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アマゾンプライムで映画『サウンド・オブ・メタル 〜聞こえるということ〜』を観た

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アマゾンプライムビデオで配信中のリズ・アーメッド主演の映画『サウンド・オブ・メタル 〜聞こえるということ〜』を5回観ての感想をば。

初期のCode Orangeを彷彿とさせる、グランジ風のアンダーグラウンド・メタル/ハードコアバンド=BLACKGAMMON(ブラックギャモン)のドラマーであるルーベン(リズ・アーメッド)と、その恋人でありバンドのギター兼ボーカルを担当しているルー(愛称ルイーズ)(オリヴィア・クック)は、自前のトレーラーハウスを運転しながら各地のライブハウスをどさ回りするバンドマンだ。そんなある日、ドラマーであるルーベンが徐々に聴力を失う難聴を患うも、教会が支援するとある治療施設の聴覚障害者のコミュニティに歓迎され、そこでルーベンは様々な大人や子供と出会う。初めは馴染めずにいたルーベンは、手話を身につけると徐々に他の盲ろう者とも打ち解けていく。しかし、一方でバンドマンとしての夢を諦めきれない自分と現実の狭間で葛藤しながら、将来の人生について大きな選択を迫られる一人のバンドマンをめぐる物語。

恋人であるルーとは、いわゆる普通の恋人関係というよりは、先の見えない不安という心の隙間を埋め合うように、何かしらの依存症を持つ者同士お互いに依存し合う関係性だ。このような依存関係って現実世界でも別に珍しくもなくて、今回の例とは少し勝手が違うけど、例えるなら売れないバンドマンとそれに貢ぐメンヘラ女はその最たる例の一つだ。何を隠そう、この映画はその「依存症」が一つのキーワードとなっていて、ルーベンはルーと出会う4年前までヘロイン中毒者だった過去を持ち、片や恋人のルーはルーで左腕に年季の入ったリストカットの傷跡が夥しくあり、今もリスカの後遺症なのか腕を指で引っ掻くクセがある。そんな自傷行為という名の依存症を患っている二人の男女が織りなす映画で、ルーベンとルイーズ(呼び名はルー)で少し名前が被ってるのも、依存症を持つ者同士依存し合う同類であるという一種のメタファーなのかもしれない。

コミュニティの長であるジョーが入所前のルーベンに放った言葉「耳を治すのではなく心を治す」。これこそが本作における最大のパンチラインで、簡単に言えば「人生の不幸」とは耳が聞こえないことではなく、「心の平穏」が存在しないことであるという教え。ルーベンはコミュニティで老若男女の様々なろう者と交流を深めていく中で、人生における「真の幸福」に気づきかけてきた矢先、未だ彼の中に眠るバンドマンとしての想いがそれに抗う。

映画の中盤を構成する聴覚障害者施設パートは、序盤のライブハウス内の爆音とは真逆のBGMらしいBGMがほとんどない(そこにあるのは虫や小鳥のさえずりなどの環境音楽=アンビエント音楽だけ)、つまりメタル/ハードコアという音楽ジャンルで最も耳の環境に悪いラウドな環境から、一転して盲ろう者だけの静かな自然に取り囲まれた真逆の環境に身を置く事となる。ここで、「なぜ本作の主役がメタルバンドのドラマーなのか?」という皆が気になっているであろう疑問の答えを想像するに、恐らく対象が「無音」あるいは「環境音」から最も遠い存在だから説w いや、笑い話でもなんでもなくて、映画の演出的な部分でもライブハウスでの粗暴な怒りに満ち溢れた感情的な爆音と、人里離れた緑豊かな森林に囲まれたコミュニティで流れる無音あるいは環境音、そのギャップを効かせた「音響」の演出は監督が意図したものだと思う。だから別に監督がメタルに対して悪いイメージや偏見があるわけではないと思う(謎のフォロー)。

さっきまでの環境音パートが嘘のように、それこそ「嵐の前の静けさ」とばかりに、不穏な未来を暗示するかのような「ゴゴゴゴ」という轟音を放つ黒い雨雲から場面は終盤へと切り替わり、そして恐怖のノイズ地獄が幕を開ける。ルーベンは決意し、自前のトレーラーハウスと音楽機材を全て売り払い、高額な手術でインプラントを埋め込んで聴力を取り戻すも、所詮は「脳を錯覚させて聞こえるようにしている」だけの代物で、やはり「失われた聴力は二度と元に戻らない」と言われているように、彼の耳は完全な状態には戻らなかった。

それ以降のシーンはホラー映画にも似た恐怖を覚えた。その後、ルーベンはフランスの実家に帰っているルーに再会すべくフランスへと渡る。彼女と再会すると、そこには眉毛を銀色に染め上げ、ステージ上で「ホールこそ私のゴールなの そこにいて欲しい 暴いて欲しい 意外とウブなあんた あたしが食べてあげる」というような謎の歌詞を怒りと共に咆哮していたバンドマンとしてのルーの面影はなく、欧米人らしく賑やかなパーティに参加する一般的な普通のフランス人女性としての日々を過ごしていた。そんな別人となったルーを一眼見ると、ルーベンは真っ先に彼女の左腕に引っ掻き傷の跡がないことに気づく。パーティではフランス映画界のレジェンド=マチュー・アマルリック演じるルーの父親のピアノの伴奏に合わせて、娘のルーがライブハウスで放ってい自殺的で暴力的で悲劇的な咆哮とは真逆の美しい歌声を母語であるフランス語で披露する。このシーンは本作最高の名ホラーシーンでもある。

パーティが終わり、それこそ二人してトレーラーハウス内のベッドで寝ていた時と同じように、ルーの部屋のヘッドで恋人同士らしくイチャイチャムードに発展するや否や、またしてもルーベンはルーが再び左腕を引っ掻くクセ=依存症が再発したことに気づく(このベッドシーンでルーが水を飲む場面は、序盤の演奏シーンの歌詞の伏線回収でもある)。そこでようやくルーベンは、極度の不安やストレスから発作のように引き起こされる腕を引っ掻くクセ=依存症の原因は自分にあると理解する。4年前にルーと出会ってドラッグ依存から抜け出せたルーベンとは違い、ルーはルーベンがいることで依存症がぶり返す精神的不安の状態、それを誘発するトリガー的な存在でしかない哀しい現実を知ってしまう。ルーベンとルー(ルイーズ)、皮肉にも互いに助け合い依存しあってきた恋人同士の二人が別れて初めて依存症からの真の解放を得る事となる。

このベッドシーンは、精神的にも経済的にも不安定で継続的なストレス状態に晒されていたバンド時代からの解放を示唆し、バンド時代とは真逆のフランスの実家という安定した環境がルーの精神に安堵感を与え、バンド時代には得られなかった「心の平穏」を取り戻した場面。翌朝、全てを察したルーベンは別れの挨拶もなしにルーの実家を抜け出し、あてもなくフランスの街を彷徨い、しばらくしてからフランスの平凡な日常と街並みが見渡せるベンチに腰掛ける。しかし、今のルーベンの耳には、街にこだまする人々の日常会話も、教会の荘厳な鐘の音も、親子の美しい歌声も、自然が奏でる環境音すらも全てがノイズ=騒音にしか聞こえない恐怖。ルーベンは何を思ったのか、その場でインプラントを取り外して完全なる「無音」状態に身を置く。この「完全なる無音」という「真の静寂」に彼は何を感じ、そして何を聞いたのだろうか?それは彼だけにしかわからない事なのかもしれない。しかし、彼はその瞬間に初めて「耳を治すのではなく、心を治す」と言ったジョーの言葉を理解したに違いない。そう、今まさに自分が置かれている「無」の状況こそジョーの言った「心の平穏」であると。

なんだろう、例えるなら仏教における「諸行無常の響きあり」じゃないけど、彼の耳には教会の大きな鐘の音も聞こえない「無音」のはずなのに、今の彼は「心の平穏」の中でしっかりと鐘の音が響き渡っているに違いないと。ルーベンにとって「無音」こそが「心の平穏」だと気づくこのラストシーンは見事としか言いようがない。美しい、ただただ美しい「無音」。それこそ日本の禅の精神じゃないけど、それに限りなく近い「無(音)」にあることが人間の真理であり幸福であるという教え。これ何が凄いって、最終的に神の存在を問うレベルの領域に物語が収束していく事で、デフォで歌詞に「Anti Christ」入ってるような(ただの偏見)、バックグラウンドや思想としてアンチ・クライストあるいは無神論者および無宗教である“メタラー”のルーベンがたどり着いた「真の幸福」、その答えが仏教的なオチだったのはちょっとというか相当な皮肉。でもそれが、それこそが、この映画の主人公になぜ“メタラー”が選ばれたのか?その本当の理由なんだって。この映画、いろいろな意味でメタラーじゃなきゃ成立しない映画なんですね。

