Welcome To My ”俺の感性”

墓っ地・ざ・ろっく!

2022年09月

岡田拓郎 - Betsu No Jikan

Artist 岡田拓郎
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Album 『Betsu No Jikan』
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Tracklist
01. A Love Supreme
02. Moons
03. Sand
04. If Sea Could Sing
05. Reflections / Entering #3
06. Deep River

近年における岡田拓郎の“動き”に関する話をすると、まずポカリのCMでもお馴染みのアイナ・ジ・エンドとROTH BART BARONによるA_oのバックバンドの一員としてMステ出演を果たすと、今年に入ってからはNHKのドラマ『17才の帝国』の羊文学の塩塚モエカ(作詞)と坂東祐大(作曲)が手がけた主題歌である“声よ”の編曲を岡田拓郎が担当したりと、少し前までは想像できなかったほどの売れっ子ぶりを見せつけている。しかし、自分の中では“売れっ子”というよりも、宇多田ヒカルが今年の初めに発表した『BADモード』において、普段からJ-POPをナメている岡田拓郎がワンパンKOされたイメージの方が強い。


その宇多田ヒカルに対するカウンターパンチとばかりに、今年のフジロックにも出演したジム・オルークやWilcoのネルス・クライン、そして岡田拓郎も敬愛するはっぴいえんどの細野晴臣やKing Gnuの前身であるSrv.Vinciの元メンバーの石若駿ら、国内外を代表するミュージシャンを客演として迎え入れた本作の『Betsu No Jikan』は、2019年作の1stアルバム『ノスタルジア』や2020年作の2ndアルバム『Morning Sun』などの過去作とは一線を画す、それこそ表題の「別の時間(軸)」で時を過ごしてきた、さしずめ別の次元にいた岡田拓郎が現次元の岡田拓郎として時空を超えてやってきた「ワンラン上の岡田拓郎」のような印象を受けた。

前身のバンド森は生きているを含めて、これまでのキャリアの中で岡田拓郎が積み重ねてきた音楽、つまりアンビエント/ニューエイジ~アヴァンギャルド・ジャズ~シティポップが同じ時間のタイムライン上でスムースに往来する実験的な音楽、その様々な音楽ジャンルを超越した先にある一つの到達地点となる『Betsu No Jikan』は、過去イチでボーカルレスのインストゥルメンタルに重きを置いた作品であると同時に、マイルス・デイヴィスさながらの本格志向のフリージャズに著しく傾倒した、言うなれば“アソビ”のない作風だ。「過去」のタイムラインと繋がりのない「別の時間」および別の次元からやってたきた高次元の宇宙人、もとい「自由人」の立場から奏でる「自由」な音しか鳴っていないのにも関わらず、彼が根ざしている部分は森は生きているから一貫して不変、それすなわち「いつもそこにある音楽」に他ならなかった。なんだろう、“意識”することによって初めて時間の存在が証明できるように、過去においても「別の次元」の「同じ時間」を過ごしていた事に気づかなかった、いや意識的に気づかないふりをしていたのかもしれない。逆に言えば、人類に対して意識的(Conscious)になることを促すような音楽がそこ(There)に、手を伸ばせば触れる事のできる距離にあるだけだった。

まるで江戸川区のパノラマ島奇談を読んでいる最中のような、昭和モダンな佇まいのある不協和音(dissonant)を駆使したネオ・サイケデリカの調べは、ある種の高次元のプログレというか、それこそスティーヴン・ウィルソンのサイドプロジェクトであるBass Communionを想起させる。これはあくまで感覚的な話だけど、Ulverが2021年に発表したライブアルバム『Hexahedron』において、過去作の楽曲をフリージャズの精神をもって再構築してみせたアプローチと限りなく近い実験性を感じるというか(宇多田ヒカルの『BADモード』も感覚としてそれに近い)、終始一貫して“ライブ感”というか“ほぼライブ”を聴いてるような感覚に近い。もはやジム・オルークのみならず、かの石橋英子や喜多郎に肉薄する孤高の立ち位置、その存在感を確立するに至っている。それぐらい過去作とは時間軸も、次元そのものが違う印象。

