Welcome To My ”俺の感性”

墓っ地・ざ・ろっく!

2021年07月

デフヘヴン - 普通の堕落した人間の愛

Artist Deafheaven
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Album Ordinary Corrupt Human Love
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Tracklist
1. You Without End
3. Canary Yellow
4. Near
5. Glint
7. Worthless Animal

人は心のなかに、いまだ存在していないいくつかの場をもっており、そこに苦しみが入ることでその場は存在するようになる----------レオン・ブロワ


『真実の愛』とは・・・それは多分、もしかすると、例えばこのクソサイテーな世界の片隅で、クソみたいな胸いっぱいの愛を叫ぶのが新生アイドル研究会のBiS(二期)なら、このクソサイコーな西海岸のド真ん中で普通の堕落した人間の愛を叫ぶバンドが彼らDeafheavenなのかもしれない。そんなDFHVNの約3年ぶりとなる4thアルバムOrdinary Corrupt Human Love、このタイトルはイギリスの小説家グレアム・グリーン『情事の終り(The End Of The Affair)』から引用したものでで、そのOrdinary Corrupt Human Loveすなわち普通堕落した人間とは、物語の主人公である作家モーリスベンドリックスと不倫関係にある人妻サラ・マイルズが自身の日記に書き残した言葉である(いわゆる「不倫」を少しカッコよく言ったのが普通の堕落した人間の愛というわけ)。この小説の内容としては、それは「禁断の愛」か?それとも「真実の愛」か?その狭間で神(キリスト)の存在すなわち神(あなた)への信仰心を問いかけ、そして「愛と神」の間で激しく揺れ動く人間の情念を赤裸々に暴き出す究極のラブ・ストーリーである。

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おいら、彼らの音楽を比喩する時に必ずと言っていいほど用意する画像がある。それが、日系三世のグレッグ・アラキ監督の映画『ミステリアス・スキン(謎めいた肌)』の冒頭、いわゆるBUKKAKEのメタファーを描写する衝撃のシーンだ。DFHVNは、いわゆる新世代メタルの金字塔と呼び声の高い歴史的名盤サンベイザーの中で、思春期真っ只中のティーンエイジャーが生まれて初めて精通する瞬間を刹那的に描き出したかと思えば、一転して次作の3rdアルバム『シン・バミューダ』では、「イカなきゃ」という使命感に駆られた汁男優の白濁色のラブシャワーをBUKKAKEられたAV女優の笑顔の裏側に潜むドス黒い闇、あるいはAV男優吉村卓に顔面ベロチュウされまくって引退した桃谷エリカの絶望感を、地平線のように果てしなく続く激情をもって描ききっていた。彼らは、いつだって自らの音楽の中に人間が犯した「罪と罰」、「祈りと赦し」を神に乞い続けてきた。

近年、自分の中でここ数年で最も衝撃的な出来事が、音楽界隈ではなく海外ドラマ界隈で起こった。それこそ、シーズン1が公開されるとまたたく間に世界中でブームを起こしたNetflixオリジナルドラマ『13の理由』のシーズン2の1話をちょうど見終えた時だった。普段からNetflixにあるドラマシリーズを嗜んでいる人には伝わるはずだけど、Netflixドラマ特有の最後のクレジットをすっ飛ばして次の話に移る自動スキップ機能が発動する前にほんの一瞬だけ映る一番最初のクレジットに、あのグレッグ・アラキ(Gregg Araki)の名前が出てきた。その瞬間、僕は「え、ちょっと待って、いまグレッグ・アラキ(GREGG ARAKI)って出なかった?え?」って、初めは幻覚なんじゃねぇかと自分の目を疑った。「絶対にありえないこと」が起こっていることに一瞬戸惑った。そのまま続けて2話も見た。2話のクレジットもグレッグ・アラキだった。僕は嬉しくて涙が出た。

