Artist 岡田拓郎
0000106473.1662100454orig

Album 『Betsu No Jikan』
a3507166390_16

Tracklist
01. A Love Supreme
02. Moons
03. Sand
04. If Sea Could Sing
05. Reflections / Entering #3
06. Deep River

近年における岡田拓郎の“動き”に関する話をすると、まずポカリのCMでもお馴染みのアイナ・ジ・エンドとROTH BART BARONによるA_oのバックバンドの一員としてMステ出演を果たすと、今年に入ってからはNHKのドラマ『17才の帝国』の羊文学の塩塚モエカ(作詞)と坂東祐大(作曲)が手がけた主題歌である“声よ”の編曲を岡田拓郎が担当したりと、少し前までは想像できなかったほどの売れっ子ぶりを見せつけている。しかし、自分の中では“売れっ子”というよりも、宇多田ヒカルが今年の初めに発表した『BADモード』において、普段からJ-POPをナメている岡田拓郎がワンパンKOされたイメージの方が強い。


その宇多田ヒカルに対するカウンターパンチとばかりに、今年のフジロックにも出演したジム・オルークやWilcoのネルス・クライン、そして岡田拓郎も敬愛するはっぴいえんどの細野晴臣やKing Gnuの前身であるSrv.Vinciの元メンバーの石若駿ら、国内外を代表するミュージシャンを客演として迎え入れた本作の『Betsu No Jikan』は、2019年作の1stアルバム『ノスタルジア』や2020年作の2ndアルバム『Morning Sun』などの過去作とは一線を画す、それこそ表題の「別の時間(軸)」で時を過ごしてきた、さしずめ別の次元にいた岡田拓郎が現次元の岡田拓郎として時空を超えてやってきた「ワンラン上の岡田拓郎」のような印象を受けた。

前身のバンド森は生きているを含めて、これまでのキャリアの中で岡田拓郎が積み重ねてきた音楽、つまりアンビエント/ニューエイジ~アヴァンギャルド・ジャズ~シティポップが同じ時間のタイムライン上でスムースに往来する実験的な音楽、その様々な音楽ジャンルを超越した先にある一つの到達地点となる『Betsu No Jikan』は、過去イチでボーカルレスのインストゥルメンタルに重きを置いた作品であると同時に、マイルス・デイヴィスさながらの本格志向のフリージャズに著しく傾倒した、言うなれば“アソビ”のない作風だ。「過去」のタイムラインと繋がりのない「別の時間」および別の次元からやってたきた高次元の宇宙人、もとい「自由人」の立場から奏でる「自由」な音しか鳴っていないのにも関わらず、彼が根ざしている部分は森は生きているから一貫して不変、それすなわち「いつもそこにある音楽」に他ならなかった。なんだろう、“意識”することによって初めて時間の存在が証明できるように、過去においても「別の次元」の「同じ時間」を過ごしていた事に気づかなかった、いや意識的に気づかないふりをしていたのかもしれない。逆に言えば、人類に対して意識的(Conscious)になることを促すような音楽がそこ(There)に、手を伸ばせば触れる事のできる距離にあるだけだった。

まるで江戸川区のパノラマ島奇談を読んでいる最中のような、昭和モダンな佇まいのある不協和音(dissonant)を駆使したネオ・サイケデリカの調べは、ある種の高次元のプログレというか、それこそスティーヴン・ウィルソンのサイドプロジェクトであるBass Communionを想起させる。これはあくまで感覚的な話だけど、Ulverが2021年に発表したライブアルバム『Hexahedron』において、過去作の楽曲をフリージャズの精神をもって再構築してみせたアプローチと限りなく近い実験性を感じるというか(宇多田ヒカルの『BADモード』も感覚としてそれに近い)、終始一貫して“ライブ感”というか“ほぼライブ”を聴いてるような感覚に近い。もはやジム・オルークのみならず、かの石橋英子や喜多郎に肉薄する孤高の立ち位置、その存在感を確立するに至っている。それぐらい過去作とは時間軸も、次元そのものが違う印象。

確かに、岡田拓郎にとってはこれすらも“ポップス”を意図して作っているだろうけど、百歩譲って過去作はまだしも、この『Betsu No Jikan』に関しては、少なくともパンピーにとっては“ポップス”として聴くことはほぼ不可能だと思う。正直ここまでくると、特にジャズに対する教養がない自分の耳からでは理解が到底追いつかない作品であることだけは確かで、わずかにアソビゴコロのあった過去作の方がまだ楽しめたのも事実。正直ここまでやっちゃうと、悪い意味で次回作以降が怖いというか。