確かに、岡田拓郎にとってはこれすらも“ポップス”を意図して作っているだろうけど、百歩譲って過去作はまだしも、この『Betsu No Jikan』に関しては、少なくともパンピーにとっては“ポップス”として聴くことはほぼ不可能だと思う。正直ここまでくると、特にジャズに対する教養がない自分の耳からでは理解が到底追いつかない作品であることだけは確かで、わずかにアソビゴコロのあった過去作の方がまだ楽しめたのも事実。正直ここまでやっちゃうと、悪い意味で次回作以降が怖いというか。

Cryalot - Icarus

Artist Cryalot
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Album 『Icarus』
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Tracklist
01. Touch The Sun
02. Hurt Me
03. Hell Is Here
04. Labyrinth
05. See You Again
06. Labyrinth (Edit)

「そういえば最近ケロケロボニト見かけないな?」と思ってるそこのYou、KKBは2018年作の2ndアルバム『Time 'n' Place』以降はコンピレーションやシングルを継続的に発表してるし、当時に俺ィも一回以上は聴いた記憶があるけど、いかんせん自分の中では1stアルバムの『Bonito Generation』ほど刺さらなかったのも事実っちゃ事実(内容はめっちゃ良いはずなのに)。とは言いつつも、ポップラップ・デュオ100 gecsの曲でCharli XCXと共演してたのは流石に「売れすぎじゃね?」と驚かされたし、サラ・ボニト自身も寺田創一らの日本のミュージシャンとコラボしてるみたいだけど、それに関しては全くノーマークで追えてなかった。しかし何を隠そう、それこそケロケロボニトの1stアルバムぶりに全身にブッ刺さったのが、他でもないサラ・ボニトのソロ・プロジェクトCryalotのデビュー作となるEP『Icarus』だった。

この記念すべきデビュー作について書いていく、その前に『amo』以降のBring Me The Horizon、およびフロントマンのイーモゥボーイことオリヴァー・サイクスの不可解なムーヴを語る必要がある。というのも、バンドでは問題作の『amo』におけるグライムスとのコラボを皮切りに、2020年作のEP『Post Human: Survival Horror』においては、女性の権利とLGBTQ差別を訴えるアシュニコに見せかけたNova Twinsや膝から流血ボーイのヤングブラッド、すなわちプレイリスト「misfits 2.0」文脈との共演、その翌年に発表したポスト・マローンオマージュのシングルこと“DiE4u”をハイパーポップアーティストにリミックスさせたかと思えば、オリィ個人ではロシア・モスクワの反政府ユニットである(既にロシアを脱出したと噂の)IC3PEAKやフィリピン系オーストラリア人のdaineとの多様性溢れる共演、極めつけにはNY/LAを拠点とする中国出身のハイパーポップアーティストAlice Longyu Gaoと一緒にバッキバキに加工されたプリクラをフィーチャーしたパリピなMVと、もう一方でWACKアイドルのASPさながらのブッ飛んだサイバーパンクなMVを2パターン撮ってて、「あぁ、これがHYPE BOYか...」と全てに納得した。


それらの「misfits 2.0」文脈を中心とした一連のコラボムーヴの終着点こそ、昨今のポップパンク・リバイバルの立役者であり、現代ロックシーンにおいて良くも悪くも揶揄の対象であるMGKことマシンガン・ケリーとBMTH(オリィ)のコラボに他ならない。一見すると「何がしたいねん」とツッコミ不可避かつ不可解なムーヴに見えるかもしれないが、数年前の『amo』という問題作を全ての起点として、約3年をかけて今をときめくMGKとのコラボにたどり着くオチまで、正直ここまで「筋」の通ったムーヴをキメるバンドも今どき珍しいんじゃねぇかってほど。とにかく、改めてBMTHおよびオリィにはリスペクトしかないし、身をもって「全ては繋がってる理論」を再確認させられた次第である。

要するに、現代ロックシーンの広告塔(インフルエンサー)を担うラスボスとしてのMGKBMTH(オリヴァー・サイクス)の共演は必然っちゃ必然であり、それこそ日本のsic(boy)やサンフランシスコのdynasticは、MGKを長とするポップパンク/エモ・リバイバルのムーブメントを象徴する次世代アーティストの一人として、その名声を高めている真っ只中だ。それに関連した話で言うと、MGKBMTHおよびオリィAlice Longyu Gaoのコラボレーションというのは、sic(boy)から影響を受けている日本のハイパーポップアーティストを代表する4s4kiとニューヨークのPuppetが共演した某コラボ曲へのアンサーソングであると、いわゆる“シン・薩英同盟”を締結させた“日本の俺ィ”の中ではそう解釈することにした。