本作は「対比」が一つのメタ的な演出として、また音楽的な構成を築き上げている。まず序盤はライブハウスで怒りの感情に満ち溢れたメタル/ハードコア、中盤は自然に囲まれた環境音楽=アンビエント、終盤のインプラント手術以降はノイズ、そしてラストシーンは「無音」という、音楽的なメタ構成も意図的に狙ってやってるんじゃないかと思うぐらい、各パートを司る「音の変化」もルーベンの感情の変化と共鳴している。

この映画、ありがちな「耳を大事にしよう」みたいな啓発映画なんかじゃなくて、もちろん健常者に対する「耳を大事に」的な啓発目的もなくないだろうけど、むしろ聴覚障害者の視点から盲ろう者側から見える世界、ろう者側の理念であったり、ろう者の幸福についてだったり、耳が聞こえる聞こえないの話じゃなくて、身体的なハンデよりも心の問題などの内面的な部分を描いている。

人間、誰しもが何かに「依存」して生きている。それは耳が聞こえる人間にも、耳が聞こえない人間にも等しく平等に存在する。障害を扱っている映画だから健常者の自分には関係ない他人事の話なんかじゃ決してなくて、耳が聞こえる健常者にも、耳が聞こえない盲ろう者にも共感する部分がそれぞれ平等にある、そんな真のバリアフリー映画だと思った。このように障害を擬似体験させる似たような映画だと、最近では視覚障害を扱ったNetflixの『バードボックス』を思い出した。哲学的?なオチもそれっぽいっちゃそれっぽいし。

ルーベンが日本の伝説的ハードコアバンド=GISMのTシャツを着ている場面を筆頭に、数あるメタル雑誌の中から選ばれたのがエクストリーム系のDECIBEL MAGAZINEってのが地味にわかってる感凄いし、トレーラーハウスの内装に貼り付けてあるフライヤーにPINKU JISATSU(ピンク自殺)やVIOLENT PACHINKOという架空のヴィジュアル系バンドの名前が載ってる、と思ったらその2組のバンドは本当に実在する(前者は)スペインのヴィジュアル系らしくて(ちなみにルーの母親の死因は自殺)、とにかく雑誌の表紙やインタビューページの切り抜きを含めて、メタル/ヴィジュアル系/ハードコアに関するプロップ(小道具)や資料関係がメタラー視点から見ても相当コアでマニアックな映画である事がわかる。

後半、舞台がフランスに移るってのもあるし、フランス映画界のレジェンド俳優や実際に盲ろう者の役者を起用している点、そしてドキュメンタリータッチというわけではないけど、いわゆるハリウッド映画のそれとは違うカメラワークもフランス映画というか欧州映画の匂いが強い。監督は映画『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ』の脚本を担当したダリウス・マーダーとのことで(そういえばこの映画のゴズリングはメタリカTシャツ着てた気がする)(むしろ監督メタラー説)、(このご時世な事もあって全然観てないけど)今年の年間BEST映画1位間違いなしの一本だし、メタラーでもメタラーじゃなくても全てのミュージシャンに勧めたい映画でもあるし、同時に映画監督は元より音響監督こそ見るべき音響映画でもあり、それこそ某佐村河内もアニメ『聲の形』のヒロインこそ観るべき、いやもう全人類が観るべき映画です。初めて「アマゾンスタジオすげぇ・・・」ってなったくらいには名作なんで。確かに、聴力も元に戻らなければ、バンドマンとしての未来も閉ざされちゃったから絶望っちゃ絶望だけど、ルーベンは最後の最後で「心の平穏」を見つけ出せたから普通にハッピーエンドだと思う。

改めて、耳を大事にしようという至極当たり前なことでもあっても、いざライブでテンション上がっちゃうと自分の耳の健康を蔑ろにしがちだから自戒の意味を込めて、この状況下でライブに足を運べない時だからこそ、いま一度再確認すべきタイミングなんじゃないかって。ルーベンと一緒に、この映画のラストシーンのエンドロールで初めてジョーの言葉、その重みを痛感すること請け合い。

しかし、主演のリズはジェイク・ギレンホール主演の映画『ナイトクローラー』で初めて知って、HBOドラマ『ナイト・オブ・キリング』でも難しい役柄を演じていたけど、今回も手話やドラムの練習を積んで役に挑んでいて、改めて良い役者だなぁと再認。でもそれ以上に『レディ・プレイヤー1』のオリヴィア・クックの方が「モデルはコード・オレンジのレバ・マイヤーズさんですか?」とツッコミ不可避の役作りがハンパない。流石にあの眉毛はやりすぎだけどw

難聴のリスクはステージに立つミュージシャンだけの問題ではなく、ライブハウスに足を運ぶリスナー側の問題でもある。よくロックやメタルのライブに行く人なら経験あると思う。ライブ終演後に「ピー」という耳鳴りがする経験が。というのも、これを書いている僕自身、Deafheavenの観客が10人くらいしかいなかったいわゆる「伝説の名古屋公演」の際に、人がいないから必然的にスピーカーの前で観る事になって、しかも耳栓を着用してなかったからそのライブ後は二週間ぐらい耳鳴りが治らなかった経験者だ。そういうリアルにヤバい状況に陥った人間がこの映画を観ると正直「シャレにならない、もう笑えない」、そんな話なんですね。幸い、というか運よく耳鳴りの症状は完治したんだけど、ヘタしたらそのまま難聴コースになって映画のルーベンと同じ道を進む可能性があったと想像しただけで恐怖しかない。もちろん、そのDeafhevanの伝説の名古屋公演以降(2回目の来日公演も含む)は必ずライブ用耳栓を着用してライブに行くようにしてます(でも去年のBMTHのライブではテンション上がってしなかった)(←こういうのがダメ)。


そんなDeafheavenの10周年デビューを記念するスタジオライブアルバム『10 Years Gone』は、メンバーは元よりスピーカーからエグいぐらいのギターノイズを(ルーベンもドン引きするぐらい)超至近距離から鼓膜ダイレクトで浴び続けた伝説の名古屋公演の軽いトラウマとともに、今やメタルシーンを代表するバンドにまで成り上がったバンドへの感慨深い想いがふつふつと浮かび上がる。相変わらずバチグソ丁寧な演奏してんなって思うし、何よりも選曲が最高過ぎる。まず一曲目が個人的に5本指に入るぐらい好きな曲であるシングル曲の“From the Kettle Onto the Coil”とか「こいつらわかってんな感」しかないし、いわゆる「指DEMO」時代の“Daedalus”も貴重過ぎるし、1stアルバムからは“Language Games”、3rdアルバムからはキザミとケリー・マッコイの慟哭のギターが映える“Baby Blue”、ラストはDeafheavenを司る2ndアルバムからバンド史上最高の名曲“Dream House”という、全8曲なのにどれもバンドを語る上で欠かせないし外せない完璧な選曲となっている。そんな最高のライブアルバムを聴いていると、久々にライブが観たくなってくるのはメタラーの性。

話を戻して、映画の中でジョーはルーベンに「書くこと」を勧める。アルコール依存症であるジョーは「書くこと」で「心の平穏」を取り戻していると。そのシーンでふと思った、自分にとっての「心の平穏」もジョーと同じ「書くこと」なのかもしれないと。今まさにこうやって音楽を聴きながら何かについて「書くこと」こそ「心の平穏」、あるいはそれに限りなく近い「無(音)」状態に繋がっているんじゃないかって。

広瀬すずはデスメタル


どうでもいいけどクソ映画臭がハンパないwという話はさて置き、ただいま絶賛朝ドラヒロインを熱演中の広瀬すずって、ここ最近しょうもないゴシップ記事やツイッターに「性格サイアク」って書かれたりするけど、お姉ちゃんの広瀬アリス“平成サイアクのヴィジュアル系バンド”ことジャンヌダルクのボーカリスト=yasuのソロプロジェクト=Acid Black Cherryのアルバム『L -エル-』の実写映画化のヒロインだったり、そもそも一番上のお兄ちゃんがそのAcid Black Cherry大好きなTEAM-ABCという、(同年代の女優と比べて)軽く同情するくらい“(いい意味で)平成サイアク”の姉兄に囲まれて育った超末っ子って事を考えたら、「むしろ性格いいほう」ですねw この映画一度死んでみたの主演が決まった時、広瀬すずお兄ちゃん、デスメタルって何?からのお兄ちゃんそんなん俺が知るかよアリスに聞けからの広瀬アリス「いや、ウチも知らんしみたいな会話を交わした可能性ワンチャンあるし(ネーよ)。でも実際にそんな会話して欲しいじゃん。


(こっちのが面白そう)

クリストファー・ノーラン監督の映画『ダンケルク』を観た

「ダンケルクを観た」

「ノーラン凄い」

「ハンス・ジマー凄い」

「ダンケルクを生きのびた俺凄い」


・・・ってなるくらい、まず空から「お前たちは包囲された」というナチスのビラが降り注ぐ市街地を、数人の兵士が放浪するほぼ「無音」の静寂シーンから、突如としてけたたましい銃撃音が鳴り響き、そのあまりにもリアルな音響と爆音にビビってその場で死んだふりしてたら、いつの間にか映画終わってた・・・。

というのは冗談で、まずはじめに、これから書くことは同時刻にアップしたスティーヴン・ウィルソンTo the Boneの補完記事として捉えていただきたいのだけど、そもそも何故「日本一のジョジョヲタ」である僕が、ジョジョの実写映画を観に行かず(つうか、いつの間にか上映終了してた)クリストファー・ノーラン監督の最新映画『ダンケルク』を観に行ったのか・・・?

