Welcome To My ”俺の感性”

墓っ地・ざ・ろっく!

2020年07月

Katatonia 『City Burials』

Artist Katatonia
Katatonia

Album 『City Burials』
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Tracklist
01. Heart Set To Divide
02. Behind The Blood
03. Lacquer
04. Rein
05. The Winter Of Our Passing
06. Vanishers
07. City Glaciers
08. Flicker
09. Lachesis
10. Neon Epitaph
11. Untrodden

古代から“King of the North”=北の王として七王国の一角に君臨する皇帝KATATONIAは、今から8年前、「壁」の向こう側から突如として現れた『Dead End Kings』=『死の王』の呪いによって鉄の王の座を追われ、その呪いから逃れるべく「壁」を守護する冥夜の守人=ナイツウォッチとして新たに生まれ変わった“鴉”は、何世代も続く長い冬の暗闇の中から虎視淡々と復活の機会を伺っていた。そして、約4年の歳月の間、冥夜の守人に命よりも大事な“心臓部”を捧げてきた鴉は、この10thアルバム『The Fall Of Hearts』で再び不死鳥として冬の夜空を舞い踊る・・・そう、「何も知らないジョン・スノウ」のように。

もう時効なので、2016年作の10thアルバム『The Fall Of Hearts』がリリースされた当時のipadに今でも残っているメモ書きの冒頭の文章を上記に晒すけど、約4年経った今見返しても黒歴史のソレで恥ずかしいったらありゃしない。察しのいい人ならすぐ元ネタに気づくと思うけど、前作のレビューは10年代に一世を風靡した海外ドラマ『ゲームオブスローンズ』と共振させる気満々だった。しかし、待望のゲースロ最終章を実際に観たらクソ過ぎて逆に書く気が失せたので、結局そのレビューはお蔵入りとなってしまった。日本一のカタオタを自称する僕が、なぜ前作のレビューを書かなかったのか?それは全てゲースロ最終章のせいですw

・・・という言い訳はさて置き、そんな“幻のレビュー”を生んだ前作から約4年ぶりとなる11thアルバム『City Burials』のレビューを今から書いていくけど、前作のレビュー用のネタが今でもipadのメモに残っている場合、つまり前作のレビューをすっ飛ばして次の新作のレビューに挑むのって、正直めちゃくちゃ大変というか、奥歯に物が挟まったような感じが少し難点ではある(これも全部ゲースロ最終章のせいw)。それもこれも自業自得が呼んだある種の罰と理解して、もれなく「冬来たる」ばりに長く辛いレビューになる事が想定される中、そして2020年になった今、改めてKATATONIAというバンドの全盛期を振り返ってみようと思う。

カタトニア家の親戚にあたり、七王国の一角を担うゴシックメタル界の長であるParadise Lostの新作『Obsidian』は、端的に言ってしまうと自身の『Icon』となった『Gothic』以降“対外的”な視点から得た多様性に富んだ思想を真正面から肯定し、そしてウン10年ぶりに“対内的”な視点に立ってParadise Lostを見つめ直した末の傑作だった。それでは、パラロス家の兄弟分であるカタトニア家はどうかだろう?言うまでもなく、それは初期のゴシックメタル時代ではなく、7thアルバム『The Great Cold Distance』から8thアルバム『Night Is The New Day』までの革新性に溢れたカタトニア、それすなわち“対外的”な意識を兼ね備えていた時代が彼らの全盛期である。

その頃のカタトニアがいかに革新的であり対外的だったのか?まず彼らの最高傑作の一つとして挙げられる2006年作の『The Great Cold Distance』の何が凄かったのかって、バンドの中心人物でありギタリストのアンダース・ニーストロムによる触手のようにウネるキザミを用いたリフ回しやメイナード・キーナン顔負けのシャウトを駆使した、それこそTOOLA Perfect CircleなどのUSオルタナ/ヘヴィロックの“対外的”な影響と北欧ならではの叙情性が融合した陰鬱ヘヴィロックの傑作で、とにかくフロントマン=ヨナス・レンクスの歌メロもアンダースの天才的なリフ/キザミもシンプルさゆえのバンドサウンドのカッコよさを極めたような、そしてドラマーのダニエル主体のリズム隊から放たれる神がかり的なソングライティングとアレンジ、その全てにおいて「センスの塊」と表現する他なかった。