確かに、確かにその件とサラ・ボニトは全然関係なくね?と思うかもしれんけど、個人的にBMTH(オリィ)MGK(終着点)のコラボについて一旦このタイミングで書いておきたかった、それこそ伏線回収しておきたかったネタでもあるし、何よりもサラ・ボニトのソロ・プロジェクトであるCryalotが既に「misfits 2.0」の文脈にガッツリ食い込んできている、さしずめ「サラ・ボニトなりのハイパーポップ」を真正面からやってきてるんだからしょうがないというか。それこそ、今回の伏線の一つとしてある「misfits 2.0」文脈の陽キャであるPoppyの存在に、イギリスの陰キャであるサラ・ボニトが触発された説まである。ともあれ、ここまで全てが繋がってんのマジでヤベーっつー話。

それこそCryalotのアーティスト写真からして、KKBのバブルガム/ポジティヴなイメージからは一線を画した、まるで百戦錬磨のハイパーポップアーティストさながらの地獄オーラを放っている。そんなサラ・ボニトの言わば“裏の顔”が落とし込まれた『Icarus』は、幕開けを飾る一曲目の“Touch The Sun”からして、アンビエント~トリップ・ホップばりにチルい冒頭の音響的な雰囲気から一転、さながらDJサラがプレイするクラブミュージック、あるいはEDM然としたバッキバキの低音を効かせた本格志向のトラックを打ち込んだ曲で、KKBにおける野郎のトラックメイカーが生み出すガムクチャなサウンドとは明確な違いを打ち出している(ほのかにBOOM BOOM SATELLITESっぽいかも)。その一方で、ポンキッキーズのテーマ曲に採用されてもおかしくないKKB譲りのバブルガム・ボニト味をウリとする二曲目の“Hurt Me”、そしてBMTHのオリィが仕切ってるプレイリスト「misfits 2.0」文脈のド真ん中をブチ抜くシングルの三曲目“Hell Is Here”は、それこそハードコア精神に溢れたシャウトでFワードを含んだ内省的なリリックを吐き散らす、カナダのDana DentataZheaniさながらのカオティックなホラーコアを繰り広げる。


先述したKKBの1stアルバムに肉薄する最大の要因、それほどまでに自分の胸にブッ刺さった曲が四曲目の“Labyrinth”と五曲目の“See You Again”である。前者の“Labyrinth”はコーラスのリフレインがJ-POPっぽい、というより最近の代代代を彷彿とさせるグリッチ・ポップ的な、それこそ久石譲さながらのメランコリックでノスタルジックな雰囲気をまとった曲で、例えるなら『最終兵器彼女』に代表される00年代のセカイ系サブカルアニメさながらのディストピアな世界観が、不協和音を奏でながら徐々に崩壊していく様子を描くグリッチーなアプローチを打ち出す。


後者の“See You Again”は、Grouperさながらのノスタルジックなアンビエント・ポップをバックに、『進撃の巨人』の地ならしにより焦土と化した地上にただ独り、「Ah~」という祈りにも近い歌声と『破壊と創造』の美学を謳うオリジナルの日本語詩のセリフを朗読するポエトリーガールさながらの姿は、日本のポエトリーラッパーを代表する春ねむりが今年リリースした最新作の『春火燎原』において、宮沢賢治の『よだかの星』を朗読した彼女のポエトリー・リーディングはもとより、既存のJ-POPとは一線を画すユニークなトラックメイクと否応にも共振するし、まるでサラが抱える心の闇の焦燥と刹那を含んだ中盤の呼吸SE以降は(映画『猿楽町で会いましょう』の主題歌“セブンス・ヘブン”のサンプリングっぽい雰囲気)、次世代ノイズバンドのmoreruさながらのシューゲイザーを経由したアンダーグランド・ノイズのヒリついたアプローチから(~離のポエトリーをフィーチャーした某曲も伏線)、後半はストリングスを交えた青葉市子風のニューエイジ~インディポップへと流動的に姿形を変えていく。