林家ペー

何を隠そう、おいら、もう10年以上も前に映画『ミステリアス・スキン』を観て、まだ今ほどブレイクしていない精々子役上がりのジョセフ・ゴードン=レヴィットくんを初めて目にした時、その役柄といいアジア人体型に近い華奢な体つきに妙な親近感を感じて男ながらに一目惚れしたのと、しまいには「抱きたい」と思っちゃったんだからしょうがない(それぐらい衝撃的な出会いだった)。で、この映画での体を張った演技やラブコメ映画『500日のサマー』をキッカケに一気にハリウッドスターに駆け上がったジョセフくんと、映画『ドント・ブリーズ』『13の理由』の主演を務め一躍人気俳優の仲間入りを果たしたディラン・ミネットくんは似た者同士というか、役者としてかなり近いフィーリングを僕は感じ取っていた。だから尚さら、こうやってグレッグ・アラキ『13の理由』が十数年の時を経て繋がったのは、こんな引かれ合い見たことないってくらい驚きというか奇跡的な出来事で、というか、また今気づいたけどシーズン1から複数話監督してたみたいで俄然驚いた(自分の気づかなさに)。そもそも『13の理由』のテーマの一つであるLGBTQ.Q.に対する差別や性暴力みたいな事って、それこそグレッグ・アラキ『ミステリアス・スキン』の中で表現してたりするわけで。ちなみに、グレッグが監督したドラマシリーズで最も重要な1話と2話ともにグレッグ・アラキのゲイならではの”性的嗜好”が画に表れていて、個人的にこれはもう『ミステリアス・スキン』の地続きの続編としか観れなかった。そう考えたら、この出会いは奇跡でも何でもない、ただの必然だったように思う。しかし、映画『ミステリアス・スキン』の内容が内容だけに、今や売れっ子となったジョセフくんが円盤化NGにしてるんじゃねえかと疑ってて、もしそうならNetflixが責任を持って配信すべきでしょってずっと思ってたんだけど、ちょっと調べてみたら2017年に日本でも円盤化されたと知ってソッコーでポチったけど、何か質問ある?(ちなみに、円盤の特典はゴードンくんの生写真w)

(ここまでの文章は、2018年8月13日に書いた文を微編集したもの)

本作のアートワークに描かれた、風を切るように颯爽と情熱的にマフラーを靡かせるダンディなグラサン姿のパンク婆からして、何やらこれまでとは違う雰囲気を醸し出す。幕開けを飾る#1“You Without End”からして、彼らの地元であるサンフランシスコが位置する西海岸のビーチの浜辺に寄せては返す美しいさざ波(浜辺美波)のSEとともに、まるで官能小説の一幕にありがちな事後のピロートークのような、フェミニンでアンニュイ、ホモセクシャルでハラスメントな倦怠感むき出しのギター、そしてエルトン・ジョン顔負けのジャズ風のピアノが流れ出し、“あの頃”をフラッシュバックさせる女性の語り声(スポークン・ワード)が「過去」の記憶を呼び起こす。それはまるで、かつてのダチでありバンドメンバーだったニック・バセット率いるWhirrというルーツと原点回帰を示唆するような、まだプロではなくただ純粋に音楽が好きだった“あの頃”の親友ニックと共に「この指Demoマジにサイコー過ぎるだろwww俺たちピッチに見つかっちゃうかもなwwwチュパチュパwwwこの指ハッピーターンの粉の味して超ウメェwwwお前も舐めてみな、飛ぶぞwww」だなんだと、西海岸の浜辺でワチャワチャはしゃいでいた“あの頃”の淡い思い出が蘇る。

未来への希望に満ちていた青春時代、いつしか疎遠になってしまったニックと交わした言葉、それが最後の会話になるとも知らずに、And then the world will grow(ズッ友だよ~♪)And then the world will grow(ズッ友だよ~♪)と約束したひと夏の青春の記憶を運んでくるコーラスワークと共鳴するように、ズットモダヤ゛ォ゛ォ゛!!ズットモダヤ゛ォ゛ォ゛!!と青春の痛みを痛みで補うようにシャウトするフロントマンのジョージ・クラーク、そして思春期の黒歴史が走馬灯のようにフラッシュバックさせる、衝動的に胸を掻きむしりたくなるアキバ系ギタリスト=ケリー・マッコイが奏でるトレモロに呼応する、それは怒りか、それとも愛か、もはや体がねじ切れるんじゃねぇかくらいのスクリーム→イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛ヤ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!は、それはまるで西海岸の名所である砂漠地帯のデスバレー(死の谷)へと続く道、道路脇にパームツリーが立ち並ぶ灼熱のアスファルトが照らし出す蜃気楼の中で、亡霊のように浮かんでは消え、そしてまたおぼろげに浮かんでは消える、そんな燃え盛るようなむき出しの愛を込めたジョージ・クラークの叫びは、それこそ冒頭に書いた「人は心の隙間を苦痛で埋めることで、その存在証明を示す」というフランスの小説家レオン・ブロワの言葉を実践するように、苦しみや痛みを叫ぶことで心に空いた隙間を埋めていくかのごとし。

確かに、DFHVNの作品にはピアノをフィーチャーした楽曲がバンドの個性を際立たせる役割を担っており、そういった意味ではDFHVNを象徴する最たる楽器がピアノと言っても過言ではないほど、彼らにとってピアノは切っても切れない関係にあって、特に本作ではそのピアノが音出しの一発目からメインの旋律として機能させている所からも、あらゆる面で過去作と一線を画す作品である事を示唆している。というよりは、それこそ2ndアルバム『サンベイザー』の根幹部を担う“Dream House”からの“Irresistible”というピアノインストの世界線と現在を紡ぎ出す続編と解釈するのもアリかもしれない。また、この“You Without End”に至っては、他の楽曲と比較しても意図的にマイルドなサウンド・プロダクションに聴こえるというか、なんだろう、いい意味で普通のロックバンドじゃないけど、ある種のピアノ・ロック的な“エルトンメタル”あるいは“エルトンゲイズ”とでも呼称したいくらいには、ピアノを軸に構築された楽曲と言える。