彼らの音楽が最も“革新的”だったのが2009年作の『Night Is The New Day』だ。このアルバムは、前作の『TGCD』のオルタナ路線を引き継ぎながらも、後に“10年代最高のメタルバンド”としてシーンで語り継がれる同スウェーデン出身のメシュガーが編み出した現代ヘヴィネスをオルタナの解釈を通して咀嚼したオルタナティブ・ヘヴィの傑作だった。その翌年、TOOLと双璧をなすUSヘヴィロックのDeftonesは、『Diamond Eyes』という一年前にカタトニアが『NITND』でやってのけたメシュガーのヘヴィネスをオルタナティブな解釈をもって、自分たちのヘヴィロックをNEXTステージにアップデイトした名盤を発表する事となる。要するに、USヘヴィロック界の頂点であるDeftonesよりも先にヘヴィ・ミュージック界のトレンドを学び、そして応用研究していた当時のカタトニアは、正真正銘の天才でありバンドとしてもピークを迎えていた。

そして、カタトニアが最も“革新的”で“対外的”だった時代を象徴する二大名盤をプロデュースしたのが、それ以降(主に2010年代)メタルシーンを象徴するエンジニアとして、後に世界の歌姫テイラー・スウィフトのマブダチにまで成り上がる事となるイェンス・ボグレンであり、カタトニアはそんなスウェーデン人エンジニアの才能をいち早く見出していた。イェンスは、カタトニアが持つUSヘヴィロック界への対外的な視点と同じ立場に身を置き、全く新しいカタトニアの可能性を引き出す事に成功すると、この時期からバンドはイェンスの右腕であるフランク・デフォルトによる鍵盤やエレクトロな打ち込みを取り入れたアンビエント〜トリップホップ的な、いわゆるBサイドと呼ばれる方向性に活路を見出していった。

今から十数年前に世に解き放たれた、KATATONIA『The Great Cold Distance』、イェンスがプロデュースした盟友Opeth『Ghost Reveries』DIR EN GREY『UROBOROS』『激しさとこの胸に絡みついた灼熱の闇』、各それぞれのバンドの最高傑作として挙げられる3枚のアルバムに共通するのは、他ならぬTOOLであり、この2000年代中盤から後半までのイェンス・ボグレン〜TOOLラインという謎ラインが世界のヘヴィロック界で共鳴しあっていたのも事実。面白いのは、その後にDIR EN GREYは10thアルバム『The Insulated World』を、TOOLは約13年ぶりに5thアルバム『Fear Inoculum』を、そして双方とも最終的に“メシュガー”の存在をオルタナティブ~ポストメタルとして再解釈した作品に行き着くあたり、さすが“10年代最高のメタルバンド”というか、改めて十数年前の時点でメシュガってたカタトニアって、誰よりも先見的な視点でシーンを捉えていたんだなと素直に感心する。

ぼく「結局お前ら何がしたいねん」

某ゲーマー「いや、だからゲームしたいねん」

ぼく「ホーリーシー」

00年代中盤から後半にかけてバンドとしてピークを迎えたカタトニアは、10年代に入ると2012年に9thアルバム『Dead End Kings』というメタル三大駄作に名を連ねる、その名のとおり城の周りを包囲された皇帝=King「グヌゥ・・・」と自らの息の根を止める事となる通称『死の王』を発表する。それは今思い返してみてもショックだった。このアルバムには、前作や前々作にはあった先見的な“革新性”や“対外的”な視点が何一つ見当たらなかった。まさに「音」が「死」んでいた。もはや“対外的”だとか“革新的”だとか、プログレだとかオルタナだとか、そんな次元の話で収まるような代物ではなかった。そんな『死の王』が犯した王位の失墜から8年が経過した2020年の今だからこそ、いま一度冷静になって分析してみるとまた違った一面が見えてくるかもしれない。あの『死の王』とは一体なんだったのか?

まず、あるべきはずのイントロをすっ飛ばして不意のヨナスからの音が死んだリフ・・・ワクワクしながらアルバムを再生してほんの数秒間の「生理的にムリ」な不快感を伴うトラウマ級のサウンドプロダクションに、僕は自分の知ってる皇帝はたった今ここで死んだ事を理解した。いま改めて聴いてみても、一曲目の「音が死んだリフ」は“皇帝なりのポストメタル”だと解釈できなくはないし、確かにリード曲のヨナスの「Go!!(咆哮)」からはGojiraTOOLを連想させ、他にもメシュガー以降のDjent的な現代ヘヴィネスを基調としていたのも事実。つまり、メシュゴジラという“10年代最高のメタルバンド”のワンツーへのリスペクトを意図して狙った事は全然理解できるというか、当時(10年代の)メタルシーンにおける力関係を垣間見たら実に合理的な試みであり、この事からも『死の王』の狙いや素質自体は悪くなかった。都合よく解釈するなら、逆に“革新的”過ぎて理解が追いつかなかっただけかもしれない(それだけは絶対にありえないけど)。しかし、そのトラウマ級の音作りは元より、その他の部分が悪すぎたというか、それ以上にこの時期からヨナスとアンダースの独裁政治はより強権を(誰かのお腹のように)肥大化させ、前作の『Night Is The New Day』リリース後にベースとリズムギターのノーマン兄弟が脱退した影響が露骨に現れた結果、あるいは全盛期カタトニアの立役者であるイェンス・ボグレンを左遷してセルフプロデュースを推し進めた結果、はたまたゲームオタクのスウェーデン野郎ことアンダースが神ゲー『スカイリム』にハマり過ぎててライティング不足に陥った結果のどれか、というのが自分なりの『死の王』に対する見解(全部クソゲーマーのせいw)。ちょっと面白いのは、その『死の王』における似非ポストメタル要素と、最近のDIR EN GREYにおけるポストメタル志向は思いのほか共振する部分を持っている点。

