一般ピーポーの視聴に耐えうるキャラデザが「売れた」要因の一つと言える。

『批判』

つまり、ジブリ界隈の大衆性とイマドキのアニメを代表するキャラデザ、そしてSNSという今の時代を象徴するギミック、そして『時をかける少女』や『エヴァンゲリオン』などのセカイ系を全て飲み込んだ、もはや「こっちのがシン・ゴジラだろwww」って笑っちゃうくらい、ある意味で業界の「タブー」を犯した全日本アニメーションが『君の名は。』である。確かに、面白いというか皮肉なことに『海街diary』の是枝監督も言っていたことだが、『君の名は。』の批判する意見の一つに「売れる要素を詰め込んだだけ」という批評がある。確かに、タイトルの『君の名は。』からして「借り物」だし、「入れ替わり」の設定はB級ラノベに腐るほどある陳腐な設定かもしれない。アニメーションの側に至っても流行りの絵柄やジブリ界隈の人材を吸収し、キャラだってシスコン的な役割を担うバイトの先輩やジブリリスペクトなロリコン的な役割を担う四葉、そして「なんでもお見通しキャラ」である祖父のババアを網羅し、何と言っても極めつけにはティーン・エイジャーに大人気のバンプもといRADWIMPSが音楽担当ってんだから、むしろ逆に「売れないわけない」と誰しもが思うはずだ。その批判は否定しようもない事実かもしれない。しかし、そのあらゆる過去と今の要素をコピーして繋げて一つのアニメーションとして形にする創作技術って、それこそ日本人が得意とする技術の一つだと思うし、つまり『君の名は。』のテーマである「糸」は物語のセカイを超えて、伝統的な日本アニメ業界とイマドキの日本アニメ業界を繋ぐ「糸」としての役割も担っているんだ。確かに、それなら別に誠がやる必要がない、それこそ細田監督にやらせればいいだろ的な意見も理解できる。でもこの『ほしのこえ』を踏襲したSF的なスケール感や『星を追う子ども』を踏襲した壮大な冒険ファンタジーを一つに繋ぐことができる人材って新海誠の他にいなくて、それこそ全てのタイミングが合致した末に生まれた作品というか、紛れもなく「本物のオタク」による「本物のオタク」のための究極のエンターテイメント映画と言える。

ところでおいら、新海誠監督が描くセンチメンタルでエモーショナルな作風と岩井俊二監督が描く少女漫画的で二次元的な作風は互いに似たフィーリングを持っていると感じていて、今になってそれを確信づける出来事があった。おいら、だいぶ前に岩井俊二監督の新作映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』を観たんだけど、そのとあるシーンで帽子かぶった奴がピアノを弾くという意味深なシーンがあって、その時はRADWIMPS=帽子被ってる奴らみたいなイメージしかなかった僕は「まさか」と思って調べてみたら案の定その帽子被った人物がRADWIMPSの野田洋次郎だと知った時はちょっと驚いたというか、言ってしまえばそれも『君の名は。』のテーマである「人と人」を繋ぐ「糸」があって、もっと言えば今作のスペシャルサンクスに岩井俊二監督の名があったのが全てというか、自分の中で過去の何気ない伏線が「糸」のように繋がっていくことに謎の感動を憶えた。

音楽の世界でも、この手の自身の過去作品や他社の過去作品をオマージュして集大成的なアルバムと語るアーティストは決して少なくない。そういった意味でも、この『君の名は。』はただのアニメ映画というよりはもの凄く「音楽的」なギミックが秘められた作品と捉えるべきかもしれない。

『君の名は。』=『日本のインターステラー』

『君の名は。』の批判の一つに、瀧くんと三葉の世界線が三年ズレてるのが会話の内容で気づくだろ的なことや、いわゆるタイムリープ的なシーンのSF的解釈がガバガバで説得力がないという批判めいた意見も目につく。確かに、宇宙と地球の近くて遠い存在を繊細に描き出した、相対性理論をはじめ物理学的な解釈を応用した処女作の『ほしのこえ』と比べるとSF的な説得力は乏しいかもしれない。しかし、マシュー・マコノヒー主演のクリストファー・ノーラン監督の映画『インターステラー』を観た人の視点からだとどうだろう?この映画を好きな人なら瀧くんが御神体で五次元空間(ワームホール)に入った瞬間に「これは日本のインターステラーだ!瀧くんこそマシュー・マコノヒーなんだ!」ってなるでしょ。そう、現代の「ヒーロー像」その象徴が瀧くんなんだ。SF映画といえば、その代表格である『バタフライ・エフェクト』も新海誠に多大なる影響を与えている。例えば『秒速5センチメートル』のラストシーンの「すれ違い」は『バタフライ・エフェクト』の影響と言われているけど、自分は『君の名は。』の最後の東京のシーンの「すれ違い」の方がSF的な俺の解釈や同じ「8年後」という設定も相まって俄然『バタフライ・エフェクト』っぽいなと思った。なぜなら、『バタフライ・エフェクト』は複数のエンディングが用意されたマルチエンディング方式の映画で、通常は「すれ違いエンド」なんだが、有名なのはストーカーエンドと「君の名は?」みたいに声をかけるハッピーエンドのパターンだ。この件で本当に面白いのは、最後の東京の雪のシーンで『秒速』と『BE』の「すれ違い」のオマージュをやって見せた後に、『秒速』の遠野とヒロインが次元を超えて結ばれるハッピーエンドで締める辺りは本当に誠は天才かよと思ったし、男泣き不可避だったよね。

『アニメ界のクリストファー・ノーラン』

当然、日本一のジョジョヲタである僕は、『ジョジョの奇妙な冒険』と『君の名は。』をリンクさせながら見ることもできた。そもそも、クリストファー・ノーランの『インターステラー』はジョジョ6部そのまんまだと思ってて、ジョジョ6部で徐倫がミュウミュウのスタンド攻撃を食らって3つの出来事しか記憶できない時に手に記憶を刻むやり方は『君の名は。』でもあるし、もっというとラストの東京のシーンは新海誠作品が一巡した先の話、もっと言えば瀧くんが多次元世界からD4Cを使って遠野を連れてきた世界の話、すなわちパラレルワールドだと解釈できる。そういった意味でも、「奇をてらったように見えて王道」であるパターンの荒木飛呂彦やクリストファー・ノーランの作家性と肩を並べるレベルまで誠は到達したのかもしれない。漫画界のクリストファー・ノーランが荒木飛呂彦ならば、アニメ界のクリストファー・ノーランは新海誠だ。