(先述したように)これ以上ないタイミングとあらゆる意味で、日本のSSWである春ねむりを想起させる(誤解を恐れずに言うと)J-POP的なムーヴは流石に確信犯だと思う(もはや俺ィが今回のレビューを書くことすらサラは確信してそう)。というのも、何を隠そう、春ねむり自身も今年リリースした『春火燎原』において、日本の気鋭ハイパーポップアーティストをプロデュースに迎えた楽曲を書いている。そのハイパーポップに対する見識やハードコアなシャウトを含めた音楽的な要素のみならず、同ロンドンを拠点に活動する世界的な歌姫リナ・サワヤマとクィア・アーティストとしての立場を共有するドリアン・エレクトラとKKBのコラボ曲を発表しているのも、心にレインボーフラッグをはためかせている春ねむりの世界観、およびIC3PEAKの盟友プッシー・ライオット派閥のフェミニスト/ライオット・ガール然としたパンキッシュな思想および価値観を(間接的に)共有していると言っても過言ではない。よってサラ・ボニトのソロ・プロジェクトであるCryalotの存在も、BMTHおよびオリヴァー・サイクスと同じベクトルで「筋」が通り過ぎている。もはや春ねむりとツーマンしてる未来が視えるほど、とにかくイギリスの才能と日本の才能が高らかに共鳴し合っててガチでemo(イーモゥ)い。

改めて、春ねむりの新譜やBMTH×MGKのコラボ、sic(boy)dynasticの次世代アーティストが台頭し始めたこのタイミングで、それらの伏線を回収するかのような一直線に「筋」の通った作品を出してくるのはガチで凄いとしか言いようがない。さすが名古屋県生まれとしか言いようがないし、本作の内容も「こーれ天才です」としか他に言いようがない。ともあれ、このレビューの考察を「信じるか信じないかはあなた次第」ですけど、少なくとも今年のベストEPであることだけは確かです。

HAZUKI - EGØIST

Artist HAZUKI
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Album 『EGØIST』
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Tracklist
01. EGOIZM
02. XANADU
03. C.O.M.A.
04. 七夕乃雷 -Shichiseki no rai-
05. AM I A LOSER?
06. CALIGULA
07. LIGHT
08. THE MIDNIGHT BLISS
09. HEROIN(E)
10. ROMANCE
11. +ULTRA
12. BABY,I HATE U.
13. CYGNUS

以前の記事に「今年のヴィジュアル系はDIR EN GREYと摩天楼オペラとImperial Circus Dead Decadenceの新譜3枚だけ聴いときゃ間に合う」的な事を書いた気がするけど、それでは現在のヴィジュアル系ボーカリストのソロ事情ってどないやねんと。

いわゆる「V系バンドのボーカリストのソロ・プロジェクト」というと、一先ずX JAPANの出山ホームオブハート利三改め龍玄としはさて置き、代表される所ではルナシーの河村隆一やラルクのHYDEが有名だが(ラルクはV系じゃないだろ!w)、個人的にV系バンドのボーカリストのソロといえば、Janne Da Arcのボーカルyasuのソロ・プロジェクトであるAcid Black Cherryに他ならなくて、自分の中では過去に何度もライブに足を運ぶほどの存在だった。しかし、バンドマンのソロ活動において最大の懸念とも言える「本家のバンド(JDA)よりもソロ(ABC)の方が人気が出ちゃったパティーン」←これに該当したのがJanne Da Arcyasuの関係性だったのも事実。ご存知、その結末としては(表向きでは)某メンバーのやらかしによって、長らく活動休止中だった本家ジャンヌは解散を余儀なくされ、静養中だったyasu自身も活動休止という名の実質引退宣言を発表するに至った。ともあれ、自分の知る限りではV系バンドマンのボーカリストはソロでも成功している例が比較的多いイメージがある。

そんな、大阪の枚方市からヴィジュアル系バンドならではのナルシシズムやエロさを追求したのがJanne Da Arcのyasuだとするなら、yasuとは別次元の“エロさ”を名古屋県は名古屋市から発信しているのがlynch.のボーカルである葉月だ。そんな、名古屋県を代表するネオ・ヴィジュアル系バンドのフロンロマンであるHAZUKIの記念すべきソロデビュー作となる『EGØIST』は、(Acid Black Cherryよりも全然見識の広い)現代的なヘヴィミュージックに精通しているバンドのフロンロマンだからこそ成せるソロ・プロジェクト、そのヴィジュ仕草をまざまざと見せつけるような内容となっている。