そもそもの話、昨年にジョジョ4部の実写化が発表された時に、僕は真っ先に何を思ったかって、それこそ「いやいやいやいや、ジョジョってもう(実質)実写化されてるじゃん」ということ。確かに、「お前は一体ナニを言っているんだ」と思うかもしれない。でも初めてクリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』を観た時に、僕は「これはジョジョ映画だ!」と確信したのだ。それはもう物語のモノローグ的な序盤のオカルト/ホラー全開のシーンが映し出された瞬間に、身を乗り出して「これはジョジョ映画だ!」と心の中で叫んだほど。というのも、この『インターステラー』は宇宙と地上を舞台にした父と娘の親子愛の映画で、その「父と娘」の話を『ジョジョの奇妙な冒険』に置き換えると、まんまジョジョ6部の空条承太郎(父)空条徐倫(娘)の話と全く同じだと気づく。勿論、ジョジョ6部は最終的に「ケープ・カナベラル」という『インターステラー』の元ネタにもなった映画『コンタクト』にも登場する場所で、ジョジョ6部でもラスボスのプッチ神父と最終決戦を繰り広げた舞台でも知られる。ジョジョ6部には、他の部とは比べ物にならないくらい、SF映画やSF小説を筆頭に、いわゆる数理物理学的な科学的要素と人類や宗教哲学にも精通するギミックが沢山盛り込まれた作風でもあり、(読めば分かるが)その難解至極な終盤のストーリーは、ジョジョ愛好家の中にも「ジョジョ6部だけは苦手」という人を数多く生み出すほど、言うなれば「荒木飛呂彦なりのデビルマン」を描き出したかのような凄みのある作品だった。

映画『インターステラー』は、それこそジョジョ6部最終話の【アオリ】でお馴染みの「引力、即ち愛!!」を地で行くような究極のエンタテインメント映画でもあって、重力を操るスタンド使いやメビウスの輪から、2進法や宇宙服での戦闘、そしてプッチ神父のスタンドの最終形態である『メイド・イン・ヘブン』は、『時間』の概念を超越することで世界を一巡させ、つまり人は自らの『未来』とその『運命』を知ることで『覚悟』が生まれ、その『覚悟』とは即ち人類の『幸福』であるとプッチ神父は説いた。しかし、そのプッチ神父の「自分が悪だと気づいていない最もドス黒い悪」は、最終的に主人公の徐倫たちが残した最後の『希望』によって破られることになる。しかし、このジョジョ6部を読み終えた時、誰しもが一度は思ったであろう事がある。それは「プッチ神父が唱えた思想は果たして本当に邪悪であり、本当に間違いであったのか」ということ。

その疑問に対する一つの答えという名の『メッセージ』が、日本では今年の5月に公開されたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督のばかうけ映画『メッセージ』の中で解き明かされたのである。僕はこのばかうけ映画を初めて観た時、ノーランの『インターステラー』を初めて観た時と全く同じ体験、すなわち「これはジョジョ映画だ!」と、そして「ジョジョ実写化」の伏線が全て繋がったと思った。この『メッセージ』にもSF映画の金字塔である『コンタクト』からの影響を伺わせるオマージュ(北海道)やギミック(素数,カルト教団の焼身自殺)が多々あるのだが、先ほどの『インターステラー』は重力および相対性理論などの物理学および科学的要素をはじめ、オカルト/ホラー的な映画の「ガワ」を司るギミックの面でジョジョ6部に直結すると書いたが、この『メッセージ』は物理学や科学を応用したSFモノではなく、一種の「運命決定論」あるいは「宿命論」などの思想的な内面を描き出した、つまりジョジョ部のプッチ神父が唱えた「人は運命を知ることで幸福になれる」つまり「覚悟こそ幸福」という、ジョジョ6部では「間違ったもの」として主人公たちに「否定」された思想を、このヴィルヌーヴはこの『メッセージ』の中で一転して「肯定」するような描き方がされている。

この映画とノーランの『インターステラー』に共通するのは、【They=彼ら】の存在、すなわち「未来人」であり、しかしその「未来人」の描き方というか正体がノーランとヴィルヌーヴではまるで違う。ノーランは【They=彼ら】の正体を『未来の人類』であると抽象的に描いたが、このヴィルヌーヴは【They=彼ら】の正体をタコ足(七本)の宇宙人みたいなビジュアルで描き出している。

【彼ら=ヘプタポッド】の文字言語解読のために言語学者の第一人者であるルイーズは奔走する。ばかうけ宇宙船に乗ったイカ足のヘプタポッドは、3000年後に人類から助けられるために贈り物という名の「武器」を人類に提供しに来たという。その「武器」とは「言語」だった。それは円状の形をした未知なる文字。それは表意文字で、そのロゴグラムには「時制」の概念がないと、その非線形の文字には時系列はないと判明する。ヘプタポットは『時』を超越した存在であり、ヘプタポットの言語を理解することでルイーズ自身もその『時』を超越した存在へと近づき、徐々に彼らと同じ感覚で『時』を理解できるようになる。

ヘプタポットはルイーズという1人の人間(ヒューマン)を選別し、そしてルイーズは自らの運命を受け入れた。一方でプッチ神父はそれを全ての人類に強要したのだ。ルイーズは自らの運命を肯定し、それすなわち「娘の死」を肯定することであり、そのルイーズの『覚悟』とプッチの『覚悟』には天と地ほどの差がある。同じ「運命論」であるにも関わらず、なぜルイーズの『覚悟』は人類に受け入れられ、一方でプッチの『覚悟』は人類から「否定」されたのか。その答えは、映画の最後でルイーズが未来の夫に対して言った言葉が全てで、それは「この先の人生が見えたら、選択を変える?」という「運命決定論」を象徴するセリフだった。「決定」された「娘の死」まで全てを受け入れたルイーズの覚悟と非情な運命は、私利私欲のために人類にそれを強要したプッチとは真逆の『勇気』と『覚悟』があった。自らを「人間を超越した存在」であり『神』すなわち「未来人」であると勘違いしたプッチには、人間の気高さや清らかな美しさ、人間の心の強さや人を愛する心、そして人間が持つ『正義』の心は、『悪意』そのものであるプッチには永遠に理解できないだろう。つまり、プッチは「正義」の心を持つ人間に敗北する『運命』を背負っていたのだ。

将来自分の娘が病で亡くなってしまう事を知りながら、つまり全てを知りながらも自らの決定された未来とその決定された運命を全うするルイーズの存在は、一種の未来人であり、そういった意味では『インターステラー』と全く同じ【They=彼ら】の正体は未来の自分であると解釈できる。つまり、ジョジョ6部のディオの骨から生まれた緑色の赤ちゃんこそ、『メッセージ』で言う所の地球外生命体ヘプタポット的な立ち位置(宇宙人)として解釈可能だし、その緑の赤ちゃんというヘプタポット=『未来人』に取り込まれたプッチ神父『メイド・イン・ヘブン』を発動し、1人の『未来人』すなわち『神』として「人は運命を知ることで幸福になれる」という幸福論を人類に説き伏せようとしたのである。改めて、この『メッセージ』では運命論を「肯定」する描き方をしているのに対して、ジョジョ6部ではその運命論を「否定」して描いている。やっぱ6部を完全に理解することは難しいと改めて思うのは、ジョジョ6部ではヘプタポットの役割を担っていたのはラスボスのプッチ神父という「倒すべき敵」であり、決して「肯定」してはならない存在であり、もしもその思想が「正しいもの」であっても、ジャンプ漫画ではラスボスの思想あるいは信条は全て「否定」=「拒否」されなければならないのである。しかし、作者の荒木飛呂彦は「敵」に未来人の思想を植え付けるという、今考えてもトンデモナイくらい意地悪なことやってのけてて、そらジョジョ6部を理解できるやつなんて(少なくとも完結した当時は)誰一人としていねーっつうか、もし居るとしてもそれはクリストファー・ノーランドゥニ・ヴィルヌーヴ荒木飛呂彦『メッセージ』の基となった短編小説「あなたの人生の物語」の原作者であるテッド・チャンくらいだろう。ここでテッド・チャンの名前が出たが、ジョジョ6部が完結したのが2003年なので、1998年発表の「あなたの人生の物語」と同じく1997年公開の映画『コンタクト』は、間違いなくジョジョ6部を紐解く上で欠かせない2大コンテンツと呼べるものである。