『オレはいったい誰なんだッ』

ふと「君の名は。」の対義語って何だろう?と考えてみた。巷では既に駄作認定されている現在連載中のジョジョ8部ジョジョリオンの主人公の東方定助も記憶がない設定で、彼の有名なセリフに「オレはいったい誰なんだッ!?」ってのがあって、これって「君の名は。」の対義語なんじゃねーのと思ったのと、恐らくもう一度ロカカカの実を食べて記憶を消失するであろう主人公の東方定助とヒロインの康穂が瀧くんと三葉みたいなラストシーンを迎えたら面白いんじゃねーの飛呂彦?的な妄想が捗った。イマドキのSNS要素やパラレル要素やジョジョ歴代最高にエモーショナルな作風的にも全然アリじゃね?

東方定助「オレはいったい誰なんだッ!?」

広瀬康穂「君の名は。」

???「僕の名前は・・・チ・・・チンポリオです!」


個人的に消化不良だと思った点は、三葉の親が最後の最後までヒール役になってて、最後の東京のシーンで三葉が父親と電話してるシーンを入れても良かったんじゃねーかとは思った。序盤に何かと絡んできたDQN系の同級生や高校生になった四葉の「その後」は描かれているのにも関わらず、唯一父親だけはフォローが一切なくて親父完全にヒールやんって悲しくなった。でもその辺は小説版でフォローされてるらしい?あと名古屋民や岐阜県民は名古屋駅のJR構内が一瞬映る時にニヤリとできます。

じゃあ果たして本当に新海誠は俺たちオタクを見捨てたのだろうか?いや違う。 「否定の世界」のオタクを裏切ったとか、大衆アニメに魂を売ったとか、キョロ充化しかたとか、いやそうじゃない。過去作と比べてどうとかでもない、過去作があってこその『君の名は。』であり、根本的な部分は何も変わっちゃあいないし、紛れもなく正真正銘の新海誠映画だ。じゃあ一体何が変わったのか?それは「否定の世界」から「肯定の世界」へと変わっただけだ。この映画を叩こうとすればするほど、つまり「否定」しようとすればするほど、更にその上を行く「肯定」のエネルギーによって全力で「肯定」仕返してくる。むしろ叩けるか?これ本当にパンピー向けの大衆アニメか?これ実は俺たち「本物のオタク」向けのオタク映画なんじゃねーか?って。つまり、表面上はパンピー向けの大衆アニメだが、しかしその裏にはコアなオタクしか気づけないギミックだったりメタ的な要素だったり、そして何よりも「新海誠レガシー」の結晶、その集大成であることを示している。むしろ誠にとっては次作が勝負だと思う。『君の名は。』で「新海誠レガシー」という名の過去の遺産を全て食いつぶしてしまったわけで、もう同じ手が使えない全く新しいシン・海誠の次作が楽しみでしょうがない。

おいら、近年著しく増え続けている「オタク気取りのニワカ」が大嫌いで、まさにこの『君の名は。』に批判的な人間って「オタク気取りのニワカ」だと思う。まずメイン層の女子供は「なにかわからんが最後出会えて泣ける~」みたいなノリで楽しめるだろうし、逆に僕みたいな「本物のオタク」は一回観ただけでここに書いた『君の名は。』の全てが理解できるハズだ。そのパンピーと「本物のオタク」の間にいる1番中途半端なオタク気取りのニワカに限って、安易に『君の名は。』を叩いてしまう。この『君の名は。』が凄いところは、今の日本に蔓延るニワカを炙り出すための作品としても機能するところだ。事実、この『君の名は。』を叩ける人材って少なくとも日本では宮﨑駿しかいませんし、実際にパヤオに『君の名は。』を見せても一言「絶対に許しません!」と一蹴するのは目に見えている。この『君の名は。』を観たら余計に「ポスト宮﨑駿」なんて言えないハズだ。むしろパヤオのオリジナリティに改めて脱帽するだろうし、現代日本が持ち寄る全日本アニメーションを集結させた誠の創作術とは比較対象にすらならない。僕は「超えちゃいけないライン」の上に立つ人間こそ、その分野の『神』に最も近い存在となれると思っていて、日本アニメ界の『神』は他ならぬジブリの宮﨑パヤオで、つまり新海誠は『君の名は。』でその神であるパヤオに日本で最も近い存在となったと言えるだろう。

面白いのは、恐らく新海作品を観たことがないリア充カップルは映画館で『君の名は。』を観た後にセックスできてWINだし、一方で黄金の童貞」である俺たち本物のオタクは、セックスこそできないがカップルやオタク気取りのニワカが一生知ることのない『君の名は。』の全てを理解することが出来る、つまりオタクの世界にとって「クリエイティブ」を理解する=セックス以上の快楽を得ることと同意で、それこそリア充と非リアがお互いにWINWINな関係になれる映画って作ろうと思っても簡単に作れるもんでもないし、そこが新海マジックだと思った。とは言え、俺たち童貞オタクの誰しもが「新海誠の童貞奪った女ぜってー許さねぇ...」とこの映画を見終えた後に泣きながら囁いたはずだ。やっぱり童貞の星だった新海誠の童貞をトリモロスことができるのは、日本には約数百人しか存在しないとされる「本物のオタク」しかいなんじゃないかって。それこそライムスター宇多丸や老害サブカルおじさんの批評でもない、今の誠には「正当な評価」が必要だ。その「正当な評価」ができるのは俺たち本物のオタクしかいないんだ。誠のこれ以上の暴走モードを止めるのは俺たち童貞しかいないんだ。だから待ってろ誠・・・俺たち「本物のオタク」が・・・