本家lynch.のエクストリーミーな音楽性とシンクロするように、V系ならではの艶やかな歌声の葉月とスクリーマーとしての葉月が共存する、それこそDIR EN GREYのボーカリスト京に肉薄するほどストイックなボイスチェンジャーでも知られる彼は、このソロアルバムにおいてもJ-POPさながらの楽曲と、その対極にあるエクストリームな楽曲をスムースに歌い分ける、持ち前のフレキシブルな才能が遺憾なく発揮されている。

本作の幕開けを飾るバキバキの打ち込みSEに次ぐシングルで、世界的な歌姫オリビア・ニュートン=ジョンの同曲名を冠する#2“XANADU”からして、「声が出せないのであれば」とばかりにオーディエンスの気分をageるクラップユアハンズを要求しながら、相対性理論さながらの00年代のオルタナ風のバッキングを背に、ヴィジュアル系のルーツの一つである昭和歌謡さながらのクサいメロディを発する葉月の歌声が俄然“ポップ”で“キャッチー”に織りなす、まさにHAZUKIのソロデビューその幕開けを飾るに相応しい一曲となっている。

一転して、lynch.らしいメタルコア然としたモダンなスタイルとスクリーマーとしての葉月を垣間見せる#3“C.O.M.A.”、本作で最も“ポップ”と呼んでいいメルヘンチックなキラキラシンセをフィーチャーした、魔訶不思議アドベンチャー!ばりにエキゾチックな世界観に観客を誘う#4“七夕乃雷 -Shichiseki no rai-”、古き良きV系らしいパンキーでファンキーなアプローチを効かせた#5“AM I A LOSER?”、冒頭からジャジーでアダルティなオトナの雰囲気を醸し出す...それこそAcid Black Cherryの“黒猫 ~Adult Black Cat~”とシンクロするバーレスク東京さながらのシャッフルソングの#6“CALIGULA”、その流れでyasuも葉月もリスペクトするラルクのHYDEが作曲/プロデュースした中島美嘉の“GLAMOROUS SKY”とシンクロする#7“LIGHT”、そしてアルバム中盤のハイライトを飾る#8“THE MIDNIGHT BLISS”の何が凄いって、ギターの弦の重心をゴリッと落としたヘヴィネスとサビの悪魔と成り 永遠をこの夜に~とかいうヴィジュアル系然とし過ぎている厨ニ歌詞を情感を垂れ流しながら肉欲的に歌い上げる葉月のエロい歌声が好き過ぎるヘヴィバラードで、シンプルに葉月にしかできないバラードって感じで「んほ~たまんね~」ってなる。

確かに、邪道っちゃ邪道かもしれんけど、この手のヘヴィなバラードに弱い性癖というか嗜好回路を持つギャ男...とまではいかないピチピチのジャンナーだからしょうがないけど、とにかく秋口にさしかかる今まさに聴いてほしい、秋の夜空に映える一曲だと思う。また、それらの個人的な嗜好のみならず、ジョーダン・フィッシュさながらのモダンなシンセやインダストリアルなアレンジには、葉月なりのBMTH愛が仕込まれている気がするし、この曲の一定のテンポを維持する重厚感溢れるドラミングは摩天楼オペラのドラマーである響が担当しているとか・・・これ以上は書ききれないほど「俺の好き」が詰め込まれ過ぎている(そら“永遠”リピートするわ)。

再びギアチェンしてlynch.風のモダンヘヴィネスをベースに、間奏パートではDjentの影響下にあるテクニカルでマッシーな動きを見せる#9“HEROIN(E)”、そのタイトルはもとより、サックスをフィーチャーしたスカパンク的なチャラいノリまでJanne Da Arcの“ROMANCE”をフラッシュバックさせる#10“ROMANCE”、ポスト・マローン並のAEPXフリーク(最高ダイヤ帯)であるゲーマー葉月らしいタイトル(オクタンのタトゥー)が名付けられたラウドロックの#11“+ULTRA”、V系現場のライブハウスでしか見られない光景が頭に浮かび上がる#12“BABY,I HATE U.”、そしてアルバムのラストを飾る#13“CYGNUS”は、未来への希望と光に満ち溢れたノスタルジックなキーボードの旋律が、それこそ本家lynch.を襲った武道館公演の延期およびバンドの活動休止を含めて、この数年の間に身をもって苦渋を飲む経験を重ねてきた葉月の胸中を物語っているようでもあり、しかし一方で、その苦しい状況下でlynch.を支え続けたバンギャの想いが巨大なシンガロングとなって、この11月に遂に実現(約束)を果たす武道館の天井に響き渡るような、とにかく不慮の出来事によりバンドが活動停止に追い込まれた葉月の信念が凝縮されているようで、あまりに説得力に溢れ過ぎていて泣く。それはまるで(言)葉が奏でる響きと(夜)月が照らし出す朧気な光が、この世界の闇を覆い尽くすように...。