デスバレーの熱波に頭がやられた影響か、二曲目の“Honeycomb”では先ほどまでの優美で甘味な音世界から一転、冒頭の不穏なSEから青春時代の淡い思い出がズタズタに切り裂かれ、エルム街の悪夢が襲いかかるようなBlackgaze然としたゲイズギターや思春期のトラウマをエグり出すようなトレモロが、激しい動悸とともに徐々に加速していくBPM(平常心)に合わせて狂気乱舞したかと思えば、4分30秒以降の「シュ~」とパンク婆が高速で風を切るような擬音を合図に、まるで気分は海外ドラマ『フルハウス』のOPとばかり、(地元愛に溢れたMVにも登場する)西海岸の名所であるゴールデン・ゲート・ブリッジを時速300キロで(道路脇から飛び抜けちゃう勢いで)リア充がウェーイ!と突っ走るような、まるで日本のメロコアや青春パンクばりに爽やかなギターソロが炸裂するロックンロールゲイズを繰り広げる(この時のドラムがクソ気持ちいい)。このタイミングでメタル界の格言であるアチエネはメロコアの正統後継者としてデフヘヴンはメロコアが爆誕するという神展開。

アメリカ屈指の経済都市としても知られるカリフォルニア州といえば、バークレー出身のグリーン・デイをはじめとする青春パンクやメロコア、90年代のパンクブームを象徴する通称“エピタフ系”と呼ばれるバンドが主流である。ある意味で「デフヘヴンはメロコア」と仮定するならば、このDFHVNもLAパンクの一種としてカテゴライズできなくもない。もちろん、彼らの地元サンフランシスコのバンドといえばメタル界のレジェンドであるメタリカが最も有名だが、そんな彼らに対するジモティー愛は既に前作の『シン・バミューダ』で示している通りだ。

実は、この『普通の堕落した人間の愛』って、サンフランシスコという“一つの州”の概念を超えた“一つの国”への地元愛や土着愛に満ち溢れたマイルドヤンキー系ブラックであると同時に、DFHVNのもう一つのルーツ=第二の故郷がアメリカ中西部にあることを示唆する作品でもある。そのアメリカ中西部といえば、90年代に独自のエモシーンを確立した土地として知られ、いわゆる「エモ」ではなく伝統的な「emo(イーモゥ)」の精神を受け継ぐ、American Footballに代表されるようなMidwest emoが盛んである。何を隠そう、本作は全編に渡ってメロディの湿度がMidwest emoを経由している気がしてならなくて、そのアメリカ中西部が生み出した本物のemo(イーモゥ)への憧憬が顕著に現れたのが三曲目の“Canary Yellow”である。この曲はemoやポスト・ハードコアをルーツとするポストメタルで、このクソサイテーなモノクロの世界に蜜蜂風味のキャンディポップのフルーティな香りとカラフルな彩りを施すメロディ、リズム隊が織りなすマスロックをイメージさせる徹底したグルーヴ、そしてクライマックスでのケリー・マッコイによるギタリストとしての遊び心を忘れないブルージーなソロワークから、“あの頃”の地元のマブダチと一緒に肩を組んで童話『かごめかごめ』のような円を作って、皆でOn and on and on we choke on(死ぬまで一生ズッ友だよ~♪)On and on and on we choke on(死ぬまで一生ズッ友だよ~♪)とシンガロングする輪の中心で『真実の愛』を叫ぶジョージ・クラーク→

ズットモダヤ゛ォ゛ォ゛!!ズットモダヤ゛ォ゛ォ゛!!

四曲目の“Near”は、Alcestとのコラボでも知られるスロウダイヴや一発屋と化したシガレッツ・アフター・セックスを連想させるスロウコア/ドリーム・ポップで、この曲では驚くべき事にジョージがバンド史上初となるクリーンボイスを披露している。このジョージのクリーンボイス導入は、2021年8月20日にリリースされる彼らの5thアルバム『Infinite Granite』への伏線となっている。