「新海誠の『童貞』をトリモロス!」 

宇多田ヒカル 『Fantôme』

20160809-utadahikaru

Tracklist

01.
02. 俺の彼女
03. 花束を君に
04. 二時間だけのバカンス (feat. 椎名林檎)
05. 人魚
06. ともだち with 小袋成彬
07. 真夏の通り雨
08. 荒野の狼
09. 忘却 (feat. KOHH)
10: 人生最高の日
11: 桜流し

ヒッキーこと宇多田ヒカルの約8年ぶり通算6作目となる新作、その名も『Fantôme』はフランス語で「幻」や「気配」を意味する言葉らしい。

自分の中で宇多田ヒカルっていうと、まだ日本で音楽番組が盛んだった時代に一世を風靡した女性歌手、みたいな漠然としたミーハーなイメージしか持っていないのだけど、当然、代表的な曲はTVや街中から聴こえてくるBGMとして耳にしていたからよく知っている。しかしどうだろう、今の時代どの街を歩いてみても「音楽」というか「音」そのものが街中から消えてしまった、ここ数年そんな言葉をよく耳にするようになって久しい。

では最近、「宇多田ヒカル」の名前を明確に意識したのって何時だろう?と記憶を巡らせてみた。それは数年前に『宇多田ヒカルのうた -13組の音楽家による13の解釈について-』をたまたま姉から譲り受けて聴いた時だった。この作品は、ヒッキーと同じ1998年デビュー組の椎名林檎浜崎あゆみをはじめとした著名なアーティストが宇多田ヒカルの名曲をカバーしたコンピレーション・アルバムで、日本がまだ音楽に対して強い関心があった時代にシノギを削り合ってた歌姫同士が、十数年の時を経て互いに認め合うかのようでもあって妙に胸がアツくなった。

思わず「ハッ」っと目が醒めるようなイントロで始まる一曲目の”道”から、荊棘のように険しく、しかし薔薇のように美しい『人生』という名の『道』を力強く踏みしめていくようなリリックと、往年の宇多田ヒカルらしくもありながらも、しかしwoob woobもといダブステップなどのイマドキ感溢れる打ち込みを擁したR&B調のリズム&ビートを刻んでいく、それこそオープニングを飾るに相応しいアリアナ・グランデもビックリの「王道的」な「ポップス」で、もはや「日本の音楽は全て宇多田ヒカルから始まる」と言わんばかりの、それこそ「シン・J-POP時代」の幕開けを宣言するかのような名曲だ。この曲だけで海外のitunesチャートを一時席巻したというヒッキー本人もビックリのニュースに多少なりの説得力が持てるんじゃあないだろうか。

何が面白いって、それこそこの『Fantôme』を勝利への『道』へと、スピリチュアな『道』へと導くかのようなイントロ及びバッキバキの打ち込みやミニマルなフレーズを耳にした瞬間、天声ジングルをドロップした相対性理論やくしまるえつこが嫉妬して更に病んでしまう事案が容易に想像できてしまったことだ。世界中の人が「これが本物のJ-POPなのか」と思ったハズ。あとサビに挟まれる「Run」がyoutubeのドッキリシリーズ『Jalals Run』を思い出してどうしても笑ってしまう。

まるで全てのJ-POPを過去のものにするかのような、大袈裟じゃなしにそれくらい今のJ-POP界に大きな風穴を開けるような”ファースト・インパクト”となる幕開けの余韻に後ろ髪を引かれながらも、盟友椎名林檎リスペクトな少しオラついた歌い方で始まる二曲目の”俺の彼女”は、男視点のダーティな歌詞と女視点の歌詞を演じ分ける”ジェンダー”なボイス・パフォーマンスを筆頭に、中盤から終盤にかけて美しくも儚い人生を優雅に彩るようなストリングスを全面に押し出した、それこそポスト-系にも通じる壮麗優美な展開には只ならぬエネルギーを感じさせる。あと終盤の「俺には夢がない~」以降のもう本当にどうしようもない歌詞がもう本当にどうしようもなくてサイコー。

『ブス姉ちゃん』こと高畑充希主演の朝ドラ主題歌として、毎朝半ば強制的に聞かされていた三曲目の”花束を君に”、フレンチポップみたいなイントロから始まる四曲目の”二時間だけのバカンス”では椎名林檎とのデュエットを披露していて、正直椎名林檎が宇多田ヒカルの曲をカバーしただけでも十分凄いことだというのに、まさか宇多田ヒカルのオリジナル・アルバムでガチでコラボしちゃうなんて思いもしなかったというか、これは朝ドラ主題歌の件もそうだのだけど、ここ最近の椎名林檎の目覚ましい活躍が活動休止中のヒッキーにどれだけの勇気と刺激を与えたのか、そしてどれだけ大きな影響を与えたのかが分かる事案でもある。もはや禁断の果実の如し、アンタッチャブルな二人の歌姫による小百合ナンバーだ。

ハープの音色による幻想的な世界観を繰り広げる#5”人魚”、小袋成彬氏をゲストに迎えた曲でtoeっぽいミニマルなアコギ主体の#6”ともだち”、某ニュース番組のED曲の#7”真夏の通り雨”、オシャンティなトラックと歌謡曲を経由した往年のJ-POPらしいヒッキーの歌が素晴らしい8”荒野の狼”、アトモスフィアな音響空間の中で日本語ラップ界の新生KOHHによって尾崎豊を現代に蘇らせる#9”忘却”、そのタイトルどおりめっちゃ前向きなJ-POPチューンの#10”人生最高の日”

実はカバー集の『宇多田ヒカルのうた』よりも前に「やっぱ宇多田ヒカルってスゲーわ」と思い知らされた出来事があって、それが『新劇場版エヴァンゲリオンQ』の主題歌として起用された”桜流し”を聴いた時だ。この曲を初めて耳にした瞬間、昨年奇跡の来日公演を果たしたANATHEMA”Untouchable, Part 2”が脳裏に過ぎったくらい、いわゆるPost-系バラードの一つの完成形で、僕はここでも「なぜ日本におけるPost-Progressiveとかいうジャンルが女性的なジャンルであるのか」を再確認した。もっとも面白いのは、この曲はヒッキーとイギリス人プロデューサーであるポール・カーター氏の共作であるところで、このそこはかとないUKミュージックっぽい感じの正体は、他ならぬ彼によるものだったのだ。