もう一つ、その『インターステラー』『メッセージ』よりも前に、「日本一のジョジョヲタ」である僕が難攻不落と呼ばれたジョジョ6部を理解する上で参考にした映画がある。その映画こそ、ブリット・マーリング主演の『アナザーアース』だ。僕がティーンエイジの頃にジョジョ6部を読んだ時、プッチ神父が唱える思想や宇宙が一巡する終盤をどう解釈していいのかわからなくて、4回くらい繰り返し読んで初めて一つの解釈にたどり着いた。それは「これは宇宙が再びビッグバンを起こして、地球が2つに分裂したという解釈でいいのかなぁ?」という至極曖昧な答えだった。しかし、結果的にそれはある意味正しい解釈であったというか、その子供の頃に感じたジョジョ6部の解釈を真っ向から肯定するような映画が『アナザーアース』だったんだ。この映画は地球と全く姿形をした「もう一つの地球」が接近してくるという設定の物語で、SF映画好きなら知らない人はいないSF映画界の隠れた名作だ。つまり、その映画にもある多次元世界あるいはパラレルワールド的な世界観は、後の7部の話へと直接的に大きく関わってくる。ちなみに、ブリット・マーリングが主演を務めているNetflixのオリジナルドラマ『The OA』も、いわゆる臨死体験をテーマにしたこれまたSF的なドラマで、なんだろう、ジョジョ5部のブチャラティがディアボロに腹パンされた以降の感覚って、このドラマの臨死体験に近い感覚なんだろうなって思ったし、これも一種の「実写ジョジョドラマ」なのでオヌヌメです。

ここ最近、これはもう実質ジョジョ映画だろっていう映画が本当に多い。2014年に公開されたジェイク・ギレンホール主演の『ナイトクローラー』もその内の一つだ。まずギレンホールが演じる主人公のサイコパスな性格はジョジョ4部の吉良吉影に通じる部分があったし、そして何と言ってもその主人公が作中で突如「恐怖とは~」とか言い始めて、ジョジョの世界でも重要なテーマとなっている「恐怖」について語り始めた瞬間に、僕は「はいジョジョ映画」と言ってこの映画を実写ジョジョ映画認定した。そんな中、日本一のジョジョヲタである僕が考えた最強のジョジョ実写化ってなんだろうと、ふと思い立った時に、まず作品の基礎的な部分でインスパイアされるのは、昨年公開されたニコラス・ウィンディング・レフン監督の映画『ネオンデーモン』だ。まずはそのモデル業界を舞台にしたファッション性で、『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦もファッション雑誌をはじめ、グッチやブルガリなどのハイブランドとのコラボ作品を発表しているし、この映画に出てくる奇抜なファッションとモデルがクロスオーバーしたビジュアルで思いしたのは、以前ジョジョ界隈でも話題を呼んだヘアメイクアップアーティストの原田忠氏がジョジョをオマージュした作品だった。他にも、デヴィッド・リンチ映画にも精通するファッション・シュールな演出やグロテスク/ホラー/サスペンスフルな演出もジョジョ特有の世界観に通じるものがある(勿論、荒木飛呂彦もリンチ作品に影響を受けている)。そして極めつけは、作中で「目玉を吐き出す」シーンが出てくるのだけど、ご存知、「目玉」といえばジョジョ5部の「この味は!...ウソをついてる『味』だぜ...」でお馴染みのシーンだ。そういう面でも、要するに「僕が考える最強のジョジョ実写化」は、ニコラス・レフン監督を迎えて、原田忠氏が監修した『ネオンデーモン』的なビジュアル(美術)をリンチ的なファッション・シュール的な演出で、そしてNetflix資本でジョジョ5部を実写ドラマ化することです。これが実現すれば間違いなく実写化は成功します。だからネトフリ頼む!

面白いのは、ジョジョ6部が完結して10年以上経ってから、クリストファー・ノーラン『インターステラー』ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』によって、実質『ジョジョ実写映画化』されたことで、逆に言えば、今になって映画化されたSFネタを荒木飛呂彦は14年前に漫画の世界でやっていたという事実に驚愕する。いわゆる「日本一のジョジョヲタ」を自称している僕が「6部推しには負ける」と言うのはここで、ジョジョ6部のSF的な世界観や哲学的な思想は、今や新・2大映画巨匠と呼ばれるまでになったノーランヴィルヌーヴによって初めて「メインストリーム」にアップデイトされたというか、だからこれまでパンピーが「6部好き」と言っても説得力が皆無で、必然的に6部好きはニワカの烙印を押されるようなものだった。しかし、ティーンネイジャーの頃に読んだ時は難しくて理解できなかったジョジョ6部が、完結から14年経ってようやく『理解』できたような、そしてようやく心から「完結した」と呼べる気がした。「何も知らないジョン・スノウ」がジョジョのアニメ化や実写映画化に湧き上がる中、「日本一のジョジョヲタ」である僕はたった一人でジョジョ6部の「完結」に歓喜し、激情し、そして涙していたんだ。

こうやって全てを『理解』して思うのは、やっぱりジョジョ6部って荒木飛呂彦の最高傑作なのかなって。気になるのは、飛呂彦自身が『インターステラー』『メッセージ』を観た時に一体何を思ったのか。恐らく喜んだに違いない、世界最高峰の2大映画監督によって実現したジョジョ6部の実質ジョジョ実写映画化をね。そして、ノーランとヴィルヌーヴが現代の映画界で2大巨匠と騒がれるようになったのとほぼ同じタイミングで、荒木飛呂彦の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』があらゆるメディアミックスをはじめ、「メジャー作品」として認知されるようになったのも、全て荒木飛呂彦という「未来人」の計算通りなのかもしれない。なんだろう、ガチの「天才」って飛呂彦のことを言うんだと思う。つまり、ノーランヴィルヌーヴと同じ感性を持つと証明された荒木飛呂彦、それは間違いなく日本におけるトップクリエイターの1人であることの証明であり、もはや人間国宝に認定すべき人材であると。

おいら、2回目に観て泣ける映画こそ本当にいい映画だと思ってて、この映画『メッセージ』はまさにそれだった。と言うより、少なくともこの『メッセージ』は2回目で初めて理解できる映画だ。1回観た後に2回目を見れば、物語の最初と最後が繋がって一周していることが分かる。2回目からは全然違ったものに見えてくる。オープニングから全てが違った表情で見えてくるし、それと同時にプッチ神父にはないルイーズの『覚悟』に僕は激情したのだ。あたかも「過去」であるかのような映像(フラッシュバック)が実は「未来」だったという演出も、この映画を象徴するとても「意味」のあるギミックとしてあって、まずヘプタポットという『時』を超越した存在を映画の基礎的な部分に落とし込んでいる。また『時』の流れが存在しないヘプタポットの存在を円形文字(言語)として暗示し、そしてルイーズが娘に名付ける名前も「ハンナ(Hannah)」という前から読んでも「逆」から読んでも同じ名前で、そこでもこの映画の『時間』表現を示唆している。

ここで思い出されるものこそ、スティーヴン・ウィルソンTo the Boneである。まるでヘプタポットの円形文字を示唆するように、時計の針一周分の60分ジャストのこのアルバムは、まるで『メッセージ』のように『時』は多面的とばかり、まるで時の流れに縛られて生きる人間と同じく「アルバム」のように1曲目から曲順に時間が流れていくのではなく、それこそ時制の概念がないヘプタポットと同じように、Spotifyのプレイリストのように『時(曲)』を断片的にかい摘んで聴けちゃう、実に「フレキシブル」な作品である。そして、このアルバムに隠された最大のギミックである「逆再生」は、まさに『メッセージ』「ハンナ(HannaH)」と全く同じ事を意味している。僕は以前、相対性理論天声ジングルに対しても「逆再生」できるアルバムであると書いた。その天声ジングルのオープニングを飾る”天地創造SOS”の歌詞を見れば、全てが伏線で繋がっていることが分かる。それこそ『メッセージ』はSOSである。そして、この天声ジングルの最後の曲に「FLASHBACK(フラッシュバック)」が待ち受けているのは、果たして偶然だろうか?この偶然を『メッセージ』のフラッシュバック演出と全く同じと想定すると、自然と面白いものが見えてくる。つまり、『天声ジングル』「逆再生」すると、映画『メッセージ』と全く同じ物語になるのではないかと。この真実(トゥルース)に気づいた時、やっぱりえつこには勝てないと僕は悟った。同時に、これ以上(理解)を進めると「俺の感性」『神の領域』に足を踏み入れてしまうのではと、僕は恐怖する反面、こんなに面白い世界に生まれてなんて幸運なんだとも思った。スティーヴン・ウィルソン≒荒木飛呂彦≒やくしまるえつこは、自らの作品の中でノーランヴィルヌーヴの世界と共鳴させていたのだ。僕はTo the Boneの中で、約10年前にSWと出会った瞬間から、このレビューを書く運命にあると言った。つまり、これは僕が音楽という名の新しい言語を『理解』していく中で、ルイーズと同じように『未来』を予測(フラッシュバック)してたからなのかもしれない。

