Welcome To My ”俺の感性”

墓っ地・ざ・ろっく!

レビュー (U)

Undeath - It's Time​.​.​.​To Rise From the Grave

Artist Undeath
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Album 『It's Time​.​.​.​To Rise From the Grave』
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Tracklist
01. Fiend For Corpses
02. Defiled Again
03. Rise From The Grave
04. Necrobionics
05. Enhancing The Dead
06. The Funeral Within
07. Head Splattered In Seven Ways
08. Human Chandelier
09. Bone Wrought
10. Trampled Headstones

コロラドのBlood IncantationやカナダのTomb Moldと並び三大モダン・デスメタルの一角を担う、ニューヨークはロチェスター出身の5人組、Undeathの約二年ぶりとなる2ndアルバム『It's Time​.​.​.​To Rise From the Grave』は、持ち前のインテリヤクザ並にプログレスな不規則性を内包したリズミカル&グルーヴィなリフやGojiraにも精通するソリッドに刻むスラッシーなリフ、そして同ニューヨークの残虐王ことカニコーやスレイヤーに肉薄する殺傷力高めのツインギターを活かした、ブルータルな暴虐性を孕んだタイトなヘヴィネスやソロワークのコンビネーションによる緩急を織り交ぜたダイナミックな展開力を見せつける、今年のデスメタル界を代表するデスメタルらしいデスメタルをやってる件について。

残虐王リスペクトなNYデスメタルを現代的にアップデイトした#1“Fiend For Corpses”を皮切りに、四天王スレイヤーばりに猟奇的なソロワークを披露する#2“Defiled Again”、80年代の伝統的なスラッシュ・メタルにデスメタルならではのアグレッションをブチ込んだ#3“Rise From The Grave”、Tomb Moldばりにタイトなヘヴィネスを刻む#4“Necrobionics”、変則的なインテリズムを孕んだトリッキーな展開力を発揮する#5“Enhancing The Dead”、Gojiraに通じるグルーヴィでエクストリーミーなモダンさを垣間見せる#6“The Funeral Within”、“インテリヤクザと化したカニコー”としか例えようがない#7“Head Splattered In Seven Ways”など、(もはやGojira並のキャッチーをはじめ)昨今のモダンなデスメタル勢のみならず、モビエンに代表される80年代デスメタルを嗜んでいた懐メタラーにもオススメしたい一枚。

Ustalost - Before The Glinting Spell Unvests

Album 『Before The Glinting Spell Unvests』
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Tracklist
01. Enough Glass Will Cast A Shadow
02. Stinging Stone
03. White Marble Column Air
04. Before The Glinting Spell Unvests
05. Spider Tongue, Memory Ester
06. Bright Window Closing

ニューヨークのブラックメタルバンドYellow Eyesの共同創設者、スカルスタ兄弟の片割れであるウィル・スカルスタによるソロプロジェクト、Ustalostの2ndアルバム『Before The Glinting Spell Unvests』が凄い。

60年代のフォーク/プログレを連想させる、ある種のダンジョン・シンセの如しミステリアスな呪詛を奏でるシンセや荘厳なクワイアが織りなす幻想魔伝的なシンフォニー、一方でブラックメタルならではの退廃的なトレモロリフやデプレッシブかつDissonantな不協和音のリフレイン、それらを引き連れて転調を交えたプログレスな流動性に富んだ楽曲構成は、(ローファイなプロダクション含めて)いかにもピッチフォークが好みそうなインテリ系DIYブラックメタルで、それはまるで出口のない渦巻状の迷宮マップが舞台の死にゲーを無間地獄の如くプレイさせられているような錯覚に陥る。

DIYブラックメタルだけにコネチカットの森で録音された本作は、妖艶なヘビ柄を模した迷宮の入り口へとプレイヤーを優しく誘う魅惑のレトロシンセで幕を開ける#1“Enough Glass Will Cast A Shadow”からして、荒涼とした粗暴なブラストビートと情緒不安定なトレモロが緩急を効かせながら、まるで車酔いしているような不快さに襲われるほど卑しくも目まぐるしい転調を繰り返す楽曲構成は、まさに本作における難攻不落のダンジョンすなわち“死にゲー”のサントラそのもので、リアル森メタルもといDIYブラックメタル特有の自然崇拝(リチュアリズム)を象徴するクワイアやエピックなメロディが交錯する#2“Stinging Stone”、本作最大の特徴であるシンセの妖しい旋律とノイジーにヒリついたギターのリフレインが織りなす、もう何百回死んだかもわからない瀕死状態のプレイヤーの気持ちをバキバキにへし折る#3“White Marble Column Air”、この迷宮ダンジョンのラストステージに待ち構える所謂ラスボス、それこそダクソ3のラスボスみたく過去ボスの技を繰り出してくるかの如し、つまり本作の集大成を飾る#6“Bright Window Closing”まで、聴き終えた後はリアルに某死にゲーのラスボスを倒した後と同じ疲労感を憶えること必須の一枚。

Unto Others - Strength

Artist Unto Others
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Album 『Strength』
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Tracklist
01. Heroin
04. No Children Laughing Now
05. Destiny
06. Little Bird
07. Why
08. Just A Matter Of Time
09. Hell Is For Children [Pat Benatar cover]
10. Summer Lightning
11. Instinct
12. Strength