自分の中で、本当の意味で皇帝の死を実感したのは、ドラマーのダニエル脱退の時だったのは今さら言うまでもない。少なくとも、あの『Night Is The New Day』『The Great Cold Distance』を傑作たらしめた影の立役者と呼んでも差し支えないほど、いつだって皇帝の中心にはダニエルがいた。しかし、あの『死の王』に限っては唯一の例外で、以前の作品で見せたような彼の輝きは鳴りを潜めていた。その翌年に、(実質的にダニエルの遺作となった)『死の王』をBサイド的な解釈で再構築したアコースティック作品の『Dethroned & Uncrowned』を発表したのが明確な“答え合わせ”となった。その存在は『死の王』がハナからアコースティック/再構築化を前提に制作された可能性を示唆し、そのアコギ主体の楽曲を後からバンドサウンドで合わせたんじゃねぇかと、そう邪推したくなるほど「結局何がしたいねん」という話でしかなかった。同時に、そういえば『NITND』時のインタビューでヨナスかアンダースが俺たちはニカバンドなんかにならないよHAHAHA的なジョークを飛ばしていたのを思い出して、『死の王』の登場にPTSD級のトラウマを負っていた僕は「いや、いっそのことオメーらニカバンドになっとけよw」と独りでに皮肉煽りした事が今でも記憶の片隅に残っている。

バンドの実質的な主導権を握っていたドラマーのダニエルが脱退したとなれば、そりゃバンドの根本から全て変わるよね。しかも同じ“ダニエル”名のスウェーデン人ドラマーを迎えたのは俺か他の誰かに対する当て付けか、それともただの偶然か。前作『死の王』の反省を踏まえて、左遷したイェンス・ボグレンを再びエンジニアとして起用し、新ドラマーのダニエル・モイラネンを迎えて2016年に発表された10thアルバム『The Fall Of Hearts』は、冒頭に晒した黒歴史メモに記したように、死の淵から復活の兆しを見せた作品でもあった。実は、このアルバムがリリースされた2016年、つまりあの『The Great Cold Distance』から節目の10周年というのにも深い意味がある。このアルバムがバンド自身思い入れの深い作品であることは、10周年を記念するメモリアル盤とアニバーサリーツアーを敢行するくらいには明白だった。何を隠そう、この『The Fall Of Hearts』では、確かに『死の王』「イントロすっ飛ばして直ヨナス」路線を継続しつつも、10年前の傑作『TGCD』を意図して意識したような、例えば「ダッダッダッダッ」みたいなコア的なリフを随所に垣間見せ、全体的なサウンドもいわゆるプログレ・メタルのステレオタイプに回帰したというよりは、そのシンプルさとは対照的なパーカッションを多用したプログレッシヴな楽曲構成も含めて、KATATONIA~TOOLフォロワーのSoenみたいな印象は否めなかった。

全盛期メンバーよりも新規メンバーが多数を占めるようになったカタトニアは、もはや自分の知ってる彼らではなかった(厳密にいえば「カタトニアなんだけどカタトニアじゃない」)。何故なら、散々言っているように自分は『TGCD』〜『NITND』時代のオルタナ〜ヘヴィロックラインの“センスだけ”で弾いてるようなコア的なリフ回しこそ彼らの真髄と信じてやまないからで、確かに、確かにこの『The Fall Of Hearts』には『TGCD』を想起させるコア的な要素や北欧ならではの叙情性が十二分に備わっている。しかし、それはあくまでファンサービス程度のもので、ピロピロしたギターソロをはじめ著しくメタル色が濃くなったのは新メンバーの影響と推測したところで「どうでもいい」としか思わなくて、そんなこと以上に過去作とは一線を画した妙な違和感を察知した。その違和感の正体こそ、“対内的”な視点から見たカタトニアの存在だった。