僕が初めてヴィルヌーヴ監督の存在を知ったのは、2010年に公開された映画『灼熱の魂』だった。この映画は円盤を買うほど衝撃を受けた初のヴィルヌーヴ体験で、しかしまさかその時はヴィルヌーヴが現代映画界を代表する巨匠になるなんて、ましてやこの『メッセージ』でジョジョ6部実質実写化するなんて思っても見なかったし、SF的な観点から言えば、その時から「日本一のジョジョヲタ」である僕はジョジョ6部の実写化その未来を予測していたのかもしれない。勿論、過去にANATHEMAの記事で『ジョジョの奇妙な冒険』ヴィルヌーヴ『灼熱の魂』を共振させたのも後の伏線だったのだ。正直、自分の中でこの『メッセージ』『灼熱の魂』を超える一本になったし、もはや生涯のBEST映画の一本と呼べる作品だった。

ちょっと待って、『ダンケルク』の話どこいった?っていう指摘は全くもってその通りで、それはノーラン自身が「観客を戦争体験に連れて行く」と豪語するように、それこそ昨今流行りの兆しを見せているVRを過去のものにするかの如く、そして『インターステラー』でもこだわり抜かれたノーランの「本物志向」は、戦争映画としての徹底したリアリズムに一役も二役も買っている。正直、ジョジョ6部の実質実写映画化だった『インターステラー』の後に、どうやらノーランの新作が「戦争モノ」だったり「実話」だったり「上映時間106分」だったりするらしいと聞いた時は、「おいおいクリント・イーストウッド化するのはまだ早いぞノーラン」と思ったのだけど、実際にこの『ダンケルク』を観たらその考えは2秒で改まった。物語は、第2次世界大戦に起きた「ダンケルクの戦い」を基にしており、ドイツ軍の電撃戦によってフランスとイギリスの連合軍がダンケルクの浜辺に追い詰められ、そこから脱出を図ろうとする兵士を描いた、言うなれば「撤退戦」である。いわゆる「戦争映画」というと、過去に数々の名作に溢れているが、それらと比較するとノーランが描く「戦争」はまるで違ったもに映った。

荒木飛呂彦の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』が一種の「シチュエーションバトル漫画」とするなら、この『ダンケルク』は一種の「シチュエーション映画」である。前作の『インターステラー』をはじめ、『インセプション』『メメント』などの過去作を観ても分かるように、ノーランは複雑な「時間軸」を映画にハメ込んで観客の頭の中を翻弄する少し意地悪な監督でもある。この『ダンケルク』でも自身の専売特許とも呼べる『時間軸』を応用しているのだが、しかし今回のノーランはメチャクチャ優しい監督に見えた。何が優しいって、開始10分もしない内にこの映画は【陸(防波堤)での1週間】【海での1日】【空での1時間】という3つのシチュエーション(トリプティック)から描かれる映画だよと、わざわざテロップで観客に通達してくれちゃうほどの優しさ。「うわ、ノーランめっちゃ優しい」って。しかし、今回ばかりはその「優しさ」はありがた迷惑でしかなかった。何故なら、ノーランが言う「観客をダンケルクに連れて行く」には、今の自分が置かれた立場(名も無き一兵士)や状況(防波堤で駆逐艦待ち)や戦況(追い込まれてヤバい)を序盤で手っ取り早く「理解」してもらわなければならない。そこはこの映画を理解する上で必要最低限の必須事項である。その「優しさ」は一瞬にして「恐怖」へと変わるのだ。「うわ、ノーランマジこえぇ」って。上映10分で半ば強制的に全てを「理解」させられてしまった観客は、果たして「ダンケルク」から無事に脱出することができるのか?!

もはやイントロからクライマックスだよね。この映画は他の戦争映画と違ってドンパチは一切なし、というか映画の設定的に一方的に撃たれる側、爆撃される側なので、何度も言ってるけど僕は開始直後の銃撃音を聴いた瞬間にその場で死んだふりしたから。それくらい、まず「音響」がトンデモナイ映画だ。自分はIMAXとかではなく普通の映画館で観たんだけど、それでも本物の戦場に放り出されたような錯覚を起こすほど、そのリアリティの極地に引きずり込むような「音響」にド肝を抜かれた。そのいつ撃たれるか分からない「恐怖」、ようやく辿り着いた軍艦がいつ空から爆撃されるか分からない「不安」、ようやく辿り着いた軍艦がいつ魚雷で撃沈されるか分からない「恐怖」、この『ダンケルク』は9割以上それらの様々な「恐怖」がスクリーン一面に充満する戦争映画、と言うより、これはもう一種のサスペンス映画と言ったほうが正しいかもしれない。しかしノーラン映画には、その観客を更に「恐怖」のドン底へと誘う世界最高峰の仕事人が帯同する。その人物こそ、今やノーランの嫁(プロデューサー)以上にノーランを知る人物であり、そしてクリストファー・ノーランドゥニ・ヴィルヌーヴという2大巨匠を繋ぐ存在となった映画音楽界の重鎮ハンス・ジマーである。

今やハンス・ジマーRadioheadとコラボするほど、映画音楽界だけでなく、あらゆる音楽シーンに強い影響を与えている最重要人物の1人だ。この度、ヴィルヌーヴ監督の映画『ブレードランナー 2049』の劇伴を担当するというニュースを聞いた時は、ここで遂に繋がってしまうのかと歓喜したのは言うまでもない。この『ダンケルク』でのハンス・ジマーは、ノーランから観客へ与えられた「恐怖」と同調するように、観客の高まる心拍数を直に煽るような音階を執拗に繰り返し繰り返すことで、緊迫感溢れる本物の戦場で必死に逃げ惑う、極度の緊張感に苛まれた兵士の精神状態へと様変わりさせる。ノーランが持ち前の「本物志向」を徹底させた「視覚」の面で観客を戦場に引き込む役割ならば、相方であるハンス・ジマーは兵士という名の観客を「音」の面から本物の兵士の精神状態へと引き込む役割を果たしている。この二人のコンビネーションは過去作の相乗効果をもたらしている。

また、ノーラン監督自身が『マッドマックス怒りのデスロード』『ゼロ・グラビティ』にインスパイアされたと語るように、劇中のセリフも極端に少なくて、それが逆に戦場のリアリティの向上に拍車をかけている(観客を宇宙に放り込むのが『ゼロ・グラビティ』なら、観客を戦場に放り込むのが『ダンケルク』みたいな)。それに関連して、映画の主人公とされる人物の名前がほとんど最後まで明かされなくて、観客を含めた1人のモブ兵士として扱った映画でもある。つまり、それは名のある英雄=ヒーローではなく、戦場の末端に属する階級の低い歩兵の一員として、そしてこの『ダンケルク』という撤退戦を戦い抜いた全兵士が皆平等に英雄であるという、ノーランなりのリスペクトでもあるのだ。しかし、トム・ハーディ演じる【空】中戦は最後の最後までカッコイイし、まさに映画の美味しいとこどりみたいなカッコ良さで、まさに「英雄」そのものだった。

当然、3つの視点から語られるということは、それぞれの時間軸が重なる瞬間が見せ場となってくるわけで、実際にその瞬間を迎えた時のカタルシスったらなくて、そういう面でもこの映画はドM向けの映画なのかもしれない。実話なんでネタバレもクソもないと思うんだけど、とにかく、やっぱりノーランは期待を裏切らないなと戒められた映画だった。つまり、ノーラン凄い。ハンス・ジマー凄い。俺凄い。

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新海誠監督の映画『君の名は。』を観た。

『新海誠はオタクを見捨てたのか?』

2013年の夏に劇場公開された前作の『言の葉の庭』を、先着順で配られたポストカードを手に入れたくらい公開して直ぐに映画館へ足を運んだレベルの新海誠作品フアンの僕が、なぜ約三年ぶりとなる新作『君の名は。』を公開終了間近になってから観に行く事になったのか・・・?というより、新海誠監督の新作が久々に公開されると知った僕は、前作との時と同じノリでロングランにはならないことを決めつけて公開一,二週間以内に観に行こうと決めていた。しかし、前作の『言の葉の庭』から約三年、新海誠監督を取り巻く状況は一変していたんだ。公開から一週間、二週間、そして公開から一月を超えて聞こえてきたのは「興行収入50億突破!100億突破!150億突破!200億突破!」、そんなあたかも信じられないニュースが各報道やメディア間で持ちきりで、僕は「いやいやいやいやいや、お前は一体何を言ってるんだ?」と、初めは何かの間違いなんじゃあないか?と耳を疑った。そしてこの時点で、僕は「新海誠は俺たちオタクを見捨てたのか?」という疑念が脳裏によぎった。

そもそも自分が知ってる新海誠監督のイメージっつーと→スタジオジブリのパヤオが引退するする詐欺と言う名の引退宣言してからというもの、いわゆる「ポスト宮﨑駿」として挙げられる『エヴァンゲリオン』の庵野監督をはじめ、『時をかける少女』や『サマーウォーズ』の細田守監督や今はなき今敏監督と並んで、この新海誠監督も一応はその「ポストパヤオ」というレッテルを貼られる人物の一人で、しかし庵野監督や細田監督に作品の知名度や売上的な意味でも圧倒的な差をつけられているのが現状だ。要するに、細野守監督がいわゆる一般人ピーポー向けの「メインストリーム」すなわち「大衆アニメーション」の代表格とすると、この新海監督の作品はいわゆる俺たち「オタク」向けの「アンダーグラウンド」なインディペンデントで活躍するアニメ映画監督、少なくとも今まではそういった「棲み分け」されていたハズだった。しかし、今回の『君の名は。』は、既に細野監督の全作品の売上を筆頭に、そして三年前の当時は『言の葉の庭』が「前座」扱いだった宮﨑駿の長編引退作となる『風立ちぬ』をはじめ、歴代ジブリ作品の売上すらブチ抜いてしまったのだ。