まるでメンヘラクソ女の自撮りみたいなジャケから放たれるは、『シン・J-POP時代』の幕開けだった。自分は熱心な宇多田ヒカルフアンとかではないので、このアルバムを椎名林檎『日出処』相対性理論天声ジングルというメンヘラサブカルクソ女フィルターを通してでしか分析できないが、正直それ抜きにしてもJ-POPとして文句なしの傑作だし、この日本にはまだ「曲が書ける」人が存在するんだって素直に喜びを噛み締めた。でもやっぱり椎名林ンゴの影響力ってスゲーな思うし、恐らく2020年に開催される東京ンゴ輪ではきっと何かしらの楽曲提供、あるいは林ンゴと一緒に音楽面でのバックアップが期待できると思うし、当然期待したい。あと始めと終わりの曲がずば抜けて凄いところや、”人生最高の日”から”桜流し”の流れが、『天声ジングル』”おやすみ地球”から”FLASHBACK”の流れに似たナニかを感じたから、やっぱこれ聴いたえつこ嫉妬してヘラってるわ多分。

今のように複数形態やCDという名の握手券などの”アコギ”な売り方が当たり前ではなかった、「あの頃」のように通常一形態でのリリースという潔さからは、正しい音楽のあり方を、正しい音楽の楽しみ方を忘れてしまった現代の僕たちを戒めるかのよう。まるで宇多田ヒカルというファントームに導かれ、「あの頃」と全く同じ音楽体験そのノスタルジーと記憶をフラッシュバックさせる。もはや宇多田ヒカルの歌声は、「音楽」の価値というものが著しく失われつつあるこの現代社会を生きる人々に、まだ「音楽」が日常として身近に存在していた「あの頃」と同じように、それ即ち「気配」と同じように人々の側にソッと常に寄り添うかのよう。まさしくこれが「生ける音楽」なのかもしれない。
 
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宇多田ヒカル
Universal Music =music= (2016-09-28)
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BABYMETAL 『METAL RESISTANCE』

Artist BABYMETAL
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Album 『METAL RESISTANCE』
Metal-Resistance-artwork

Tracklist
01. Road of Resistance
02. KARATE
03. あわだまフィーバー
04. ヤバッ!
05. Amore-蒼星-
06. META!メタ太郎
07. シンコペーション
08. GJ!
09. Sis.Anger
10. NO RAIN, NO RAINBOW
11. Tales of The Destinies
12. THE ONE

久しくベビメタを追ってなかった僕が、偶然話題になっていたYUI-METALの激痩せ画像を目にした時は、それはそれは「もうYUIちゃんを解放してやれよ・・・いい加減に朝ドラヒロイン路線に進ませてやれよ・・・」と切実に思った次第で、そんなBABYMETALといえば→2013年のサマソニ大阪のライブで「いま最も勢いのあるアイドル」だと確信させる圧倒的なパフォーマンスを見せつけ、そして2014年には「デビュー・アルバムにして最高傑作」と名高いBABYMETALをドロップした。それと同時に、極東の島国を震源地に各所で「ベビメタはメタルorメタルじゃない論争」を巻き起こし、またたく間にその名を世界中に轟かせた。それなのに今のベビメタときたら、まるで誰にでも股を開くクソビッチのように海外アーティストとのチェキ会ならぬ媚を売っているときた。確かに、いわゆる「アイドル」っつー職業自体、キモヲタと握手するか業界のお偉いさんのナニと握手するかの違いでしかなくて、ところでおいら、この手の「私たち有名人と仲いいですよ、認められてますよ」と半ば脅しに近いような、全方位に媚を売っていくスタイルの事を「クソビッチ型マーケティング」と呼んでて、シンプルな話、国民的アイドルのももクロが日本で展開してきたその「クソビッチ型マーケティング」をそのまま海外で展開して成功した例がこのベビメタだ。その誰にでも股を開く姿は、まさしくイエローキャブさながらだ。おいら、この手の「クソビッチ型マーケティング」って生理的に受け付けなくて、しかし今のベビメタは全盛期のももクロ以上に度が過ぎる下賤なイエローキャブっぷりで、ただただ嫌悪感しか沸かなかった。しかしプロデューサーのコバメタルは、なぜここまでマーケティングに力を入れ始めたのか?ふと僕は考えた。真っ先に思いついたのが、デビュー・アルバムにして最高傑作のBABYMETALを超える「曲が書けなくなった」、あるいは「書くことを放棄」したんじゃあないかって。それなら、今のベビメタが執拗に海外アーティストに認められてますよアピールに勤しむのにも合点がいく。まぁ、こうやってディスるにしても、約二年ぶりに発表された2ndアルバム『METAL RESISTANCE』を聴いてからでも決して遅くはないんじゃあないか?ということで、全世界同時発売となる4月1日=FOX DAYに買って聴いてみた。