その前作から4年の月日が経過した2020年、歴史的駄作や黄金期メンバーの脱退という激動の10年を歩んできた鴉は、この新時代の幕開けを告げる2020年に一体何を思うのか?その答えは、混迷する現代のディストピア社会のBGMとしての役割を果たす『City Burials』に克明に記されていた。

そのタイトルからも前作の延長線上の位置付けである事を示す#1“Heart Set To Divide”を再生した瞬間、「2度目」のデジャブに襲われると僕はたちまち恐怖に慄いた。そこには『死の王』が誕生してから「呪い」のように続く「イントロすっ飛ばして直ヨナス」という『悪夢』が待ち受けていた。それと同じくして、ヨナスの歌メロやギターのリフ回しも前作をベースとした構築系のプログレメタルを踏襲している事に気づく。事実、#2“Behind The Blood”のイントロから「オメーはギターヒーロー気取りかよw」とツッコミ不可避のピロピロギュイーーーンなリードギターとか、少なくとも『TGCD』〜『NITND』時代からは考えられない音だった。確かに、前作の時点でパラロスのグレッグ顔負けの耽美的なリードギターを皮切りに、カタトニアの出自に最も近いゴシックメタルの王道路線に回帰したようなギタープレイヤーとしてもメタル界屈指のゲームプレイヤーとしても、全く新しいカタトニアを創造するという揺るぎない意思と確かなポテンシャルに満ち溢れた叙情的なギタープレイが異様に際立っていたのも事実。

前作ではギターソロで参加していたロジャー・オイエルソンが本作から正式メンバーとして直接楽曲に関わっており、恐らく本編#2“Behind The Blood”における怒涛のソロワークをはじめ、#11“Untrodden”の黄金期カタトニアの高すぎる「壁」を打ち破らんと抗ってるような、むしろ開き直ったようなメタル然とした歌謡曲ばりの泣きのギターソロは、某ゲーマーではなく新メンバーのロジャーによるものだと容易に推測できる。それらを含めた音楽的な変化は、ヨナスが長年対外的な経験を積んで“メタルボーカリスト”として自覚を持って歌えるようになった結果、つまりバンドとして可能性が広がって選択枠が増えたポジティヴな結果から生じた流動的な変化である事は否定しようもない事実で、本作においても(過去作では楽器的に詩的に詠っていたイメージのあった)ヨナスは完全にボーカリストとして「歌」を歌っている。要するに、ヨナスの「自由に歌いたいねん」という自我と、アンダースの「自由にギター弾きたいねん」というエゴにも近い自我に板ばみされた形での元ダニエル脱退(いや、オメーは引きこもってVRバイオ7でもしてろクソゲーマー!)。

『The Great Cold Distance』以降に生み出されたBサイドを象徴する“Unfurl”“Sold Heart”の直系にあたるミニマルなトリップ系の#3“Lacquer”、傑作の一つとされる6thアルバム『Viva Emptiness』の情緒不安定で不協和音的な禍が襲いかかる#4“Rein”、そして本作のハイライトを飾る#5“The Winter Of Our Passing”は、まるで『死の王』において唯一の救いだった“The Racing Heart”をもっとBサイド寄りに振って再構築したような、むしろこの曲が“The Racing Heart”“真の姿”“真の完成系”なんじゃないかって、するとここでも“Heart”という過去2作へと繋がる重要な伏線を回収すると、そして同郷の女性ボーカル=Anni Bernhardを迎えたBサイドの王道を展開する#6“Vanishers”は、否が応でも『死の王』“The One You Are Looking For Is Not Here”の残像を脳裏に浮かび上がらせる。この時、自分の背後に『死の王』の黒い影が忍び寄っていたことを、あの日の僕たちはまだ知らない。

既にこの時点で、前作より『死の王』をモチーフ=イコンとしているのは明らかだった。誰しもが「死」という運命から逃れることはできない人類と同じように、皇帝カタトニアも『死の王』から逃れられぬ運命にあるのかもしれない。鴉は『死の王』という死線を潜り抜けたのではなかった。それは『真実』が示す答えとは真逆の考えで、むしろ『死の王』から全ての生命が始まっていたんだ。冒頭の「イントロすっ飛ばして直ヨナス」という名の伏線からメタルサイドとBサイドを交互に繰り返し描いてきたのは意図した演出で、その真の目的は『死の王』の運命を再現し、再びこの世に降臨させる事だった。Bサイド路線の一つの終着点である『Dethroned & Uncrowned』、それは皮肉な事に『死の王』の存在が可能にした再構築アルバムであり、誠に皮肉な事にメタル界屈指の駄作だったはずの『死の王』がカタトニアの未来とその可能性を切り拓いていた事に、彼らに降りかかる全ての物事や運命は『死の王』を起因として未来へと繋がっている事に、その『真実』にたどり着いてしまった僕は未だかつて経験したことのない未曽有の恐怖に襲われた。「鴉」「死」は、いつだって常に隣り合わせにいた。あの「鴉」「死」から息を吹き返したわけではなかった。当時の『死の王』の姿で地上に蘇り、そして今なお皇帝は鴉から八咫烏へと姿を変え腐海という絶望の淵を彷徨っているんだ(死の無間地獄)。