小説『情事の終り』の主人公モーリス・ベンドリックスとその愛人サラ、二人の間を引き裂くのは悪魔か、それとも神か。憎しみと妬みが欺瞞と疑惑を生み、互いの想いはすれ違い、そして神への信仰から食い違う愛の形に対面した二人の苦悩が儚く散りゆくイントロのメロディから、突如としてシングルの“From The Kettle Onto The Coil”のセルフオマージュの如く唸るようなゲイズギターが炸裂する#5“Glint”、複数の作家・小説家から引用した情緒的で官能的な本作品のロマン主義を象徴する#6“Night People”は、『普通の堕落した人間の愛』を求めて暗闇の世界を彷徨うサラの情熱的な想いと『真実の愛』に気づいたモーリスが悲哀の恋文あるいは激情的なロマンスを語り合うかのような二人の求愛行為、その二人を演じるようにしてレーベルメイトのSSWチェルシー・ウルフとジョージ(クリーンボイス)がデュエットするピアノバラードで、いわゆるコンセプト・アルバムとしての側面が色濃い作風だからこそ可能にした楽曲と言える。

ピアノをフィーチャーした#1“You Without End”から漂うそこはかとないジャズ・ロック的な伏線は、アルバムのラストを飾る#7“Worthless Animal”で見事に回収される事となる。#1における「いい意味で普通のロックバンド」たらしめている“普遍性”とその要因となるキーマンこそ、他ならぬ本作から新加入したベーシストのクリス・ジョンソンによるものだと確信できる。何故なら、以前までのDFHVNって極端な話だけどメタル界の格言である「ベースいらなくね」案件のサウンドで、しかし本作では一転して「ベースいるくね」のバンドに大変身を遂げている。特に#7ではジャズいアプローチをもってバンドに新しい風を運んでおり、そんな彼のブッリブリなベースラインとドラムのダニエル・トレイシーが織りなすリズム隊のプレイが、バンド史上最高のグルーヴ感とバチグソなタイト感を生み出している。気のせいか、BPM指数が体感的に歴代最低に感じるのも、同じBPMなのに彼のプレイによって俄然タイトなイメージに錯覚させるというか、なんだろう、「ロックバンドとしてのデフヘヴン」を司る上で欠かせない最後のピースがカチッとハマった感。そして、その「ロックバンドとしての普遍性」が今後の彼らにもたらすものとは?それこそメタルというジャンルを超越したモンスターロックバンドとしての、つまり“ポスト・メタリカ”としての座である(ごめん盛った)。そういった意味では、今の彼らは俄然フジロックじゃなくてサマソニで観たいバンドになった。

全ての物語に“始まり”があれば、それはいつか“終わり”を迎える。愛人サラの突然の死によって、悲劇的な幕切れを迎えた三角関係のその後。小説『情事の終り』の終盤に示される答えは、不倫という『普通の堕落した人間の愛』ではなく、妬みや憎悪を超えた先にある“隣人愛”だった。著者であるグレアム・グリーンは、キリスト教における“隣人愛”もまた、人間を肯定する正しい愛の形、あるいは性別を超えた人間愛であると。小説の終盤、いわゆる腐女子視点だとカップリングできちゃう主人公モーリス・ベンドリックスとサラの夫ヘンリー・マイルズの間に奇妙な友情が芽生え、サラの亡き後に恋敵であるはずの男二人で同棲生活を始めちゃうも、なんだかんだで最終的には神に全てを寝取られるという、これがホントの神展開w

「こいつらどんだけしたたかで頭いいんだ」と改めて感心するのは、小説『情事の終り』の終盤で提示されたサラと主人公ベンドリックスの『真実の愛』と見せかけた男同士の禁断の“隣人愛”と、本作『普通の堕落した人間の愛』における地元愛と見せかけた中西部(Midwest emo)に対する“隣人愛”を共振させている点で(これはゲイと揶揄されたDFHVNの隠語的なメタファーである)、つまり本作は地元愛と中西部への憧憬、この2つの州や地域を股にかけた青春時代の記憶(ノスタルジー)と自らのルーツ(DNA)を辿る音の旅であると。それこそ“音の旅”といえば、イギリスのアナセマも西海岸を舞台にした遺作を発表したが、本作もまたサンフランシスコ生まれのネイティブ仲間で地元を巡ってたら飛ばし過ぎて中西部にも寄り道しちゃった音の旅。寄り道したと言っても、#1の冒頭と#7のアウトロが同じ浜辺に寄せて返す美しい波(浜辺美波)SEを使っている事から、地元サンフランシスコで燃えるような大恋愛を経験したパンク婆が年月を経て地元に帰ると、まだ若かりし頃に「やっぱ地元サイコー!」とか言いながら仲間とビーチでサンバイザーを付けてウェーイ!してた思い出が蘇り、そして「過去」と「現在」が無限ループする輪廻転生的な考察や解釈の余地を持つ“シスコゲイズ”であると。