この『EGØIST』は「ヴィジュアル系バンドのボーカル葉月のソロ・プロジェクト」←ただそれだけのようでいて、実は葉月がライブハウスにおけるステージ側の視点からオーディエンスを「視ている」、一方でlynch.のファンは武道館のアリーナ/スタンド席側から未来の葉月とlynch.の姿を「視ている」、要するに「過去」と「未来」が交錯する2つの視点、すなわち“視覚”から“聴覚”が呼び起こされた結果の作品であると。ともあれ、同様にポップな視点とヘヴィな視点が理路整然と入り乱れた、一見矛盾するかのようなラウドロックを繰り広げる本作は、lynch.のファンのみならず、Acid Black Cherryや龍玄ナンチャラに代表されるヴィジュアル系ボーカリストが好きなら必須アイテムです。

Muse - Will Of The People

Artist Muse
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Album 『Will Of The People』
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Tracklist
01. Will Of The People
02. Compliance
03. Liberation
04. Won’t Stand Down
05. Ghosts (How Can I Move On)
06. You Make Me Feel Like It’s Halloween
07. Kill Or Be Killed
08. Verona
09. Euphoria
10. We Are Fucking Fucked

Museはメタル・・・というのも、何を隠そう初期のMuseって一部界隈住人からはプログレ兼メタルというか、厳密に言えばオルタナティブ・ヘヴィの文脈で語られるようなバンドで、しかし近作においてはチャーチズさながらの80年代風のシンセ/エレクトロ主体の作風が相次ぎ、気づけばソッチ界隈では微塵も話題に挙がらない存在となっていた。そんなUKロックを代表するMuseが今回、初期作における“Museはメタル”の精神を引っ提げた、約4年ぶりとなる待望の新作でカムバックしてきた件について。


この『Will Of The People』の足がかりとなる、1stシングルの“Won’t Stand Down”の何にド肝を抜かれたかって、“メタル”は“メタル”でも今やUKを代表するモンスターバンドと化したBring Me the Horizonの“MANTRA”を彷彿とさせるカルト宗教の儀式的なMVをはじめ、同バンドがEDMポップスと化した問題作の『amo』における某シングルのアイコニックなリフ、そしてUSのDeftones『Diamond Eyes』で目覚め20年作の『Ohms』において確立させた“20年代のヘヴィネス”を、Museなりの解釈でオマージュしてんのがガチでヤバ過ぎる件。で、シャウトとともにザックザクにキザミに刻んでくる俄然メタリックな間奏パート、およびメインリフのヘヴィネスが入ってくる直前の“タメ”に該当するギターのギョーンギョーンギョーンも同様にアイコニックかつパンチライン過ぎて語彙力消失(バッキングのシンセの音とか、ほぼほぼジョーダン・フィッシュ)。

とにかく、今や日本のアイドル(PassCode)やガールズバンド(Trident)にオマージュや楽曲カバーされるBMTHがいかにしてアイコニックな存在となったのかを、UKロックレジェンドのMuse“MuseなりのBMTH”と呼ぶべき1stシングルを介して証明して見せるという想定外の展開に、改めて現行のヘヴィミュージックシーンはBMTHを中心に回っている事に感動を覚えた。そもそもの話、このシングルだけ『amo』以降のBMTHや最近のDIR EN GREYお抱えのエンジニアであるダン・ランカスターを迎えている時点でほぼ確信犯です。