方や『Night Is The New Day』時代のモダンなリフや北欧ならではの寂寥感溢れる内省的な歌メロを記録した#7“City Glaciers”や#10“Neon Epitaph”を筆頭に、アルバム後半に差しかかってもリフの焼き回しや過去作を連想させるメロディが頻繁に見受けられ、それすらも意図して引用することで『死の王』が持つ「記憶」を半ば強制的に現世に蘇らせるためだと解釈すれば、ちょっとソレっぽい話のネタになるけど、本音を言っちゃうと結局こいつら自分たちの全盛期が今も忘れられないでいるんですね。とは言え、ただ脳死状態でメタルサイドとBサイドを交互に繰り返しているのではなくて、アルバム後半からは一曲一曲の中でメタルサイドとBサイドの融合を試みており、つまり『死の王』が根差した真の目的であるメタルサイド=『死の王』=皇帝Bサイド=『Dethroned & Uncrowned』=鴉という「二つの顔」「二つの精神」、その二面性を兼ね備えた心技体の表裏一体化は前作を大きな糧とする事で著しく加速し、ここにきて成熟期を迎えたのである。鴉は「過去」から「現在」へ、そして「現在」から「未来」へと時空を超えて、不死鳥としてその心臓の鼓動を刹那に焦がす。そう、全ては『死の王』が思い描いた「計画通り」に・・・。

『死の王』は全盛期カタトニア、そのイメージと概念をぶっ壊すために計画された必要悪だった。“対外的”な視点を持ったカタトニアはあの時に一度死んで、チリチリに細切れになった死の灰を“対内的”な視点をもって一から再構築したのがこの『City Burials』だ。完全な言い訳だけど、結果的に前作のレビューはスルーして正解だったのかもしれない。何故なら、前作と本作は全く同じ“対内的”な視点で描かれているから。違いといえば、大まかに分けて前作が『TGCD』の姿に化けた『死の王』なら、本作が『NITND』の姿に化けた『死の王』であるというだけで、根っこは同じ『死の王』なんですね。よって本作には“対外的”な要素は微塵もない。全てが“対内的”に収まり、全てが身内の世界だけで完結している。悪くいえば保守的になった(これは一度死にかけたからしょうがない面もある)。よってTOOLだとか、メシュゴジラだとか、その辺の“対外的”な面影は皆無に等しい。

本作ではイェンス・ボグレン界隈のエンジニアを全て排除し(しかしイェンスと入れ替わるようにして、前作に不参加のフランク・デフォルトが復帰している)(イェンスはマブダチのテイラーが新譜の『Folklore』を出したから家に引きこもって聴き込んでるらしい)(知らんけど)、イェンス時代のセレブな匂いのするテイラー・スウィフト色もといイェンス色を無くしたのは徹底して潔いと思った。しかし、その代役があの知る人ぞ知るヤコブ・ハンセンとか流石に想定外過ぎたけど(結果的に良かったけど)。確かに、そういった面では未だに「イェンス時代のカタトニア」のイメージが拭いきれなくて、どうしても同じカタトニアとして見れない自分がいるのも確かで、それが時折りもどかしくもある。

結論を述べると、KATATONIAというバンドの歴史的な転換点となった『死の王』を対内的な視点から肯定することで、鴉は本当の意味で不死鳥となった。そう考察してみるとめちゃくちゃ泣けるし、一周回って『死の王』が愛おしく思えてきた(これも「計画通り」)。なまじ久々に、それこそウン年ぶりに皇帝について書いたから普通に緊張した。というか、前作の“幻のレビュー”という黒歴史の存在が俄然緊張させた。正直、このレビューを書く前は「全部クソゲーマーのせいw」「全部ゲースロ最終章のせい」の一言二言で終わらせようかと思ったけど、蓋を開けてみたら想像した以上に根深い所に繋がっていた作品。でもゲーマーじゃないメタラーはメタラーじゃないからね、しょうがないね(クソゲーマーのやつ、今頃『ラスアス2』やってそう)(それももうクリアして今は『ゴーストオブツシマ』やってそうw)。もはやクソゲーマーの正体=俺だった・・・?