オレゴンはポートランド出身のゴシック・ロックバンド、Idle Handsが大手メジャーレーベルのロードランナーに引き抜かれたのを境に、Unto Othersと改名して発表された本作の2ndアルバム『Strength』は、80年代に一世を風靡したニューウェイブ/ポスト・パンクの系譜にあるゴシック・ロック然としたビートを刻む若手バンドで、そのサウンドも流石に大手メジャーレーベルに引き抜かれるだけあって、いわゆる“ゴシック”から連想されるダークなイメージというよりは、現代のアリーナロックを代表するモンスターバンドことVolbeatにも通ずる、いわゆるMTV世代ならガッツポーズ不可避の古き良きヘヴィメタル/ハードロックを展開している。


MVの映像やメンバーの衣装を筆頭に、バンドの中心人物であるガブリエル・フランコによるフェルナンド(Moonspell)顔負けの雄々しくもダンディな咆哮、80年代のヘビメタを象徴するツインギターの叙情的なソロワークやツインリード、80年代のニューロマンティックな綺羅びやかなシンセ、そして80年代仕込みのサウンド・プロダクションまでも、とにかく楽曲的な面でもビジュアル的な面でも一貫してHR/HM全盛の80sスタイルを現代にリバイバルさせているバンドで、それらの何から何まで80年代愛に溢れすぎている意図してダサい要素以上に、彼らの80年代愛をより強固なものとするその最たる部分こそ、80年代に名を馳せた女性ハードロッカーの原点であるレジェンド=パット・ベネターのカバー曲(#8)の存在に他ならない。

もっとも面白いのは、アメリカのバンドなのに往年のゴシック・ロック然とした哀愁と官能に満ちたメランコリックなリフレイン/メロディを大胆に聴かせるそのギャップをはじめ、そして何より本作のプロデュース/エンジニアとしてGhosteManePower Trip、そしてCode Orangeなどの各シーンの“顔”となるバンドの作品に数多く関わっているアーサー・リザークを迎えている点からも、いかに彼らがロードランナーに激推しされているバンドなのかがわかるし(現に前作比で楽曲の強度が歴然の差)、そしていかに「ポスト・ヴォルビート」の座に向けて育てていくか、否が応でも今後も注目せざるを得ない期待の大型新人バンドと言える。

しっかし、これまでロードランナーの“ゴシック”を背負ってきたレジェンド=Type O Negativeの後継者としてIdle Handsを指名するとか・・・さすがRR、目の付け所が違うなって。少なくとも、未来のシン・ゴシックシーンを牽引すること請け合いのバンドです。また、本作は毛艶が黒光りしたGⅠ級のダークホース的なジャケがカッコ良すぎるのも含めて、とにかくMoonspellの名盤『Extinct』が好きな人やライト版Tribulationとしてオススメしたい、間違いなく今年のダークホースアルバムとなる一枚です。

Ulver 『惡の華』

Artist Ulver
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Album 『Flowers of Evil』
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Tracklist
01. One Last Dance
03. Machine Guns And Peacock Feathers
04. Hour Of The Wolf
05. Apocalypse 1993
06. Little Boy
07. Nostalgia
08. A Thousand Cuts

『惡の華』って、この僕が今最も2期あるいは続編を渇望しているアニメの原作漫画で、そんな中あのUlver『惡の華(Flowers of Evil)』という名前を2期アニメ開始の伏線として自身のフルアルバムの表題に採用するという神展開。ちなみに、『惡の華』の海外版タイトルは言わずもがな『Flowers of Evil』です。実のところ、アニメ版の『惡の華』って海外ではそれなりに高い評価を受けているのに、一方のアニメ先進国とされる日本では2期が始まる気配すらない、それすなわち日本のアニオタ=世界のアニメを知らないニワカであることを証明しているんですね。もちろん、本作における本当の元ネタはアニメ『惡の華』にも登場するフランスの詩人シャルル・ピエール・ボードレールの詩集『悪の華』から。

まぁ、そんな冗談はさて置き、ここで読者の皆にちょっとした質問がある。もし『惡の華』という言葉を比喩的な表現として用いる場合、どのようなシチュエーションあるいは現象をイメージし、それを想像するだろう。そりゃ『悪』=『Evil』という文字が入ってる時点でロクなもんじゃないのは確かだけど、実はその問いの答えこそ僕たち日本人が一番よく知るモノなんじゃないかって。まず人類史を例にして、『悪』と聞いて真っ先に思い浮かべるのが戦争あるいは紛争行為であり、日本も先の大戦で枢軸国として参加した当事者である事は「歴史」が証明している。その第二次世界大戦中に我々人類が犯した、決して忘れてはならない人類が犯した「負の歴史」を象徴する最たる『悪』、その『世界二大大罪』の一つが当時日本の同盟国だったナチス・ドイツがアウシュビッツ強制収容所で行ったホロコーストであり、そしてもう一つが1945年8月6日に広島に投下されたリトルボーイ(Little Boy)、1945年8月9日に長崎に投下されたファットマン(Fat Man)という日本に投下された2つの原子爆弾に他ならない。