確かに、基本的なギターのフレーズや楽曲構成諸々に関しては過去作を踏襲している、言い換えれば“集大成”と呼んでも差し支えない内容で、その一方でクリーンボイスの導入やロックバンドとしての普遍的なアプローチなど、次作への布石が要所に散りばめられている。しかし本作は、音楽的な部分よりも諸々のコンセプトありきの作品であることは確かで、それこそ一冊の小説を読んでいるかのような純文学的な作風で、その小説『情事の終り』などから引用したコンセプティブな隣人愛と中西部のemo(イーモゥ)愛を共振させる『真実の愛』に気づいた当時は、正直これは凄すぎて書けないと途中で断念したくらいには、リアルタイムというか今でも思い入れのある作品の一つと断言してもいいくらいには当時めちゃくちゃ聴き込んでて、でも逆に思い入れが強くなり過ぎて当時は書ききれなかった代物。それくらい、ここまでたどり着いてようやく正当な評価を下せる作品だと、2018年のリリース当時から約3年経ってようやく書けた今だからこそ改めて思う。しかし今となっては、当時まだ存命していたBiS二期が解散し、映画『君の名前で僕を呼んで』のルカ・グァダニーノが手がけた新作ドラマ『僕らのままで/WE ARE WHO WE ARE』が制作される始末...(時の流れ怖い)。ちなみに、当時(2018年)に書き残していた冒頭文の微編集した箇所は時系列のタイムパラドックス修正がほとんど。

事実、来月に本作から約3年ぶりの新作となる5thアルバム『Infinite Granite』のリリースが予定されている状況の中、本作について書けるラストチャンスが今このタイミングだった。というより、上半期のBandcamp界隈でバズったParannoul『To See the Next Part of the Dream』に触発されたのが一番大きくて、何故ならその作品におけるemo(イーモゥ)とシューゲイザーの邂逅的な音楽性って、まさにDFHVNが数年前にやった事でもあったから。ちなみに、そのParannoulの新譜と本作『普通の堕落した人間の愛』は、奇しくもトータルタイムが1時間1分と全く同じなのも偶然にしては面白いなって。

逆に、観客が10人くらいしかいなかった「伝説の名古屋公演」をほぼ最前で観ている自分が書かなきゃ誰が書くねん的な謎の使命感と、あとは単純に自らのモチベを奮い立たせるために「デッへのレビュー書けたら可愛い女の子と3Pできる!デッへのレビュー書けたら可愛い女の子と3Pできる!絶対に3Pできる!」と自分をだまくらかした結果、なんだかんだ当時のiPadにメモっといた膨大な短文(黒歴史)を引っ張り出して、それをいつもどおりパズルのように組み立てたら、恐らく当時もこのような事が書きたかったんだろうな~的な感じのレビューが書けたと思うので・・・今から僕と3Pしてくれる可愛い読者の女の子募集します!某選手村に対抗して選手ムラムラ3P堕落プレイがしたいです!僕の目の前に『NHKにようこそ!』における岬ちゃん現れてください!もし3Pしてくれたら当時海外マーチから取り寄せた『サンベイザー』5周年記念ピンクTシャツをプレゼントします!(←林家ペー・パー子かよw)というか、むしろそれを女の子に着てもらって3Pしたいです!よろしくお願いします!3Pーー!!3Pーーー!!3Pーーーー!!

我儘ラキア 『SUPERIORITY』

Artist 我儘ラキア
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EP 『SUPERIORITY』
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Tracklist
01. JOKER
02. FUTURES
03. GIRLS
04. FLASHBACKS
05. JOURNEY

2020年末に発表された前作のEPWAGAMAMARAKIAから約半年振りの新作となるEP『SUPERIORITY』のリード曲を担う“JOKER”を聴いた時、「我儘ラキア、始まる前から終わってた・・・」と絶望した。


我儘ラキアといえば、いわゆる国産ラウドロックを軸にジェントやオルタナ、ラップ/ヒップ・ホップやパンクやEDMなどの音楽ジャンルをエクストリーム合体させた次世代ハイブリッドアイドルである事を前置きしつつ、この“JOKER”の系統としては、前作で言うところの“Letting Go”や“Like The Atars”のパンク路線を正統にメジャーアップデイトさせたような、例えるなら「我儘ラキア」というアイドルグループをわかりやすく表現したハイブリッドスタイルのリード曲が前作の“SURVIVE”なら、いわゆる邦ロックの影響下にあるパンク路線に振り切ったリード曲がこの“JOKER”である。

