Welcome To My ”俺の感性”

墓っ地・ざ・ろっく!

Miscreance - Convergence

Artist Miscreance
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Album 『Convergence』
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Tracklist
01. Flame of Consciousness
02. Fall Apart
03. Incubo
04. No Empathy
05. The Garden
06. Alchemy
07. My Internment
08. Requiem For Sanity

イタリアのスラッシュメタルバンド、Merciless AttackSofisticatorのメンバーからなるMiscreanceの1stアルバム『Convergence』の何がカッケェって、前身のバンドで培ったVoivodさながらのタイトでソリッドなキザミ成分と、Cynicに代表されるジャズやフュージョンを経由したSF系テクデスならではの転調や変拍子を織り交ぜたプログレッシヴな要素が絶妙な配合率で美しく融合した、理知的なインテリジェンスと小刻みな緩急を効かせたリズミカルなテンポを特徴とするテクニカル・スラッシュメタルやってる事で、少なくとも今年のテクデスの中では頭一つ抜きん出た良盤となっている。

そんな彼らのアイデンティティを司る冒頭の#1“Flame of Consciousness”からして、パッと見では詰め込み教育さながらのミクロなリフと幾多の起点を目まぐるしい展開が一つに凝縮されているが、一方でマクロ視点からだとその理路整然とした楽曲構築力の非凡さに驚かされる。また、ソリッドなキザミ主体の#2“Fall Apart”における、中盤にフェードアウトしてから唐突な泣きのギターソロをブッ込んでくる展開は、もはや意味がわからないというか想定外過ぎて最高でしかない。

なんだろう、テクデスやスラッシュメタルという名のざっくばらんで粗野な音楽ジャンルを潔癖症の完璧主義者が演奏している、それこそ寸分の狂いもない精巧な工芸品を鑑賞しているような感覚、その著しく矛盾したイメージを何食わぬ顔して整然と成立させている気持ちよさがある。とにかく、テクデスの一番美味しいところとスラッシュメタルの一番美味しいところを、ここまで器用な職人さながらの手さばきでクロスオーバーさせた音楽もなかなか珍しい。

Trhä - Vat gëlénva!!!

Artist Trhä
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Album 『Vat gëlénva!!!』
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Tracklist
01. Ljúshtaeshrhendlhë jecan glézma
02. Grã sôhhlen bem rhôn trhãthàs
03. Ödënthändelä vòn la gönmëtwa
04. Sëtrharhanlha
05. Jadështahhdlha nudahhhana dëvét

イリノイ州郊外のオークパーク村を拠点に活動する、97年メキシコ生まれの若き才能ことThét Älëfによる独りブラックメタル・プロジェクト、その名もTrhäの5thアルバム『Vat gëlénva!!!』の何が凄いって、それこそJRPGの地下ダンジョンで流れるBGMみたいな、(アンダーグランドシーンのトレンドでもある)シンフォニックなダンジョン・シンセをフィーチャーした、生々しい狂気とファンタジーな幻夢世界が入り乱れる規格外のロー・ブラックメタルで、今年の3月と8月に発表した二枚のアルバム、というより全一曲でトータル40分超えの長尺という、それこそCD買取が停止されつつあるストリーミング時代におけるマージンの存在を真っ向から否定するかのような彼の規格外っぷりを象徴する近作に引き続き、今年に入って三作目となる本作においても一曲の尺が10分を優に超える、全5曲トータル65分という超尺志向を踏襲しながらも、(近作におけるブラックメタルとモダン・クラシカル~ミニマル・アンビエントがスムースに往来する喜劇的な狂想曲さながらの)それこそAAAタイトルの大作RPGさながらの起承転結を効かせたドラマ仕立ての楽曲構成は、その確かなソングライティングに裏打ちされた、それこそガンキマってる発狂アートワークに裏打ちされた、長さを全く感じさせない唯一無二の魔力(ホーリーシー)を放っている。

近作におけるローファイ・ブラックメタルというよりは、ロー・ブラックメタル然としたソリッドなキレと殺傷力高めのメロブラ的なリフや粗暴なブラストビートをはじめ、オールドスクールのブラックメタルの要素で構成された深界一層の#1“Ljúshtaeshrhendlhë jecan glézma”、在りし日のShining(SWE)を連想させるスーサイダル~デプレッシブ・ブラックメタルならではの内省的な自傷作用を促しながら、気づけば深界二層の上昇負荷の影響を被るダンジョンに迷い込み、そして浄化作用を促す終盤のドラマティックな展開に圧倒される#2“Grã sôhhlen bem rhôn trhãthàs”、まるで「踊れるブラックメタル」と言わんばかりに、昭和モダン風の魅惑的な香りが施されたシンセによるクサメロ的な旋律と、地下ダンジョンの迷宮の如し転調と緩急を織り交ぜながら、緻密な地形に合わせて様々な表情でプレイヤーを迎え入れる深界三層の#3“Ödënthändelä vòn la gönmëtwa”、一転して近作におけるモダン・クラシカルな優美さ及びシンフォニックな大仰さと超絶エピックなスケール感をまとった、それこそD F H V NLiturgyさながらの現代的なブラックゲイズ然とした激情的な荒涼感に包まれて成れ果てと化す深界四層の#4“Sëtrharhanlha”、そして深界五層の呪いにかけられたような混沌蠢く絶望感に苛まれる#5“Jadështahhdlha nudahhhana dëvét”まで、そのオカルティックな黒魔術を唱えるかのごとしアトモスフェリックでプリミティヴなブラックメタルは、それこそ今作を聴き終えた後には二時間映画の鑑賞後の満足感と脱力感が味わえる。なんだろう、感覚的にはブラックメタルの文脈でというよりは、Bandcamp界隈でもお馴染みのsonhos tomam contaと同じ文脈で語るべき存在なのかもしれない。