惡の華

度々、例えがアニメや漫画の話で「悪」いけど、漫画『ハンターハンター』のキメラアント編に出てくる人間の底すら無い悪意を・・・!の名言でも知られるネテロ会長の技名に、時限爆弾のキノコ雲を“薔薇”の花として比喩した「貧者の薔薇」というのがある。恐らく、これは現実世界で言うところの核爆弾を意図しており、それと全く同じようにUlverも原爆が地上に炸裂して発生するキノコ雲を『惡の華』として比喩したのが本作である。本作における2ndシングルの“Little Boy”のアートワークには、自分の記憶が正しければ日本の教科書にも記載されている世界一有名なキノコ雲が使われている。

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アートワークの話で言うならば、本作のジャケットのデザインを初めて見た時、2つのイメージが頭の中に浮かび上がった。一つは言うまでもなくアウシュビッツ強制収容所でガス室送りにされる女性の哀しみを超えた何とも言えないような表情であり、そしてもう一つがNetflixのオリジナルドラマアンオーソドックスの強烈過ぎるトップ画だった。このドラマは、ホロコーストの当事者であるドイツを舞台に、ユダヤ教の超正統派ハシディック(サトマール派)の厳しい戒律から逃れるハンガリー系ユダヤ人女性が音楽と出会うダイバーシティ案件の社会派ドラマで、歴史資料でもホロコーストで犠牲となった600万人の中にはハンガリー系ユダヤ人女性も数多く、そのハンガリー系ユダヤ人女性がドイツのベルリンへ逃避行する物語ならば、このドラマの裏に隠されたテーマがホロコーストなのは明白だ。

ハシディックの戒律には成人した女性は髪を剃るというしきたりがあって、アンオーソドックスのトップ画はまさにその瞬間を捉えたワンシーンで、もちろんホロコーストにおける女性の断髪とハシディックにおける戒律は全くの別物であるのだけど、その戒律によって頭を剃られたドラマの女性=エスティの哀しみを超えた慟哭の表情と、本作『惡の華』のガス室送りにされる前に髪の毛を切られる女性の絶望を超えた悲哀の表情が自分の中で重なってしまったのも事実。だから初めは確証がなかった。このアートワークの女性がガス室送りにされる前の表情なのか、それともハシディックの戒律により頭を剃られる女性の表情なのか。でもドラマを観て気づいた、それはある意味で同じ表情なんじゃないかって。人間として、女性として、「毛髪を奪う」という尊厳という名の魂を奪われた二人の女性の表情が示す二面性、二つで一つの顔を持つ表情であると解釈したら、俄然このアートワークには今から約80年前に行われたホロコーストの解釈と、この2020年においてNetflixアンオーソドックスを通して世界中に知れ渡った超正統派ハシディックの信仰心、正直どちらもUlverが題材にしそうな事でもあるし、むしろ両方の意味合いがあると考えた方が面白いし、こう言っちゃ怒られるかもしれんけどそっちの方が皮肉っぽいです。恐らく、というか普通にホロコーストだと思われるけど。何故なら、ホロコーストは原爆投下という『惡の華』と同等の人類の大罪だから(もちろん、その国や立場によって『罪』の大きさや『悪』の解釈は変わってくるが)。しかしながら、Ulver『惡の華』とNetflixアンオーソドックスが2020年代のタイミングで登場したということは、これからの20年代が人類の命と尊厳を揺るがす時代になる事を暗示しているのかもしれない。

ところで、ホロコーストを題材にした近年の映画(もちろん名作『シンドラーのリスト』以外)で、個人的に最も印象に残った映画を一つ挙げるとすならば、それは間違いなく『サウルの息子』だと思う。この映画も第二次世界大戦下のアウシュビッツ強制収容所を舞台に、ゾンダーコマンドの囚人であるユダヤ系ハンガリー人の主人公=サウルが自分の息子と思わしき遺体を、せめてもの報いとしてユダヤ教に則った尊厳ある埋葬をするために奔走する、音楽ジャンルで例えるならポストブラック・メタルのように激情的でエモーショナルなハンガリー映画で、この映画もわりかしメタ的な解釈を必要としていた憶えがある。この映画の何が凄いって、初めは自分の息子と思わしき遺体を抱えて強制収容所を奔走するサウルが、途中から旧約聖書に登場するイスラエル王国の最初の王=サウルへと姿を変え、『サウル(自分)の息子』ではなく、サウル=イスラエル王の息子=『ユダヤ人の息子』にタイトルの意味が変わる衝撃的なメタ展開で、同じようにハンガリー系ユダヤ人を扱ったアンオーソドックスの主人公=エスティがあるシーンの時に放つ失われた600万人を取り戻すという台詞は、必然的に『サウルの息子』とも時代を超えてなお激しく共振する。