『ベビメタ軍VS.アグネス(ラム)軍』
kannsei

この『METAL RESISTANCE』というアルバムタイトルを司る”Road of Resistance”から、極東の島国を舞台に約300人のロリコンモッシュメイト率いるベビメタ軍と国内最大のアンチベビメタ勢力であり俺の感性率いる約一万のアグネス(ラム)軍が睨み合い、両軍の怒号や咆哮が激しく飛び交う中、「さあ、時は来た」とばかり法螺を吹き上げる宣戦布告の合図、そしてSU-MOA-YUI-METALの三姉妹の『母』=『マザー』であり、映画『300(スリーハンドレッド)』のレオニダス王の『王妃』すなわち『クイーン』、あるいは今最も面白い海外ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』のサーセイ役ことレナ・ヘディの顔芸を合図に、この「ロリコンの威信」もとい「メタルの威信」を賭けた戦いの火蓋は切って落とされる。この曲は、まずベビメタ軍の援軍として、BPM最大で颯爽と戦場に現れたDragonForceのイケメンことハーマン・リサムによる中華風ツインギター・メロディ、ついつい合間にビール瓶を片手に一気飲みしたくなるGソロがミョ~ンミョ~ンと炸裂する典型的なメロスピなのだが、そもそも前作の『BABYMETAL』が世界で高く評価された理由及び「ベビメタの面白さ」って、海外のメタルバンドとは一線を画したJ-POPと国産ラウドロックを融合させたミクスチャー、その他にはないユニークさだったと考えているのだけど、しかしこの曲に限っては露骨に欧州メタルというかドラフォリスペクトな曲だ。・・・戦況は、俺の感性率いるアグネス(ラム)軍の一万の矢にも勝る先制dis攻撃により、ベビメタ軍を一瞬にして壊滅状態に追いやる。しかし瀕死状態のベビメタ軍は、スパルタ王と王妃の娘であり随一の戦乙女であるSU-METALによるウォーオーオーオー!ウォーオーオーオー!という雄叫び(シンガロング)からのイケメンGソロによって再びモッシュメイトを鼓舞し、そして命が続く限り 決して 背を向けたりはしないという最後まで諦めないスパルタの不屈の精神と戦う『勇気』が込められた『魂』のリリックが、北欧神話の『神』オーディンを深い眠りから呼び覚まし、北欧イエテボリ・スタイル直系の殺傷リフが古代の聖剣『ヴァルハラソード』へとその姿を変え、右手にその聖剣を授かりし戦乙女は、アグネス(ラム)軍の屈強な兵士たちをバッタバッタとなぎ倒し、そして狂喜乱舞する。戦場に取り残されたSUMETALYUIMETALMOAMETALの三人は、レジスタンス!レジスタンス!ジャスティス!フォーエバー!と戦場の中心で高らかにメタル愛を叫び、『マザー』であるヘナ・レディとの約束と使命を果たす・・・。
 

ベビメタが2ndアルバムをリリースするとの情報を得た僕は、この”KARATE”トレイラーで初めて「セイヤ!ソイヤ!」という掛け声を耳にした時は「ベビメタ終わってた...」と呟いた。まず曲が書けていないという致命的な要素から、まるで(空手が正式種目として採用された)2020年の東京五輪を見据えた【五輪マーケティング】安倍マリオ率いる日本政府主導のクールジャパンに陽動されて【クソビッチ型マーケティング】せざるを得ない状況にまでベビメタ軍は追い詰められていた。それこそ「メタルレジスタンス」が政府の傀儡化するなんて最高の皮肉だな!って。しかし、フル音源で聴いてみたらそのネガティヴなイメージが一転した。欧州メタル、ドラフォ然とした一曲目とは打って変わって、「海外」は「海外」でもメタルの暗黒期と呼ばれた90年代のUSメタルバンドが得意とするミドル・テンポの曲調で、全世界で初めて【アイドル×Djent】をやってのけた前作の”悪夢の輪舞曲”みたいなPeripheryライクなイマドキのDjentではなく、そのDjentの生みの親として知られるMeshuggahリスペクトな鬼グルーヴと重厚なモダン・ヘヴィネス主体で展開していく。この手の「捨て曲」になりがちな曲を、アリーナ級それこそ東京ドーム級のライブ会場に響き渡るかのような、それこそアミューズの先輩であるPerfumeリスペクトなアトモスフェリックな空間/残響表現を意識したアレンジで化かしている。この曲をアルバムのリード曲としてMVカット&二曲目に持ってきたのは、もはや今のベビメタは日本ではなく「海外」が主戦場であること・・・いや、「ガラパゴス」という言葉を隠れ蓑に世界と「戦う」ことから逃げ続けている企業や国内アーティストに向けて、セイヤ!ソイヤ!と日本人としての誇りを胸に世界で戦っていく、そんな五輪選手ばりに強い『意志』『覚悟』を見せつけるような曲でもあるし、同時にメタル暗黒期と呼ばれた時代に一世を風靡したグランジやモダン・ヘヴィネスを意図的に排除してきた日本の某メタル雑誌を皮肉るかのような曲でもある。正直、深刻な「ライティング不足」により話題性や【五輪マーケティング】にぶん投げする路線にしか見えなくて「ベビメタ終わってた」とドヤ顔でdisったら違った、むしろ「曲が書け過ぎ」てて笑った。

「ベビメタのピーク」っていつ?と聞かれたら、誰もが「ギミチョコのMVがyoutubeにアップされた時」と答えるのが容易に想像できるくらい、正直あれが世界中のベビメタ人気に火をつけた感あるし、正直あれがなかったらベビメタの現状はありえなかっただろうし、事実それ以降のベビメタは誰も手が届かない『メイド・イン・ヘブン』ばりの勢いとスピードで世界中を駆け抜けていったのは、既に読者もご存じのことだろう。その同作曲者である上田剛士氏が手がけたガムソングこと”あわだまフィーバー”は、その”ギミチョコ”を踏襲したサイバーパンク/インダストリアルな曲調で、結局のところ「ギミチョコというピーク」を超えられない二番煎じソングかと思いきや...バッキングのクリーン・トーンのギター・フレーズをはじめ、次作でベビメタがポスト・ブラック化する事を示唆するかの如し、それこそ今をトキメクDEAFHEAVENばりのノイジーなアウトロを耳にした時は「ン゛ン゛ッ゛!?」って変な声が漏れた。”KARATE”と同様、細部にまで”こだわり”が行き渡った音のアレンジやメロディ/フレーズにここでも驚かされ、それは依然曲が書けているという一つの大きな根拠にも繋がっている。

一転して、いい意味で小学校低学年レベルのkawaii歌詞やクラップを取り入れた、ついついサイリウムを振り回しながら振りコピ不可避なファンキーでファニーなノリで展開する”ヤバッ!”は、まるで中年のオッサンがデリヘル呼んでホテルで嬢と初対面した時→「なんか(パネルと)違う なんか(パネルと)違う」みたいな刹那的かつ切実なキモチを謳ったサビも然ることながら、ピコリーモ風のアレンジや極悪なブレイクダウンを織り交ぜながら展開するパリピチューンで、特にラストの「でもね 違うー!」と連呼しまくるセンセーショナルな怒涛の展開力には脳天ブチヌカれること必須。