岡田拓郎 - Betsu No Jikan

Artist 岡田拓郎
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Album 『Betsu No Jikan』
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Tracklist
01. A Love Supreme
02. Moons
03. Sand
04. If Sea Could Sing
05. Reflections / Entering #3
06. Deep River

近年における岡田拓郎の“動き”に関する話をすると、まずポカリのCMでもお馴染みのアイナ・ジ・エンドとROTH BART BARONによるA_oのバックバンドの一員としてMステ出演を果たすと、今年に入ってからはNHKのドラマ『17才の帝国』の羊文学の塩塚モエカ(作詞)と坂東祐大(作曲)が手がけた主題歌である“声よ”の編曲を岡田拓郎が担当したりと、少し前までは想像できなかったほどの売れっ子ぶりを見せつけている。しかし、自分の中では“売れっ子”というよりも、宇多田ヒカルが今年の初めに発表した『BADモード』において、普段からJ-POPをナメている岡田拓郎がワンパンKOされたイメージの方が強い。


その宇多田ヒカルに対するカウンターパンチとばかりに、今年のフジロックにも出演したジム・オルークやWilcoのネルス・クライン、そして岡田拓郎も敬愛するはっぴいえんどの細野晴臣やKing Gnuの前身であるSrv.Vinciの元メンバーの石若駿ら、国内外を代表するミュージシャンを客演として迎え入れた本作の『Betsu No Jikan』は、2019年作の1stアルバム『ノスタルジア』や2020年作の2ndアルバム『Morning Sun』などの過去作とは一線を画す、それこそ表題の「別の時間(軸)」で時を過ごしてきた、さしずめ別の次元にいた岡田拓郎が現次元の岡田拓郎として時空を超えてやってきた「ワンラン上の岡田拓郎」のような印象を受けた。

前身のバンド森は生きているを含めて、これまでのキャリアの中で岡田拓郎が積み重ねてきた音楽、つまりアンビエント/ニューエイジ~アヴァンギャルド・ジャズ~シティポップが同じ時間のタイムライン上でスムースに往来する実験的な音楽、その様々な音楽ジャンルを超越した先にある一つの到達地点となる『Betsu No Jikan』は、過去イチでボーカルレスのインストゥルメンタルに重きを置いた作品であると同時に、マイルス・デイヴィスさながらの本格志向のフリージャズに著しく傾倒した、言うなれば“アソビ”のない作風だ。「過去」のタイムラインと繋がりのない「別の時間」および別の次元からやってたきた高次元の宇宙人、もとい「自由人」の立場から奏でる「自由」な音しか鳴っていないのにも関わらず、彼が根ざしている部分は森は生きているから一貫して不変、それすなわち「いつもそこにある音楽」に他ならなかった。なんだろう、“意識”することによって初めて時間の存在が証明できるように、過去においても「別の次元」の「同じ時間」を過ごしていた事に気づかなかった、いや意識的に気づかないふりをしていたのかもしれない。逆に言えば、人類に対して意識的(Conscious)になることを促すような音楽がそこ(There)に、手を伸ばせば触れる事のできる距離にあるだけだった。

まるで江戸川区のパノラマ島奇談を読んでいる最中のような、昭和モダンな佇まいのある不協和音(dissonant)を駆使したネオ・サイケデリカの調べは、ある種の高次元のプログレというか、それこそスティーヴン・ウィルソンのサイドプロジェクトであるBass Communionを想起させる。これはあくまで感覚的な話だけど、Ulverが2021年に発表したライブアルバム『Hexahedron』において、過去作の楽曲をフリージャズの精神をもって再構築してみせたアプローチと限りなく近い実験性を感じるというか(宇多田ヒカルの『BADモード』も感覚としてそれに近い)、終始一貫して“ライブ感”というか“ほぼライブ”を聴いてるような感覚に近い。もはやジム・オルークのみならず、かの石橋英子や喜多郎に肉薄する孤高の立ち位置、その存在感を確立するに至っている。それぐらい過去作とは時間軸も、次元そのものが違う印象。

確かに、岡田拓郎にとってはこれすらも“ポップス”を意図して作っているだろうけど、百歩譲って過去作はまだしも、この『Betsu No Jikan』に関しては、少なくともパンピーにとっては“ポップス”として聴くことはほぼ不可能だと思う。正直ここまでくると、特にジャズに対する教養がない自分の耳からでは理解が到底追いつかない作品であることだけは確かで、わずかにアソビゴコロのあった過去作の方がまだ楽しめたのも事実。正直ここまでやっちゃうと、悪い意味で次回作以降が怖いというか。
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