北欧ノルウェイの森のクマさんことUlverは、初期のブラック・メタル時代からオルタナティブな音楽変遷を辿り、そして2020年の現在に至るまで、思想/信仰/神話/文化/歴史/芸術への執着にも近い関心をもって、一貫して人類が犯してきた『罪』をメタ的に描き出し、現実とファンタジーの境界線を曖昧にさせるモノクロームのディストピア、つまり今現在の世界と共鳴する“一匹狼”の名に相応しい孤高の世界観を築き上げてきた。例えば、前作の『ユリウス・カエサルの暗殺』では、ローマ神話に登場する(ギリシャ神話ではアルテミスに相当する)ディアナと“プリンセス・オブ・ウェールズ”の愛称で親しまれたダイアナ妃の悲劇的な運命を共振させ、2016年の米大統領選以降、欧米を皮切りにアジア、そして日本でも顕著に目立ち始めたポピュリズムの台頭を予見していた。このように、Ulverは自身のライブ作品の世界観を形成する演出の一つとしてホロコーストを利用する、誤解を恐れずにいうと彼らが一種の“社会派バンド”である事を念頭において話すと、一方の原子爆弾というのも、今をトキメクBTSがネタにしたり(←コラ)日本のDIR EN GREYが楽曲コンセプトとして採用し、ライブ演出としても自らを司る世界観の一つとして取り入れているアーティストは決して少なくない。では、アジア人としては57年ぶりに坂本九“Sukiyaki”が持つビルボードチャート1位の記録を塗り替えた(原爆をネタにして炎上した)BTSと、それらの大罪をアーティストの世界観を司る『メッセージ』として自らの作品に盛り込んだUlverDIR EN GREY、果たしてどちらがミュージシャンとして優れているのだろうか?

な〜んて話はさて置き、歌詞の中にもタイトルのFlowers of Evilが込められた曲で、本作の『惡の華』の名を象徴する2ndシングルの#6“Little Boy”を聴いて連想したのは、日本のSSWで知られる岡田拓郎くん“Shore”DIR EN GREY率いるsukekiyo“濡羽色”で、この2つの曲に通じるものこそ“トラップ”である。この“Little Boy”は、終始鳴り響くハイハットの不規則なトラッピーなビートを刻んでくるのは確信犯だし(2分20秒からは特に顕著)、ラップの常套句である「YO(ヨ〜)」という所からも、これはもう「Ulverなりの(ト)ラップ」なんですね。しかし彼らがこれまでやってきたこと、それらの伏線を辿れば全く違和感ない着地点ではあるし、逆に必然的だし、思えば前作の最後の曲=“Coming Home”が伏線だったのかもしれない。また、アウトロでは前作に引き続きエンジニア/実質プロデューサーとしてキリング・ジョーク“Youth”によるケルティックなバグパイプが、まるで雲の上の存在=「神」の視点から人類同士の醜い争いによってそして誰もいなくなった地上を憐むような表情で無慈悲な音色を奏でる様は、目の前に「真実の歴史」をまざまざと突きつけられた気がした。

旧約聖書の一文献である『伝道の書(コヘレトの言葉)』から一部歌詞を引用した#1“One Last Dance”は、坂本龍一とのコラボで知られるクリスチャン・フェネスハンス・ジマー顔負けのスペース・アンビエント的なスコア感を醸し出しながら、まるで人類の故郷である地球で起きた人類の歴史、あるいは偽りの歴史、改竄された歴史、そして真実の歴史、それら人類が歩んできた尊い「歴史」を追憶するように、大沢たかお主演の『深夜特急』あるいは喜多郎顔負けの『シルクロード』上に淡い夕焼けと共に映し出すと、Holy Mountain(聖なる山)の山頂にあるレーダー峰から「主よ!これが我々人類という名の猿=ウッキーモンスターの限界です!この「歴史」こそ我々ウッキーモンスターの限界であり、その証明です!今すぐ地球に降臨し我々ウッキーモンスターに知恵を授けたまえ!ウッキー!」という「人類の限界説」を、地球から4光年先の三体星系に棲む(救世)主である三体人への『メッセージ』として送信し(←ただの三体脳)、そして聴きようによってはケニーGばりのサックスにも聴こえるフェネスのノイジーなギターソロが、人類の「正の歴史」「負の歴史」「記憶」「記録」が走馬灯のように脳裏を駆け巡る瞬間の如し、それこそガス室送りにされるユダヤ人女性の表情とアンオーソドックスのハンガリー人女性と全く同じ慟哭の表情で、人類が犯した大罪を懺悔し、贖罪と救済を求めるかのような、それはまるで燃え盛る教会の中で「終末のワルツ」を踊る降臨派の如し異様な光景だった(←ただの三体脳)。

それはまるで時空を超えて「歴史」という名の過去の遺産を掘り起こすかのような、それこそ某『映像の世紀』みたいなドキュメンタリーを見ているかのような、当時のモノクロ映像が現代の映像技術の進歩によりカラーで鮮明に蘇ったような、人類の歴史の闇の深層部に迫るような、緻密な構成で人類史の光と闇を照らし出す、全人類に共通する地球という名の故郷=『ノスタルジア』を描き出すサウンド・トラックのようだった。

本作を司る“Little Boy”のトラッピーなビートの名残をほのかに漂わせるのは、この“One Last Dance”がリトルボーイと共に本作を象徴する一曲だからであって、Under the Moonというお馴染みの歌詞を筆頭に、そのアンビエント〜スポークン・ワード的なムーディでポエトリーな世界観は、前作を踏襲しているというよりは中期Ulverが発表したアイコニックな作品である『Shadows of the Sun』の抒情的なアプローチに近い印象。その映画のスコアのような壮大で重厚なサウンドスケープは、坂本龍一ジム・オルーク、そしてデヴィッド・シルヴィアンとのコラボでも知られるクリスチャン・フェネスが得意とする電子音楽が根幹となっている。この電子的なアプローチやギターのアレンジ、その全てがフェネスの音を起因としている。フェネスはこの一曲目しか参加してないのにも関わらず、その後の全ての曲に影響与えているんじゃねぇかぐらいの存在感。少なからず言えることは、中期Ulverのエレクトロ路線はフェネスの影響が大きかったということ。それすなわち、ジム・オルーク坂本龍一をリスペクトし、そして自身でも『都市計画(Urban Planning)』というアンビエント作品を発表している日本の岡田拓郎くんUlver“トラップ”以外の点でも超自然的に繋がる。