1stシングルと並び“ミューズはメタル”の直接的なアンサーソングとなる#7“Kill Or Be Killed”は、冒頭のGojiraさながらのテック・リフとメシュガーさながらのギョーンの合せ技からして、もはや“ミューズなりのメシュゴジラ”の領域に片足を突っ込んじゃってる、それこそ3rdアルバム『Absolution』における“The Small Print”を超えるミューズ史上最高にヘヴィな曲で、その“20年代のヘヴィネス”の原型となるメシュゴジラに象徴される現代的なプログレ・メタルのアプローチやデスメタルさながらの間奏パート、そしてイケメンことハーマン・リ顔負けのピロピロギターソロが織りなす、まさに初期作の楽曲を正統にアップデイトさせたようなゴリッゴリのメタルを繰り広げている。

なんだろう、00年代を代表するUKオルタナのMuseが、当時しのぎを削ったUSオルタナのDeftonesと約20年の時を経て邂逅するエモ(amo)さったらないというか、ザックリ約20年のブランクがあるにも関わらず、現代ヘヴィミュージック界のトレンドである“20年代のヘヴィネス”を的確に捉えるマシュー・ベラミーの審美眼、その“したたかさ”に震える。リアルな話、来年のダウンロードフェスジャパンで全然トリでいけるっしょ(準トリがBMTHで)

自分の中では完全に終わったバンドという認識だったのに、今作聴いたら「ホーリーシェイ!」ってなったわ。なんだろう、近作の内容があまりに酷すぎた結果、自分みたいな初期厨のニワカファンが離れて一気に人気を落としたタイミングで、(海外ではワーナーだが、日本におけるレーベルを担う)Fソニーが「あんたら人気落ちとるからエエ加減に売れる曲書いて初期みたいなメタル回帰してもろて」みたいにケツ叩かれたとしか思えない、知らんけどw

確かに、音楽通ぶりたい批評家からは近作と同様に不評だと思うけど、俺らみたいな初期厨のニワカが寄ってたかって飛びつき、手放しで褒め称えそうな楽曲をFソニーにスパンキングされて意図的にソングライティングしてきたわけだから、そのバンドというよりはレーベルの意向を素直に汲んで受け取るべきだし、むしろMuseニワカであるメタラーの俺たちが支持したらんと誰も支持せんと思うわ今作。


そもそも、オペラさながらの大仰なクワイアが「ちんこ~ちんこ~」という空耳を連呼する表題曲の#1“Will Of The People”からして、本作におけるサウンド・スタイルの回帰を示唆するキザミを効かせたハードロック的な曲調だし、他にも前作の『Simulation Theory』における80年代路線を踏襲した、映画『ロッキー』の劇中歌であるヨーロッパの“ザ・ファイナル・カウントダウン”のオマージュとばかりのシンセをフィーチャーした曲で、この絶妙なタイミングで「昆虫すごいぜ!」のカマキリ先生こと香川照之やキャバ嬢にてめぇの爆乳さわってもいい?と聞いてそうなひろゆきに対して企業コンプライアンスの大切さを訴える#2“Compliance”、UKレジェンドことクイーンの意思を受け継ぐかの如しクラシカル/オペラティックなコーラスワークをフィーチャーした#3“Liberation”、ピアノ主体のバラードナンバーの#4“Ghosts (How Can I Move On)”、再びジョン・カーペンターの『ハロウィン』シリーズや『エルム街の悪夢』などの70年代から80年代にかけてのスラッシャー/ホラー映画的なゴシック・ミュージカルを繰り広げる#6“You Make Me Feel Like It’s Halloween”、マシュー・ベラミーのファルセットボイスをフィーチャーしたバラードの#8“Verona”、Bメロで「乳輪~」と空耳させることで再び日本人に対してコンプライアンスのギリギリを攻める#9“Euphoria”、飼い主であるFソニーに対してFワードを吐いて抗う曲で、同UKのPure Reason Revolutionさながらのクラシカルな電子ロックの#10“We Are Fucking Fucked”まで、とにかく“ファイナル・カウントダウン”オマージュといい、80年代ホラー映画の明確な影響といい、コンプライアンスのギリギリのラインを攻める下ネタ(空耳)といい、なんだろう全体的にBMTH(Deftones)meetチャーチズとでも例えたくなる作風で(Deftonesは主宰のフェスでチャーチズと共演しているのも伏線)、もはやピンズドで俺受けを狙ってるとしか思えないし、これマジでFソニーにケツぶっ叩かれてるってw
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