なんだろう、ライブやフェスで邦ロックキッズがナンチャラステップ踏んでる姿が容易に想像できるウェイ系のノリがキツいし、根本的な問題として日本のラウドロックがいかにチンカスレベルなのかを証明するようなクソほどつまらない音作りが無理というか、まずギターの音がプッププップと屁ぇこいてんのかレベルの音で全くもって“ヘヴィ”じゃないし、星熊南巫の歌に関しても加工され過ぎててこれなら星熊じゃなくてもいいし、そもそも凛ちゃんと玲奈の歌割りがないものアレだし、単刀直入に言ってしまえば「ヘヴィネス舐めすぎ」ということ。確かに、嫌でも頭にこびりつくワナワナワナワナオッオワナワナワナワナオッオはもとより、微妙にクソダサ炎上バンドの某メガラバを想起させる点も、ラウドロックというより俄然パンク寄りの楽曲として解釈すべき曲と言える。つまり、今回のリード曲は邦ロックをはじめとした夏フェス属性ありきの曲で、曲の内容云々以前にフェス向けのアイコニックな役割とライブ/フェス受けを狙った目的が初めから決まっている曲、それ以上でもそれ以下でもない曲なんですね。ちなみに、この曲のプロデュースはミスターXなる謎の人物で、どうやら巷ではほぼ特定されているらしいけど、正直この程度のチンカスロックで素性隠されても逆に反応し辛いというか、これで逆に名乗りづらくなったんじゃ。唯一の良い点を挙げるとすれば、MIRIのラップソロだけはちゃんみなリスペクトしてる雰囲気あっていいと思う。なんかもう謎のK-POP感のあるMVの怜奈が楽しそうだからそれだけでいいよ。正直、この曲の見どころはMVの怜奈しかないマジで。マジで(別にパイオツカイデーなゴリゴリのギャルだからとかじゃないから)

JOKERを聴いた僕「ラキア絶対に売れない」

FUTURESを聴いた僕「ラキア売れた・・・はい、今この瞬間にラキア売れたよ!」

リード曲の“JOKER”がパンク路線を“メジャーアップデイト”させた曲なら、前作のリード曲である“SURVIVE”を“マイナーアップデイト”させた曲が二曲目の“FUTURES”だ。開始2秒でミスターXの存在を過去に葬り去るような、ヌーメタルの影響下にあるヘヴィネスは近年のDIR EN GREYを彷彿とさせ、前作『WAGAMAMARAKIA』で高らかに宣言した次世代ハイブリッドアイドルを司るアイコンとしての存在感を放つMIRIによるキレッキレのラップを軸に展開、そして怜奈パートのあのね、でもね、いまさらね、この感情からの凛ちゃんパートのSiri滅裂 抑えきれないの?から、いわゆる“神様に慈悲を乞う系”のヴィジュアル系バンドあるある歌詞を、Acid Black CherryばりのV系歌謡風に歌い上げるサビの星熊さんにバトンを繋いでいく流れは完璧ってレベルじゃなくて(一瞬だけシャッフルソングっぽくなる所もV系)、兎にも角にも何時になく感情を露わにする凛ちゃんの使い方が100点、いや120点の神曲。

我儘ラキアの真髄はメインボーカルの星熊さんとラッパーMIRIの鉄壁コンビにあると見せかけて、実は見た目ゴリゴリのギャルなのにメンバーで最もアイドルらしいフラットな歌声というギャップ萌えを持つオレンジガール怜奈と、独特の空間を作り出す低音マシマシのアデージョな歌声を持つ凛ちゃんの二人の脇役をいかようにして楽曲内に活かすか、正直そこに全てがかかっていると言っても過言じゃあなくて、それこそ僕がリード曲の“JOKER”に否定的な意見を示した理由はそこにある。また、この“FUTURES”を聴いて思ったのは、怜奈と凛ちゃんの歌声は対照的でもあるんだなって。その水と油のような二人の歌声が曲中で溶け合ってこその我儘ラキア、つまり我儘ラキアをギリギリ“アイドル”たらしめているフラット怜奈がいるからこそ、アクというか個性の強い星熊と凛ちゃんの歌声がより自由に映えるってもんで、その逆張りの個性と個性がぶつかり合い絶妙なバランス感覚をもって自らの存在証明が保たれているような、そんな我儘ラキアというアイドルグループを象徴するような神曲が“FUTURES”なんですね(こっちがホントのリード曲まである)。リアルな話、“JOKER”の駄曲っぷりに絶望したのもあって、凛ちゃんの迫力マシマシの低音ボイスからの星熊のサビ聴いた時は久々に「ホーリーイェス!ホーリーイェス!」って叫んだわ(ちなみに、二番サビは凛ちゃん→怜奈→星熊で、この流れもエモ過ぎて最高)。しっかし、DIR EN GREY顔負けのヘヴィネスといい、“神様に祈る系の歌詞”とサビといい、寸分の狂いもない“V系アイドル”のソレからして「これ完全にLynch.の葉月プロデュースだろ」と思って調べてみたら、案の定というか普通に“SURVIVE”でもお馴染みのマイファス=Nobだった。