アンチ・ベビメタ軍の指揮官である僕がベビメタを認めるライン、それは過去にベビメタを初めて記事にした時既に書き記していて、それこそメタル界屈指のエンジニアとして知られるイェンス・ボグレンBABYMETALの邂逅だ。その時はきたのが今回の『METAL RESISTANCE』であり、この”アモーレ長友”もとい”Amore-蒼星-”だ。そのタイトルから想像できるように、この曲は前作の”紅月-アカツキ-”と対になる曲で、”紅月”といえばX JAPANをオマージュした疾走ナンバーだが、この”アモーレ長友”もメロスピの元祖であるHalloweenの名曲”Eagle Fly Free”をはじめ、X JAPAN”Silent Jealousy””Dahlia”を筆頭とした疾走曲の系譜を受け継ぐ曲と言える。アモーレ感あふれる叙情詩的な歌詞の中に「24時間走り続ける」、それを有言実行してきた今のベビメタを示唆する前向きな歌詞を、また一段と”ボーカリスト”としての才能を開花させた感のあるSU-METALの歌声、その存在感にひれ伏す曲だ。SU-METALがここまで素直なボーカル・メロディを歌うことって恐らく初めてだと思うし、特に中盤の見せ場である「もしも君を~」のパートは、彼女のベビメタ史上最も美しく自然体の「いい声」が録音されている。当然、彼女の「いい声」の魅力を最大限に引き出した功労者であり、SU-METALを一人のボーカリストとして、大人だから子供だからって、男だから女だからって、イエローだからって関係ない、SU-METALを「一人のメタルボーカリスト」としてリスペクトした、何よりも「神バンドのフロントマン」としてフォーカスしたイェンス・ボグレンのエンジニア技術に、そして彼の黄金のリベラリズム」を感じ取った僕は涙で明日が見えなくなった。国内エンジニアがミックスした他の楽曲と比較しても一目瞭然で、単純に場数と経験の差が音に現れている。それはSU-METALの歌声と神バンドの絶妙な距離感だったり、声をイタズラに加工せずまさに素材の良さを活かすような、とにかく歌い手の『声』を第一に考えたイェンス・ミックスの特徴が最大限に活かされている。そういった意味でも、この曲はSU-METALが生まれて初めて「VOCALIST」として認められた歴史的瞬間と言えるのかもしれない。

あらためてBABYMETALイェンス・ボグレンが、SU-METALイェンス・ボグレンが邂逅した歴史的事実に猛烈な感動を憶えながらも、僕はもう一つ忘れてはならない「ある事実」に気がついた。これは実質的に【BABYMETAL(≒X JAPAN)×イェンス・ボグレン=『夢』】なんじゃあないか、ということ。今年に入って、なぜX JAPANが日本人初となるウェンブリー・アリーナ公演のライブを急遽キャンセルし、本来は3.11にリリースされるハズだった新作までお流れする事になったのか?なぜ日本人初のウェンブリー・アリーナ公演を実現させるハズだったX JAPANを差し置いて、言わばその代役としてこのBABYMETALが選ばれたのか?なぜこのタイミングでベビメタがアルバムをリリースしたのか?それはある意味、いや実質的にYOSHIKIがベビメタをX JAPANの後継者として正式に認めたことを意味していて、その真実に気づいた僕は、なぜベビメタがBABYMETAL JAPANを襲名したのか、その意味を心の底から『理解』することができた。つまり、日本人初のウェンブリー公演を行ったのがBABYMETAL JAPANであればこそ、それは実質的にX JAPANが演った事と同意で、むしろそうじゃなきゃX JAPANとコルセットクソ野郎ことYOSHIKIのメンツは保たれないし、そうじゃなきゃまたYOSHIKIがヘラって「I leave X JAPAN...」とか言い出しかねない。まぁ、それはともかくとして、この曲はイェンス・ボグレン×実質X JAPANという僕が28年間生きてきた中で『夢』にまで見たコラボを擬似的に、いや奇跡的に実現させている。
 
nakamoto

まるで「ベビメタのマーチ」と言わんばかりの#6”META!メタ太郎”は、高校野球の応援歌みたいな某行進曲を北欧ヴァイキングメタル的な民謡風アレンジで仕立てあげた、これまでのガチメタった流れとは一転してベビメタらしい”kawaii”を押し出した、今作の中で唯一ソングライティングよりもユーモラスを優先した曲だ。再びイントロからSOILWORKばりのブラストと叙情的なギターで疾走する#7”シンコペーション”は、まるでアニメ『バジリスク』の神OPでお馴染みの陰陽座の神曲”甲賀忍法帖”をオマージュしたかのような、それこそSU-METALがニャンニャン♪と黒猫のように凛々しくも妖艶に歌い上げるファストナンバーで、それと同時に高鳴るビート 燃えるほど 震えて ほどけないというアツい歌詞からは、ジョジョ一部の主人公ジョナサン・ジョースターの名言を彷彿とさせ、そして曲の方でも隙あらば間奏でPeriphery型のハーマン・リーもといジェント・リーなパートをぶっ込んでくるという隙のなさ。

一般ピープルの世界では、いわゆる「GJ!」と言ったら「Good Job!」の略が定説だが、しかしこの鋼鉄世界の「GJ!」は欧州の破壊神「GoJira」「GJ!」であることを、まるで伝説の巨大クジラ『白鯨』が起こす巨大津波の衝撃波のような「バンッバンッバンッ!!」から「キュルルゥゥ!!」とかいう白鯨がモリにぶっ刺された時の鳴き声オマージュのイントロからGojiraリスペクトな#8”GJ!”、某レジェンドの”St. Anger”をオマージュした#9”Sis.Anger”は、それこそブルデス然とした暴虐性とYUI-MOAが持つ"kawaii"をフューチャーしたギャップ萌えがハンパない曲で、正直いまのGojiraよりもGojiraやってるエクストリーム・メタルナンバー。