それでは、なぜ『君の名は。』はここまで「売れた」のか?その大きな要因の一つとなったのが、他ならぬ本作のほぼ全ての音楽を担当したRADWIMPSの存在だ。まず『君の名は。』の批判的な意見の一つに「RADWIMPSの壮大なPV映画」みたいな批判が少なからずあるのも事実で、その批評は決して間違いとは言い難いが、しかしこの『君の名は。』をここまで大衆的かつメインストリームの作品にブチ上げた最もたる要因その功績として存在するのも事実だ。自分の中で、いわゆる邦ロックってバンド名はよく耳にするけど肝心の『音』がまるで聞こえてこない、全く届いてこないネガティブなイメージがあって、このRADWIMPSはその最もたるバンドの一つで、実際に本作で初めてRADWIMPSの音楽を聴いても、如何せん「ただのバンプ」というか「バンプを聴いて育った世代の音楽」←それ以上でもそれ以下でもない以外の感想しか出てこなかった。とは言え、そのRADの主なファン層であるティーンや女性層を『音楽』で惹きつけることに成功したのも事実だ。

映画が始まってまず驚いたのは、俺たちの神木きゅんこと神木隆之介演じる主人公の立花瀧と上白石萌音演じるヒロインの三葉による、新海作品の専売特許とも言えるポエムの語り部から幕を開ける。そのポエムの後に「君の名は。」というタイトルテロップがスクリーンにデカデカと映し出され、そしてRADWIMPSによる主題歌の「夢灯籠」をバックに、いわゆる「普通のアニメ」にありがちなオープニングで始まる。正直、映画の冒頭からここまで「音楽」を全面に押し出した演出は、新海作品では初の試みだったからとにかく驚いた。このオープニングから読み解けるキーワードは「普通のTVアニメ」すなわち「大衆アニメ」だ。

しかしどうだろう、これまでの新海誠監督および新海作品といえば、例えば前作の『言の葉の庭』で言えばシスコンや足フェチが大喜びしそうな、現に足フェチの僕は公開後にブルーレイで買ったくらい 、つまり「普通のアニメ」とは一線を画した「オタクアニメ」として我が道を行く、それこそ「本物のオタク」と呼ぶに相応しい変態監督だった。そんな「普通じゃないアニメ」が、映画の冒頭から「普通のアニメ」みたいな演出を見せられて妙な違和感を憶えたファンも少なくないだろう。

その大衆アニメ的なオープニングが終わると、パジャマ姿で眠っているヒロイン宮水三葉の姿を足の指先から上半身へと舐め回すようなカメラワーク、そのファーストカットから前作の「言の葉の庭」を踏襲した新海誠らしい変態性を垣間見せると同時に、僕はこのファーストカットを見てある映画を思い出した。それこそ、是枝裕和監督の『海街diary』という映画のファーストカットで、この映画も布団で眠る長澤まさみの足の指先から上半身へと舐めるように映し出すカメラワークから始まるのだ。当然、足フェチの僕はこの長澤まさみの足が映し出された瞬間に「はいフェチ映画」と呟くと同時に、是枝監督は新海誠監督と同じ変態性もといフェチズムの持ち主なのではないかと推測した。まさしくそれは「言の葉の庭」でヒロインの雪野先生の生足を見た時に感じたものと全く同じモノ、すなわちデジャブだった。このファーストカットから「新海誠は俺たちオタクを試してきてる」と。そして何が驚いたって、瀧くんのバイト先の先輩である奥寺ミキを声で演じる人物こそ、他ならぬ長澤まさみだった。僕はこの冒頭のシーンからの長澤まさみの声優起用に猛烈な「縁」を感じざるを得なかった。もっと言えば、この冒頭のシーンに特別な意味を感じ取れなきゃ『君の名は。』を理解することは不可能なんじゃないか。

『君の名は。』のストーリーというか設定を軽く述べると、主人公の立花瀧は東京の都心に住む普通の男子高校生で、ヒロインの宮水三葉は岐阜県飛騨の山奥に住む女子高校生で、華やかな東京の暮らしに憧れながら、妹の四葉と一緒に宮水神社の巫女を務めている。話のキモはこの二人が奇妙な夢を見ることで身体が入れ替わる現象と、1200年ぶりに地球に接近するという架空の彗星「ティアマト彗星」の存在が二人の運命を引き裂いていく。「入れ替わり」の現象によって二人の距離が徐々に縮まっていき、お互いを「恋人」として意識し始める一種の焦燥感を現すシーンでは、メインテーマ曲となる例の「前前前世」の曲とともに物語が急速に加速していく演出、観客を一気にその世界観へと引き込む演出効果は、紛れもなく「音楽の力」によるものだ。

しかし、ある日から二人の「入れ替わり」は起きなくなる。その時、巫女である三葉は祖母の一葉と妹の四葉と一緒に山奥にある御神体へと向かう。その御神体へと向かうシーンは『星を追う子ども』的な冒険ファンタジーをフラッシュバックさせ、そして御神体に辿り着くと祖母の一葉は御神体を取り囲む「川」を超えたら先は「あの世」と言う。この「(三途の)川」を超えたら「あの世」というギミックも、宮﨑駿の『千と千尋の神隠し』や『崖の上のポニョ』で言うところの「トンネル」抜ければ「異世界」と同じメタ的な意図を含んだギミックを用意している。まさか、ここでジブリのモノマネして失敗した駄作と言われる『星を追う子ども』の冒険ファンタジーっぷりを再見するなんて夢にも思わなかった。

『瀧=マシュー・マコノヒー』

主人公の瀧くんは三葉に会いに行こうと東京から岐阜へと向かう。物語はサスペンス風に変わり、瀧は衝撃的な真実に辿り着く。それは三葉の住む糸守町は、三年前にティアマト彗星が直撃して町ごと消滅していたことを知る。瀧くんは御神体へと向かい、三葉が奉納した口噛み酒を飲み干す。すると糸のように三葉の過去を知る旅というか、これはもう新海誠なりのワームホール的な五次元世界だと、つまり瀧くん=『インターステラー』のマシュー・マコノヒーだと僕は解釈した。それ以降は、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるSFにありがちな「未来を変えて命を救う」みたいな展開で、ティアマト彗星から住人を避難させるために三葉は仲間と奔走する。ここでは坂道で走ってズッコケてズザザザみたいな細田監督の『時をかける少女』のオマージュをふんだんに盛り込み、最後はティアマト彗星の隕石が糸守町へと衝突する瞬間、その災害シーンを思い切って新海誠は描いている。この災害シーンで感慨深いと思ったのは、「言の葉の庭」が前座扱いだった「風立ちぬ」で震災シーンを描いたパヤオを三年の時を経てリスペクトしたというか、2011年以降の日本に降り掛かった数多くの災害をエンターテイメントの世界に盛り込んでもエエやん的なノリを踏襲した象徴的なシーンだった。逃げずにしっかりと描ききった誠を見直した自分がいた。

物語は再び東京のシーンへと戻る。そこは糸守町の住人は奇跡的に避難している世界線だった。あれから8年後、瀧と三葉は「誰かを探している」思いを胸に秘めながら、それぞれ東京での生活を勤しんでいた。この東京のラストシーンはちょっと本当に凄くて、ある雪の日に「すれ違う」シーンは『秒速5センチメートル』の主人公の遠野貴樹とヒロインの篠原明里が最後に「すれ違う」シーンのセルフオマージュだし、というより、この『君の名は。』をSF映画として解釈すれば、これはもう御神体のワームホール(五次元世界)に突入した瀧くんが別の世界線から遠野の想いを繋いできたという解釈もできるし、逆にワームホール(五次元世界)に突っ込んだ瀧くんが辿り着いた世界線が「糸守町の住人が救われる世界線」だとするなら、その世界線こそが『秒速5センチメートル』の遠野が「ヒロインの篠原明里と結ばれる世界線」と解釈できるし、それこそ『君の名は。』の最大のテーマである「人と人、あの世とこの世を繋ぐ糸」は、新海誠作品の『過去』と『今』を繋ぐ糸でもある、そのトンデモなく超絶的なスケールに、そして『君の名は。』は「新海誠レガシー」の賜であるという答えに辿り着いた瞬間、最後の最後で瀧(遠野)と三葉(篠原)が時空と次元を超越して出会った瞬間、僕は大粒の涙を流していた。つまり、ラストの東京のシーンは『君の名は。』の世界というより、新海誠作品のパラレルワールドの一つとして認識すべきかもしれない。