このEPの中で新機軸というか、我儘ラキアの新しい一面を引き出しているのが三曲目の“GIRLS”だ。まずは、本作におけるMIRIのラップに関して感じる事と言えば著しい“ちゃんみな化”であり、そんなMIRIによるちゃんみなリスペクトな低域バッキバキなラップが炸裂するこの“GIRLS”は、我儘ラキア“生命線”である“ライブ”が行われる“聖地”すなわち“宮殿(ライブハウス)”RAKIA IN THE HOUSEという歌詞に見立て、オリエンタルでエスニックな芳ばしい香りがツーンと鼻をつく魅惑のRAKIA IN THE HOUSEに誘い、サビのBMTHリスペクトなシンガロングやBMTHのジョーダン・フィッシュ顔負けのシンセによる近未来空間をはじめ、英詞なのもあって星熊の歌い方も含めて全体的に洋楽嗜好が強いというか、それがあまりにBMTH的だから最前で観た大阪の来日公演を思い出して感傷的になった。この曲をプロデュースしたのは前作の“New World”でもお馴染み、NOISEMAKERのAGとHIDE。

ラキアの凄さって、聖地である宮殿という名のライブハウスの箱がデカくなるにつれ、その箱のサイズと比例して楽曲のスケール感もアップしている点で、そういった意味でも“GIRLS”は現状の我儘ラキアの“サイズ感”が脳内で詳細にイメージできてしまう曲でもあって、また五曲目の“FLASHBACKS”もアリーナ級の宮殿でパフォーマンスする姿が容易に想像できてしまう、ひと味もふた味も違う我儘ラキアならではのバラードナンバーとなっている。そんなスケール感マシマシの未来、その“先”のさらなる“先”しか見据えていない“前のめり”な前傾姿勢に反して、ここで一旦一息ついて改めて等身大の姿に立ち返るような、本作のラストを飾るにふさわしい実家のような安心感isKubotyプロデュースの青春メロコアチューンの“JOURNEY”まで、確かにリード曲がパンク路線のメジャーアップデイトなので、ラウドロックやメタルというよりも邦ロック気質な作品イメージは否めないものの、表題作の前作に引き続いて我儘ラキアの王道を正統にアップデイトさせつつ、一方でこれまでのラキアにはない、新しいラキアの可能性と“ライブアイドル”としてのスケール感みたいなものをまた一段と拡張するような一枚となっている。

唯一の懸念としては、本作はリード曲をプロデュースしたミスターX以外は、前作でもお馴染みの人選ということもあり、本当の本当に「我儘ラキア、どないやねん?」みたいな問いに対する評価が固まりそうなのは次回作ってことになりそう。次回作こそ本当の試金石と言えるのかもしれない。でも、こうやって嬉しい悩みの種が次々に生まれることは決して悪いことではないし、それもこれもきっとミスターXのお陰・・・ありがとうミスターX・・・フォーエバーミスターX!!

Violet Cold 『Empire of Love』

Artist Violet Cold
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Album 『Empire of Love』
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Tracklist
01. Cradle
02. Pride
03. Be Like Magic
04. We Met During The Revolution
05. Shegnificant
06. Working Class
07. Togetherness
08. Life Dimensions

Liturgyのハンターハント・ヘンドリックスは、いわゆるLGBTQ.Q.に属するトランスジェンダーの一人として男女の性別=SEXの概念を超越(Transcendental)した革新性をブラック・メタルに持ち込んだメタル界の風雲児であり、そのヘンドリックスの呼びかけという名のカミングアウトに呼応したのが、アジアとヨーロッパをつなぐ中近東(西アジア)に位置するアゼルバイジャンは首都バクー出身のエミン・グリエフ氏による実験音楽プロジェクト、その名もViolet Coldだった。このViolet Coldは、その音楽はもとよりアートワークやミックス/マスタリングまで全てエミン氏独りで手掛けているDIYな独りブラゲで、2014年に1stアルバム『Lilu』でアンダーグラウンド・メタルシーンに登場するや否や、一年に一枚のハイペースでコンスタントに作品を発表し続けている、その手のマニアの間では知る人ぞ知るアーティストである。

そんなViolet ColdLiturgyがどのような文脈で繋がってくるのか?何を隠そう、彼の出身国であるアゼルバイジャンという国は、隣国であるトルコやアルメニアと並び、アンチLGBT国家のワースト1位(最下位)にランクインしている国家であり、近年でもLGBTの性的嗜好を持つ人々が逮捕されたり、その他様々な理不尽とも言える言論弾圧に対し世界中の人権派から非難を浴びている国として知られる。そんな“しがらみ”に囲まれた国に生まれたエミン・グリエフ氏はこの度、母国アゼルバイジャンを裏で操る隣国トルコの国旗をLGBTのシンボルである6色のレインボーフラッグに染め上げたアルバム、その名も『Empire of Love』という国家権力に抗う革命児とばかりの作品を発表、しかし(隣)国が(隣)国だけに、宗教が宗教だけに、これヘタしたらアンチLGBTの過激派に、というか国家権力そのものに命を狙われてもおかしくないレベルの“ガワ”からして既にパンク過ぎて逆に心配の気持ちが勝るのも事実。