『ぼくマシュー・マコノヒー』
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「セイヤ!ソイヤ!」
masyu
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「東京ドーム2デイズい゛ぎま゛ずぅ゛...」
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前作の不満点として槍玉に挙げられたのは、他ならぬバラードの不在で、ベビメタが「本物のメタルバンド」を名乗るにはX JAPAN”Forever Love””Endless Rain”に匹敵するメタルバラードの存在が不可欠だった。これが「ベビメタなりのラストソング」とでも言うのか、それはX JAPAN”The Last Song”の歌詞にある終わらない雨すなわち”Endless Rain”を、この”NO RAIN, NO RAINBOW”の中で止まない雨という歌詞を擁してXに対するリスペクト&オマージュを実行している。それこそ”Endless Rain”を彷彿とさせるピアノとストリングスが織りなす美旋律から始まり、まるで出山ホームオブハート利三ことTOSHIの魂が乗り移ったかのような、それこそSU-METAL中元ホームオブハートすず香となって魂を込めて歌い上げ、そして今は亡きPATAHIDEの魂が神バンドに乗り移ったかのような”Say Anything”をオマージュしたGソロ、そしてクライマックスを飾る”Tears”をオマージュしたGソロまで、これはもう天国のPATAHIDEへの鎮魂歌だと解釈した僕は「もうこれわかんねぇ・・・」と小声で呟きながら、それこそ映画『インターステラー』マシュー・マコノヒーばりに咽び泣いていた。もっとも「面白い」のは、X JAPANの疾走ナンバーの系譜にある”Amore-蒼星-”Xのバラード曲をオマージュした”NO RAIN, NO RAINBOW”イェンス・ボグレンがエンジニアとして関わっている所で、ここでも僕の『夢』が叶っている。しかし、この曲が本当に凄いところって、それは1番のサビが終わった後の「二度と会えないけど 忘れないでいたいよ」の裏で聴こえるバッキングのヘヴィネスで、それこそイェンス・ボグレンAmorphisの引かれ合いが実現した昨年の『Under the Red Cloud』の中で描かれた黄金のヘヴィネス』そのもので、そのヘヴィネスはまるでイェンス・ボグレン黄金のリベラリズム」に共鳴したかのような音だった。ただでさえ再び僕の『夢』が叶った名曲なのにも関わらず、それ以上に驚くようなフレーズやギミックをさり気なく取り入れられている今作のライティングセンスはちょっと異常だし、普通のメタルチューンならまだしもバラード曲のバッキングでサラッと聴かせちゃう訳の分からなさに、とにかく脱帽。僕には見える、ベビメタのラストライブでこの曲で三人が抱き合う姿を・・・ッ!

「僕らは思い出す、BABYMETALがアイドル界のDIR EN GREYだということを」

最近のYOSHIKIは頻りにDIR EN GREYに対する感謝の言葉を述べていて、その想いはベビメタだって同じだ。アルバムのクライマックスを飾る最後の二曲には、DIR EN GREYの近作でもお馴染みのチュー・マッドセンをミックスとして迎えている。そもそも初めて日本の【アイドル】【プログレ・メタル】を融合させた曲って、某マーティ・フリードマンがゲストで参加したももクロ”猛烈宇宙交響曲”だと思うんだが、しかしベビメタの”Tales of The Destinies”は、所詮は「ニセモノ」のももクロに対して「ホンモノ」のプログレ・メタルとはなんたるかを見せつけるような曲となっていて、それこそTDEPProtest the Heroをはじめ、USプログレ・メタル界の頂点に君臨するDream Theaterばりのテクニカルでアヴァンギャルドな変態神バンドと新生アイドル3376ばりのアイドル・パワーがエクストリーム合体した凄まじい曲だ。これまた驚かされるのがSU-METALの歌で、通常ならボーカリストとしてプログレ・メタルとかいう変拍子を駆使したオタク・ジャンルを歌うことなんてありえないわけで、その難題とも呼べる課題および試練をSU-METALは若干17歳にして神から与えられ、しかし彼女はそれを難なく歌いこなしていて、あらためて今作のSU-METALは、ボーカリストとしてどれだけ成長したのか、どれだけの試練を乗り越えたのか、もはや想像を絶するものがある。

BABYMETAL『鋼鉄神』から託された使命、それはバラバラになった「世界を一つ」にすること。この”THE ONE”は、Arch Enemy”Nemesis”でも有名なONE FOR ALL,ALL FOR ONEの精神を謳った曲で、それこそ【メロスピ】【Djent】【インダストリアルメタル】【プログレ・メタル】【ヴァイキングメタル】【ヌーメタル】【ブルデス】という鋼鉄世界の7大ジャンル+【V系】【アイドル】【J-POP】という日本三大珍味を「一つ」に、そしてメタル発祥の地である【イギリスのメタル】から始まり、【北欧のメタル】【欧州のメタル】【アメリカのメタル】【アジアのメタル】、そして【日本のメタル】という6王国を一つにする壮大な旅の目的地に辿り着き、そしてBABYMETALによって「一つ」に統一されたこの世界で、BABYMETALの三人が『鉄の王座』へと腰を下ろし、『鋼鉄の処女』として鋼鉄世界の新皇帝に即位する。

 ok

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このレビューを書く上で、一つのキーワードとして掲げたのがアンチベビメタ」なる存在で、今回はその「アンチ」の目線に立ってイエローキャブという言葉が閃いた瞬間、このレビューの勝機が見えた気がする。このように、いわゆるアンチの目線を通して聴いてもベタ褒めせざるを得ない傑作ですこれ。正直、このアルバムをディスれる人って、それこそピーター・バラカンみたいな批評家くらいです。少なくとも、X JAPAN『JEALOUSY』のカセットテープを音楽の原点および俺の感性の原点としている僕みたいなネットの末端で活動するレビュアーごときが叩けるようなシロモノじゃあないです。しかしどうだろう、バラカン氏がこのBABYMETALを批評する上で、今のベビメタに対する知識やメタルというジャンルに対する知識や知性、そして物事を「正当に評価」できる感性を持ち合わせているのか?と懐疑的になってしまうのも事実だ。例えば、ベビメタとX JAPANの関係性をはじめ、四年後の東京五輪を見据えた今回の「五輪マーケティング」や現代のメタルシーンを深いところまで理解しているとは到底思えない。結局のところ一体ナニが言いたいかって、この『METAL RESISTANCE』を全世界で最も正当に評価しているのは他ならぬ僕で、もはや「ベビメタの文句は俺に言え」とばかり、気づくと僕は「日本一のジョジョオタ兼日本一のBABYOTA(通称俺メタル)」を襲名していた。 