しかし前作『ユリウス・カエサルの暗殺』の要素が全くないと言えば嘘で、むしろベースメイクは前作を基調とした作品であると断言できる。それを分かりやすく証明するのが1stシングルの#2“Russian Doll”で、彼女は1989年に生まれたという歌詞から始まるこの曲は、前作と同様にデペッシュ・モードキリング・ジョークなどの80年代ニューウェイブ/シンセポップに代表される、いわゆる80年代リバイバル然とした優美なシンセウェイブを展開する(何よりもUlverの伝説の1stアルバム『Bergtatt』のTシャツを着たデスメタル女子がダンスを踊るMVが「女性の解放」を表現しているような、これぞまさしく音楽ジャンルを超えたダイバーシティで、出自がメタルのバンドがこのMVを撮るのはちょっと衝撃的過ぎてマジ最高)(もちろんLOONAの例のMVを思い出した)。その80年代リバイバル路線を更にテンポアップさせた、二人のディスコクイーンとのデュエットを披露する#3“Machine Guns And Peacock Feathers”は、俄然80年代リバイバルが鮮明化したような、ほとばしるユーロビート感を内包したセンセーショナルなシンセとヘヴィっちゃヘヴィなギターリフで展開する。前作で言うところの“Angelus Novus”を彷彿とさせるミニマルな曲で、幽玄でノイジーなアトモスフィアを形成するギターとストリングスが闇夜に交錯する#4“Hour Of The Wolf”、そして前作は元より狼史上最もポップな#5“Apocalypse 1993”は、その名の通り1993年にテキサス州ウェーコで起きた宗教団体ブランチ・ダビディアン=新約聖書のヨハネの黙示録に記された「世界の終わり」を暗示する終末思想を思想体系とするセクトで81人の死者を出した陰惨な出来事を題材にした曲で、そんな元ネタのカルト宗教団体の終末思想と2020年というリアルタイムで大衆文化や歴史が奪われている現代社会をメタ的に共振させている。ちなみに、この曲の間奏には教祖であるデビッド・コレシュの肉声が記録されている。ちなみに、“デビッド”はイスラエル王国のダビデ王から、“コレシュ”はバビロン捕囚ユダヤ人を解放したキュロス二世から名を拝借している。もっとも皮肉なのは、こんな悲劇的な出来事を謳った曲なのに、その曲調はキラキラシンセ全開のキャッチーなポップスである点。しかし、改めてブランチ・ダビディアン事件をネタにするようなバンドである事を再認識させ、彼らUlverの楽曲に込められたシニカルなメッセージ性は計り知れない重さと確かな説得力がある。

初めて聴いた時は「へぇ〜、Ulverさんそんなオシャンティなメロディ鳴らしちゃうんだ」って良い意味で驚いた3rdシングルの#7“Nostalgia(ノスタルジア)”は、ファンキーなカッティング系のギターリフとジャズというか古き良き時代のソウル/シャッフルを彷彿とさせる、スローワルツというか社交ダンスのイメージがしっくりくる曲。ナチス・ファシスト政権下のイタリアを舞台にしたカルト映画『ソドムの市』から歌詞を引用した#8“A Thousand Cuts”は、ダンテの『神曲』を構成する「地獄の門」「変態地獄」「糞尿地獄」「血の地獄」という4つの章からなる悪魔崇拝的な狂気に満ち溢れた、セックス&バイオレンスなエログロ/スカトロなんでもござれな伝説的な映画の内容とは裏腹に、UKニューロマンティック界のレジェンドことキュアーTalk Talkばりに官能的でセクシャルなシンセの旋律をフィーチャーした、徹底したムード志向、徹底したアート志向を極め尽くしている。この第二次世界大戦末期の【イタリア】を舞台にした映画を元ネタにすることで、これにてキノコ雲という名の『惡の華』が咲いた【日本】とホロコーストの発信地である【ドイツ】、いわゆる枢軸国とされる【日独伊三国同盟】が成立する。実は、映画『ソドムの市』こそ『惡の華』という言葉が最も似合うアート作品なのかもしれない(僕は十数年前に観たけど途中で挫折した)。この血生臭い「生と死」を扱った退廃的で官能的な世界観は、Ulverの音楽その根幹部へと繋がっているのもまた事実。また、本作のキーワードの一つである「髪を切られる」という行為は、まさにこの映画の内容とも共振してくる。しかしながら、原爆やホロコーストという人類の悲劇をここまで大々的かつ直接的に描いているのに、そこから奏でられる音はUlver史上最も美しく、ポピュリストばりに一般大衆に媚びたポップスという皮肉。しかもアウトロの(まるで人類の大罪を聖水で洗い流すような)浜辺に寄せては返す美しい波=“浜辺美波”のSEで幕を閉じるのも、それこそ“10年代最高のメタル”と言っていいTOOL『Fear Inoculum』岡田拓郎『The Beach EP』と超自然的に繋がってくる話で、人類が贖罪と救済を得て夜明けを迎えた先にたどり着いた美しき「楽園」こそファシズムという皮肉。もはや浜辺のSE入ってるアルバム全部名盤説あるわw