『否定と肯定』

これは「救い」すなわち「救済」の物語だ。これは俺たち童貞の星だった新海誠によるオタクの救済なんだって。鬱映画だなんだと評される『秒速5センチメートル』の主人公をはじめ、新海誠監督はこれまで一貫して「否定」の世界の人間を描いてきた。しかし、この『君の名は。』では一転して「肯定」の世界を繰り広げている。まず『秒速5センチメートル』の遠野とヒロインを「肯定」することで、俺たち秒速フアンの鬱な思い出すら「肯定」、すなわち救いの手を差し伸べてくれているし、あの『星を追う子ども』の失敗すら『君の名は。』という名の『新海誠レガシー』の一部として徹底して「肯定」している。それすなわち、全ての新海誠作品の「肯定」でもある。瀧くんはワームホールという五次元空間を介して、俺たち童貞や雪野先生を含む過去の「否定の世界」の住人を『君の名は。』という「肯定の世界」へと救済しているんだ。つまり、これまで一貫して誠が描いてきた「否定の世界」に対する理解がないと、一体何のために『君の名は。』で「肯定の世界」をやったのかが分からなくなる。

『コンプレックス』

確かに、確かにこれまでの新海誠は「否定の世界」の住人だったし、そもそも「クリエイティブ」および創造の原動力って、それこそオタク特有の内省的なコンプレックスであって、俺たちオタクは誠の「コンプレックス」に共感し、その「コンプレックス」を「クリエイティブ」に昇華した作品を支持してきたハズだ。しかし、皮肉にもこの『君の名は。』では誠のキョロ充的なコンプレックスが解消されただけで、本来のオタクとしてのコンプレックスを昇華するクリエイティビティはまるで発揮されていないし、まるで応用されていない。これって音楽業界に例えると、インディーズバンドがメジャーという商業主義に魂を売って従来のフアンに叩かれる構図そのもので、つまり女子供という周りの目が気になってしょうがないキョロ充層がメインの客層であって、それが『君の名は。』がここまで売れた大きな理由でもある。『秒速5センチメートル』の主人公遠野は「否定の世界」の住人らしい葛藤を持つ内省的なキャラクターだったが、今作の主人公の瀧くんとは葛藤なんてない、「セックス!セックス!セックス!セックスがしたい!」という感情、ヒロインの三葉にいたっては西野カナばりの「会いたい会いたい会いたいな」みたいな、それこそ本作のメイン層であるティーン・エイジャーの煩悩に訴えかける「セックス・エネルギー」によって、次元と時空を超えて出会ったんだ。

『売れた要因』 
 
ではなぜ『君の名は。』はここまで売れたのか?おいら、ヒロイン三葉の同級生の勅使河原克彦のキャラデザを見た時、またしてもデジャブを感じたのだけど、それはずっと前に『心が叫びたがってるんだ。』とかいうアニメ映画を見たのだけど、それに出てくる坊主頭のキャラとデザインがクリソツで、まさかと思って調べてみたら案の定「ここさけ」の田中将賀氏が『君の名は。』のキャラデザを手がけていて、更に作画監督としてジブリ界隈の安藤 雅司氏を起用しており、それによりこれまでのB級的なキャラデザから一転してイマドキっぽい洗練されたA級のキャラクターデザインへと大きな変化をもたらしている。その現代アニメーションを代表する「ここさけ」と日本の伝統的なアニメーションである「ジブリ」を両脇に固めた時点で勝ちは決まったようなもんで、まず一般ピーポーの視聴に耐えうるキャラデザが「売れた」要因の一つと言える。

『批判』

つまり、ジブリ界隈の大衆性とイマドキのアニメを代表するキャラデザ、そしてSNSという今の時代を象徴するギミック、そして『時をかける少女』や『エヴァンゲリオン』などのセカイ系を全て飲み込んだ、もはや「こっちのがシン・ゴジラだろwww」って笑っちゃうくらい、ある意味で業界の「タブー」を犯した全日本アニメーションが『君の名は。』である。確かに、面白いというか皮肉なことに『海街diary』の是枝監督も言っていたことだが、『君の名は。』の批判する意見の一つに「売れる要素を詰め込んだだけ」という批評がある。確かに、タイトルの『君の名は。』からして「借り物」だし、「入れ替わり」の設定はB級ラノベに腐るほどある陳腐な設定かもしれない。アニメーションの側に至っても流行りの絵柄やジブリ界隈の人材を吸収し、キャラだってシスコン的な役割を担うバイトの先輩やジブリリスペクトなロリコン的な役割を担う四葉、そして「なんでもお見通しキャラ」である祖父のババアを網羅し、何と言っても極めつけにはティーン・エイジャーに大人気のバンプもといRADWIMPSが音楽担当ってんだから、むしろ逆に「売れないわけない」と誰しもが思うはずだ。その批判は否定しようもない事実かもしれない。しかし、そのあらゆる過去と今の要素をコピーして繋げて一つのアニメーションとして形にする創作技術って、それこそ日本人が得意とする技術の一つだと思うし、つまり『君の名は。』のテーマである「糸」は物語のセカイを超えて、伝統的な日本アニメ業界とイマドキの日本アニメ業界を繋ぐ「糸」としての役割も担っているんだ。確かに、それなら別に誠がやる必要がない、それこそ細田監督にやらせればいいだろ的な意見も理解できる。でもこの『ほしのこえ』を踏襲したSF的なスケール感や『星を追う子ども』を踏襲した壮大な冒険ファンタジーを一つに繋ぐことができる人材って新海誠の他にいなくて、それこそ全てのタイミングが合致した末に生まれた作品というか、紛れもなく「本物のオタク」による「本物のオタク」のための究極のエンターテイメント映画と言える。

ところでおいら、新海誠監督が描くセンチメンタルでエモーショナルな作風と岩井俊二監督が描く少女漫画的で二次元的な作風は互いに似たフィーリングを持っていると感じていて、今になってそれを確信づける出来事があった。おいら、だいぶ前に岩井俊二監督の新作映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』を観たんだけど、そのとあるシーンで帽子かぶった奴がピアノを弾くという意味深なシーンがあって、その時はRADWIMPS=帽子被ってる奴らみたいなイメージしかなかった僕は「まさか」と思って調べてみたら案の定その帽子被った人物がRADWIMPSの野田洋次郎だと知った時はちょっと驚いたというか、言ってしまえばそれも『君の名は。』のテーマである「人と人」を繋ぐ「糸」があって、もっと言えば今作のスペシャルサンクスに岩井俊二監督の名があったのが全てというか、自分の中で過去の何気ない伏線が「糸」のように繋がっていくことに謎の感動を憶えた。

音楽の世界でも、この手の自身の過去作品や他社の過去作品をオマージュして集大成的なアルバムと語るアーティストは決して少なくない。そういった意味でも、この『君の名は。』はただのアニメ映画というよりはもの凄く「音楽的」なギミックが秘められた作品と捉えるべきかもしれない。

『君の名は。』=『日本のインターステラー』

『君の名は。』の批判の一つに、瀧くんと三葉の世界線が三年ズレてるのが会話の内容で気づくだろ的なことや、いわゆるタイムリープ的なシーンのSF的解釈がガバガバで説得力がないという批判めいた意見も目につく。確かに、宇宙と地球の近くて遠い存在を繊細に描き出した、相対性理論をはじめ物理学的な解釈を応用した処女作の『ほしのこえ』と比べるとSF的な説得力は乏しいかもしれない。しかし、マシュー・マコノヒー主演のクリストファー・ノーラン監督の映画『インターステラー』を観た人の視点からだとどうだろう?この映画を好きな人なら瀧くんが御神体で五次元空間(ワームホール)に入った瞬間に「これは日本のインターステラーだ!瀧くんこそマシュー・マコノヒーなんだ!」ってなるでしょ。そう、現代の「ヒーロー像」その象徴が瀧くんなんだ。SF映画といえば、その代表格である『バタフライ・エフェクト』も新海誠に多大なる影響を与えている。例えば『秒速5センチメートル』のラストシーンの「すれ違い」は『バタフライ・エフェクト』の影響と言われているけど、自分は『君の名は。』の最後の東京のシーンの「すれ違い」の方がSF的な俺の解釈や同じ「8年後」という設定も相まって俄然『バタフライ・エフェクト』っぽいなと思った。なぜなら、『バタフライ・エフェクト』は複数のエンディングが用意されたマルチエンディング方式の映画で、通常は「すれ違いエンド」なんだが、有名なのはストーカーエンドと「君の名は?」みたいに声をかけるハッピーエンドのパターンだ。この件で本当に面白いのは、最後の東京の雪のシーンで『秒速』と『BE』の「すれ違い」のオマージュをやって見せた後に、『秒速』の遠野とヒロインが次元を超えて結ばれるハッピーエンドで締める辺りは本当に誠は天才かよと思ったし、男泣き不可避だったよね。