Haim 『Women In Music Pt.III』

Artist Haim
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Album 『Women In Music Pt.III』
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Tracklist
01. Los Angeles
04. Up From A Dream
05. Gasoline
06. 3 AM
08. Another Try
09. Leaning On You
10. I've Been Down
11. Man from the Magazine
12. All That Ever Mattered
13. FUBT
14. Now I'm In It (Bonus Track)
15. Hallelujah (Bonus Track)
16. Summer Girl (Bonus Track)

ハイムって自分のいる立ち位置からでは聴けないLAの三姉妹バンドで、しかし何の因果か2019年の後半に先行公開されたシングルの“Now I'm In It”“Hallelujah”“Summer Girl”、その中でも“ハイムなりのバンクシーもといマッシブ・アタック”“Summer Girl”“ハイムなりのチャーチズ”なシンセのビートとオシャンティなラップを絡めた“Now I'm In It”という自分の好みにピンズドな曲が立て続けにリリースされ、そして今年に入って遂に待ちに待ったフルアルバムがリリースされたとの事で、さっそく目玉となるであろうシングル曲は何曲目に置かれているか、トラックリストを上から順に眺めていったら途中から[Explicit]が続くばかりでお目当てのシングルは一向に姿を現さなくて、最後の方でようやく見つけたと思ったらタイトルの横に(Bonus Track)が付いてるのに気づいた瞬間「ホーリーシェイ!」ってなった。と同時に、あの先行シングルを全部ボートラ行きにするというバリキャリ並の“デキル女”感に、アルバムを聴く前から「参りました」と2秒で降参宣言。


この曲はチャーチズ顔負けのシンセのビートにイケてるラップを乗せた“ハイムなりのチャーチズ”で、まるで現代の男社を逞しく生きるオトナ女子の背中を後押しするような、目まぐるしく変化する都市部のOL女子の“朝の一曲”に相応しい明日への一歩を踏み出す勇気と前向きな力強さをまとった名曲。


この曲は姉妹それぞれの歌声が織りなすハーモニクスを活かした“ハイムなりのカーペンターズ”


もはや“ハイムなりのマッシブ・アタック”、厳密に言えば“ハイムなりのプロテクション”のジャズいトゥルットゥ〜!な夏女ソング。ちなみに、これら3つのMVは映画監督のポール・トーマス・アンダーソンが撮影している。あと3曲ともMV音源とアルバム音源とでは微妙に違いがあったりする。

本来なら4月にリリースされる予定だったのが某コロナの影響で延期になった結果、これらの名曲づくしの先行シングル全部ボーナストラック行きになった説あって、というかそうとしか思えなくて、しかし蓋を開けてみたらボートラ行きも納得せざるを得ない、本編の尋常じゃないクオリティの高さに脱帽する。さっきは「自分の立ち位置からは聴けないバンド」って書いたけど、それが急に聴けるようになった1番の理由、それは明らかに過去作とは一線を画した“色気”を醸し出してきたボートラとの引力的な部分が大きくて、しかし“色気”“色気”でも“女性らしさ”という古い価値観を真っ向から否定する事で生まれる真の音楽的な“色気”に満ち溢れた作品である。実際に島流し、もといボートラ流しの先行シングルをキッカケに改めて腰を据えて聴いてみると、UKのSSWマリカ・ハックマンや彼女のバックバンドを務めたガルバンのThe Big Moonがワンクッションになって全然普通に聴けるようになってたパティーンが本作。なんだろう、例えるならマリカ・ハックマンがイギリスの辺境大学に通うサブカル系の喪女(マイノリティ)なら、このハイムは名門カリフォルニア大学に通う地元でも評判の美人三姉妹(マジョリティ)みたいなイメージ(ただの偏見)。

わかりやすい結論として、なんでこんなに自分のツボにハマったのかを述べると、先行シングル兼ボートラを起因とする作品全体からそこはかとなく漂うチャーチズ臭は元より、デペッシュ・モードキリング・ジョーク、そしてバンクシーもといマッシブ・アタックに代表される80年代のオルタナ〜ニューウェイブをルーツとするシンセを駆使したアレンジ力の高さ←これに尽きる。バッチバチのUSメインストリームのトレンドに精通するモダンでイマドキな側面と、一方で80年代リバイバルとも取れるアンダーグラウンドな要素から垣間見せる“音楽好き”ならではの“こだわり”を両立させる天才的な才能に唸ること請け合い。