は、更なる深淵へと導かれ、Trap=現代音楽と80年代の歴史と文化的なロマンス、そして人類の「記憶」を繋ぎ合わせる事に成功している。確かに、前作のようにドゥンドゥンと低域を響かせるダンサブルでダイナミックな派手さは控えめで、あくまでもシンプルでレトロなシンセの旋律とジャジーなムーディさを徹底している。とにかく、今作はシンセの鳴らし方が前作とはダンチで、より懐古主義的=レトロで、よりニューロマンティックで、より官能的な毒を持つ花のように妖しく、そして極上に美しい。前作ではオルタナ然としていたカリカリ系ギターは、(クリスチャン・フェネスに影響されてか)ノイズのように歪ませた残響音だったり、リバーブやエフェクトを効かせた音響効果に対する意識を持った俄然裏方的なムード形成の役割を果たしている。そういった面でも量子学論で例えるなら、前作の『ユリウス・カエサルの暗殺』がマクロ次元の音楽、今作の『惡の華』はミクロ次元の音楽。それこそ岡田くん『ノスタルジア』→『New Mourning』に近いイメージ。

しかし2020年のメタルシーンの何がヤバイって、隣国フィンランドのOranssi PazuzuがUSのラッパーGHOSTEMANEを中心とするトラップ・メタルを取り込んだ新時代のブラックメタル、それこそUlverのオルタナティブな音楽的思想を正統に受け継いだ歴史的名盤を発表したかと思えば、その回答として本家のUlverがトラップを革新的な方法で取り入れたのは言わば必然、いや運命だったのかもしれない。彼ら凄さはそれだけじゃなくて、こうやって出自であるブラックメタルの新世代をフォローしつつも、それと同時に過去にUlverも所属したことのあるKscopeを主宰するSWことスティーヴン・ウィルソン「ポップスの再定義」を図った2017年作の『To the Bone』に対する回答を示している。何を隠そう、Ulverはそこから更にトラップという、遡ると2018年末にトラップ・メタル界の長であるデンゼル・カリー〜BTSのトラップ=伏線を回収しつつ、そして2019年のメタルを象徴するBMTH『amo』から新時代の幕開けを飾る2020年のOranssi Pazuzu“80年代リバイバル”ザ・ウィークエンドまで直通する、つまりSW「ポップスの再定義」に始まり「メインストリームのトラップ=伏線」から「アンダーグランドのトラップメタル」、そして「80年代リバイバル」まで全ての伏線を器用に回収しつつ、更にそれ=音楽の世界にとどまらずNetflixという新時代の映像メディアとの確信的な繋がりをもって、怒涛の勢いで過去のメタル/ポップス/プログレを20年代仕様にアップデイトした、もはや「完全究極体伏線回収アルバム」と言っても過言じゃあない歴史的名盤です。完全に20年代仕様のUlver、完全に20年代仕様のロック、完全に20年代仕様のプログレですこれ。まさか界隈でも高く評価された前作を、こういう形で超えてくるなんて想像もしてなかったし、表面上は前作同様に80年代リバイバルと見せかけて、実は全てが20年代仕様=最先端にある次元の音楽やってるんですね。とにかく、「2020年の僕が一番求めていた音楽」そのもの過ぎて泣いた。ダメだこれ、ありえん天才だって。やはり、やはり“彼ら”は我々が想像する以上の遥か先にいた。なんだろう、いつ何時もレジェンドから全てが始まるんやなって。

もう2020年で一番ヤベー音源聴いてる気しかしなくて、今年よっぽどのことがない限りは年間BESTの一位は確定です。それぐらい、新時代の幕開けを飾るに相応しいアルバムで、もはやメインストリームのポップスからアンダーグランドのプログレまで、その全てを審美する上での新しい基準がこの『惡の華』です。もはや「引力」という概念を超えた何か別の力が働いているんじゃねえかレベルの、少なくとも“俺の感性”をNEXTステージへと向かわせる“特異点”となる作品である事は確かです。2017年にSW『To the Bone』を介して僕にポスト・トゥルース時代の幕開けを書かせたのが必然だとするなら、『惡の華』を介してこの2020年という名のポストアポカリプス時代における人類の尊厳と選別を、八咫烏の民=ユダヤ系日本人である僕に書かせたのも必然であり、全ては運命決定論のシナリオ通りなのかもしれない。そうオカルトあるいはアポフェニアの話に繋げたくなっちゃうほど、当ブログWelcome To My ”俺の感性”が書き記してきたサイン=伏線を漏れなく全て回収してきている。もうDNAレベルでユダヤ系日本人の俺しか書けへん案件やんと(ハッ!?まさかは僕がユダヤ系日本人であることを知ってて「完全究極体伏線回収アルバム」という『メッセージ』として私信してきたのか!?)。こうなってくると、つまりSW『To the Bone』後に単独来日公演を決めたとなると、Ulverは流石に来日公演とまではいかないが、フェネス繋がりで本家の坂本龍一とのコラボが実現したら、あるいはアニメ『惡の華』の2期が発表されたりなんかしたら最高に嬉しいな〜なんて。