『アニメ界のクリストファー・ノーラン』

当然、日本一のジョジョヲタである僕は、『ジョジョの奇妙な冒険』と『君の名は。』をリンクさせながら見ることもできた。そもそも、クリストファー・ノーランの『インターステラー』はジョジョ6部そのまんまだと思ってて、ジョジョ6部で徐倫がミュウミュウのスタンド攻撃を食らって3つの出来事しか記憶できない時に手に記憶を刻むやり方は『君の名は。』でもあるし、もっというとラストの東京のシーンは新海誠作品が一巡した先の話、もっと言えば瀧くんが多次元世界からD4Cを使って遠野を連れてきた世界の話、すなわちパラレルワールドだと解釈できる。そういった意味でも、「奇をてらったように見えて王道」であるパターンの荒木飛呂彦やクリストファー・ノーランの作家性と肩を並べるレベルまで誠は到達したのかもしれない。漫画界のクリストファー・ノーランが荒木飛呂彦ならば、アニメ界のクリストファー・ノーランは新海誠だ。

『オレはいったい誰なんだッ』

ふと「君の名は。」の対義語って何だろう?と考えてみた。巷では既に駄作認定されている現在連載中のジョジョ8部ジョジョリオンの主人公の東方定助も記憶がない設定で、彼の有名なセリフに「オレはいったい誰なんだッ!?」ってのがあって、これって「君の名は。」の対義語なんじゃねーのと思ったのと、恐らくもう一度ロカカカの実を食べて記憶を消失するであろう主人公の東方定助とヒロインの康穂が瀧くんと三葉みたいなラストシーンを迎えたら面白いんじゃねーの飛呂彦?的な妄想が捗った。イマドキのSNS要素やパラレル要素やジョジョ歴代最高にエモーショナルな作風的にも全然アリじゃね?

東方定助「オレはいったい誰なんだッ!?」

広瀬康穂「君の名は。」

???「僕の名前は・・・チ・・・チンポリオです!」


個人的に消化不良だと思った点は、三葉の親が最後の最後までヒール役になってて、最後の東京のシーンで三葉が父親と電話してるシーンを入れても良かったんじゃねーかとは思った。序盤に何かと絡んできたDQN系の同級生や高校生になった四葉の「その後」は描かれているのにも関わらず、唯一父親だけはフォローが一切なくて親父完全にヒールやんって悲しくなった。でもその辺は小説版でフォローされてるらしい?あと名古屋民や岐阜県民は名古屋駅のJR構内が一瞬映る時にニヤリとできます。

じゃあ果たして本当に新海誠は俺たちオタクを見捨てたのだろうか?いや違う。 「否定の世界」のオタクを裏切ったとか、大衆アニメに魂を売ったとか、キョロ充化しかたとか、いやそうじゃない。過去作と比べてどうとかでもない、過去作があってこその『君の名は。』であり、根本的な部分は何も変わっちゃあいないし、紛れもなく正真正銘の新海誠映画だ。じゃあ一体何が変わったのか?それは「否定の世界」から「肯定の世界」へと変わっただけだ。この映画を叩こうとすればするほど、つまり「否定」しようとすればするほど、更にその上を行く「肯定」のエネルギーによって全力で「肯定」仕返してくる。むしろ叩けるか?これ本当にパンピー向けの大衆アニメか?これ実は俺たち「本物のオタク」向けのオタク映画なんじゃねーか?って。つまり、表面上はパンピー向けの大衆アニメだが、しかしその裏にはコアなオタクしか気づけないギミックだったりメタ的な要素だったり、そして何よりも「新海誠レガシー」の結晶、その集大成であることを示している。むしろ誠にとっては次作が勝負だと思う。『君の名は。』で「新海誠レガシー」という名の過去の遺産を全て食いつぶしてしまったわけで、もう同じ手が使えない全く新しいシン・海誠の次作が楽しみでしょうがない。

おいら、近年著しく増え続けている「オタク気取りのニワカ」が大嫌いで、まさにこの『君の名は。』に批判的な人間って「オタク気取りのニワカ」だと思う。まずメイン層の女子供は「なにかわからんが最後出会えて泣ける~」みたいなノリで楽しめるだろうし、逆に僕みたいな「本物のオタク」は一回観ただけでここに書いた『君の名は。』の全てが理解できるハズだ。そのパンピーと「本物のオタク」の間にいる1番中途半端なオタク気取りのニワカに限って、安易に『君の名は。』を叩いてしまう。この『君の名は。』が凄いところは、今の日本に蔓延るニワカを炙り出すための作品としても機能するところだ。事実、この『君の名は。』を叩ける人材って少なくとも日本では宮﨑駿しかいませんし、実際にパヤオに『君の名は。』を見せても一言「絶対に許しません!」と一蹴するのは目に見えている。この『君の名は。』を観たら余計に「ポスト宮﨑駿」なんて言えないハズだ。むしろパヤオのオリジナリティに改めて脱帽するだろうし、現代日本が持ち寄る全日本アニメーションを集結させた誠の創作術とは比較対象にすらならない。僕は「超えちゃいけないライン」の上に立つ人間こそ、その分野の『神』に最も近い存在となれると思っていて、日本アニメ界の『神』は他ならぬジブリの宮﨑パヤオで、つまり新海誠は『君の名は。』でその神であるパヤオに日本で最も近い存在となったと言えるだろう。

面白いのは、恐らく新海作品を観たことがないリア充カップルは映画館で『君の名は。』を観た後にセックスできてWINだし、一方で黄金の童貞」である俺たち本物のオタクは、セックスこそできないがカップルやオタク気取りのニワカが一生知ることのない『君の名は。』の全てを理解することが出来る、つまりオタクの世界にとって「クリエイティブ」を理解する=セックス以上の快楽を得ることと同意で、それこそリア充と非リアがお互いにWINWINな関係になれる映画って作ろうと思っても簡単に作れるもんでもないし、そこが新海マジックだと思った。とは言え、俺たち童貞オタクの誰しもが「新海誠の童貞奪った女ぜってー許さねぇ...」とこの映画を見終えた後に泣きながら囁いたはずだ。やっぱり童貞の星だった新海誠の童貞をトリモロスことができるのは、日本には約数百人しか存在しないとされる「本物のオタク」しかいなんじゃないかって。それこそライムスター宇多丸や老害サブカルおじさんの批評でもない、今の誠には「正当な評価」が必要だ。その「正当な評価」ができるのは俺たち本物のオタクしかいないんだ。誠のこれ以上の暴走モードを止めるのは俺たち童貞しかいないんだ。だから待ってろ誠・・・俺たち「本物のオタク」が・・・

「新海誠の『童貞』をトリモロス!」 

ジョジョ4部映画化について

ちょっと前に『ジョジョの奇妙な冒険』が実写映画化決定みたいな噂という名の定期ネタが話題を呼んだかと思ったらガチで4部を実写化する事が決まったらしい。そもそも、「日本一のジョジョヲタ」である僕が「もしジョジョ(7部)を実写映画化するなら」という問に答えると、まず監督は『ドライヴ』のニコラス・ウィンディング・レフン監督で、配役はクリント・イーストウッド(スティーブン・スティール役)をはじめ、『ドライヴ』のライアン・ゴズリング(ジャイロ役)、『インターステラー』のマシュー・マコノヒー(マウンテン・ティム役)、『ミステリアス・スキン』のジョセフ・ゴードン=レヴィット君(ジョニィ役)、『ナイトクローラー』のジェイク・ギレンホール(ディエゴ役)、『偽りなき者』のマッツ・ミケルセン(リンゴォ役)、そして『ジュノ』のエレン・ペイジ(ホットパンツ役)は自分の中で既に配役が決まってたりする。まぁ、それは兎も角として、今回は絶賛クソアニメとして絶賛放送中のジョジョ4部『ダイヤモンドは砕けない』の実写化で、監督はクソ映画請負人でも知られる三池崇史監督、主演は今をトキメク山崎賢人とのことで、この時点でクソ映画待ったなしでもう今の気分は最高にハイ!ってやつなんだが、とは言え実際に観てみないと何とも言えないので、淡い期待と絶望的な不安を抱きつつ気長に劇場公開を待ちたい。どうやら飛呂彦と脚本の意見交換とかもしてるらしいので、その辺は大きく「ハズす」ことはないのかなと一安心。それこそ、「日本一のジョジョヲタ」である僕に監修させるべき事案なんじゃあないか?(えっ)

これは長年のジョジョヲタなら共感してもらえるはずなんだが、そもそも大昔から『ジョジョ』っつーのは二次創作がことごとくクソ以下の作品しかなくて、例外中の例外はカプコンの三部格ゲーだけで、いくらジョジョを取り扱った二次創作がクソ以下だからといって、既にクソ以下の前例が腐るほどあるからと言って、もはやジョジョヲタ界隈では『タブー』とされてきたジョジョの実写化、すなわちパンドラの箱に遂に手を出してしまったのだ。ともあれ、この実写映画化はその「ジョジョの二次創作はクソ」という長年の『伝統』を受け継ぐ、そのルーティーンにダメ押しを決める『伝説』の映画となるに違いない。

つうか、もし監督が園子温だったらどーなってた?

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