ハイム三姉妹って、端的に言ってしまえば何でもできちゃう天才姉妹で、例えばジャズやファンク、ヒップホップやR&B、レゲエやローファイ、シンセ・ポップやフォークなどの様々な音楽的素養を噛み砕いて、ここまで3分台の曲が羅列されているトラックリストって久々に見たかもってくらい、イマドキのメインストリーム・ポップシーンの流行を抑えた“ハイム流のポップス”としてパッケージングする、それこそ日本を代表するSSW岡田拓郎を凌ぐオシャなセンスは今作でも極めに極めまくっている。

まず“夏女”の名残を感じるサックスの陽気な音色から始まり、いかにもインディロックなユルい倦怠感を醸しながら「LAはウチらを輝かせてくれる最高の地元やねん」と地元愛を叫ぶ#1“Los Angeles”、リード曲ならではのコマーシャル性に富んだ陽キャな#2“The Steps”、陽(キャ)の当たる昼間のサマーガールとは打って変わって陽の当たらない“陰の顔”を持つロンリーガールの孤独な一面とその寂しさを埋めるような#3“I Know Alone”、インディロックならではのサウンド・プロダクションとノイジーなギタープレイが俄然マリカ・ハックマンをフラッシュバックさせる#4“Up From A Dream”、ファンキーなグルーヴ感とセンチメンタルな内省性がクロスした#5“Gasoline”、高確率でドレッドヘアーであることが容易に想像できる男声のスポークンワードからレゲエ調に展開する#6“3 AM”、ローファイな雰囲気を身にまといながらプログレスなオシャっぷりを発揮する#8“Another Try”、アコギのアルペジオとトライバリズム溢れるハンドドラムやマンドリンをフィーチャーしたオーガニックなカントリー/フォーク調の#9“Leaning on You”、ハンズクラップを擁しながら優美なピアノとアコギそしてサックスのソロパートで締める#10“I've Been Down”、アコギ主体でシンプルに聴かせる#11“Man from the Magazine”、先行シングルでありボートラの“Now I'm In It”を本編用にチューニングし直して再構築したような、いわゆる“ハイムなりのチャーチズ”を確信犯的にやってのけるダイナミックなドラムをはじめエレクトロなアレンジを効かせた#12“All That Ever Mattered”、日本のtricotに代表される「ガールズバンド、アルバム終盤の曲にX JAPANのTHE LAST SONGばりにエモいソロ入れがち」な#13“FUBT”まで、本作のプロデューサーにはヴァンパイア・ウィークエンド界隈の人脈を筆頭に、その他豪華な面々を揃えているだけあって、アルバム全体のアレンジが鬼エグいし捨て曲がない。そして何よりも、この本編の後に“裏の本編”と言っても過言じゃあない例のボートラが待ち受けている強さな。しかし本編を聴き終えてみると、このボートラを本編に組み込むとなるとキャッチー過ぎて少し浮いちゃうのも事実。しかし、何度聴いてもラストにこのボートラ3連発は反則過ぎるw

これは切実に日本で単独ライブが観たくなるレベルの傑作(なお)。もちろん本作が初ハイムでも全然問題ないし、むしろ新規ファンの獲得を意図して狙ったとしか思えない内容。でも結果的に、発売延期してこれからのサマーシーズンにドンピシャなタイミングで出せたのは夏女らしくて逆によかったのかもしれないw

Hum 『Inlet』

Artist Hum
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Album 『Inlet』
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Tracklist
01. Waves
02. In the Den
03. Desert Rambler
04. Step Into You
05. The Summoning
06. Cloud City
07. Folding
08. Shapeshifter

ハムことイリノイ州はシャンペーン出身のHumは、90年代のグランジ/オルタナ全盛の頃にちょっとしたヒットした曲が一つあったりなかったりする、少なくともメインストリームのシーンとは一線を画した、しかし一部ではレジェンド的な扱いをされていた知る人ぞ知るマイナーなバンドだったらしい(らしい)。自分は失礼ながらこれまで存じ上げてこなかったバンドで、そんな2001年に解散した彼らの約22年ぶりとなる復活作が90年代以降のヘヴィロックを総括するかのような歴史的名盤な件について。