Ulver 『The Assassination of Julius Caesar』

Artist Ulver
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Album 『The Assassination of Julius Caesar』
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Tracklist

02. Rolling Stone
03. So Falls The World
04. Southern Gothic
05. Angelus Novus
06. Transverberation
07. 1969
08. Coming Home



1997年8月31日は、その年のパリの中で最も熱い夜のうちの1つであった。ちょうど夜半過ぎ、黒いメルセデスベンツは執拗なパパラッチの大群を牽引し暗い通りを急いで行く。車は猛スピードでアルマ橋トンネルに突入、直線の進行方向から大きくそれて13番目の支柱に衝突、金属のうなる声とともに、ウェールズ公妃ダイアナはその短い生涯を終える 。世界はその最も大きい象徴のうちの1つを失った。物語は、ギリシャ神話に登場する狩猟・貞潔の女神アルテミス(ローマ名ダイアナ)のエピソードに共鳴する。ある日のこと、猟師アクタイオンは泉で水浴びをしていたアルテミスの裸を偶然に目撃してしまい、純潔を汚された処女神アルテミスは激怒し、彼を鹿の姿に変え、そして彼自身の50頭の猟犬によってバラバラに引き裂かれる。この写真は、Ulverの13枚目のアルバム、『ユリウス・カエサルの暗殺』を描き映す。

『ディアナとアクタイオン』
Tizian_Diana_Aktaion

初期の頃はブラック・メタルとしてその名を馳せるが、今では一匹狼的の前衛集団として孤高の存在感を誇示し続ける、「ノルウェイの森の熊さん」ことガルム率いるUlverが、同郷のTromsø Chamber Orchestraとコラボした2013年作のMesse I.X–VI.Xや2014年にSunn O)))とコラボしたTerrestrialsなどのコラボ作品を経て、ミキシング・エンジニアにKilling JokeMartin Gloverを迎えて約3年ぶりに放つ通算13作目となる『The Assassination of Julius Caesar』は、それこそ80年代に一世を風靡したイギリスのDepeche ModeKilling Jokeに代表されるニューウェーブ/ポスト・パンクに対する懐古主義的な作風となっている。

Nero lights up the night 18th to 19th of July, AD 64

ブルータス、お前もか来た、見た、勝った。など数々の名言でもお馴染みの、古代ローマの象徴であり民衆のアイコンである英雄「ガイウス・ユリウス・カエサル」「暗殺」というキラータイトルの幕開けを飾る一曲目の”Nemoralia”は、別名”Festival of Torches”とも呼ばれ、8月13日から15日にかけて古代ローマ人が定めた、8月の満月にローマ神話の女神ダイアナに敬意を示す祭日である。上記の歌詞は、西暦64年7月19日、皇帝ネロ時代のローマ帝国の首都ローマで起こった大火災『ローマ大火』を指しており、「ネロは新しく都を造るために放火した」という噂や悪評をもみ消そうと、ネロ帝はローマ市内のキリスト教徒を大火の犯人として反ローマと放火の罪で処刑したとされる。この処刑がローマ帝国による最初のキリスト教徒弾圧とされ、ネロは暴君、反キリストの代名詞となった。ここでは、その女神ダイアナにまつわる祝い事とキリスト教徒弾圧、そしてThe Princess of Walesことウェールズのプリンセス「ダイアナの悲劇」を共振させ、歌詞中にあるHer sexual driveは1997年8月31日に起こったロマンスの都パリで恋人との官能的なドライブをほのめかし、彼女のBodies of the modern age(現代の洗練された肉体)」Flowers crown her head(彼女の頭にある花冠)」Ancient goddess of the moon(月の古の女神アルテミス)」であると語りかける。もう既にお気づきの方もいると思うが、今作のタイトルの『ユリウス・カエサルの暗殺』、そしてエマニエル夫人のように艶めかしい肉体、その女性特有の曲線美を映し出すアートワークは、他ならぬ「ダイアナ妃の暗殺」を暗示している。

『ローマ大火』
Robert,_Hubert_-_Incendie_à_Rome_-

約10分の長尺で2曲目の”Rolling Stone”は、民族的なパーカッションとゲストに迎えた同郷Jaga JazzistStian Westerhusによるノイジーに歪んだギターのエフェクト効果とUSのPhantogramを彷彿させる重低音マシマシのエレクトロが織りなす、ダンサブルかつグルーヴィな打ち込み系のリズム・サウンドで幕を開け、その重心の低いダーティなビート感を持続させながら、Rikke NormannSisi Sumbunduという二人の女神とガルムによる古き良きムード歌謡風のデュエットを披露する。そして、後半に差しかかるとピコピコ系のエレクトロニカにバグが生じ始め、ドラムの粗暴なブラストとサックス界の生ける伝説ことニック・ターナーによるサックスが狂喜乱舞し、例えるならJaga JazzistKayo Dotを一緒にブラックホールにブチ込んだような混沌蠢く、とにかくアヴァンギャラスに暴走して化けの皮が剥がれ落ちて、遂には出自そのものが顕になって笑う。