いま思うとデビュー作の『BABYMETAL』って、あくまでも【メタルとアイドルの融合】をコンセプトにしていたこともあって、単一メタルとして聴くとどうしても未熟な部分が露見してたし、イザとなったら「私たちアイドルですから!」みたいに誤魔化しが効く状態だったのも事実で、同時にアイドル/J-POPと国産ラウドロックのミクスチャーみたいなB級コミックソング感が海外でウケた大きな理由だったのも事実だ。しかし、今作は『METAL RESISTANCE』という名に相応しいクソマジメなメタルやってて、これ聴いちゃったら1stアルバムには二度と戻れないくらい、ソングライティングやアレンジをはじめ、神バンドおよびSU-METALYOSHIKIにダメ出し食らいそうな英詩の発音をはじめとした”ボーカリスト”としての著しい成長、そしてテッド&イェンスらのエンジニア面まで、一枚の「メタルアルバム」として一切隙のない完成度を誇っている。とにかく、今作はメタル>>>アイドルってくらいにメタル方面に全ソースを集中している。その中でも、単純に一つのフレーズで聴かせる余裕というか、いい意味で”アソビ”を覚えた事が前作との大きな違いで、アイドルとして誤魔化すことなく単純に曲の良さで勝負してきている。曲調やアルバム構成などの前作の良さを素直に踏襲しつつ、ハーマン・リーやらジェント・リーやらのモダン・ヘヴィネスをはじめ、五輪競技のように多種多様な「世界のメタル」を余すことなく盛り込んで、全ての面に置いて前作から格段にアップデイトされている。

今作、そのSU-METALの歌い手としての成長も然ることながら、もはや今作における1番の立役者と言っても過言じゃあないのが、他ならぬ神バンドの存在だ。今作がいかに曲が書けているのかを裏付けるような、「おっ」と聴き手の耳を引き寄せる楽器隊の一つ一つのフレーズや各ソロパートを筆頭に、個人の技術力の向上や俄然「(神)バンド」としての一体感(アンサンブル)すなわち音の厚みとスケール感/重厚感がマシマシ、それ故にあらゆるメタルのサブジャンルに柔軟に対応できたからこそ、実質神バンドのお陰で自由に曲が書けているとも言える。その神のバンド・サウンドの完成度を含めて、今のベビメタをB級メタルからA級メタルの極上クオリティへと導いている。だてに「神バンド」名乗ってないなという「プロフェッショナル」な職人芸を披露している。あとはやっぱり、ドラフォやSOILWORKをはじめ、近年のイェンスがプロデュースしたバンドの影響がピロピロ系のメロディや要所のフレーズに表れている気がする。つまり、神バンドのサウンドがイェンスの上質なミキシングに耐えうる極上レベルまで到達したというわけでもあって、どうせならDIR EN GREY『UROBOROS』みたいに、1stアルバムを全曲イェンスにミックスさせた「イェンス盤」リリースして欲しいくらい。

『KOBAMETAL=MASAYA説』

いま思うと、前作の時に「2ndアルバムはカレーが辛くてブチギレた人にプロデュースさせろ!」と言った自分がいかに馬鹿で間違っていたのかがわかる。このアルバムで分かった、違う、そうじゃない、KOBAMETALがYOSHIKIだったんだ、コバメタルこそシン・ヨシキだったんだって。今作のコンセプト・ワードでもある「世界を一つにする」という『野望』の中に、まさか「世界のメタルを一つにする」という意味と「東京五輪で世界を一つにする」という2つの意味が込められていたなんて想像もしてなかった。コバメタルの意識は既に四年後の東京五輪に向かっていたんだ。そしてコバ自身が実質MASAYAもとい実質YOSHIKIすなわちシン・ヨシキとなって、実質MASAYAプロデュースもとい実質YOSHIKIプロデュースとして、このBABYMETALBABYMETAL(X)JAPANとして、この『METAL RESISTANCE』を本来は3.11にリリースされるはずだったX JAPANの幻の復活アルバムとして全世界にドロップしたんだ。その結果が、X JAPANYOSHIKIが志半ばで断念した世界進出、そして坂本九『スキヤキ』以来約53年ぶり、坂本龍一以来約33年ぶりの米ビルボードTOP40入りという快挙を、その「坂本姓」の系譜を継ぐものである坂本三姉妹a.k.aBABYMETALa.k.aBABYMETAL(X)JAPANが成し遂げた事実に、再び僕は涙を禁じ得なかった。そして僕のスタンド能力『キング・クリムゾン』は、四年後に開催される東京五輪の開会式で坂本九&坂本龍一&坂本三姉妹=坂本一家&YOSHIKI&シン・ゴジラで何かしらのアクションを起こす『未来』を予測してしまった・・・というのは冗談で、でもリオ五輪の閉会式で披露された「トーキョーショー」の演出にベビメタが出なかったのは、まだ「KARATE」が完成してなかった頃に企画されたからだと思うし、きっと今ごろ総合演出の椎名林檎は後悔してるに違いない。もはや今のベビメタは日本という国を語る上で欠かせない『日本の象徴=アイコン』になってしまったのだから。いや、しかし本当にコバ凄い。そのうちアミューズの社長やるんじゃねーかレベル。だから今のうちにコバにゴマすっとこ!

正直、前作で「デビュー作にして最高傑作」を作って、後はどうベビメタを終わらせるか?を考える時期に入ると思ってただけに、このアルバムを聴いたらむしろ逆にその勢いは増すばかりで、まるで留まることを知らなかった。このままベビメタは四年後の東京五輪までノンストップで走り続けるんだと思う。当然、ベビメタがNEXTステージに進むには『ゲーム・オブ・スローンズ』の壮大なスケールおよび重厚な世界観との結合ならびに坂本三姉妹『母』であるレナ・ヘディ『マザー』として迎え入れることが必要不可欠だ。そして、2020年に極東の島国でバラバラになったこの世界を「一つ」にする救世主こそ、このBABYMETALという三人の美少女たちなのかもしれない。だからYUIちゃん!まだまだ「朝ドラヒロイン」路線には行かせませんよ~~~!!

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