Violet Coldは、先述したように初期の頃から実験的な側面を持つ音楽で知られ、例えばエレクトロニカやアンビエント、ネオクラシカルやウィッチハウスなどのブラック・メタルとは無縁の音楽ジャンルを取り込んだハイブリッドなスタイル、端的に言えば「アンダーグラウンド界のハンターハント・ヘンドリックス」がエミン・グリエフ氏である。しかし本作の『Empire of Love』では、これまでの比較的王道のブラックゲイズから一転して、アルバムの幕開けを飾る#1“Cradle”から母国アゼルバイジャンに伝わる民謡的な楽器(マンドリン的な)をフィーチャーした遊牧民的なオリエンタリズムを繰り広げたかと思えば、次の#2“Pride”が始まった瞬間・・・

そんなん言うてもな~んも知らんよ♪

・・・という、中東近辺に属する国の生まれらしいエスニックな香りを帯びた、恐らくアゼルバイジャン語?で歌う謎の女性コーラスパートが、もはやタモリ倶楽部の空耳アワーに投稿不可避の空耳で笑った。

ともあれ、本作はテーマがテーマだけに、それらの女性ボーカルによるイーサリアルなコーラスワークを効果的に起用した、過去最高にアンニュイでエピックな作風となっており、それはまるでレインボーフラッグが青々と澄み切った大空を恍惚の表情で凱旋し、ヘイトや分断ではなく、寛容とつながりに満ち溢れた虹色の世界の実現を祈るような高揚感溢れる音世界は終始めちゃめちゃエピックで、方や女性ボーカルによる癒やしと安らぎに溢れ、方や中東地帯は今なお復讐と報復の連鎖が続いている事実を訴えるようなエミン氏の絶望的なシャウト、それらの儚くも残酷な現実世界を虹色に包み込むかのようなノイズの壁に、まさに今の今、つまり「平和の祭典」であるはずの東京五輪が強行されようとしている真っ只中、それこそ2020年、アゼルバイジャンと隣国アルメニアの旧ソ連同士の歴史的な因縁を持つ領土問題や宗教対立を起因とする紛争(第二次ナゴルノ=カラバフ紛争)が再燃、本作はアンチLGBTに対する抗議のみならず、アゼルバイジャン周辺国との領土・宗教対立による、ドローン兵器が投入された近代的な軍事衝突(あるいは代理戦争)を皮肉交じりに映し出す鏡のような作品となっている。このようにLGBT問題のみならず、民族紛争の要因である宗教的なタブーにも切り込んでいくエミン氏の当事者としての“国民の叫び”が込められた命懸けの覚悟と勇気に、僕は敬意を表したい。「激情...あゝ激情」。

本作におけるブラックゲイズのベースとなっている基礎的な部分がデフヘヴンの金字塔『サンベイザー』という、ある意味でLGBT的な隠語となっているのも俄然皮肉めいた面白さがあって(メタル過激派にゲイと揶揄された作品)、とにかく宗教の厳しい戒律に縛られた保守的な国家権力に抗うかの如く、LGBTコミュニティへの締付けや抑圧に対して抗議行動(プロテスト)する歌詞には、理不尽なヒエラルキーに反対するアナーキズムをはじめ、ブラック・メタルの本質であるアンチ・クライスト(アンチ宗教)が啓示されている。そして、#3“Be Like Magic”のような犯罪者風モザイクボイスのラップ/トラップやエレクトロニカの要素を寛容の精神をもって柔軟に取り入れる革新性、それこそ超越者(ハンターハント・ヘンドリックス)から受け継いだ超越(Transcendental)的な音楽的な才能を開花させている。

本作を聴いて、僕は「平和の祭典」というクソッタレな雄弁を盾にした東京利権五輪が強行開催されようとしている日本という国に生きる一人の人間として、日本のミュージシャンに音楽を知っている椎名林檎が存在する事に心から安堵すると同時に、純粋に彼女の存在を誇りにしたいと思った。確かに、そんなん言うてもなんも知らんよと思われてもしょうがないけど、なんだかんだ叫んだって今の世界にはViolet Coldが提唱する寛容のオプティミスト精神が必要ってことで・・・さぁ、皆さんご一緒に→

そんなん言うてもな~んも知らんよ♪

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