3曲目の”So Falls the World”は、繰り返し鳴り響くロマンチックなピアノとエレガントなシンセが情緒的かつ優美な音世界を描き映す曲で、しかし終盤に差しかかると場面が一転する。それはまるで、Chvrchesローレン・メイベリーとガルムが互いに手を取り合って、それこそ映画『美女と野獣(熊)』の如く今にも踊り出しそうな、官能的かつダンサブルなビートを刻むダンス・ミュージックが、まるで「闇へと踊れ」とばかり聴く者の心を暗躍させる。まさか同郷のSusanne SundførRöyksoppとツルんでエレクトロニ化したのはこの伏線だった・・・? この曲に関連してちょっと面白いと思ったのは、ギリシャ神話ではアルテミスは古くは山野の女神で、野獣(特に熊)と関わりの深い神とされているところで、いやそれもう完全にガルムのことじゃんwって笑うんだけど、だからこの曲はそのギリシャ神話および女神アルテミスとUlverの関係性を密に表していると言っても過言じゃあない。

Depeche ModeKilling Jokeをはじめとした往年のニューウェーブ/ポスト・パンクを彷彿させる、過去最高にポップテイストに溢れたガルムのボーカル、ダイナミックなリズム&ビートを刻むドラム・サウンド、そしてギタリストDaniel O'Sullivanによるオルタナ然としたギターが、クラップやストリングスおよび打ち込みを交えながらキャッチーに展開する4曲目の”Southern Gothic”は、”80s愛”に溢れた今作のカギを握るキラートラックであり、中期の傑作『Shadows of the Sun』を彷彿させるガルムのダンディボイスとトリップ・ホップ風のトラック、そしてミニマルでリリカルなメロディが静かに気分を高揚させていく5曲目の”Angelus Novus”、往年のシンセ・ウェーブ然としたゆるふわ系のイントロから、再びDaniel O'Sullivanによってかき鳴らされるオルタナ然としたギターをフィーチャーした6曲目の”Transverberation”、ここまでの中盤はキャッチーなポップさとオルタナ的なアプローチを強調した流れを見せる。

再び女神を演ずるSisi Sumbunduとガルムがムード歌謡的なデュエットソングを披露する7曲目の”1969”、そしてDag Stibergによるサックスと時空の歪みで生じるヘヴィなエレクトロニカをフィーチャーしたSpoken wordを繰り広げる8曲目の”Coming Home”を最後に、Ulverという名の狼は強大なワームホールを形成し、人類の新たなHOMEとなるシン・次元へと導き出す。

同郷のTromsø Chamber Orchestraと共演した前作の『Messe I.X–VI.X』というクラシカルな傑作を出した彼らが、一転して今度は「踊らせ系」のシンセ・ウェーブへと様変わりし、とにかく「ポップ」で、正直ここ最近のアルバムの中では最も分かりやすいキャッチーな作風となっている。しかし、その裏に潜む作品の「テーマ」は極めて複雑怪奇となっている。確かに、この手のエレクトロニカ/インダストリアル系というと、初期メンバーから一新して生まれた中期の傑作『Perdition City』辺りを彷彿させるかもしれないが、しかしそれとは近いようでいてまるで別モノで、どっちかっつーとムード全振り感は同じく中期の傑作『Shadows of the Sun』に通じるモノがあるし、極端な話その『Shadows of the Sun』を豪快にポップ・サウンドに振り切った感覚もなきにしもあらずで、そして『あの時代』と『音』と『文化』を身をもって知っているKilling JokeMartin Gloverをエンジニアとして迎えている所からも分かるように、その音自体はコッテコテなくらい80年代のUKサウンドをリバイバルしている。そのポスト・パンク/ニューウェーブ的という意味では、ギタリストDaniel O'SullivanのユニットMothliteの2nアルバムDark Ageの方がイメージ的に近いかもしれない。

あたらめて、このアルバムは今からちょうど二十年前の『8月』に起きた「ダイアナの悲劇」をギリシャ神話の女神アルテミスと重ね合わせ、そして二人の『魂』を時空を超えて共鳴させた芸術的な作品だ。もっとも面白いのは、狼は女性神に支配される属性とされ、月が女神として信仰されているところで、今作で例えると狼は他ならぬUlverであり、月の女神はアルテミスに他ならない。つまり、”Nemoralia”が開かれる『8月』の満月の夜にUlver「月の犬」である狼マーナガルムへとその姿を変え、『現代(modern)』を司るダイアナ妃という『大衆(popular)』のシンボルを通して、すなわち「月の女神」であるアルテミス(ダイアナ)と誓約を交わし、そして古代ローマの偉人『ユリウス・カエサルの暗殺』を経由して『ダイアナの暗殺』を暴き出している。狼は『音楽』という名のワームホールの中で、『絵画』の中で描かれる『神話』『過去』『歴史』『現在』『大衆文化』を一つに結合するという、月の女神に従える化身としての使命を果たしているのだ。これらの衝撃的な事実に気づくと、この作品がただの懐古主義の一言で片付けられるアルバムではなく、いかにトンデモナイことしでかしてる『歴史』的名盤なのかが分かるハズだ。これぞ「オルタナティブの極地」だし、ガルムは間違いなく熊界最強の熊だと思う。

The Assassination Of Julius Caesar
Ulver
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