まず幕開けを飾る#1“Waves”から、それこそ2000年代初頭にムーブメントを起こしたIsisPelicanを連想させるポストメタルの王道、そのド真ん中をブチ抜くオールドスクールなポストメタル・リフが津波の形相で押し寄せる濃密なヘヴィネスと、同90年代に産声を上げたポストロック〜シューゲイザーラインのATMSフィールドを張り巡らせる、一種のミニマリズムを極めたかのようなヘヴィロックで、この倦怠感剥き出しの歌や夢遊病患者の如し幽玄な浮遊感からして、いかにも90年代のオルタナ全盛を地肌で直に経験した人たちの音作りって感じ。打って変わって、イントロからそこはかとないIDM風味なスペース音とシューゲイザー由来のノイズ成分とTorche由来のコア成分を配合したハリと弾力のあるヘヴィネスがLiturgyJesuを連想させるドゥームゲイズの#2“In the Den”、まるで催眠術にかけられているような内省的な魅惑のリフレインともはやドゥーム・メタルに片足突っ込んじゃってるニューロシスばりの遅重なヘヴィネスが艶かしく官能的に絡み合う#3“Desert Rambler”は、それこそメタルの開祖であるブラック・サバスは元より、新世代ドゥーム・ベアラーことPallbearerと90年代のオルタナを象徴するシューゲイズレジェンドのマイブラが、この2020年というバグった世界線で運命的な邂逅を果たしてしまったような曲。

再びBPM指数を上げてハムのルーツであるイリノイ州を代表するエモレジェンド=アメリカン・フットボールばりのemo(イーモゥ)〜ポスト・ハードコアラインのニューウェイブなエモさとコアさを押し出していく#4“Step Into You”、まるで宇宙の暗黒物質をコーヒーミルですり潰したような“旨味”が焙煎された、ニューロシス顔負けのヘヴィネスという名の巨人の壁が“地ならし”を発動させ地底から大地を揺るがす#5“The Summoning”、古き良きオルタナを懐古するかのようなイントロから(こちらも13年ぶりに復活した)TOOLA Perfect Circle、そしてDeftonesなどの90年代後半から00年代のヘヴィロックを牽引していく偉大なバンドにもハムが影響を与えている可能性を示唆する#6“Cloud City”(デブ豚(ハム)だけにw)、再びマイブラ直系のシューゲイザー/ドリーム・ポップならではの夢心地な気分にさせるリバーブをかませたリフレインを繰り返し、アウトロは宇宙規模のスペース・アンビエントを展開する#7“Folding”、そしてノスタルジーを誘うメランコリックなメロディを引き連れて、90年代emo(イーモゥ)のように純粋無垢だった青春時代のあの頃の思い出が時が止まったままの姿で帰ってくるかのようなラストに号泣不可避の#8“Shapeshifter”まで、このまま永遠に優しく圧迫されたいと願うこと請け合いなお前を真綿で締めつけるようなヘヴィネスと、まるで「地球最後の日」みたいな非現実的な美しさを内包したメロディは、ある種の漫画『デビルマン』のラストシーンとも共振する美しくも残酷な終末思想的世界観を形成する。

まさに90年代以降の全ヘヴィロック大集合なアルバムで、何よりも肉厚で濃厚なヘヴィネスの「音がいい」。正直、この一言に尽きる。まず#1のセンスしかない転調部からはDeftones〜Juniusラインを、往年の90年代オルタナやエモ〜ポスト・ハードコアからはマイブラは元よりマイナーバンドという位置づけからもCave Inを、ハードコア/パンクルーツの“コアさ”からはNothingWhirrなどのDeafheaven界隈をフラッシュバックさせる。とにかく、ハードコア/パンクだったり、シューゲイザーだったり、メタルだったり、メタルはメタルでもドゥーム・メタルだったりポストメタルだったり、あるいはグランジだったり、実のところやってる事はあくまでシンプルイズベストで、ヘビネスはヘビネスでもその時代その時代の様々なルーツを持つヘビネスの多様性、それは人種の違いのようでもあり、同じ人種でも一人一人それぞれの個性とアイデンティティを持つ、その“多様性”こそが本作を傑作たらしめているのも事実。あと決して90年代懐古で終わるアルバムではなくて、90年代後半から00年代のヘヴィロック界を担うバンドへの影響を認知しつつ、一方で00年代から10年代のポストメタル界を担うバンドとも共鳴するヘヴィネス兼ヘヴィロックであり、例えばDeafheaven『普通の堕落した人間の愛』とも共振するのは流石にちょっと感動した。あとリフとメロディのリフレインが曲作りの根幹にあるところはスロウコアを聴いてる感覚に近いかもしれない。

確かに、そのバンドの過去やディスコグラフィーを知っている方がより一層楽しめるかもしれない。けど、逆に過去を知らなくとも純粋に「いい曲」と感じられる作品こそ、この世で最も素晴らしい音楽なんじゃねぇか説を証明するかのような、そんな全ヘヴィ・ミュージック好き必聴の一枚(この紫の色味が絶妙なアートワークからして優勝)。ちなみに、本作をBandcampで買うと正真正銘の“ありがた迷惑FLAC【24bit/88.2kHz】”でDLさせてくれます(容量1ギガ)。
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